議論もできないというけれど

 同性愛に否定的な発言をする人の中には、わざわざこんなことを言う人がいる。
「当事者や同性愛に肯定的な人とは、まともな議論にならない」
「否定的な見解を披露すると集団的に叩かれるので、話が先に進まないし、この種のことが言いにくくなる」
 だいたいこんな感じのことですね。
 同性愛者などの性的マイノリティ、もしくはそれに類する、あるいはそれらの人と関わりのある人や肯定的な人の中にも、似たようなことを口にする人がいる。
 その内容を簡単にまとめてしまえば、「同性愛や同性婚についてはもっと議論を深めていくべきなのに、少しでも同性愛に対して批判的な発言をすると非難が集中してしまって、まともな議論ができなくなる。まともな議論をしたいのなら、差別だなどと騒ぐのをやめるべき」と、おおよそこんなところだろうか。
 少なくとも言葉面は、いずれも似たような内容ですね。意識や知識面での差はともかく。

 確かに、議論の必要な課題はたくさんある。しかし僕は、このどちらにも違和感を感じるのだ。必要以上に叩いたり、ただ感情的に非難することには、僕も賛同しかねる。かといって、彼らの言うことに賛同できるかといえば、できない。
 なぜなら、議論がかみ合うのか、はなはだ疑問だからだ。そもそも議論になり得ないことに気付いていなかったり、その点を軽く見過ぎているのではないかと思えるのだ。

 簡単に言えば、「話を聞こう」「議論しよう」などともったいぶって言う人はいるけれど、実際には聞く耳を持ち合わせていないし、議論する気もなく、自分が誤った認識を持っていてもそれを改めるつもりもない...そんな人が少なくない。
「自分は聞く耳持ってあげてるからね」というなにやら押しつけがましい尊大げな「嘘の聞く耳」の態度は、ものすごく感じ悪いし、当事者の感情を逆なでするだけなんだけど(だから余計に話をしたくなくなるんだけど)、それはさておき。
 うそぶく彼らの言う「議論」は、事実に基づかない認識や思い込みによる自分の「信念」を押し付けること、相手の言うことやその存在(ここではつまり同性愛者など)を頑迷に否定することだったりする。
 これって、議論になる?
 もっと言えば、押しつけがましく「話を聞こう」などという態度でいることが、既に傲慢でして。これはいったい、なんなんだろう。言っていることが嘘だらけで支離滅裂で、なのに実は話を聞く気はなく、さらに自ら正しい知識を得ようと動く気もないし、客観的事実を教えられても否定しかしないなど、むしろ怠慢だとも言えますね。
 考え過ぎと言われるかもしれないけど、実際そういう人たちがけっこういますからねぇ。「常識」に欠けているのに、なぜかいわゆる「上から目線」みたいな。根拠もないのに「自分が正しいから、自分の言うことを聞け」という態度。議論以前のことで間違ったことを言っているのに、なんでそんなにエラそげなの...?

「この種のことが言いにくくなる」とのことだけれど、そもそも「この種のこと」の内容が事実によらないので、本末転倒だ。同じ人が同じ口で「同性愛は精神的にオカシイ人たちなので云々」「自然の摂理に反しているから云々」などと言っちゃったりするのだ。
 それ、言う必要がありますか? 自分の無知と恥を晒すようなものですが。すべて事実ではありませんからね。言いにくくなるもなにもない。このおかしさに気付けない人は...どうすればいいんでしょうね。
 それ自体が議論の内容だというつもりの人もいるけれど、本当にそれは議論するようなことなんだろうか。今更な事柄を。これらは議論すべき内容なのではなくて、正しい知識を持っているかどうか、単にそれだけの話だ。
 どちらが正しいのか分かり切っていることについて押し問答するのは、時間の無駄だ。建設的な議論になど、なり得ない。正解がわからない時にどちらが正しいのかを議論するとか、ある事柄をどう判断するかで議論するのとは、まったく意味が違う。とっくにわかっているようなことを蒸し返すようにあれこれ言うのは、議論だろうか。事実に基づかない偏見や先入観、信念、感情などを披露するのは、あるいはその押し付けをするのは、議論といえるかなぁ。
 これは議論ではなくて、先入観にとらわれることなく、事実を事実として理解できるかどうかの問題だろう。こういった発言をして、それが元で批判にさらされて、「議論もできない」なんて嘆いてみせるなど、自分で何を言っているのかわかっているのかなぁ。たぶん、わかってないんだけど。
 事実をそのまま認められない人たちの言う「議論」って、いったいなんだろう。
 もしそんな疑問に、「だからこそ議論をするのだ」などと返すとすれば、もはや笑うしかない。こういう堂々巡りを、これこそが正義だと宣いつつやってしまう人には、何を言ってあげればいいんだろう。

 もう少し、話を広げます。

 まず、最低限の正しい基礎知識は必要だと思う。それがないまま意見を交わして、建設的な議論は生まれるだろうか。
 基礎的な情報が決定的に欠けていて、そればかりか偏見でしかないものを事実とすり替えてしまっていては、結局、自分に都合のいい短絡的な思考しかできない。肯定だろうと、否定だろうと。
 間違えた思い込みの押し付けやそれに基づく主張は、議論じゃないよね。偏見に基づく事実によらない思想・信条を披露したり押し付けようとしたりするのは、議論ではありませんよ。ましてや、「自分は気持ち悪いと思うから」なんて理由で否定的見解を示すのは、議論だなんだ以前の話だ。

