迷って困ってまた買って

 エディタとかその類いのアプリはいろいろ使ったことがあるけれど、世の中に出まわっている類似のアプリをすべて使ったことがあるわけじゃない。当然だけど。
 Bear との出会いなどは、幸運の例のようなものだ。幸運があれば、もちろんその逆もまたあるわけです。
 今回は、そんな残念なお話。

 用途によって使い分けがしたいという意味のことは、過去にも書いたことがある。その中で最も変遷が多いのが、何某かの長文のアレコレをゴニョゴニョするために使うアプリである。なんのことやらさっぱりわからないかもしれないが、具体的なことは今ここで書く気もないが、まぁ細かいことはスルーして...。
 Evernote と同居していた時期もあるんだけど、やっぱり替えたいなー...と。そこでいろいろ調べてみまして、これがよさそうだから使ってみようと思って入れたのが、Write であった。

 Write 自体の世間の評価は、低くない。低くないというか、高い方のアプリのひとつでしょうね。
 Mac版と iOS版があって、保存も同期も意識することなく使える。あまり用はないけど、マークダウンもOK。こうした基本的な機能については、Bear などと大差ない。
 Write はタグ以外に、フォルダが使える。これが、Bear などと違う点のひとつだろうか。
 マトモに使えればとても便利なことは想像に難くないわけですが、しかし! 僕のところではうまく働いてくれなかった...。泣きます。

 あくまでも「僕のところでは使えなかった」ということだ。世間一般では、あまりそういうことがないようですね。どうやら。
 何がどう使えなかったのか? 同期である。なぜだか原因は分からないのだけれど、とにかくデータがうまく同期できないのだ。
 Mac 側では、特に問題がない。でも iPhone だと、一部のノートしか表示されない。ためしにキャッシュなどを削除したり、アプリを再インストールしたりといくつかできることを試してみたものの、解決しなかった。
 有料だってのに、使いものにならない...。泣きます。

 問い合わせるのが面倒で、文章を考える気にもなれない。でも、アプリは分けたい。しかし、有料だったからもったいない...。
 そのまま悩み続けると、堂々巡りになってしまいます。でもねー、使えないものは、どうしたって使いようがない。もはや価値がない。まずは使えなきゃ、話にならない。
 そんなわけで、泣く泣く他のアプリをインストールし直したのであった。

 代替アプリは、いろいろとあります。
 細かい違いはあるものの、こうしたアプリには、似たり寄ったりの機能を持つものも多い。それでも、僕には不要な機能を捨てたり、好きになれそうにない点を挙げたりして選別していくと、残るアプリはかなり絞られてくる。
 例えば、WriteRoom や Byword は、ノート管理の面で僕の希望と合わない。Letterspace は、Bear と近すぎる気がする。Ulysses はおもしろそうなんだけど、ちっと高すぎないかい? その当時は iCloud を使いたかったし、ブログとの深い連携も必要ないから Blogo はそぐわない...(以下省略)。
 と、そんな感じで。

 最後に残ったのは、iA Writer であった。かつて Write をインストールした時に、どっちにするかで最後まで迷ったアプリのひとつだ。
 今のところ、問題なく使えている。
 これはこれで、不都合がないわけじゃない。フォルダの上の階層へ移動する時の操作がプルダウン式のみだとか、ファイルリストの表示サイズが固定でやや小さめだとか、そんな感じで。とはいえ、そのほとんどはしばらく使ってるうちにたぶん慣れるであろう種類の不都合なので、もう少し様子を見なきゃどちらとも言えないかな。
 希望を言えば、入力時のフォントは好きなものを使いたいし、フォルダの移動をもっと楽にして欲しいなぁ。

