若き法師の先達は

 パンダが随分大きくなった。無事に育っているようで、喜ばしいことである。

 喜ばしいことなのだが、では僕が強い、あるいはそれなりの強さの興味・関心をパンダに対して持っているかといえば、そうでもない。さりとて、興味がないわけでもない。
 パンダはかわいいとは思うのだが、どこか醒めたようなところがある。なぜだろう。わからない。わからないが、多方面で上野のパンダだけをことさらに取り上げて大変賑やかしくて、その影響もいくらかはありそうだ。まわりが騒ぎすぎてると、かえって萎えてくるような。
 好きか嫌いかと問われればやはり好きだしかわいくてたまらないんだけれど、かといって、例えば「パンダのためだけにでも動物園へ出掛けよう」という気にはならない。どのみちパンダのいる動物園はいずれも遠いから、簡単に行けるものでもないが。

 そんな僕でも、上野動物園へ足を運んだことはある。
 動物は全般的に、好きと言っていい。動物園や水族館には、一人でも平気で行く。行っちゃう。行けちゃう。
 以前 Twitter などで、「ぼっち検定」のようなものが幾通りか流行り病のようにどんぶらこどんぶらこしていたことがあるが、僕はかなりの「高得点」を叩き出すはずだ。一人じゃなきゃ嫌なわけでもないけれど、友人などとはなかなか時間も合わないし、まぁたいていは一人で充分なのだ。
 ただ、一人になりたい時だってあるのは当然のこととして、時間の合う人がいた頃は、時々誘って出掛けたりもしていたものだ。今は、ほぼもっぱら一人である。

 話を戻して、上野。

 もちろんというべきか、1番の目的はパンダではなかった。上野で見たい動物を順に並べるとしたら、パンダは2番目といったところ。
 では、1番目は何か。オカピである。
 オカピはその昔、幻の動物とも言われた不思議な見てくれの動物だ。一見すると馬のようで、四肢にはご丁寧に縞模様まであるので(特に、お尻から後ろ脚にかけてがよく目立つ)、シマウマの仲間だなんて勘違いされることもある。実際、されていたのだが。
 しかし、そこかしこにキリンと同じ特徴を備える。特に、顔まわりや舌、脚先(蹄)などが特徴的ではないかと思う。まぁ、キリンの仲間だから、そういうものだ。しかも、キリンよりもキリンの祖先に近いといわれているので、さもありなん。そういう意味では、オカピがキリンに似ているのではなくて、キリンがオカピに似ているというべきかもしれないが、今ここではどっちだっていい。
 たかが動物園と笑われそうだが、オカピとの面会には感動すら覚えた。
 何より、その大きさに驚いた。知識として知ってはいても、こうした想像力の乏しい僕のことだ。いや、想像力というよりも、「実感」とでも言うべきか。目の当たりにしてみると、想像を超えて大きいのだ。やはり、実物にはかなわない。

 さて、そんな上野のパンダといえば、S津くんを思い出す。
 S津くんは、かつて一緒に働いていた大学生の男のコだ。高校卒業後、すぐにバイトを始めた若い子で、入社当初はとても初々しく、またウブでもあった。いくらか「影のようなもの」も合わせ持っていたが。
その「影」の意味は後年知ることになるのだけれど、ここでは割愛する。

 ある時、用事があって東京まで出向いたS津くん。広島に帰ってから、僕にこう言ったのだ。
「パンダ、いませんでした」
 ええ、それはそうでしょうね。
 上野にはパンダがいない時期がおよそ3年ほどあったが、そのいずれかの冬だったと記憶している。それと知らぬまま、いない時を狙ったように上野に行き、現場で初めて事実を知る。そんなS津くんは、確かに少々せっかちな部分がある。そして、世相にもやや疎い。
 事情を説明してあげると、「あちゃー」「知らなかったー」としきりに言っていた。