 何が正しいのかを考えよう...などともっともらしく言う人もいる。例えば、セクシュアリティについてだとかね。しかしそれは、「基礎知識」の範囲内でしょう? 今更、もったいぶって議論するようなことじゃないよね。
 例えば、同性愛が精神的な問題だと思っている人がいるとしよう。「その認識は間違っていますよ」という指摘に対して「それは違う。意志が弱いから普通になれないんだ。だから同性愛者は異常だ」などと反論するのは、議論ではない。それは事実を認められず、自分の思い込みを修正できないだけの、デタラメな主張だ。そんな反論を議論と称するなら、愚と言うほかない。
「1+1は2じゃない」と主張する人に「1+1=2 だよ」と教えたら、「違うよ。1+1=5 だよ」と反論するのは、おかしくないだろうか。これは、議論と呼ぶべきものだろうか。1+1 が 2 か 5 かの主張で争うのは、議論だろうか。
 例は何でもいいのだけど、あるいは「天動説は正しいのか」を議論しよう...などと言う人がいたらどうだろう。「天動説は正しいか」を、この現代で議論する人がいるだろうか。そんなことをしていたら、まぁ笑われるだろうなぁ(信仰等は別として)。
 議論のフリをする人には、残念ながら、こういうズレた人が多い。

 そんなわけで、「常識」が欠けた状態の人の言う「議論」には、違和感を感じてしまう。議論云々の前に発言の内容や思考が既に破綻しているわけで、突拍子もない、随分とおかしなことを言っているんだけど、それに気付けないんだよね。
 正しい基礎的知識を持ち合わせず、学習する気もない。「正しい知識」を得る気がないし、理解しようともしないし、できない...そんな人と、何が議論できるだろう。話が進まないって、どんな話を進めるつもりなのだろう。

 いたずらに叩いても得るものはないけど、議論に誘っても乗ってこないし、議論にならない。議論以前の問題なので。議論にならないなら、事実の確認をせざるを得ない。しかし見解について説明を求めても、まともな解答が返ってこない。
 逆にこちらが正しい指摘をしても、トンチンカンな返答をするばかり。何が正しいのかわかっていなくて、自分の「勘違い」だけで話をするから。その「勘違い」が絶対的に正しいと、ほとんど宗教的に思い込んでいるから。知識と理解が追い付かなくて、うまく判断ができないだけならまだしも、自分の信じるものが絶対的に正しいのだと思い込んでいるから。
 彼らにとってはそれが本当に正しいのかどうかはさほど重要ではなく、検証もしないし、する必要もないようだ。結局、誤りを認めず、話は先に進まない。
 全員がそうだとは言わないけど、こういった人が多いことも否定できない。
 それこそ、まともな議論にならないのだ。実は「議論にならない」と言っている人たち自身が、議論にならないようにしているっていうね。だからなのかどうなのか、延々と、いつまでたっても同じことを言っている。これじゃ、余計に話は進展しない。永遠に進展しないのではないかと思えるほどに。
 彼らは臆面もなく「何をバカなことを。オマエはあんな異常なヤツらを認めるのか? 話にならない」などと言ってしまうこともある。あるいは感情的に「気持ち悪い」から、それが「正しい」だとかね。いや、もうそれ、理屈も何もない「乱暴の極み」じゃないですか。
 話を聞く気もなくただ切り捨てたがるのは、むしろ同性愛者を認めようとしない人たちではなかろうか。

 ぶっちゃけ、「自分は気持ち悪いと思うから」「自分は認めたくないから」といった、たったそれだけのことで他人をおとしめて、なおかつそれを「正しい」と言ってしまってるんだよね。それ以上の理由は何もないのに。そんな個人的な感情を、正しく見せかけるために「理論武装」しているかのように取り繕っているだけのことだ。しかし、また何度も繰り返すが、その「理論武装」は事実によらないので、欠陥だらけだ。
 これって、本当に「正しい」ことなのかな。なんだか、非人間的といってもいい思考のように思えるけれど。
 それが許容されるのならば、逆にこの人に誰かが「理由はどうであれ、気持ち悪いからアイツは嫌いだ」という感情を抱いた時、この人は一人の人間として認められなくなっても当然だってことにならないのか。それは本当に許されることなのか。
 許されるのだとすれば、むしろこの社会そのものに存在価値はあるんだろうか。
 そんなことも思ったりする。

 しかし! 批判する側もする側で、感情的になりすぎる人が多々いる。あれも目に余るし、辟易する。
 まぁ、感情的になるのもわからないではない。「なんでこんな当たり前のことがわからないんだ!?」と思ってものすごくもどかしいだろうし、そのまま勢いで突っ走ってしまうのだろう。
 それに、心無い言葉で、嘘を撒き散らして自分を卑下されると、そりゃあ誰だって怒るだろう。でもそれさえも、そんな当たり前なことでさえも、ある種の人たちにとっては揚げ足を取る機会にしかならない。
 簡単なことがわかってもらえず、繰り返される心無い言葉に対して、つい乱暴な言葉を使ってしまったり、「怒り」をあらわにしてしまったりする。そうしたら今度は「だからやっぱりマイノリティは怖い」などとトンチンカンなことを言いだし、それでまた行き違いが起こり...。