 しかしなんと言っても、「買い直す」はめになったのがねぇ...。
 ちょっともやもやしながら、ひとまずめでたしめでたし。ひとまず...ね。

違うことは違うこと

 キミは僕と違うから、正常じゃない──。

 こんなことを言われたら、どう思うだろう。相手は、友達でも家族でも、先生でも、上司でも、同僚でも、見知らぬ他人でも、誰でもいい。
 根拠は、ない。正当な理由もない。彼はただ、自分と違うからダメだと言うのだ。「僕」だけが正常であって、それと違うものは異常だと。だから、「僕」と異質な「キミ」は異常だと。
 自分と考えが違うから、異常。自分と同じように行動しないから、異常。自分と同じものを好きにならないから、異常。自分と生き方が違うから、異常...。自分と違うものは何もかもダメで、ダメなものはすべて異常だと...。
 具体的な反応や主張は、いろいろあるかもしれない。けれど多かれ少なかれ、こんなことを言われたならば、誰もが戸惑いますよね。
 まったくもって、余計なお世話だ。自分と考えが違うから「ダメだ」なんて、むしろ意味が分からなくありませんか? 相手が誰であろうと、そんなことを他人に言われる筋合いではない。やっぱり変だよね。
 こんな主張、それ自体が「異常」だと言っても差し支えないかもしれない。

 ところが、この「自分と違っていたら正常じゃない」というわけのわからない主張がまかり通ることがある。この、エゴと偏見の塊のような、突飛で非常識な主張が。不思議なことに。
 まかり通るというより、ゴリ押しされると言う方がいいのかな。それを当然のように思っている人たちがいて、冷静に考えれば誰もが理解に苦しむであろうこうした主張を、なぜか正しいと言って絶対に譲らない(ただし、それを指摘すると、そんなことは思ってない...と返される)。
 そのひとつが、セクシュアリティに関する否定的見解ではないだろうか。

 とても突拍子のない発言なんだけど、そこではこれが正当化される。もちろん、論拠も何もないので、この正当化は歪んだ正当化なわけですが。

 そんな人たちは、自分の言うことの正当性を哀れなほど必死になって裏付けようと、視野の狭い見解を、あたかも広く世界が認めた見解であるかのようにも見せかける。
 なもんだから、あわせてこんな言葉もよく出てくる。

「自分のまわりの人たちは同じことを言っている」

 まわりの人たちとは、いったい幾人のことでしょうか。また、そのうちの何人が、本音で話をしてくれたでしょうか。
 仮に、小さな世界で、小さな仲間内で合意ができたとしても、それが世界と広く共有できる正しい意見だとは限らない。
 それになによりも、たった一人の合意者がいただけで、それを「まわりの人たち全員」であるかのように言い繕うなんてことは、悲しいかな、珍しいことじゃない。

「みんな同じように思っている」
 これも上の発言と同じことなんだけど、やっぱり視野が狭い。
 みんなって、あなたともうひとりいれば、それで「みんな」なんでしょう? あるいは、あなたが「仲間」だと思っている「歪んだ人の集まり」のみんなにすぎないかもしれませんね。ついでに、歪んだ仲間の中にいたら、自分の歪みにもなかなか気付けないでしょうね。
 もっとヒドイのになると、誰からもそんな同意を得ていなくても、「同意を得られるに違いない」という根拠のない「確信」を「事実」として口にしたりする。いやー、どうしましょ。救えません。

 しかし、こうした歪みについて指摘をしたとしても、逆に「その指摘と同じようなこと」を言って逆襲する人までいる。まるでマホカンタでも唱えたかのように。
 いや、もうそれ、笑うしかないでしょ。
「じゃあ、お前に賛同する奴を連れてきてみろ。町内を訪ね歩いてみろ」とか、そんなことを言いだしたりするんだよね。いやいや、まったく意味がありませんよ。
 この発言自体が差別意識をふんだんに盛り込んでいるんだけど、今は横に置いておきます。

 キミは僕と違うから、正常じゃない。

 そんな突拍子もない決め付けがまかり通るような世界で生きていきたい人は、いるんだろうか。
 僕は、生きていたくはない。

使い心地は軽やかに

 最近、Bear を使い始めた。
 Bear とは、なんぞや。マークダウンが使えるテキスト系のアプリである。Mac 版と iOS 版があって、意識しなくてもデータの同期ができるノート系のアプリである。