 しかし、話はこれで終わらない。

 早とちりなS津くんがひとしきり残念がった後で、こう続けたのだ。
「上野動物園って、キリンがいないんですね」
 S津くんが東京まで来たついでにと上野動物園へ足を運んだのは、キリンを見たかったからでもある。最も会いたかったであろうキリンに会えなかっただけならまだしも、キリンが「いない」だと?
 いや、ちょっと待ってくれ。そんなわけはない。
「いるよ」と答えると、彼は否定するのだ。「いませんでしたよ?」と。何度「いる」と言っても、「え? いませんでしたよ?」を繰り返す。
 そこでふと、彼の日頃の言動に思い当たる。
 まさか、半分しかまわっていないんじゃあなかろうか...。S津くんなら、あり得る話だ。そう思って、僕は切り出した。
「もしかして、全部まわらんかったんじゃない?」
 しかし彼は、当然のように否定する。
「いや、全部見てまわりましたよ?」
「森みたいなところの急な坂道、降りた?」
「え? なんですか、それ」
 やっぱりだ。やっぱりこのコ、半分しかまわってない。
 僕は更に、質問を重ねていく。
「大きな池のそば、通った?」
「え? 池なんて、ありませんでしたよ」
「オカピ、見とらんじゃろ」
「オカピ? なんですか、それ」
「サンショウウオとか、見んかったじゃろ」
「そんなん、いましたっけ」
「サイもカバもシマウマも、爬虫類とか両生類も見とらんじゃろ」
「そんなのいるんですか? 見てませんよ?」
 もはや、尋問である。
 行ったことのある人ならわかると思うが、上野動物園はエリアが大きくふたつに分かれている。東園と西園である。
 JR上野駅から近いのは、表門のある東園だ。入ってすぐの右手に、パンダがいる。その他、ゴリラやトラなどの猛禽類、ゾウ、ホッキョクグマにアザラシ、日本の動物の他、鳥類の多くが見られる。たしか猿山があるのも、東園。
 一方の西園には、2か所の出入り口がある。こちらはアフリカはサバンナに生息する動物の多くや、その他のサルの仲間、鳥類の一部、爬虫類、両生類などに会うことができる。
 このふたつのエリアを隔てているのが「森」で、それらをつなぐのが坂道およびモノレールなのである。
 西園エリアをクリアしなかったであろうS津くんのために、上野動物園がどうなっているのか、おおよそ説明する。
「上野はエリアがふたつに分かれてて、段違いみたいになってんの」「途中、東園の奥にモノレールがあって、その横に坂道があって、降りたら大きい池があるんよ」「池をぐるっとまわったら、その先にカバとかシマウマと並んで、キリンもおるよ」「ほんで、キリンの隣にオカピがおるんよ」
 そんな感じで。オカピがどんな動物なのかも、ついでに教えておいた。「たいていの人はパンダが一番に見たいかも知れんけど、僕はオカピが一番に見たい」という一言も添えて。
 上野に行ってオカピを見ないとか、なんてもったいない。しかも、パンダに会えなかった上に、S津くんの一番の目的のキリンも見てないなんて! 何をしに行ったのであろうか。
 あちゃー、しまったー...を繰り返すS津くん。
 まぁ仕方がない。笑いながらも、ちょっとくらいはかわいそうにも思えてくる。だが、同情までは感じない。

 しかしさらに、衝撃の発言が待っていた。

「広島に動物園って、ありませんよねー」
 は? あるよ?
「え! 動物園、あるんですか!?」
 安佐動物公園を知らんのかー! あと、福山にもあるんだよ。
「え、嘘でしょ? あったんですか!?」
 おまえはそれでも、広島県人かー!
 あとね、安佐動物園に、キリンもおるよ。
「え? キリン、広島にもいるんですか!?」
 はい、ご愁傷さまでございます。



*福山市立動物園にもいます。

まわりまわってカレンダー

 予定やスケジュールは、どうやって管理しているだろうか。
 紙のスケジュール帳を使うか。スマホなどのアプリを利用するか。アプリで管理するにも、カレンダー、手帳、リマインダーなどの中からひとつだけ選ぶのか。あるいは、いくつかのアプリを組み合わせるのか。
 それぞれに、利点と欠点がある。さらに人によって、使い方も違えば、必要な機能やスペースも違う。自分に合ったものを選ぶことができれば、それでいいのだろう。

