素早い折りとはこれいかに

 妹背山の簡単で早く折れる折り方──。

 これは、過去にあった検索キーワードのひとつである。

 そんなもん、ありませんっ。
 そんなものがあったら、僕だって知りたい。

 僕は面倒だと思っていないけれど、気持ちはわからなくもない。思えば、子供の頃はそんなことを考えた記憶があるにはある。確かそんなことを考えたことがあるよなぁ...という程度のおぼろげな記憶だけど。

 一羽でも面倒なのに、二羽なんて...。
 羽がくっついてて折りにくいよう...。

 あるいは別の理由があるのかもしれないけど、早い折り方を探す人は、たぶんそんなところなんじゃないかと想像する。

 2枚重ねて途中まで折って、一旦広げる人も、いるにはいる。先に二羽の折り目を一度に付けちゃおう! という作戦ですね。これなら折り筋をあらかじめ付けることができるから、その先に進むと折りやすさはある。
 しかし、いいことばかりじゃあない。これだと、その折り筋が邪魔をしてしまうかもしれない。折り筋が完璧(?)であれば問題ないけど、2枚重ねて折るとなると、ズレやすくなる。となると、綺麗に折れないかもしれない。仕上がりの美しさを求めるなら、必ずしも有効な手段ではなさそうだ。

 慣れれば、ある程度は早く折れるようになると思う。更に綺麗に折る技もある(僕がやってる小細工とは別の技)。
 でもきっと、早く折りたいわけじゃないんだよね。いや、早くは折りたいのかもしれないけど、それはスピード勝負としての「速さ」ではないのだろう...と。やっぱり面倒くさいんだろうと思うわけです。面倒くさいから、手早く楽に折れないものかな...と。
 折り鶴といわず、折り紙自体を折る機会も興味もない人ほど、そうかもしれない。まぁ日常的にそんな環境にある人の方が、少ないと思うけど。

 妹背山を素早く折る...なんて芸当はできないけど、折り鶴を、多少の手間を省いて、しかも綺麗に折る方法はある。それは、他の記事でも触れている通り、先に3本の折り筋を付けるやり方だ。人によってはこれも面倒に感じるかも知れないけど、僕はこの方法が気に入っている。
 詳細は、「折り紙」タグからご覧ください。

 つか、たった2羽で、簡単に早く! なんて言わないでぇ...。面倒な人には面倒なのかもしれないんだけど、そんなムチャクチャ言わないでぇ...。
 面倒なんだろうなぁと想像しつつも、こう思わないでもない。
 でも、2羽ですから。たったの2羽ですから。1羽の倍だけど。
 それでも、多いものだと100羽近い鶴を折らなきゃならないわけでして。それも、紙が切れないように、頭の位置を間違えないように、注意を払いながら。
 さらに、面倒だといっても、妹背山ならたかが知れている。折り鶴や連鶴からは離れるけど、複雑で難解な作品、いわゆる不折正方形一枚折りともなると、カブトムシとかステゴザウルスとか、ひとつのものを折るのに数時間とか当たり前のようにかかったりするから。そのぶん、完成した時の気分はなかなか爽快ですが。
 2羽なんてカワイイもんですね。たぶんね。たぶん。

二人の幸せ

 日本でも、同性婚に関する、より積極的な動きが出てきてますね。まだまだ充分ではないだろうけど、おもしろい動きだと思います。
 同性婚は、ゲイの間でも興味の差が大きい。ゲイやバイセクシュアルだからといって、みんながみんな同性婚の実現を望んでいるわけでもない。興味のない人は、今のままでいいと思っているものなのである。実現されても恩恵がないから、むしろ今のままがいい...とかなんとか思ってる、ちょっとひねくれたような人もいる。
 けれど、僕は思うのだ。自分には関係なくても、結婚できるようにしておくことは大切なんじゃないかな...と。

 確かに、今の自分には関係がないことかもしれない。僕だって、直接的には関係がない。そんな予定もないし、少なくとも今はその願望もないのだから。
 でも、環境整備の意味を過小評価する必要はないだろうなぁ。
 選択肢があるということが、大事なことのひとつだと思う。そして結婚するかしないかを選び、結婚を選ぶなら、結婚によって得られるべき権利が与えられる。そんな当たり前であるはずのことが、当たり前になることが重要なのだ。今は、結婚を選ぶことすらできない。
 また、これは未来の話、未来につながる話でもあると思う。今の自分だけのことじゃない。同性愛者だけのことでもない。今の行動が、未来の同じように悩み苦しむ人たちの、もっと自由な当たり前の暮らしにつながるかもしれない。
 さらに結婚に限らず、ここからいい意味でのいろいろな社会的影響が発生する可能性だってある。それは、セクシュアルマイノリティを超えた、広く多くの人々の暮らしの改善につながっていくかもしれない。
 と書くには書いたが、まぁこれはほとんど夢物語に近いというか、そんな影響まで起こる可能性は限りなく低いけど、まったくないとも言い切れない、ささやかな希望のような、妄想みたいなものですね。
 そんなわけで僕は、ほとんど陰ながらではあるけれど、応援している。