 つい先日、新たに某国某州でセクシュアルマイノリティへの差別が合法化されたが、これもその延長線上にあるのかもしれない。
 法の謳い文句はどうであれ、そもそもはマイノリティの存在自体が問題なのではないと思われる。その積極的推進者の中に「暴力的」な人が存在し、それが憎悪を生み、「マイノリティによるマジョリティへの甚大な被害思想」へと変化し、差別の合法化に繋がったんじゃないかと(この法案自体については、某州知事は宗教戦争でもおっぱじめるつもりか? と思わされるようなものだと感じました)。まぁ、それでもそれは後付けの理由であって、出発点は「自分は気持ち悪いから認めなくない」っていう、単純にして非人間的なものなのかもしれないが。
 結局、マジョリティであろうがマイノリティであろうが、互いに許容しあい、理解しあうことができなければ、潰しあいに発展する。ただ、その「許容」は、なんでもかんでも際限なく許されるような「許容」であるべきではない。それは、許容とは言わない。いわゆる憲法的に認められるような自由、互いに認めあえる中での自由、公共の福祉に反しない「自由」というものの範疇にあるべきだろう。
 暴力的なマイノリティは、少数の中でもさらに少数派だ。大多数の当事者は、そのようなものを好まない。しかし、小さな負の印象は、大多数の者にも負の影響を及ぼす。
 そういう意味でも、マイノリティの暴力は行き過ぎだし、マジョリティの心無い言動はその許容の範囲を超える。差別を訴える暴力的な叫びからも、また、よくある逆差別という被害妄想を肯定する幻想的思想からも、何も生まれない。

 話を戻そう。

 行き違いや、傷付け合いをしていても、そこには何も得るものがないし、何も解決しない。そんな不毛な言葉の応酬よりも、議論した方が有意義だろう。本当の意味での議論をね。もっと違うことについて意見を交わし、議論するべきなんじゃないかと思う。
 この点でのみ、冒頭の意見には賛同できる。彼らの言う「議論」が「議論」じゃないことはともかくね。

 ただ、その議論の土台が、現状ではまだ足りてない...とも言えるのかもしれない。それが、マイノリティ側の発信の問題と片付けるには、受信側の混線が著しいようにも思われる。
 いずれにせよ、おそらく特効薬はない。

 案外、テレビの「極端な同性愛者の例」も問題なのかもしれないなぁ。メディア等でそれを「ウリ」にするならそうならざるを得ないけど、彼らのなりや言動が、同性愛者ってそういうものだという固定観念になりかねない。
 でもそれは、あくまで「ウリ」であって、彼らの姿はむしろ特殊な例なんだよね。すぐ隣にいる一般の同性愛者は、ごく普通の、おそらく拍子抜けするくらい普通の人たちだから。
 テレビに出るのなら、もっと「普通」の同性愛者が増えて欲しいなぁ。

写真の管理も楽じゃない

 昨年12月の中頃から、Lightroom を使っている。と言っても、一部の機能しか使ってないし、使いこなしているわけでもないし、RAW も扱ってないけど。

 もともと僕は、写真の管理・編集に Aperture を使っていた。
 Mac だと、無料で使える iPhoto もあるんだけど、使ってなかった。理由はいくつかあるんだけど、一番大きい理由は、容量の問題だ。iPhoto は、専用ライブラリに写真がコピーされる。これが嫌なんだよね。コピーされると、写真で占めるデータ量が元データとあわせて倍になる。大容量の内蔵ディスクか外付けならともかく、僕の MacBook にそんなに余裕はない。外付けにしたって、倍になるのはどうも...。かといって、元の写真はできれば削除せずに残しておきたい...。
 こんな感じで、容量に関することだけでも、事情があるんです。
 Aperture なら、コピーせずに、元の写真は残したまま、新たに分類も編集もできる。元データは外付けHDD でも問題ないし、閲覧だけなら外付けHDD とつながなくてもできる。加えて、編集は非破壊型。うん、問題ない。
 また、使いやすさなどの点でも、Aperture の方が気に入っていた。
 iPhoto は、難しいことがわからなくても、なんとなくでも使えるのがいいところだと思う。でも、レベル補正でお山をグリグリ動かしたいとか、もっと細かいことがしたいとか、そんな要求に応えてもらうには微妙なところがある。良くも悪くも「アバウト」なのだ。難しいことをしない時は、これで充分なんだけどね。
 あと、トリミングや回転の仕方だとか、複製の扱い方などなど、使い勝手がやっぱり違う。このあたりの操作感も、Aperture の方が好みだった。

 しかし、しばらくアップグレードを見送っているうちに、Aperture は開発中止のアナウンス。アップグレードをしておくべきかどうか、悩んだものだ。まぁ、ささいなことといえばその通りで、そんな小さな悩みは悩みのまま終わる。OS が 10.10.3(Yosemite)になると、予想されていた通り iPhoto もなくなり、Photos(写真アプリ)がそれに取って代わった。
 これは要するに、方針転換なんでしょうね。おそらく、資源の集中という意味もあるのかと。
 手広くやっていくんじゃなくて、特化する感じ? プロとコンシューマー両方をカバーするのではなく、コンシューマーを取り込む形でミドルあたりをカバーするアプリ1本にシフトして、一極集中するような。iPhoto と合わせて、写真アプリ(Photos)に統合したような形かな。知らんけど。
 Aperture が使えなくなったのは残念だけど、あるいはこの選択は「正解」なのかもしれない。
 競合他社の囲い込みだとか方針だとかに対抗するんじゃなくて、そこはサードパーティーに任せて、自分たちは違うレンジをカバーして、そちらに資源を集中しよう...みたいな。
 iOS の写真アプリからのシフトとしても、有効そうだしね。知らんけど。