 僕はといえば、昔は紙の手帳を使っていた。今は、アプリのみ。
 紙の手帳はカレンダー型の小さいものを使っていて、さほど困ることもなかった。だからアプリに乗り換えた時も、まず使いはじめたのはカレンダー型であった。
 リマインダーなども試してみたことがあるけれど、僕には不要なもののようだ。カレンダー型のアプリにもリマインダー機能を備えたものがたくさんあるが、こうした通知機能などは使うことがない。

 そんな具合で使い方はほぼ固定されているのだが、ここ最近、そのスケジュール系アプリ探しに奔走していた。
 なぜかといえば、愛用アプリが使えなくなったからだ。いつもの(?)iOS アップグレードによる非対応・更新絶望アプリの誕生である。

 予定の管理を アプリにしてから、長い間 aramas を使ってきた(スタート時は別のアプリだったが、それは過渡期の話)。
 機能はてんこ盛りになっておらず、ヘビーな使い方をしたい向きには物足りないかもしれない。しかし、僕には必要充分であった。見た目のシンプルさにも、高い好感度。
 カレンダーの「日」をタップすると、個別にタイムスケジュールが開く。もう一度タップすると、閉じる。これが、地味に嬉しい。地味ながらも、重要。
 上下のフリックで年を前後に行き来できるのも、大変便利であった。前年の同月は...とか、次年の同月に...なんて話になることもあって、フリックだけで移動できるのは、なかなかに心地よいのだ。
 今や当然のような予定の履歴からの再入力もできたし、まさに必要充分といったところ。
 ただひとつ、デザインまわりのブラッシュアップなどはされていないだけあって、多少古くささは感じる。それでも、不満というほどではない。
 僕にとってはもはや手放せないアプリであって、まだまだ末長く使う気でいた。しかし、使えなくなってしまったんですねぇ。

 実は aramas 以外に、Lifebear も使っている。
 Lifebear に乗り換えることも考えはした。しかし Lifebear は、別の目的で使っている。
 印刷物を作ることがあるのだが、この予定は通常の予定とは別に管理したい。一緒にすると、かえってわかりにくくなるのだ。何でもかんでも一緒にしなくても、都合が悪いなら別々でいい。
 Lifebear をこのままサブとして使うか、メインに変更するか、それが問題となる。僕の出した答は「できれば Lifebear はそのまま使う。もしいいものが見つからなかったら Lifebear をメインに変更」であった。
 Lifebear は好きだけれど、aramas の代わりにはなれないのであった。

 aramas にたどり着くまでがまた一苦労だったのだが、それはともかく、今現在。
 同じ使い勝手のアプリを見つけられたかといえば、見つけられていない。おそらくないのではないかと思われる。
 しかし、カスタマイズで同様の動作、妥協できる使い勝手や見た目を実現できるアプリは見つけた。フリック移動は絶望的だとしても、タップ時の動作以外の希望にも、おおよそ応えてくれた。

「さいすけ2」である。

 僕がスケジュールアプリに求めるもの(一部)。
・1段1週7日で月表示のカレンダー型
・月曜始まり
・横スクロール
・タイムスケジュール表示あり
・曜日などは、日本語表示
・iOS のカレンダーと同期
・平日と土日祝の表示差異あり(土日祝は色違いなど)
・「今日」の識別あり(カラー表示など)

 不要な情報、表示、機能など
・六曜(非表示に設定できればOK)
・リマインダー
・奇抜なカラーやデザイン

 さいすけ2は、カスタム機能がてんこ盛りすぎる。悪く言えば、設定が猥雑でわかりにくい部分がある。けれどそのおかげで、自分好みにいじくりまわせたのだ。色はもちろん、動作についてもかなりの部分で応えてくれた。
 すべてに満足できているわけではないけれど、少しの妥協で納得できるところは、妥協した。だいたいよければ、それでもいい。
 きっとこれ以上は望めないだろうなぁ。