 しかーし! 僕はマークダウンが使いたかったわけじゃないから、肝心のマークダウンを使ってない。ないったらないのだ。

 これまでサイトの更新ネタの仮置きや編集には、主に MobisleNote を使っていた。でも、ちょっとした不満があるんだよね。
 本当に細かいことなんだけど、ちょこちょこちまちました部分で使いやすくないところがあったのだ。いや、基本的には不満はないんだけどね。
 例えば、デスクトップ版で自動保存される時の挙動(一旦ページのトップに戻ってしまうし、直前の編集内容が保存されずに消える)だとか、iOS版でページの最下部での表示が気持ちよくない(最終行が半分隠れた感じになってしまって、編集にやや支障をきたす)とか。そういう小さいことです。
 小さいとはいえ、繰り返しにしろ種類にしろ、数が積み重なればバカにならない。

 そんなわけで、これはこれで便利なんだけど、別のアプリに乗り換えようかな...などと長いこと思っていた。思ってはいたけど、乗り換えてもいなかった。
 腰が重いですね。

 ほんで、バージョンアップしたのを機会に Bear を試しに使ってみて、悪くないな...と。正直、マークダウン記法は使ってないから、そこの部分はむしろ不要かもしれないんだけどね。僕としては。今現在、マークダウンを使ってるのはタイトル部分だけ。
 宝の持ち腐れですね、うん。

 使い始めてすぐは、Mac 版でスクロールバーが常時表示されるわけではないことに戸惑った。これは想像だけど、マウスによる操作じゃなくてキー操作を前提としてるからなのかもしれないですね。ただ、スクロールバーは、ページの長さや位置を知る手掛かりにもなるものなので、そういう意味では常時表示されている方が便利だと思うんだけどなぁ。
 あと、ページのタイトルは、上部に常に表示されるわけじゃない。ページを下にスクロールしていくと最上段もページ送りについていくので、タイトルは見えなくなる。まぁ左側のリストに出てるから、タイトルがまったく分からなくなるわけでもない。がしかし、地味に不便な気がしなくもない。

 って、不満ばっかりじゃないか。

 いやいや。でもその他の点で、いいところもいっぱいあるんです。
 アプリの見た目が気持ちいい。フォルダはないけど、階層的に表記できるタグがあるから分類は簡単。そのタグの「管理」は、実質的にしなくていいようなもの。
 いいじゃないか。
 それに、見た目だけじゃなくて、使って気持ちいい! これ、重要。

 Mac版もiOS版も、左側がインデントしたかのように開いている。いくつかのマークダウンを表示するなどの領域のようですね。
 これも最初は戸惑ったんだけど、すぐに慣れてしまった。意外と気にならない不思議。

 といった按配でして、いい感じです。これは乗り換えるしかなかろうて。MobisleNote は使わなくなりそうだなぁ。
 今のところ、Bear にネタを溜めてるけど、アップ済みの記事は Bear に残していない。サイトにアップしたら、Evernote に移している。
 面倒といえば面倒だけど、昔からこうしてたし、意外なことに(?)あまり面倒だと思っていない。

 将来的には、マークダウンの一部を利用することもあるかもしれないけど、どうだろうな。使うかな。

 なんにしろ、こんな使用法はまったく「正しくない」ので、ご注意ください。僕は気にしてないけどね。

魔女が誰かを魔女と呼び

 同性愛を否定する発言に対しては、いろんな批判や指摘の仕方がある。
 その中には、こんなものも見られる。
 魔女狩りを例に引いて、「中世の魔女狩りでは同性愛者が含まれ云々...」といった具合に話の展開を試みる。おそらく、なんの罪もない普通の人が謂れのない糾弾に無用に晒されることの理不尽さなどを訴えたいものと思われる。
 この「魔女狩りだ」に反論して、否定的見解の持ち主さんなどは「中世の魔女狩りでは、普通の人も含まれていた」「女性も含まれていた」「同性愛者だけが標的にされたわけではないので、この件とは無関係だ」などと述べる(たいていは、他はトンチンカンでも、具体な意味に限ればここだけ反論が的を射ている。ただし「女性は〜」というくだりはやはりトンチンカンだし、「普通の人」という言い方は危うさがある)。

 魔女狩りを話題にするこういった例は、あちこちで目にする。
 内容も、だいたい似たり寄ったり。なんでどこでも同じようなやり取りになるのか、不思議なくらい似ている。

 この批判者が「中世の魔女狩り」そのものを指して問題点を指摘したかったのかどうかは知らない。おそらくそうではないし、意図が違う場合もあるのだろうとは思うけれど、言葉足らずなことが多いことが惜しまれる。
 いずれにせよ、「魔女狩りだ」とする発言は例の取り方や指摘のしかたがうまくないし、対する反論はその共通性に目をつむっているように思われる。