 ほんで、Mac の写真アプリ。
 これ、よくできてると思う。iPhoto に、Aperture の機能をいくらか取り込んだような...というのが、僕の印象だ。
 iPhoto ユーザーにとっては、よりしっかり使えるようになってるかもしれないし、Aperture のコンシューマーにとってはこれで充分なんじゃないかと。
 画像の補正などのわけわからなさを、できるだけうまく隠してる感じだなと思った。初心者に使いやすく、しかし、もそっと突っ込んだ使い方もできる。iPhone で写真をたくさん撮るユーザーにも使いやすそうだ。
 とはいえ、右のものが左に変わっただけで何もできなくなる iPhoto ユーザーだった母は、相当混乱していた。しかし慣れてくると、その良さがわかってきたようだ。今では逆に、前より便利だと言っている(余談だが、当時まだ 10.9 を使っていた僕が Photos や iPhoto の使い勝手を知っているのは、母が使っていたからなのです)。

 ただ、昔からレベル補正とトーンカーブを主に使っていた僕としては、なんだか...なんだか......。ダメじゃないんだけど、もひとつ物足りない感じ...とでも言おうか。足りないというより、思ったようにできないというか...。
 いや、そのへんがバリバリ使えるわけじゃないんですよ。理解も中途半端だし、レベル補正はまだしも、特にトーンカーブはがしがし使いこなしていたわけじゃない。Mac ではともかく、iPhone だとレベル補正やトーンカーブを使ってすらいない。
 だったら、無理にレベル補正とトーンカーブにこだわる理由もない気もする。「こだわってる」わけでもないんだけど、それでもやっぱり慣れた使い方には引きずられるし、かといってちょこっと使うだけならやり方を変えてもいいようなものでもあるし...。
 しかしっ! なんか違うんだよねぇ。よくわからないけど。結果の微妙な違い?

 iPhone での補正は、そもそもこだわりらしきものをあまり持っていない。簡単にちょっといじる程度か、あるいはフィルターなどを使って激変するような加工をしちゃうから、Mac の時と違って、むしろレベル補正やトーンカーブを使う理由がない。
 iPhone では、細かい補正やややこしい編集をしようと思わないのだ。そういう気にならないし、その必要がない。ちょこちょこっと、編集できればいいのだ。確かに、レベル補正やトーンカーブが使えるアプリは入っている。でも、使わないんだよねぇ。iPhone でのそれらの操作は、必ずしもやりやすくないって事情もある(僕にとっては)。
 でも、Mac で写真を補正する時は、もうちょっとマトモにやりたいようなところがある。慣れもあるんだろうけどね。ほんでレベル補正などを使った場合と使わない場合を比べてみると、なんか同じようで違うような結果なんだよね。微妙ながらも。
 ざっくり言えば、「明るさ」とか「コントラスト」といった調整項目が、良くも悪くも「大雑把」だからなんだろう。実際、仕組みが違うわけだし。その違いは、効果を強く掛けてみるとよくわかる。

 まぁなんにしろ、僕は慣れたレベル補正が使いたいわけです。写真アプリでもお山をグリグリできるけど、どうも使いにくいんだよねー。僕にとっては、ね。
 他にも、写真の管理方法が変わるのが嫌だっていう事情もある。
 適当になんでもとにかく突っ込んどいて、あとで整理する...なんて時には、写真アプリは簡単に使えるし、すごくいいと思う。とりあえずまとめて入れたものをざっと見たり、ゆるく「適当に」仕分けしたりしたい人は、けっこういるんじゃないかなぁ。ちまちま使わなくて済む写真アプリの機能は便利だし、むしろおもしろいと思う。
 でも僕は、昔からフォルダに写真を仕分けていて、このままでも困らない。それどころか、勝手に配置を替えられると困る写真が入っているフォルダもある。僕は、僕の好きなように仕分けがしたいの!

 そんなわけで、やはり写真アプリは避けたいのであった。

 じゃあ、どうすんべ? 代替手段はあるのかな。
 てことで、Lightroom である。

 Photoshop や Illustrator、InDesign は昔から使っていて、今や CC。これには Lightroom もついてくるので、インストールさえすれば使える状態にある。使えるんだったら、使った方が金銭的にも無駄が減る。気分的なものかもしれないけど。
 だったらこれでいいんじゃね?

 正直なところ、インターフェースに関しては、Aperture の方が使いやすい。これが第一印象だった。
 実際、微妙な分かりにくさがある。カタログの扱いだとか、「現像」なる言葉遣いだとかも戸惑ったんだけど、もしかしたらずっと慣れることができないんじゃないかと思えるのが、左下にある「ヒストリー」のスクロールバーの位置だ。通常はどんなウィンドウでも右側にあるスクロールバーが、ここだけ左側にあるのだ。
 おそらく、その右側のエリアとの境目に、スクロールバーを置きたくなかったんだろう。見た目(インターフェースのデザイン)重視なら、確かに「邪魔なもの」がなくてスッキリする。でも、普通は右にあるものが左にあると、直感的に「正しい位置」に手が伸びない。結果的に、スクロールしにくいから使い辛い。さっと手が届かない感じで、もどかしくて、円滑な作業を阻害する。

 それはともかく。補正などの使い勝手はどうなんだ...と。
 最初は戸惑った。なんでって、慣れた形そのままのレベル補正じゃなくて、3色重ねのヒストグラムで、それが露光量他の調整と連動していたからだ。まぁ、当然といえば当然なんだけど、ヒストグラムを動かすと他も動くという状況そのものに、え? え? って、なっちゃったんだよね。
 とはいえ、僕は高度な処理をしているわけではないし、すぐ慣れた。

 いくつか調べて、いくらか触って、僕の基本的な使い方は以下のような感じになった。ヒストグラムを直接動かしても、対応する項目のツマミを調整しても、結果は同じ。今はわかりやすいように、項目名で書きます。