 今後の改修に、ちょっとだけ期待。

悲しみよ悲しみに

 悲しみというものは、簡単に語り尽くせる気がしない。
 種類もいろいろなら程度も様々で、同じような状況でもその感じ方が違い、受け止め方が違い、それに対する受け手の表し方も考え方も、その他諸々千差万別。
 しかしその一方で、とかく消すだの乗り越えるだのと言われるものではないだろうか。悲しみに対して、何かしらの「対処法」のようなものが、あれこれと。
 こうしたものの多くは、つまるところ悲しみは晴らすべきもの、振り払うべきものという意識や前提があるように思われる。言い換えるなら、悲しみは良くないものだから...ということになるのだろうか。

 だからだろう、悲しみに対しての対処法というものが、人それぞれにいろいろとある。実際には「対処法」というほど大袈裟なものではないかもしれないけれど、要するに悲しい時にすることやしたいことだ。悲しい時はコレをすべきだ、なんて言う人もいる。
 気を紛らわせるために。気分転換のために。沈み込まないために。理由は何でもいいけれど、悲しさから逃れるなり離れるなり、抜け出すなりするために。
 例えば、楽しい・明るい音楽を聴くとか、自分の好きなことに没頭するとか、好きな場所に行くとか、案外そうした簡単なことだ。思い当たるものがある人は、多いのではないだろうか。

 僕はといえば、悲しい時にはコレだ! ってものがない。悲しい気持ちをどうにかするために、気分を変えるなどするためにすること、したいこと、あるいはしてきたことなどが。
 まったくしたことがないわけでもないんだけど、なくていいとも思っている。
 あ、でも、どこか眺めのいい景色の場所に行くのなんか、ちょっと魅力的。実際に行ったことはない。行ったことはないけど、魅力は感じる。そこに惹かれるものがあるのには、理由がある。それは、以下読み進めてもらえばおわかりいただけると思う。

 悲しみって、無理に紛らわせたり、変える必要のないものないんじゃないかと思うんだよね。
 必要なのは、「変えること」じゃなくて、「浸ること」じゃないかと。

 浸ること。
 悲しみを充分に、深くしっかりと受け止めることは、とても大切なことなのではないかと思っている。
 ただしそれは、閉じこもることとは違う。

 受け止めきれない時はどうするの? とか言われそうだけれど、言うなれば「どうもしない」のだ。どうにもできないとも言うが。
 まぁ、どうにもできないが故に、知らず閉じこもってしまうことはあるかもしれないけれど、そういう時は何かで気分を変えようという気力さえ湧いてこない。
 更に付け足せば、受け止めきれないような悲しさを、例えばプレイヤーの音楽で簡単に紛らわせられるとも思わない。少なくとも僕には、有効手段にならない。

 仮に音楽を流すとしたら、それは「明るく楽しい気分が高揚する」ものじゃない。むしろその逆で、静かな音楽であったり、どこか物悲しい音楽であったりする。消すのでも、蓋をするのでもない。少々気分を落ち着かせるくらいの、あるいは悲しみに浸るための助けになるくらいのものなのだ。
 自分でちゃんと浸ることができたなら、何でもないようなことがきっかけで、フイと浮上できたりする。
 その浮上までにどれだけの時間がかかるかは、時によりけり。それでいいと思うんだよね。だけど、そうじゃなきゃダメだなんてことは、思わない。人それぞれに、それぞれのやり方、考え方があっていい。
 ただ、悲しみを充分に受け入れないままだと、どこかで無理をしてしまっているかもしれないっていう心配はある。多かれ少なかれ、悲しみに浸ることは大切なんじゃないかな。

 悲しみに対する感覚や、反応の仕方の印象なんかもまた、人によって違う。泣かないことを悪いことのように言う人だっている。
 でもね、目に見えて「泣かない」から、「泣いていない」「悲しみを感じていない」ってことにはならないんだよね。

 本当に悲しい時、案外涙なんか出ない。

 涙が出るのは、本当の悲しさじゃない...なんて言うつもりはない。僕はそんなことも思わない。言えるはずもない。
 ただ、本当に悲しい時、涙が出ないことだってあるということは言っておきたい。深い悲しみを覚えた時、恐ろしく静かで涼やかな、諦観とも言えるような表現し難い感覚になることがあるのだ。
 でもこの感覚は、わかってもらえなくても仕方がない気もする。