 さて、憲法第24条には、こうある。
 1項「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」
 2項「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない」

 一方、民法では第二章「婚姻」第一節「婚姻の成立」第一款「婚姻の要件」がある。
 その第739条には、第1項「婚姻は、戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、その効力を生ずる」、第2項「前項の届出は、当事者双方及び成年の証人二人以上が署名した書面で、又はこれらの者から口頭で、しなければならない」と書かれている。

 この二つが、同性婚の議論でよく俎上に載せられる条文等ですね。

 僕は法学者ではないし、詳しくもない。法律関係は、専門知識を持つ人に助力してもらった方がいいに決まってる。
 でも、同性婚が違憲だの合憲だのいう話を聞いていると、疑問だって湧くわけです。素朴なものも含めてね。

 僕は、現状では同性婚を即実現はできないけど、憲法上は特に問題はないと思っている。
 世間では、憲法で該当の条文ができた理由や成り立ちなどからの解釈を引き合いに、改憲なしで同性婚が可能だという論がある。成り立ちにこだわる人もいるが、それは「憲法24条は同性婚については何も述べていない」ということとも通じる。同様に、民法でも「婚姻が異性カップルでのみ成立するとは規定されていない」と指摘されている。また、基本的人権などの観点からのアプローチもある。
 これらはこれらで大切なことだし、これで話は充分に通ると思うのだけど、ここではちょっと斜めな視点を加えてみたい。「一般的な解釈」のここはなんだかおかしいんじゃないかな、こうなんじゃないかな...というひとつの考え方を、なかなか聞くことのない視点からつらつら書いてみようと思う。
 これは、性的少数者としての、また性の「事実」を通しての、見解のひとつです。解答というよりは、「両性」という文言にこだわる(両性=男女という)意見に対する疑問とも言える。言うなれば、法律以前の素朴な疑問だ。
 これは僕の考え・疑問であって、他に同じことを考えている人がいるかどうかは知らない。
 程度はともかく、歪んだ「常識」に捕らわれているとわかりにくい話かもしれないことを、先に付け加えておきます。ほんでより一般的な話は、最後に少し書き足すことにいたします。

 さて、様々な賛否があるわけだけど、そもそもなぜ性を2極だけに分けなきゃいけないんだ? という疑問がある。性って、そんなにシンプルでしたっけ。
 ほんで、この答はわりと単純だと思うんだよね。

 両性とは何ぞや。

 性を2極として読めば、両性=♂♀=男女。こういうことになるだろう。
 非常に素直な読み方と言えそうだが、この素直さとは、ある種の「常識」に沿ったものであって、大袈裟に言えば「永遠不滅の常識」によるものではない。事実が反映されていないのだ。見ようによっては、歪んだ常識である。
 性は、それほど単一的なものではない。

 憲法では、「書かれていないことは禁止されていない」という読み方がしばしばなされる。某隊を合憲とする論などは、その代表格ですね。

 では、性はどうか。
 同性を禁じているわけではない...の一言で済みそうなもので、実際にそう指摘されているわけだ。「憲法24条は同性婚については何も述べていない」という指摘ですね。
 でもとりあえずそれは横に置いておこう。ほんで「両性」について、もう少し考えてみよう。

 性は、それほど単一なものではない。先にそう書いたが、性とは、男と女のみを表し得ない。性は多様なものである。「性」が、「♂♀」と規定されていないのなら、性の多様性がここに含まれたとして、なんの不思議があるだろう。むしろそれが、ごく自然なことである。
 確かに性別は、通常♂♀で区別する。これは言うなれば動物学的な性差による区別だと思うが、しかし性の違いは、それだけで正確に表すことができるわけではない。
「性」が男と女だけで表せないものだということは、そう解釈できるのではなく、当然のことなのだ。性の多様性については、当サイトでも既にそこかしこで触れている。「性」は、生物学的に♂♀に分類されない性はもちろんのこと、性自認の違い、性的指向の違いも含んでいるのだ。
 つまり、条文における「性」にも生物学的な性、性自認、性的指向のすべてが含まれると考えたって、なんらおかしくはないではないか。生物学的な性だけが、それのみで性を表すのではないのだ。
 だとすれば、「両性」の幅は「男女」などという狭いものではなくなる。むしろ、憲法の条文のみは「生物学的な男女」を意味すると解釈する方が不自然かもしれない。

 でも、同性婚なら「同性」じゃん。「両性」じゃないじゃん。生物学的な性、性自認、性的指向のすべてが同じじゃん──。
 こう言われそうだけど、まず「同性」に対する言葉は「異性」であって、「両性」ではない。
 実際のところ、ゲイは生物学的には同性なわけだけど、性質的には何らかの違いを持っているものだ(生物学的に同性ではないゲイもいると言えるけど、ここではもっとも単純な例として)。性が多様な意味を含み得るのなら、生物学的な性が同じだからというだけで、「両性」でないと言い切れるか。
 まぁこの意味では、ゲイやレズビアンを対象とする「同性婚」という言い方そのものに、疑問の余地があるわけですが。「多性婚」とか? なんか違うな。なんだろう。