・カタログは、ひとつだけ(複数切り替えなんて、僕には無用)
・フォルダ内の写真は、すべて「追加」(容量はやっぱり節約です)
・必要なら、後から削除や分類(取捨選択は、見比べながらがラクチン)
・露光量でヒストグラムのバランスを取る(なんとなく)
・黒レベルと白レベルを調整(明るすぎる・暗すぎる箇所をいじくる)
・バランスを見ながら、トーンカーブのダークとライトを微調整(写真全体の明るさをちまちまと)
・シャドウとハイライトで引き締めと味付け(なんとなくな感じで)
・必要なら、その他の処理(色収差など)

 はい、この内容であれば、Lightroom を使うまでもないです。ごめんなさい。

 だけど、しばらく使ってみて、いいなと感じている。
 一元的に、オリジナルは残したまま、コピー不要で管理・編集できるし(非破壊型なので)。一部のインターフェースなどを除けば、補正もラクチンだし。気に入ってます。
 気持ちよく使えるって、やっぱり大事だな。

若き悩みも今深し

 検索キーワードには、自分が同性愛者で悩みを抱えているのかな...と思えるものもあったりする。
 その中には、同性に惹かれるとか、何らかのことで自分が同性愛らしいと気付いて、悩んでいるのかもしれないなと想像してしまうようなものもある。そんな悩みなどは、質問サイトにも時々投稿されているようですね。
 この種の悩みを持つ人には、中学生・高校生が多いんじゃないかと思う。若い人ほど、まわりからの「無理解」や「攻撃」に対する免疫がないし、それをなんとかする術がなくてなんともできなかったりするし、今現在や未来についての不安も大きいことだろう。
 では僕がなんとかしてあげられるかといえば、たぶん無理だ。
 当サイトに、どのくらいの同様の人がたどり着くものかもわからない。けれどそれはそれとして、僕の思うことを書き連ねておこう。

 焦る必要はないと思うのだ。

 同性愛者は、生きる意味があるのか...。そんな悩みを抱える人もいる。
 同性愛者かどうかは、もっと広くいえばセクシュアリティの違いは、基本的な自分自身の生きる意味とは関係のないことだ。
 生きる上でそこに意味を見いだすことはあり得るし、アイデンティティとまったく無関係でもない。しかし自分が自分として生きて行くことができれば、それでいいのではないだろうか。せっかく生まれてきたんだから。セクシュアリティがどうであろうともね。

 今、自分が同性愛者かどうかで戸惑っているかもしれない。自分は同性愛者なんじゃないかと気付き、不安や恐怖を感じているかもしれない。同性愛者なんだろうなと思いつつも、認めるのが怖いのかもしれない。
 仮に同性愛者だとしても、すぐにはそれを認められなくても構わないと思う。実際に、中学の頃に気付いてはいたけれど、大学生になってから、成人してから自分で認めることができたという人もたくさんいる。
 それでいい。何も問題はない。

 こんな悩みを抱えている時期は、それがゲイの人であれば、女性と付き合ってみようか...と考えたり、自分を好いてくれる女性に告白されて付き合ってみる人もいる。
 性というものはグラデーションのようなもので、裏と表のようにはっきりと分けるのは難しい。もし女性にも興味が持てるのであれば、バイセクシュアル(両性愛)、またはその傾向もあるのかもしれない。
 反対に、女性にはまったく、あるいはほとんど興味が持てないのであれば、もしかしたら無理に付き合わない方が彼女のためかもしれない。異性と付き合ったからといって、セクシュアリティが変わるわけじゃない。それでも付き合ってみれば、自分に納得できることもあるだろう。しかし無理に付き合えば、後々彼女を傷付けてしまいかねない。
 そうでないのなら、付き合ってみるのもいいと思う。それで幸せでいられるなら、そう生きる道もある。

 仮に付き合ってみて「やっぱりダメだ」とわかったとしても、自分を責めることはない。あなたはあなたのままでいい。
 その時は、同性愛者として生きればいいことだ。たとえすぐには、自分が同性愛者だということを受け入れられなかったとしても。
 いくらか彼女を傷付けてしまうかもしれないことが、心配ではあるけれど。

 自分がゲイだと確信したとしても、それはそのままでいい。
 やっぱり同性愛者なんだと思った時、悲観する人もいるだろう。生きてていいのかなって、また悩むこともあるだろう。そうは思っても、すぐには受け入れられないこともあるだろう。
 すぐに自分の気持ちに折り合いがつけられるなら、気持ちとしては幸いだ。
 しかしそうできなかったとしても、無理に変えることはない。自分を卑下することもない。自分は生きていても仕方がないなんて、思う必要もない。

 同性愛に限らず、ヘテロとは違うセクシュアリティ、いわゆるマイノリティなセクシュアリティは、社会的にはまだまだ充分に認められているとはいえない。だから、その意味では楽ではない。でも、もしも同性愛者だと自覚したのなら、そう生きる方が、自分を偽らないという気持ちの上では幸せでいられるだろう。
 自分を偽ることは、なかなか辛いものだ。それは残念ながら、当事者にしかわからない。まわりはそれを、わかってはくれない。
 それでも、そう生きる方が幸せでいられるだろう。