 これに限らないけど、悲しみって、他人からはなかなかわかり辛い感覚でもあるのかもしれない。結局のところ「体験したことがないことはわからない」とでもいうような。
 共感できることもたくさんあるだろうけど、それでもね。特に、「普通の・正常な」感覚からするとね。

「あの空を覚えてる」という映画がある。原作を、ある意味大胆にリメイクしたようなもの。
 ここに「普通の感覚では理解できない」ような父親が出てくる。
 最愛の娘を事故で亡くし、毎日がどこか重苦しい空気に包まれる。妻も息子も大切に思っているのに、家族を守るための行動がいつまでも取れずにいる。ある時、とても大切にしている写真を入れた額を、机に叩きつけて壊し、むせぶように泣く。そんな父親。
 どこかで「あんな父親、あり得ない」「父親があんなことをするなんて、信じられない」なんて評価を見たことがある。
 確かに一見すると、ダメ夫でダメ父。けれど僕は、共感を覚えた。ダメ夫・ダメ父ぶりに共感したわけではない。
 どうしようもない悲しさに捕らわれた時、外から見れば信じられないような行動や態度を取ることだってある。大切にしているものを壊してしまったり、大切な家族を守ろうとしない。そんな「異常な」言動。
 それを、そんな悲しさを知らない人が「正常の範囲内」でできる「安易な想像」でもって「あんな父親、あり得ない」なんて言うのを聞いても、僕は今ひとつ共感できない。ああ、この人はそういう悲しみを知らないんだろうな...と思うのだ。

 もうひとつ。スターダスト・レビューの「木蘭の涙」を。
 元はアップテンポ気味で、明るい調子と言っていい。とても好きな曲のひとつだ。この曲には、アコースティックバージョンもある。こちらはややスローで、しみじみしている。
 元のアップテンポな曲調が好きという人は、当然いるだろう。その方が「悲しみを乗り越える感じがしていい」といった理由で。
 もちろんその感じ方が、悪いわけじゃない。それはそれで、いいのだ。ここは否定すべきところじゃないと思う。こうした自分の感じ方は、大切にして欲しい。
 だが僕は、アコースティック版の方がとてもいいと感じる。アップテンポ版が嫌いなんじゃなくて、どっちの方がより好きかってくらいのことだけど、アコースティック版の方により強い共感をいだく。
 僕の悲しみの捉え方が既に書いた通りなら、さもありなん...とわかっていただけるかもしれない。

 こういうことって、なかなか実体験がないとわかりにくいだろうなと思う。だらだらと書いてきたけれど、そういう想像もまた、同時に持っている。
 どんな流れであったかは忘れたが、昔、知人ともこんな話をしたことがある。彼は「そんな悲しみを感じたことがないからわからない」と素直に言っていた。けれどそれを、不思議だとも思わない。悪いとも思わない。
 きっと、そういうもの。

自覚する人、しない人

 過去の検索キーワードに、「ホモだと自覚しない人」とか「ホモとしての自覚」というものがある。「○○な人は同性愛者か」とか、そんなキーワードもある。
 何を知りたかったのか、正確にはわからない。わからないけれど、関連として思うことはいろいろとあるので、その一部を書いてみよう。
 ここでは主に「他人からの受け取り方・感じ方」の話をしますね。自分自身が、自分のセクシュアリティをどう捉えているか...といった話を絡めながら、しかしそれを主題にはしません。自分じゃなくて、他人がどうかって話(本人の自覚については、「自覚したのはいつの日か」「自分を知る怖さ」などでも触れています)。

 ゲイみたいに振る舞う。ゲイのように見える行動を取る──。
 それが本当にゲイの人に共通する言動かどうかはともかく、受け取る側が「そう見てしまう」振る舞いが、何かしらある(その意識や受け取りが、「正当」なものかどうかはともかく)。
 でも本人は、自分はゲイじゃないと言う。

 とりあえず「本当はどうなのか」は横に置くとして、ではそうした人はゲイなんだろうか。必ずゲイだと言えるのだろうか。
 自分はゲイじゃないという人であっても、まわりから「何らかの理由でゲイのように見えてしまう人」であれば、みんなゲイなんだろうか。
 結論めいたことを言えば、ゲイかもしれないけれど、ゲイだと断定はできないだろう。「ゲイのように見える人=ゲイ」ではないのだ。
 