 僕は魔女狩りを引き合いに云々言ったことはないけれど、今回はこれを話のネタにしてみたい。

 中世の魔女狩りの実体が、どのようなものだったのか──。
 これは、とても重要なことだと思う。なぜ、それが起きたのか。それが起きた社会的な空気とは、どんなものだったのか。
 ここで注目したいそれは、具体的に「誰が」とか、きっかけそのもの、処刑された人たちの具体例だけを指すわけじゃない。経済だとかの話のみでもない。
 もちろん、学問的には、それらが重要になることも当然あるだろう。ただしその学問的に重要な要素が、問題の全体像を的確に表し得るとは限らない。
 直接的な、具体性のある発端の解明が、必ずしも重要なのではないと思うんだよね。いや、「それだけが重要なのではない」と言った方がいいのかな。大きく見た時のその性格とでもいおうか、それが空気感染する雰囲気のようなものだという点などにも注意すべきだろう。

 魔女狩りは、形を変えていくらでも現代に蘇ると思う。それも、いとも簡単に。まことにたやすく。規模の大小を問わず。なんでそう思うのかと言えば、身近な例なら「いじめ」などとも同じものだと思うからだ。
 しかも、簡単にはなくならない。悲しいかな、解決も難しいことが多い。具体性だけで容易に解決できるのなら、そうはならないはずなんだけどね。

 重要なのは、その構造のようなものじゃないかなぁ。それも、暗黙のルールのごときものがあるかのような。
 中世の以前・以後を問わず、似たような事例は枚挙に暇がない。非常に規模の大きな、国家レベルでの共通的事例も、当然ある。それはもちろん、「魔女狩り」とは呼ばれていないのだけれど。

 魔女狩りを蘇らせる方法は簡単で、しかもいくつでもある。加えて、どんなところにでも存在し得る。他のページの繰り返しでもあるけれど、それを端的に言えば「思い込む」ことだ。
 自分の信念だけを、唯一絶対のものとして信じ込む。自分だけが正しくて、他人は悪であると思い込む。自分の行動は常に善より成り、他人の行動は悪によって立つと考える。自分はただ、その信念のみを神のように信じ、その「良心」にさえ従っていればいいと確信する。その内なる規範を疑うこともまた、罪だと思い込む。
 これらすべてを、意識・無意識を問わず「思い込む」のだ。

 歪んだ信念の虜となって、その盲目ぶりに気付かず、たとえ下僕となり果てようとも一向に振り返ることもない。
 書いていて、なんだか哀れですね。
 そう思い込んでいるだけなんだけど、その人にとってその時その場では、絶対的にそれが「正しい」のだ。それに反する人は「正しくない」、つまり「人間じゃない・仲間じゃない...」ことにされてしまうのだ。
 なにやら空恐ろしい。むしろ、狂気の沙汰ですね。でもこれを、普通に、さも当たり前のようにやってのけるのだ。ごく普通の隣人が。
 思うに、狂気なんてそんなもんだろう。目に見える行動や言動としての「狂人」だけが、狂気を持ち合わせているわけじゃない。案外そのあたりに、日常の中に紛れているものだろう。

 こんなふうに言うと難しく聞こえるかもしれないし、自分は関係ないって思ってしまいがちかもしれない。だけど、誰にとっても縁遠い話じゃないと思う。
 要するに、どんな小さなことでも、自分が正しいと思っていることや自分がしていることを、誰かに否定されるのを許さない・許せない...なんてのは、この「思い込み」だってことです。
 誰にだって、こんなことはあり得ます。僕だって、覚えがあります。後から思い返して、いや違うな、そうじゃないな...って気付くこともある。