 自分が自分として、当たり前の自分として生きることは、とても大切なことだと思うのだ。

そもそも表示が高難度

 アンダーウェアは、自分で買って確かめてみるしかない...と、何度か書いたことがある。
 どれを選べばいいのか。これは履きやすいのか。そんなことを調べていると見受けられる検索キーワードが、後を絶たないんだよね。それで、そんなことを書いたわけです。
 これ、改めて言うけど、ホントにそうだと思う。自分で履いて、感触を確かめる以上のものはない。僕の体験からの実感であり、正直な感想なのだ。
「それが Web サイトじゃ確かめられないから困るの」とか言われちゃいそうだけど、だからこそ買って履いて納得しろ...と。逆説的にも聞こえるかもしれないけど、自身の感覚に勝るものはない。ないったらないのだ。
 それに結果として、自分のサイズをより正確に知るいい機会にもなるんだよね。おそらく。身も蓋もなかろうがなんだろうが。

 しかしですよ。
 そうは言っても、なんだかんだ理屈をたれても、僕だってやっぱり失敗はしたくない。不安や戸惑いは身に染みて知っているし、いろいろと調べたくなる気持ちは痛いほどわかる。
 仮に自由に試着できたとしても、日常で使ってみないとわからないとか、実感できないことだってある。それも含めて、買ってみるのが最善策なのだけれども、それでも僕とて、無条件にそれを受け入れているわけじゃないんだよね。
 どうしたって、なんでこんなことしなきゃいけないんだ? という疑問があるのだ。大いなる疑問が。そしてそれは、なぜか一向に解決されない問題の存在を意味している...と思う。

 今回は、そんな疑問と問題の話。

 僕がずっと疑問に思っているのは、販売サイトの「不親切さ」である。そもそもそれがなかったら、悩む労力は減るし、検索する時間も無駄にならなくて済むのだ。
 要するに、販売サイトの説明や表示がわかりにくいってことなんだけど、これだけだと話がまだ曖昧ですね。

 この「不親切さ」とは、なんぞや。
 ひとつには、表記のわかりにくさや統一性のなさがある。販売サイトが違えば表示方法も違うのは、一見当たり前ではある。だけど、だからこそ不親切だと思うのだ。たかがサイズ表示なのに、それをまともにしてもらえないという現実...。
 未だに S・M・L 等の表示しかしていないサイトもあるが、あれでサイズがわかってもらえると思っているのだとしたら、甘い。甘すぎるぞ。同じ S でも、国はもちろんのこと、メーカーが、あるいはモデルが違うと、微妙に差異が出てきたりすることがよくあるんだよね。

 具体的な表記についても、ウエストだけ表示していたり、対象の身長と体重だけが表示されていたりするわけだけど、いやー、それはあんまり参考にならないよう。
 ウエストが同じなら、あるいは身長と体重が同じなら、腰回りの形や大きさ、感覚が同じだとでも思っているのかな? んなもん、同じわけがない。やっぱり甘い。甘すぎるのだぞ。

 そんなサイズ表示の仕方だと、迷うに決まってる。僕はそんなサイトで、買い物をしたくない。
 つーか、ショップの中の人たちは、自分が購入する時に、ネットショップのそんな表記で困らないのかなぁ。

 しかし、もうひとつ。
 このわかりにくさを解消しようと工夫をするサイトもあるのだけれど、この工夫がまた「不親切」であったりする。わかりやすくしようとして、結局わかりやすくなっていないのであった。
 工夫の意味がない...。
 例えば GX3 は、モデルさんの写真と、身長と体重の組み合わせを使ったチャートを掲載している(ちなみに GX3 については、まだ当サイトで一切言及したことがない)。
 しかしこのチャート、たいして参考にならない。と、僕は言いたい。「何の参考にもならない」とまでは言うまい。

 なんで参考にならないのか?
 先にも言った通りだけど、身長と体重だけでは、アンダーウェアのサイズ的な履き心地はわからないと思うのだ。一応断っておくが、ここで言っているのは生地や肌触りの話ではない。フィット感であるとか、サイズ感などと言われたりもする履き心地のことである。
 身長と体重が同じでも、ヒップの大きさや腿の太さ、その他諸々、個人差があるものだ。プラス、どういう履き心地を「気持ちいい」と感じるかは、人それぞれだろう。だから僕は、少なくともアンダーウェアに関しては、身長と体重はあまり参考にならないと思う。だから、半端なチャートも参考にはならない。一切まったくこれっぽっちもならないとは言わないが。

 こういったチャートを掲載するよりも、直接的な実際のサイズをしっかり表示してくれた方がありがたいし、わかりやすくて役に立つ。と思う。

 たとえ細かく数字が示してあっても、それだけじゃわからなくない?
 そんな声も聞こえてきそうだが、ここは「経験」と「自分の好きなもの」との比較の蓄積なんだろうと。
 例えば、ブランドを問わず、今までトランクスしか履いてなかった人が、初めてボクサーを購入するとしたら。この時ばかりは、確かにわからないかもしれないし、すごく困ると思う(この時に困るのは、サイズよりも、むしろ履き心地の方かも)。
 この初回だけは、ウエストやヒップのヌードサイズを参考にどれかを狙って購入するか、比較のために複数サイズ購入するしかないかもしれない。

 しかし S・M・L なんて表記だと、その吟味すらままならない。とりあえず、自分は洋服を選ぶ時はいつも M だから...と、すんごくアバウトに選ぶしかない。
 これ、洋服とアンダーウェアのサイズは必ずしも同じにはならないし、M と L の間とか境の辺りを選ぶ人もいるから、けっこう困るんだよねー。そういった意味では、トランクスからボクサーに乗り換えようなんて時には、ひとまずスーパーの量産型格安ボクサーでも買ってみるのが無難かも。
 すると、次にステップに向かうことができる。