 また、こんな解釈もできる。
「両性」という言葉は、辞書では「男性と女性/雄と雌」のように説明されることが多い。しかし銘柄を問わず、辞書が常に正しく、正確なわけではない。あるいは、言葉を具体的に説明するとも限らない。辞書とはそうしたものである。
 辞書の説明を引いてくるのは、場合によってはナンセンスだ。適切さも正確さも欠いてしまうことだってあるだろう。
「両」とは、二つのものを表す。
「性」はといえば、辞書では「男女の区別」のように説明はされるものの、この説明では正確さを欠くことは明らかだ。生物学上の差異のみを意味するなら正確らしさがあるけれど(それでも誤解を生じるので正確とは言えないが)、それ以外の男女の差異が含まれていないんだよね。「総合的な男女の区別の差」とでも言うような(言い換えるなら、性に関する三つの視点から見た男女の区別の差...といったところだろうか)。
 正確さを欠く「男性と女性」との説明は、象徴的・抽象的な言葉の説明だと見ることもできる。その言葉を説明するための、単なる代表例としての「男女」だ。辞書にはこうした例が、たくさんありますね。
 現実として、「性差」は2極のものではなくてグラデーションであると言われている。三つの性表現があり、その差が割合の違いであるのなら、境は非常に曖昧だ。「両性」を「男女」に縛り切れるものだろうか。
 してみると、生物学的な性が同じかどうかに関わらず、二人揃えば、あるいは「両性」と表現し得るのではなかろうか。うーん。
 というのは、まぁおそらく言い過ぎなのだけど、「両性=男女」では「両性」の表現として不正確なことだけは確かだ。

 なにやら訳のわからん話をしているように見えるかもしれないけれど、憲法や法律の解釈に限らずとも、こういうことはよくあるよね。乱暴に言えば、言葉遊びのような...。言葉遊びに徹することが、いいとは思わないけど。
 こうした解釈の方法に倣うのが問題なら、諸々のありとあらゆる解釈は...さて、どうなるのでしょうね。

 ごちゃごちゃとあれこれ書いてきたけど、つまりはこういうことです。
 事実たる性の多様性を認めて、「両性」の意味を広く捉えちゃえばいいんじゃね? と、こう言いたいだけだ。「両性」に関して言えば...ね。
 法律における「性」は、身体的な性差というのがひとつの標準になっているようではあるけど、そう規定されているわけじゃないし、そうでなければならない理由も、それに固執する必要もないと思うんだよねぇ。
 実際の憲法の運用では、「ここでは同性婚(など)は想定されていないので...」と、拒否されるわけですが。しかしこれは同時に、ここでは「同性婚については何も述べていない」ということでもある。

 言葉はコミュニケーションに重要なツールでもあって、言葉遊びに埋没したくはない。しかしながら、辞書や法律の言葉に、事実を正確に反映していない説明があるのもまた事実だ。
「性別」のより正確で「簡潔な」言葉の意味としては「男女の区別の差(のようなもの)」なのであって、生物学的な男女のみを指すのではない。いかに「男女」と説明しようとも、そこに含まれる科学的現実は、2極に分類などできないことを教えている。「両性」もまた、しかり。

「両性の同意が必要なんだから、同性婚は不可能」という主張が、「両性」の意味を、何の疑いもなく「男女」と置き換えていることは確かだろう。
 しかし性の多様性を鑑みれば、「両性=男女」と決め付けること自体に無理がある。しかも憲法にも民法にも「両性=男女」などという規定は、どこにもない。
 言葉遊びのような細かいことは差し置いても、「生物学的な性」「性自認」「性的指向」のすべてにおいてヘテロ・セクシュアルのごとき差異を持つ「性」だけに結婚を限定するのは、もはや正当性すら疑われるかもしれない。個人の権利を持ち出すまでもなく。

 そしてこれは、「同性婚」を超えて、もっと広く捉えるべきことだろう。
 例えばここまで触れなかったことで言えば、中性的な人もいることを忘れてはならない。生物学的な半陰陽(両性具有)の人についてはそれとなく触れたけれど、性自認や性的指向が中性的な人もいるのだ。
 繰り返すけど、性はグラデーション。性質には微妙な差が存在する。

 もし同性婚がこの日本で実現するなら、ゲイやレズビアンだけでなく、トランスジェンダー他諸々のマイノリティの結婚の自由も確保して欲しい。
 さらに、違う立場の人たちの結婚の障害もなくなれば、もっといいだろう。結婚に際して障害や問題が発生するのは、なにもセクシュアルマイノリティだけではない。
 結ばれたいと思う二人が、共に生きていきたいと思う誰もが、当たり前のことを当たり前にして、幸せになれるようにね。
 僕は願いを含めて、そんなふうに思うのです。