 魔女狩りといじめなどが似ていると思うのは、こういった点だ。

 学校や職場でのいじめ。陰湿だけど、いじめる側は罪の意識がない。あるわけがないとも言える。自分が絶対的に「正しい」と思い込んでいるんだから。それが覆されることは、「あり得ない」ことなのだから。
 人は、なんだかんだと理由を付ける。いじめだって、理由を付けてあれこれ言う。いじめた側は、何かと言い訳をする。たとえ自覚がなくてもね。いじめに加担していることにすら気付かない。あるいは、それが「正しい」と心底思っている。ハブられる奴は、ハブられて当然なのだ...と。しかも、それらを忘れる。
 でも、その理由は単に「私、悪くないもん」という「言い逃れ」であって、正当な理由がどこかにあるわけじゃない。なんで私は「間違っていない」のに、他人に何か言われなきゃいけないの? って。
 これって、傍から見るとなかなか滑稽です。だけど、本人は気付かない。指摘したって、ほとんど意味を成さない。

「○○さんって信じられないよねー」
「○○さんって感じ悪いよねー」
 表向きはマイルドなそんな「共感」でもって、簡単に事が始まり、しかも攻撃力を高めて持続する。
 マイルドなだけに、タチが悪い。罪の意識が希薄になるからだ。そして当人達は、嫌な奴は罰せられて当然と、ますます漠然と思い込み、信じきるようになる。しかも、終わりは見えない。
 それがいじめであり、差別であり、魔女狩りなのではないか。

 例にいじめを挙げたけれど、それに限らない。
 犯罪者の親族への執拗な嫌がらせ、被害者への止まぬ好奇のまなざし、特定の人たちへの差別、根拠のない一面的で集団的なリンチ...集団による理不尽な社会的制裁やそれに類するものは、世の中にいくらでも溢れている。
 特定の者を吊るし上げることを比喩として「魔女狩り」と言い表すことはよくあるけど、必ずしも大袈裟なことではなくて、ごく身近なものなのだ。インターネット上では、それにさらに拍車がかかることも多い。

 セクシュアルマイノリティに対する謂れのない攻撃もまた、同じ性格を持っている。
「中世の魔女狩りとは内容が違う」などと返すのは、一見的確なように錯覚するかもしれないけれど(事実、歴史としての具体性においては的外れではないのだけれど)、その共通性にまったく目が向いていないことは明白だ。目が向いていないということは、慮ることができないということだ。話を逸らす効果はあるけれど、それだけでしかなく、むしろ愚鈍なのではないだろうか。

 中世の魔女狩りでは「普通の人」が犠牲になったが、同性愛者は「普通の人」ではない...と、さらに反論する人もいるかもしれない。
 これに対する答えは、他のページでさんざん触れた通りだ。「普通の人ではない」という見解には、根拠がない。多数か少数かという、単なる数の違いでしかない。ここでは、これで充分だろう。その主張もまた、まさに誤りや思い込みにまみれている。
 好き嫌いとは別問題なのだ。好き嫌いは、個人の勝手にすればいい。気持ち悪いと思うのも結構だ。しかしそれを理由に、例えば「普通の人ではない」などと言うことのどこにも、正当性は見出せない。

 誰しも、たとえ間違っていても、場の流れには乗せられやすいものだろう。そんな時、人の思考は停止する。だけどそんな状況は、集団の中にだけ存在するわけじゃないと思う。個人の中にも、それはある。どちらも相互的で、気分に流されやすいものなのだから。
 自分は違う、そんなことはしないと思いがちだけど、人の心は盲信に弱い。その理不尽さを肝に銘じなければ、同じことは未来永劫繰り返される。
 そして愚かな人間は、それでもきっと同じことを繰り返し続ける。
 僕もその例外ではない。

 だからといって、希望がないとも思ってないけどね。

妹背の姿が意味するものは

 時々、僕には不思議に思える検索キーワードが使われていることもある。
 そのひとつが、折り紙の妹背山に関するもの。つながった二羽の折り鶴に対する「特別な意味」を知りたがっている、あるいはその有無を調べている様子が伺えるのだ。

 連鶴の妹背山の意味は、至極簡単なものだと思う。妹背という言葉は和歌にもしばしば織り込まれていて、それ自体は珍しい言葉じゃない。
 だけど、現代だからなのかどうなのか、日常的に使うことはないよなぁ。せいぜい、結婚式や披露宴の場で耳にすることがあるくらいだろう。ぜんぜん聞いたこともない! 初耳! って人がいても、不思議じゃない。特に、若い人たちにはね。