 まぁなんでもいいから、初回はなんとか乗り越えたとしよう。失敗かどうかはともかく。
 そこから、自分にピッタリくるサイズがどういうものなのか、自分がどういうものが好みなのかは、わかってくる。1枚では本当はわからないんだけど、まったくわからないわけではない。
 とにかく、多少なりとも比較はできるようになる。

 これ、僕にとってはアンダーウェアに限らないんだよね。わかりやすいところでは、Tシャツやポロシャツなんかもそう。実は、ブルゾンもカーデもそう。
 洋服は、リアルショップで購入することもあるだろう。アンダーウェアと違って試着もし放題だし、お気に入りの服だってできるのではなかろうか。
 そのお気に入りの服のサイズを測っておくのだ。ネットショップのサイズ表記と比べられるように、なるべく正確に。上着やシャツなら、肩幅、袖丈、裄丈、着丈、身幅...。ちなみに身幅は、裾ではなく、脇の下あたりで測るのがオススメ。
 それと、あわせて自分のヌードサイズも忘れずに。ヌードサイズも必要なのは、どの服が自分の体に合うのか、わかりやすくなるからだ。特にフィット系のアンダーウェアは伸縮性があるので、ヌードサイズとの差異が大きくなる。ブルゾンとか上着も、差が大きくなる。
 僕はこうするようになってから、ネットショップでの洋服の購入でサイズの失敗をしたことがほとんどない。記憶にあるのは1回だけで、この服はサイズがちょうどよさそうな知り合いにあげた。
 昔はよくわからなかったから、時々失敗してたよなぁ。
 できたら、お気に入りの服の実測は、1着じゃなくて複数着メモしておくといい。そうしたら、こっちの服より大きくてこっちよりは小さい...なんて場合もあることがわかるはずだ。
 Tシャツやポロシャツの場合は、縮むことを考慮しておいてもいいですね。

 話を戻そう。
 とにかく、比較できるもの、それもできるだけお気に入りが複数あると、ネットでの買い物はすごく楽になる。

 しかしっ!
 この比較のために必要なのがサイズなんだけど、このサイズ表記が「不親切」なんですねぇ。

 僕が必要だと思うのは、わけのわからんチャートなどではない。メーカーの表記も、あまりアテにはならない。
 平置きでいいのだ。アンダーウェアに関しては、少なくとも、ウエスト、ヒップ、股上の寸法が知りたい。この3点の、具体的な数字が欲しい。
 アイテムの数がそろって、お気に入りも増えてくると、もうその頃には「このブランドのこれと比べて...」なんてことができるようになっているはずだ。
 そのためにも、ウエスト、ヒップ、股上は必須なのだ。あと、サイドの丈とか裾幅も表記してくれてると、より親切かと。

 上では例に GX3 を挙げたものの、GX3 だけがどうというわけではもちろんない(GX3 のサイトではウエストやヒップのサイズも表示されているので、困ることはないけどね)。
 しかし、こういうわけのわかんないチャートが、意外と多いのだ。わかりやすくしようという努力が、空まわっているようなチャートですね。
 シャツとか洋服ならまだしも、アンダーウェアでのこの手のチャートは、自己満の自称チャートであって、実用ではあまり使いものにならないと思う。
 繰り返しになるけど、まったくならないとも言わないよ。
 GX3 の場合だと、「身長:約155〜172cm前後/体重:約44〜59kg前後」といった調子で分類して、各々ブランドごとの目安のサイズを掲載している。
 でもねー、自分のサイズのあたりがどのくらいになるか、身長と体重から計算しろとでも? めんどくさいし、わかりにくいし、やっぱり身長と体重でサイズを推し量るのは無理があると思う。体格の違いもあるけど、フィットするのが好きな人もいれば、ルーズな方が好きな人もいて履き方も一様ではないし、チャートでその答が出るかといえば、たぶん出ない。
 もしチャートを載せるのであれば、該当するモデルの腰回りのヌードサイズも必要だろうと思う。だけどこの点でも、モデルの身長と体重しか掲載されていないし、モデルの例が少なすぎるから自分と比較ができない。も少し言い方を変えると、同じ身長で体格の違うモデルさんが不足しているから、中途半端感は否めないわけです。
 仮にこの種のチャートをより完璧にしようとしたら、身長、体重の他、ウエストやヒップなどのヌードサイズを入力したら、最適値を算出、フィギュア的に体形が表示されて、参考サイズが網羅的に羅列され...みたいなシミュレーションできるシステムかもしれないですねぇ。インタラクティブな感じの。
 そこまでしろとは言いませんが、半端で使えない代物なものは仕方がない(繰り返すけど、GX3 のサイトには、チャートとは別にウエストやヒップのサイズ表示があります)。

 どのみち「僕のサイズ」は、チャート内にすら存在しないことが多いけどね...(GX3 は例外的)。

 なんにせよ、販売者が、わかりやすくて的確なサイズ表記をしっかりとしてくれたなら、購入者の悩みが少しは減ると思うのです。


※ここではサイズ表記の話をしたわけだけど、生地の肌触りとか伸縮性なども着心地に影響します。言うまでもないだろうけど。総合的に見れば、サイズ表記だけが悩みの種になるわけではありませんね。そこはさすがに Web 上ではわからないけれど、気になるなら一着でも体験してみれば充分かと。ただし、実用性を重視するなら、「変なもの」は買わないのが吉...かも? 素材が特殊だとかね。

いるものといらないもの

 こんな話をアップしようと思っていたのだが、そこへニュースが飛び込んできた。それは、Evernote に関するもの。
 まずアップ予定だった話から、順を追っていこう。