 当の本人の意識として言えば、「ゲイだけど、ゲイだと認めない」のか「ゲイじゃないから、ゲイだと言わない」のか。
 さて、どちらだろう。そうした疑問はある。
 しかし、その疑問がどうであれ、たとえ傍から見るとゲイのように見えるとしても、それがどれほどゲイのような振る舞いであったとしても、ゲイだとは限らない。そんな決め付けはできない。断定なんてできないし、ゲイでなかったとしても何の不思議もない。

 素直に受け取れば当然わかるであろう事柄だけど、自分の思い込みを「唯一の真実」のように勘違いする人は少なくない。ほんでそうした人たちは、「ゲイでないはずがない」などと言ってしまう。
 そんな現実もあるから、もう少し続けます。

 まわりからの見た目や印象は、当たっている場合もあればそうでない場合もあるのは当然で、それだけで断定なんてできるはずがない。それは、「オカマのような人」だとか「女っぽい人」「女装する人」「オネエな人」など、よくある安易な指摘や思い込みすべてに当てはまる。
 類似する例を挙げれば、
・同性とキスしたがる人
・同性とハグしたがる人
・同性と手をつなぎたがる人
・同性と遊びたがる人
・股間のムスコさんを見たがる男
・オネエ言葉を使う男
 などなどまだまだ、いろいろありますね(ゲイを例にしてはいるけど、レズビアンとかにしたって同じこと)。また、「したがる人」と書きはしたけれど、「したことがある人」なども同様だ。
 これらはすべて根拠にはならないし、できない。
 そんなことだけで疑いなく判断できると思っている人は、改めた方がいい。100%間違いだとは言わないが、ただそれだけで断定なんてできるもんじゃない。
 更に言えば、安易な決め付けが、不幸な結果を招くことだってある。そうなってからでは遅い(これについては、あとで)。

 少し脱線して、先にチラと触れておいた自分のセクシュアリティに気付いていない場合の本人の意識としては、どうだろう。
 ゲイのように見えて、実際ゲイなんだけど、本人は自分のことをゲイだとはまったく思っていないことだってある。または、ゲイのようには見えなくても、実際はゲイで、しかし自分がゲイだとは思っていない...そんな場合だってある。だから当然、否定する。
 もちろん、そういう場合があるというだけで、それがすべてではない。
 ついでに付け加えれば、自分のセクシュアリティがよくわからないまま(大雑把にでも認識していないまま)だから、ゲイじゃないだろうと漠然と思っていて、とりあえず否定しているだけってこともあるかもしれない。
 何らかの理由で、自分がゲイなんだと認めたくなくて、認めない場合もある。認めるのが怖いとか、認めるのは悪いことなんじゃないかと思ってしまっていたりとか。
 理由や状況はいろいろあるけれど、本人が気付いてない・本質的にそうだと思っていないから、認めないことがある。それは確かにある。だから、本人の否定はあてにならない場合があることも事実だ。
 これを根拠のように「そうした人たちはゲイだ」などと言う人がいるかもしれない。だけどそれでも、それは根拠にならないし、できない。まわりの思い込みや安易な判断の方が、むしろもっとあてにならない。
 外見的な印象ほど不確実なものはない。コミュニケーションにおいては、大切なものではあるけれども。
 セクシュアリティは、外見的なものだけじゃないしね。セクシュアリティを表すもののうち、外見に依存し得るのはひとつだけ(それでも絶対的ではなく、曖昧さが残る)。残りのふたつは、目に見えない。
 その否定が、意識的か無意識的かはともかく、また本人の認識がどうであれ、他人が軽くあれこれ判断できるものじゃない。いずれにしても、本人がどうだろうと、他人がどうだろうと、この点には注意すべきだろう。

 あれこれ書いているけれど、結局のところ、他人にどう見えようが、当の本人のセクシュアリティとはさほど関係がないと思う。それだけのことだ。
 ただ、悲しいかな、「それだけのこと」がわからない人が少なくないという現実がある。
 外見的なものが直結する人も確かにいるけれど、そうじゃない人の方が多いと思っておいた方がいい。不幸な結果に繋がってからでは、遅い。