 妹背山とは、なんぞや。どこの山でござるか。

 山はひとまず置いといて、まずは妹背。
 妹背にはふたつの意味があるのだけど、そのひとつは、夫婦を意味するもの。こちらが、結婚式や披露宴で使われることがある意味ですね。妹背の契りがどうだとか、挨拶や祝辞、チャペルでの賛美歌などで夫婦を妹背と表現することは珍しくない。しかし、先ほど書いた通りだけど、そのような機会でもなければあまり使うことがないし、またそんな時なら必ず聞くわけでもなく、あまり馴染みはないかもしれませんね。
 もうひとつの意味は、異性の兄弟姉妹を表す。つまり兄と妹、または姉と弟のことだ。

 そんなわけで、向かい合うふたつの山を、夫婦兄妹になぞらえて、妹背山と呼んだりする。単に象徴的にそう呼ぶこともあれば、一方は妹山、もう一方は背山と名付けられていて、あわせて妹背山と呼ぶこともある。こういった山は、すぐそばに並んでいることもあれば、川などを隔てて向かい合っていることもある。
 いずれにせよ、そうした二つの山を、夫婦兄妹に見立てるなどして「妹背山」と呼んだわけですね。
 実例として、妹背山として知られる山には、奈良の吉野川を挟む妹山・背山や、和歌山の紀ノ川両岸に立つふたつの山などがある。

 といった具合で、妹背を平たく言えば夫婦のことで、そのように見立てた山が妹背山だ。
 連鶴の妹背山は、そうした見立てを二羽の折り鶴に移し替えた(映し取った)ものなんですね。たぶん。
 そんなわけで、左右紅白で色違いの妹背山を折るとよりおめでたい感じになるのでして、だから二色の妹背山を折りたい! でもどうやったらいいのかよくわかんない...なんて人も、相当数いるのです。たぶん。

 ここまでは、妹背山の純粋な意味の話。
 で、「特別な意味」とはなんぞや。

 もともとそんな意味は何ひとつ含まれていないのだけど、二羽の鶴に、セクシュアリティを超えた意味を求める人もいるみたいなんだよね。「求める」という言い方は、正確ではないかもしれないけれど。
 要するに、妹背山は、ゲイやレズビアンを表現し得ないのか...といったような。あるいはもっとストレートに、それを意味しないのか...と。
 繰り返すが、もともとそんな意味は、露ほどすらないのだ。ないったらないのだ。

 でもね、後世の人が、直接的な「妹背」を現すのではなくて、広く「カップル」を表現するものとして使おうが何をしようが、どうでもいいようなこと、現代人の勝手にやればいいことではある。ゲイのカップルが結婚式を挙げたり披露宴を開いた時に、たとえ妹背山を飾りに使ったりなどしても、それはその人たちの自由だ(結婚に関する法的な話はともかく)。「妹背」の本来の意味にこだわる必要は、まったくないだろう。
 使いたい場所で、それにふさわしく使われるなら、そんなことにこだわることはない。
 代替としてだったり、想い出としてだったり、あるものに別の意味を込めて、あるいは個人的にある思いが込められていて、それが本来とは別の使われ方をすることは、よくあることだと思う。この場合の妹背山も、広く言えばそのひとつにすぎないだろう。広く言わなくても、自由に使えばいいと思うけどね。

 でもそこに、ある種の特別な唯一無二のごとき意味付けをしてしまうのは、いかがなものかと思う。それが望まれているかどうかはわからないけど、同性カップルをこそ現すんだとか、もっと限定的にそれのみを象徴するかのように。
 レインボーを LGBT の象徴的なマークのひとつとして使うのは勝手だけど、レインボーはそれのみを表すものではないし、それのみを意味するものだと主張するのは行き過ぎだろう。妹背山もまた、然り。

 堅く元の意味にこだわる必要はないと思うけど、それを別の意味のみに限定するような象徴としてしまったのでは、おかしな縛りや硬さが生まれてしまいかねない。そうなったら、ちょっと悲しい。
 そうした意味にこだわるのではなくて、それに見合う形であれば、自由に使えばいいんじゃないかなぁ。

 だから、そういう意味では、妹背山についてのセクシュアリティ的な側面を調べること自体、無駄だし、必要ないことなのかもしれませんね。

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