 Evernote を使いだしてからもう何年にもなるけど、Webサイトの保存やメモにはあまり使っていなかった。
 しかし最近、時々保存するようになっている。

 そのきっかけを作ったのは、Pocket である。
 これは保存しておきたいけど PDF にするほどでもないな...とか、とりあえずでいいから Evernote に保存しておこうかな...なんて思うことが、時々出てくるようになった。昔はあまりなかったんだけど、こう思うことが増えたのは、Pocket を使うようになってからだ。Pocket に溜めた記事を開いている時に、そんな欲求が度々出てくる。

 Webサイトは、丸ごと必要だと思えば PDF にしてしまうことが多い。
 Mac なので、Webサイトの PDF 化は標準機能で簡単にできる。PDF 化する時は、先に PrintWhatYouLike などのようなブックマークレットで不要な部分を削除しておく。

 ほんで、Evernote への保存はといえば。
 最初は、PDF の保存時と同じように、ブラウザで開いたページを PrintWhatYouLike で処理してから、Web Clipper を使って Evernote に送っていた。しかし、某ニュース系サイトの記事を同様に処理した時、Evernote 側の表示で不都合が生じた(先に付け加えておくと、これは古い情報でして...)。
 エラーなどではない。フォントがやたらとデカくなったり、使われている画像が元サイズのままだったりで、僕が固定しているウィンドウのサイズに収まらなかったのだ。
 まだ余裕があるからウィンドウを広げろと言われれば、確かにそれで対応できなくもない。でも、Evernote のウィンドウの左側は開けておきたいんだよね。諸々の都合で。だから、ウィンドウサイズは変えたくない。
 それに、フォントが自分の設定した標準の倍以上のサイズになるから、どのみち気に入らない。Evernote のノートは、フォントサイズなどを統一させたいのだ。ページによって設定が変わってしまったら、読みにくくてかなわない。だから、ウィンドウサイズの変更では、解決にはならない。

 なもんで、サイトの不要な部分を消して整理して、少なくともフォントサイズだけでもなんとかして保存できないのか? と思ったら、あるにはありましたねぇ。Evernote Clearly というものが。基本機能で言えば、Web Clipper と競合する機能拡張だ。
 ただし、普段使ってる Safari には対応していない。対応ブラウザの Firefox と Chrome はインストール済みだし使ってもいるけど、Safari でそのまま...てわけにはいかない。

 それでも、Clearly の方が、僕には便利であった。

 いつもの Webサイトの閲覧には、これまで通り Safari を使う。
 Safari で見ているページを Evernote に保存したい時は、URL をコピペして Chrome で開く。面倒なようだけど、回数は多くないのでさほど面倒でもない。
 Pocket に入っている記事を Evernote に保存したい時は、Chrome で開いて、Clearly で Evernote に送る。

 しばらく、こんな感じで使っていた。

 ところでここでひとつ、知ってる人は不思議に思うだろう。なんで Pocket から Evernote に保存しないんだ? と。そうです。Pocket は Evernote と連携できるので、直接保存できます。

 しかし。Pocket のブラウズ機能には、貧弱さがあることは否めない。うまく表示できないページもあるのだ。これが意外と多い。内蔵ブラウザで表示できなかったら、Safari とか他のブラウザで開くしかないよね。ブラウザで開いたら、そのままブラウザで保存したい。
 それと、Web Clipper で保存した時と似ていて、保存のされ方があまり好きじゃない。広告などは自動的に削除してくれるけど、フォントがね。どうやらオリジナルの影響を受けるようで。ええい、面倒だな。

 各ページを見る時はそれでもいいけど、Evernote に放り込むとなると、やはりそうとも言えない。保存した時、保存のされ方にばらつきがあると、やっぱり見にくいんだわ、これが。さっきも言ったけど。
 だからフォントの種類もサイズも、僕の設定に合わせて欲しいのだ。その方が、Evernote 内での閲覧性は上がる。揃ってた方が、気持ちいい。たぶん。
 まぁ僕がそう思うだけで、気にしない人は気にしないんだろう。

 その点、Clearly は過剰な変換はしないし、フォントは揃うし、画面サイズをはみ出すこともない。
 ブログなどは、その体裁を含めて、書いた人の意図があるのだから、そのまま保存したい...なんて人もいる。そんな人には、Clearly は向いていない。しかし、余計なものまで保存したくないなら、Clearly はよく働いてくれますね。
 もっとシンプルな方がいい人は、これでも物足りないかもしれないけど。

 それに、Webページをそのまま保存したい時は、PDF でいいし。そのままを Evernote に保存しようという気にはならないのだ。Clearly はちょうどいい案配になる。
 そんなわけで、僕は Chrome と Clearly を使っていたのです。

 と、ここまでがアップ予定だった話である。

 がしかし、ここにきて状況が変わる知らせが届いた。なんでも、Evernote が Clearly のサポートをやめて、Clipper に絞る...というのであった。
 でも、あんまり困らない。なんで困らないかっていうと、上にかいたネタの内容が既に古くなっていたからだ。

 Clipper だと、保存時に不都合があった...と書いた。
 しかし機能改善だとかもあってか、あるいは僕の使い方に難点もあったか、Clearly と遜色ない保存ができるようになっていた。ただし、Clearly の方が使いやすく感じるけどね。
 それと Clipper は、保存時にちょっとした乱れを生じることがある。まぁ保存には影響がないので、たいした問題でもないが。
 今のところ、他に問題は起きていないので、今後は Clipper で保存いたしまする。

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