【追記的に】
 最後に、もう少し。ここに書かなかった点を加えて、いくつか書き足しておきます。より一般的な話を含めて、僕の個人的考えも合わせて、前置きの補足ついでにね。

 憲法で言葉上むしろ壁になりそうなのは、第24条1項にある「夫婦が」との記述かもしれませんね。同性婚などでも「夫婦」と同等の関係のパートナーではあるけれど、これをそのまま「夫婦」と呼称していいものか。さすがに無理があるだろうなぁ。
 でもこれは、柔軟な対応で事足りるだろう。民法などで、「夫婦」そのものではなくとも、同性パートナーを「夫婦」と同等のものとしてしまうとかね。制度設計がうまくできれば、それで解決できるはずだ。

 また、「婚姻」についての問題もある。
 憲法24条では、「婚姻」が同性間で成り立つと考えるのは難しい...と見る向きもある。この条項をそのまま同性婚などに流用しようとすれば、確かにそうだろう。
 しかし仮に、同性間での「婚姻」は成り立たないと解釈したとしても、これは同性婚を「婚姻」と呼ぶことができないというだけのことでもある。
 つまり、憲法24条は同性婚については何も述べていないわけだし、婚姻と同等の効果を持つ「同性婚」という制度を作ることまでが違憲ということにはならない。「同性婚」の実現を阻むものは、実はここには存在していない。
 同性婚が違憲だという主張は、憲法の「婚姻」に関する定めをそのまま同性婚に当てはめようとするから生じる不具合にすぎない。新しい制度を作れば済む話なので、同性婚を実現する上で、憲法の文言の「両性」も「夫婦」もさほど重要じゃないってわけですねぇ。
 さんざん「両性」について書いておいてなんですが、あれは僕の素朴な疑問なので。

 それと、戸籍法ですね。
 例えば戸籍法は、第6節「婚姻」第74条で、婚姻の届書に記載する事項として、「夫婦が称する氏」と規定していて、同性の結婚は想定されていないと解釈できる。その他、割愛。
 婚姻の届け出をそのまま流用するなら、改正の必要がありそうだ。でもこれも、一般的な「婚姻」とは別に同等の制度を整備すれば解決できるのではないか。どちらがいいかは...どうなんでしょうね。

 何がベストな選択なのかはよくわからないけど、そんなわけで、憲法改正までする必要はないんじゃないかなぁ。
 改正が難しいから避けようということじゃない。
 憲法改正の手続きが厳しすぎて、改正ができない...とよく言われる。でも、本当にそうなんだろうか。憲法の改正が一度もされていないのは、その手続きが厳しいからではなくて、別の理由があるからだと、僕は思ってます。
 なんにしろ、憲法は今のままで、現在の婚姻の制度とは別に、同等の権利を保障される新しい制度を作る方が現実的じゃないかなー。作るというより「加える」でもいいと思う。それが戸籍法とも折りあう形で実現できれば、なおいいかと。

 まぁ、このあたりのことについては実際の動きや提案がいろいろとなされているので、ここではこれまでといたします。


※戸籍云々の詳細な話は、ここでは割愛しました。より広く捉えたへんてこな話が書きたかったので。しかし現状では、特に GID やトランスジェンダーなどの人が結婚を考える時には、戸籍が深く関わってきます。性差による婚姻の壁は、すべてなくなって欲しいですね。

未知と嗜好の狭間かな

 返答に困る質問、正直答えようのない疑問というものはある。
 といっても、ここで言ってるのは深刻な話ではない。アンダーウェアのことである。よくあるのが、TOOT と GMW はどっちがいいの? とか。

 そんなの知りませんっ!

...というのは、正直な感想である。マジで。
 両者の違いは他の記事で触れているので、改めて、そんなの知らないよ...というお話を、つらつら書き散らしてみましょう。

 とりあえず、デザインの問題は横に置いておこう。

 他の記事の繰り返しにもなるんだけど、どっちがいいかなんて、僕の知ったこっちゃないような話なのです。なんでかって、どっちがいいかは自分が決めるしかないからだ。この「自分で決めるしかない」というのは投げやりなわけではなくて、重要なことだと思うのだ。
 確かに、履き心地は違う。しかし、その違いをどう感じるかは、人それぞれだ。体つきも違えば、好みも違う。
 アンダーウェアに限らず、僕が好きなものを、友人が好きとは限らない。僕の好みが、常に知人とマッチするわけもない。ぼくが愛してやまないものを、恋人も愛してくれる保証はない。
 体つきで言えば、身長も体重も違う。体脂肪率も違う。ウエストのサイズ、ヒップの大きさ、腿の太さ...などなど、それぞれ個人差がある。たとえ身長と体重が同じでもね。
 加えて、ムスコさんの大きさや形だって差があるわけだから、これだけでも好みの差が大きくなりそうなことは想像できる。
 アンダーウェアに対する基本的な好みの差も、千差万別である。同じボクサーパンツであっても、緩めが好きなのか、キツめが好きなのか。ハイライズとローライズはどっちがいいのか。などなど。
 デニムパンツなんかだって好みがあると思うが、アンダーウェアはそれよりデリケートなわけで、もしかしたら如実に好みの差が出るものなのかもしれない。もっとも、見えないところだから、まったく気にしない人もいるけど。
 そして何よりも、自分の感覚は、自分のものでしかないのだ。同じアンダーウェアを履いても、その感じ方が人それぞれ違っていても当然のことだろう。それが、履き心地を決める重要な要素なんじゃないかな...と。見えない要素ですが。

 こういった履き心地に、他の要素が加わってくる。見た目の好みとか。股間が強調されるのが嫌いだとか好きだとかね。それが理由で選んでる人もいるから。
 あと、最初に脇に追いやった色や模様のデザインなどもね。

 Web でわかるのは、「ある程度のこと」までだよなぁ。どっちがいいかとか、アンダーウェアについては、そんな判断までなかなかできるものじゃない。誰かの基準をそのまま自分に当てはめるなんて、なかなかできないことだ。
 差を知ることに、意味がないとは思わない。参考にはなるしね。基本的な差を確認することには、意味があるだろうし、重要な情報になり得る。僕も、そういった情報を元に買い物をする。でも、「で、結局どっちがいいの?」なんて聞かれたら、困ることこの上ない。困るよ、ホント。困るから。
 僕はあなたではないのです。僕の身体は、あなたの身体ではないのです。僕の感覚は、あなたの感覚ではないのです。
 と、無情に畳み掛けてしまったが、どっちがいいのか他人に決めてもらおうなんて、甘いのだ。いや、ホントに。
 だから、やっぱり実際に買って、自分で履いて確かめてみるのが一番なのです。それ以上に説得力のある判断材料なんて、きっとどこにもない。たぶん。

 ぶっちゃけ、好き嫌いだと思うのだ。総合的に、好き嫌いだと思うのだ。

 そんなわけだから、僕はどっちがいいかの判定はしませんよ(判定はしないけど、僕は TOOT の比率が圧倒的に高い。それは、TOOT と GMW なら、TOOT の方がしっくりくるから。僕にとってはね)。

混同が混乱をきたし

 性に関することは、性的マイノリティが絡むと混同する人が少なくない。関連することはそこかしこで書いてるけど、そのあたりの話をもう少し掘り下げ。

 ぶっちゃけ性関連に限らず、どんなことだろうと物事はしばしば混同してしまうものだと思う。「混同なんてしない」なんていう人もまた、混同することは多々あるはずだ。気付いていないだけではなかろうか。
 僕とて同じで、一凡人なら尚更とでも言おうか、ちょっと一歩引いて、冷静に考えなきゃなと思うことがあるわけです。混同がない人なんて、そうそういない。だからといって、それが「悪」だとは思わないし、絶望もしないけど。
 時には他の意見にも耳を傾けて、検証する。ほんでもし混同に気付いたら、修正する。これができればいいことだろう。

 性に関して混同する人は、事実と思想などとを、しばしば同じもののように語る。同性愛を否定するにも、一方の視点で論破できないとなると他方で反論を試みたり、交わらないはずの事柄をごっちゃにしてめまぐるしく行き来したりする。だから主張が破綻をきたすのだけれど、それを無意識に、正しいと思い込んでやってしまう。
 彼らは、何を勘違いしてしまっているのか、混同していることがなかなか理解できない。だから、主張の破綻にも気付けない。そんなことがあるのです。
 簡単に言えば、そのような混同は、単なる話のすり替えなのだ。また、自己否定と同等のことを言っているようなものだ。しかし、当人はそう思っていない。差別しようが蔑視しようが、おかまいなし。ゲイを認めたくないもんだから、それをいかに正当化するか、そこにやたら注力してしまったりね。それが結果的に、思考停止を招いているように思われる。
 このあたりのことは、また記事を改めてもいいかもしれない。

 ここはまず、性的に確かなものとそれ以外のものを、分けて考えてみるといいと思うのです。質の違うものを同一に見ていたら、頭が混乱するのはむしろ当然じゃないかなぁ。

 まず、性的に確かなものについて。「確かなもの」というのは、基本的に思想などに左右されないものということだ。
 この確かなものは、三つに分けることができる。性に関する、三つの視点である。

・生物学的な性
・性自認
・性的指向

 ひとつずつ、ゆっくりと。

 まず、生物学的な性。
 これは誰でもすぐにわかるよね。いわゆる性別のことだ。♂か♀か。♂は♂の身体をしているし、♀は♀の身体で生まれる。見た目で判断できる、生物学的な性別だ。
 ただしこれとて♂と♀しかないわけじゃなくて、半陰陽(いわゆる両性具有)とか、♂と♀で分けられないものもある。

 次に、性自認。
 これは、自分の性を男と女のどっちだと認識しているか、ということ。自分は男なの? 女なの? どっちだと思っているんだろう。単純なようで、一番わかりにくいことかもしれない。
 普通は自分のことを、男は男、女は女だと思っているわけだね。性自認が、生物学的な性と同じである。男は男、女は女、このままである。
 しかし世の中、そんな人ばかりではない。
 トランスジェンダー、トランスセクシュアルなどとも言われるけど、日本語では今のところは性同一性障害(GID)と呼ばれているものがある。この呼び名の良し悪しや、言い換えはともかくね(正確には、性同一性障害とトランスジェンダーは別のものを意味します)。
 彼ら、彼女らは、生物学的な性と性自認が一致しないというか、同じではないのだ。例えば、体は男なのに、自分は女だと感じていたりする。生物学的な性と性自認に、ズレがあるとでも言おうか(ズレという言い方は、わかりやすいけど、正確ではないかも)。
 これはなかなか辛いだろうことは、想像に難くない。例えば自分は女だと思っているのに身体が男だったら、どんなに苦しいか。さらにそのおかげで、自分は女なのに、男であることを強要されるのだから。女らしくいたいと思うしそれが自然なことなのに、男らしさを押し付けられるのだから。
 まだ不充分とはいえ、最近は理解が進んできたのが救いではある。わかりにくさ故か、しばしば同性愛などと混同されるが、まったく別のものである。しかしその一方で、ゲイなどと比べると受け入れられやすいという面もなくはない。なくはない...というだけで、良し悪しでもなければ、どっちが楽だとか苦しいだとか比較の問題でもない。
 ひとつ注意が必要なことは、性自認もまた、二色だけで綺麗に色分けできないものだということだ。例えば、自分を中性的なものとして捉えている人もいるのです。

 最後に、性的指向。
 これは話は単純なんだけど、なかなか理解できない人、あるいは理解しようとしない人が多い。
 性的な指向とは、恋愛や性愛の対象がどの性なのかということ。人間の根本的な性傾向だ。平たく言えば、性的な興味が男性に向くのか、女性に向くのかということである。
 ヘテロなら、男は女が好きだし、女は男が好きだ。同性愛者の場合には、男は男が好きで、女は女が好きなのだ。別段、難しいことではない。それだけの話だ。
 間違えてはならないのは、指向とは特定の方向のことであって、嗜好(たしなみ・好み)ではないということ。これもまた、区別できない人をよく見る。指向と嗜好の言葉の意味の違いは知っていても、同性愛が嗜好的なもののように言う人は、何も知らないのと同様である。

 少し話が逸れるが、性的指向に付け加え。
 上に「平たく言えば、性的な興味が男性に向くのか、女性に向くのかということだ」と書いたけれど、より正しくはその他様々な指向性がある。例えば、無性愛。いわゆるAセクシュアル(Aセクシャル)である。また、これと混同されやすいが、非性愛もある。こちらは、ノンセクシュアル(ノンセクシャル)のこと。
 このふたつは、似て非なるものだ。言葉面は似ているようだけど、意味は全然違う。詳しいことはここでは取り上げないが、非常に混同されやすいし、実際に使い分けられていない文言も多い。
 無性愛者は「他者に対して恒常的に恋愛感情や性的欲求を抱かない」人たちだ。
 非性愛者は「他者に対しての恋愛感情はあり得ても、恒常的に性的欲求を持たず、性的行為を望まない」のだ。
 つまり、Aセクシュアルであれば、性別も性的指向も無関係とも言えるのだ。例えば、ゲイでAセクシュアル...などというものはあり得ない。恋愛感情や性的欲求を持たない──言い換えると、誰かを好きになったり、好き嫌いはともかくセークスしたくなったりしないわけだから、ゲイだとかヘテロだとか、そんな分け方はできないよね。
 このくらいに留めておくけど、同じではないので要注意です。

 話を戻しましょう。

 生物学的な性、性自認、性的指向。
 実際の性の世界では、これら三つのものが様々に組み合わさる(組み合わせというより、「混合」とでもいったところかな。それぞれに微細な差があるからね)。ゲイなんて、すごく単純な例なのだ。なんせ性的指向がヘテロと逆なだけだから。
 生物学的な性は女で、性自認は男、性的指向は男。そんな人もいる。言い換えるとこれは、女の体で生まれた性同一性障害のゲイだ。
 こうなってくると、分かりにくさは否めないかもしれない。本人にとっては、それがごく普通のことなんだけどね。内面的な苦しさはともかく。単純に、男と女しかいなくて互いに惹かれあうだけ...という認識しかない人だと、もはや理解の範疇を遥かに飛び越えてしまって、何も考えないまま軽いノリのように差別することもあるだろう。悲しいことですね。

 またまたちょっと脱線するけど、いわゆるセクシュアルマイノリティの中にも、性的な差別はある。
 挙げるとキリがないのでいちいち書かないけど、その中のひとつが、自分と違うマイノリティに対する偏見や差別だ。
 例えば自分が、ゲイだとする。日々ヘテロからの差別を感じながらも、レズビアンであったり GID であったり、自分とは違う人たちを卑下したりするのだ。
 そういう人もいるということであって、もちろん誰でもがそうであるわけじゃない。一部の人の話だ。
 さらに同じゲイ同士にだって、あれこれと...ね。結局、セクシュアリティがどうだろうと、そういうところもヘテロと変わらないんだよなぁ。マイノリティであるぶん、かえってそういう汚さは目立つかもしれない。差別的態度を取る本人は、けっこう開き直って自分の言行を正当化していたりするので、なんともかんとも。
 同じ人間ですから。と、そう悟っていられればそれはそれで幸せなのかもしれないけど、なぜそうなる...と疑問がいっぱい湧いてくる。

 閑話休題。

 上記の3点は、確かなものとして挙げた性に関する三つの視点である。
 つたない説明では語弊はあるかもしれないが、いずれにせよ正しいだの間違いだの言えるようなものじゃない。否定しても仕方のないものなのだ。

 これに思想、宗教、哲学などが加わってくるんだけど、そういうものは性的に確かなものとは別の要素だ。これらは、基準となるものが明確じゃない。考え方次第で、いくらでも基準が変わる。その思想の内容や主張も、いくらでも変わってしまうということだ。
 時代によって、様々な思想などが生まれてきた。その時代なり地域なり個人なりにおいて「正しい」と思われるもの、「正しい」とされるものだ。
 思想はともかく、そもそも哲学は思索であって、なんらかの問題に対する絶対的な「解答」ではないけど。
 哲学に関して言うと、あれですね。同性愛を哲学して否定しようとする場合もあるわけだけど、たいていは「同性愛は罪か」のごとき命題による。まぁのっけからナンセンスですね。何であれ「罪」かどうか問える質のものではないことについて、意識的に問うてみることに意味はあるかもしれない。男であることは罪か? 女であることは罪か? 人間は罪か?
 だけど、偏狭的な大義や前提、感情のみを拠り所に否定的に思索しても、得るものはない。根本を見ずして根本を語ろうとしても、無理があるのは当然だろう。こういう時は、肯定と否定両面から、差分なく見てみるのがよさそうだけど、これがなかなか難しいかも。
 ほんでもし「同性愛は罪か」を問うのなら、同時に「異性愛は罪か」も問うてみるのはいかがでしょう。もっと言うなら「愛は罪か」とか、網羅的にね。

「確かなもの」に対して「不確かなもの」がそれを否定するのは、なんだかおかしいよね。
 例が少々突飛かもしれないけど、「1+1=2」は確かなものだとしよう(とりあえずは)。それを、「1+1=2」を取り巻く思想があるとして、その思想が「1+1=2 ではない」と主張すると、おかしなことになるよね。泥ダンゴの話じゃないけど。
 あるいは、化学的に発現する現象や、物理的に確認される事象に対して、誰かが思想に反するからと「それはおかしい」などと批判したら? やっぱりわけがわからなくなる。
 1+1=2 ではない、そういう考え方があり得ないってこととは違う。n進法がどうだとか、記号や符号がどうだとか、そういうこととも違う。ある種の考え方としてはあり得ても、それが「変えられない事実」と重なり合う時、物理的・科学的に常に正しいわけではない。
 ほんでもって、その思想にはしばしば間違いがあるし、基準も常に定まっているものじゃない。

 事実を思想で否定することが、過去に様々な不幸を生んできた。思想に反する新しい事実は、たいてい不幸に晒される。今は常識であっても、昔は論外だったこともたくさんある。
 例えばそうだなぁ、人体とか。その昔、ローマでは人体の解剖が禁じられていたこともあって、猿や鳥といった動物の解剖結果がそのまま人体の構造として当てはめられていた。キリスト教の思想的な影響(創世記のアダムとイブの物語とか)もあり、それが絶対的なものであった。それを間違いだと正しく否定したら、非難轟々だったりね。
 これって、悲しいことだよね。

 本来的な意味では、科学に哲学や思想はつきものだし、哲学のない科学は科学たり得ないのだろう。だけどそれは、上でいう事実と思想のガチンコとは違う話だ。
 これも混同すると、悲惨なことになるんじゃないかなぁ。

ポッケの中には何がある

 主に iPhone でのこと。
 例えば Twitter を見ていて、これは Mac で確認したい...と思うことがある。あるいは閲覧中の Web サイトを、後で Mac で開きたくなることもある。Mac で保存したいとか、大きな画面で見たいとか、まぁその他諸々、理由はその都度違っていたりもするわけだけど。
 そんな時、それをどうやって Mac に送るか。方法はいろいろ考えられるよね。

 目の前に Mac があって、その時すぐ送るのなら、iPhone から Mac に直接的にコピペで送れるアプリもある。しかし僕は、そんな状況にない時に送りたいものができることが多い。なんでもいいから iPhone で見ているものを、後で Mac で開けるようにしておきたいのだ。
 そしたらやっぱり、なにがしかのアプリにコピペ...が素直なやり方である。メッセージやファイルを送信するなり、共有するなり、いろいろできる。
 具体的な例を挙げると、メールを使う、標準アプリのメモを使う、Evernote に飛ばす、Dropbox に保存する、共有可能な ToDoアプリにメモする...などなど、手段はゴマンとある。それぞれ目的に合わせてアプリを使い分けてもいいし、オールインワン的に使ってもいい。アプリをあれこれ使いたくないなんて場合もあるので、そんな時は Evernote など既に使っているアプリを利用した方が幸せになれるだろう。
 対処法は百花繚乱なのだが、僕はこんな用途で、長いこと ChatWork を使ってきた。

 ChatWork は、すごく簡単に言ってしまうと、ビジネス系のチャットサービスである。iPhone 他モバイル端末では、専用アプリが用意されている。Webアプリ様になっているので、PC だろうと Mac だろうと、あるいは家でも出先でも、どこからでも確認することができる。
 類似のサービスはいろいろとあって、それぞれ利点・欠点がある。競合品と比べると、ChatWork はシンプルな方だろう。
 ファイルの共有もできるのだが、やはり中心はチャット機能である。セキュアな中で会話をし、連絡を取りあったり、議論を深めたりすることができる。ビジネス系チャットアプリの基本ではあるけど、ここが使いやすいかどうかは人によりけり...かな。

 でも僕は、チャットには使っていない。そういう意味では、チャットの使いやすさは、さほど重要ではない。
 僕の ChatWork のアカウントにつながっているユーザーは、僕だけである。誰かを巻き込むつもりはないし、誰かと使いたいとも思っていない。僕ただ一人。にもかかわらず、単純に1グループだけなんてことはしていない。
 テーマごとにグループをいくつか作って、コピペする内容によって振り分けるのだ。ほいで、コピペで送ったチャットを Mac で確認する。目的を達したコピペ会話は、削除する。これで ChatWork には、また後日チェックしたいコピペだけが残っていく。
 こんな具合で、グループは複数あるけど、すべて僕のぼっちチャットなのであった。

 およそチャットらしくない使い方だけど、これが意外と便利で重宝していた。

 チャットといえば、LINE はその筆頭と言えるでしょうね。僕は嫌いだけど。
 LINE を LINE らしく使う上では、きっと楽しいのだ。そのための敷居は、低くしてあるよね。手軽に楽しく...みたいな。楽しく使えている人は、それでいい。
 だけど、その LINE的な楽しさを補助する機能が、僕にはお節介が過ぎるように感じられるのだ。余計なことすんな...て叫びたくなる。
 入力欄も狭いし、重くはないけどいろんなストレスを感じるし、使いやすいと思ったことがない。アカウントの保守・引き継ぎ・バックアップなんかも面倒だし。
 しかし何より、自分のアドレスをまるまる LINE に預ける気になんてなれない。今だからというわけじゃなくて、LINE が広まる前から、その点には引っ掛かりを感じていた。専用アドレスをいちいち教えなくていいという面では利点だが、勝手に見つけられてしまうと考えれば欠点とも言える。だから実際の利用も、長く躊躇していた。
 そんな案配でして、できれば LINE は使いたくない。使いたくないけど、職場の人たちが LINE 使いばっかりなので、仕方なく使っている感じだ。実際、LINE に登録されているのは、職場の人だけ。
 僕としては、他のサービスにでもいざないたいところである。

 LINE の話はいいとして。

 最近、ChatWork に担わせていたコピペの中継的な役割を、Pocket に変更してみた。
 正直、舐めていたというか、半信半疑だったというか、とにかくよくわからなかったんだけど使ってみたら気持ちよかったっていうものなのです。

 いつものことながら、レビューを作る気はないのだが。ないったらないのだが。

 Pocket は、いろんなものをとりあえず放り込んでおく場所みたいなものですね。いらなくなったら捨てる。
 これは十人十色の使い方ができるだろうなぁ。
 いろいろなサービスやアプリとも連携できるので、保存は簡単。僕が Twitter で主に使っている feather も対応済みだ。メニューを開くと「Pocket に保存」があるので、タップするだけだ。コピペの必要はない。

 長期的な保存なら、Evernote などに送るのがいいだろう。用途や目的は人それぞれだが、ちょっと置いとこ...くらいのものを短期・中期的に保存するのに便利だ。
 使うまでは、おおよそ想像はつくものの、ピンとこない部分もあった。ホントに便利なんだろうか、僕に使えるんだろうか...と。しかし保存も閲覧も楽で、ここまで気持ちよく使えるとは思っていなかった。

 無理に「使いこなす」ことはない。作者の想定した使い方であろうとなかろうと、構わない。自分に合ったように使っちゃえばいいのだ。

 カテゴリーなどの分類がしたい場合は、ラベル機能を使えばいい。僕は ChatWork でグループ分けしていたテーマを、ラベルにしている。
 ただし、ラベルは保存時に最初から付けられるわけではない。でも、その必要がないとも言えるんだよね。
 とりあえず保存 → 保存記事を閲覧 → 確認したものは削除 → 後回しにするものはラベルを付ける...。こんな具合に使うと、保存時にラベルを付ける必要はないのだ。
 これが Pocket らしい使い方かどうかは、知らんけど。

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