 ヤバイことって、いっぱいある。

 ゲイのように見える何か、感じる何かを、すべてゲイに直結させる人がいる。それどころか、「ゲイなの?」と聞いてみるだけならまだしも、「オマエはゲイだ!」と決めつけたりね。
 もしかしたら、偏見の強い人ほど、その傾向は強いかもしれない。
 しかし先に挙げたようないずれの行為も、既に書いた通り、ゲイと「イコール」で結ぶことができるわけじゃない。
 繰り返しになるけど、改めて言っておこう。
 この意味に、疑問を持つ人もいるかもしれない。「イコール」で結べないのがなぜなのかがわからない...という人も。
 物事が「A=B」のように簡潔にただひとつのものと結びつくとは限らないことは、自明のことだ。セクシュアリティもまたそうだし、ここで挙げたような例をすべて「ゲイの証拠」とするのは、あまりにも強引で軽率だ。
 それがわからないとしたら...その人には、かなり問題があるかと。

 自覚しないゲイがいても、おかしくない。
 でもだからといって、ゲイっぽいとか女っぽい男だとか、そんなことではセクシュアリティを判断できない。さらに、セクシュアリティを表現するものは3つあるとしても、実際にはそれほど単純なものじゃない。

 細かいことを言えば、例えばバイの可能性だってあるよね。どっち寄りかはともかく。同性に興味があるって意味ではゲイと共通点もあるけど、ゲイとも違う。DIG の場合もある。この場合が、最もヤバイ気がする。
 相手がどんなセクシュアリティであっても、不用意な一言が、その人を深く傷付けるかもしれない。安易な決めつけや判断は、想像する以上に危ないんじゃないかな。
 蛇足ながら付け加えておけば、「そう見える」のも、客観ではなく、主観なんだしね。しかもそれは、歪んだ主観かもしれない。

道をはずれてのんびりと

 続けて、ゲームの話。

 のんびりやってるとは、過去に書いた通り。じゃ、その実情って、どんな感じなの?
 そのあたりのことを書いてみよう。
 無課金で、早く強くなりたい人、サクサク効率よく進めたい人には、何の参考にもなりません。ええ、なりませんよ、まったく。

 今、一番マトモにやってるワン○クを例にするとしよう。

「ひたすらに周回」

 よく言われることのようなんだけど、これはワ○タクの基本である。さすがにここは、嫌でもそうなる。と思う。
 周回しなきゃ、レベルが上がらない。レベルが上がらなきゃ、進化できない。進化できなきゃ、進化の餌ができない。
 そんな感じなので、周回しないと何も進まないのだ。

 とはいえ僕自身については、僕のやることなので、「適当にまわして一応なんとなくそうなってる」程度のことだけど。他の部分も含めてわりと気ままにやってるし、周回自体ものんびりしたものなのだ。
 それはつまり、オート周回の回数のことでもある。そもそもオート周回ができなかったら、きっと僕はとっくにやめてる。続かない。そんな気がする。
 んで、オート。
 初期状態のままだと、オート周回ができる回数は、最大200。いつものやり方だと、僕は100前後しかオートでまわさない。時々すべて使い切ることもあるけど、日常的には100前後。
 普通の人(?)は、200使い切るようですけどね。ただし、1日に回復するのは100だけなので、使い切ると補充しない限り、100回しか自動でまわせない。だったら同じじゃないか...というのは、僕の心の声。本当に同じかどうかはともかく。
 他の人からすれば、「なにやってんの?」などと言われそうな様である。

 ただ、サ○ナなんかと違ってレベル上げ自体が楽で、その上オートもあるので、やりやすくはある。所持ヒーローの違いも、かなり影響してそうだなぁ。
 条件的にはさほど変わらない感じがありながらも、実際の加減はまったく違う。僕にとっては。

 さて、話を先に進めよう。
 どうすんだよ!? な筆頭、クリスタルの使い方。
「クリスタルはガチャに使うな」とは、ワ○タクにおける王道である。たぶん。
 じゃあ何に使うのでござるか。周回がキモの周回命なので、ガチャじゃなくて、エネルギー獲得に使うわけですね。ほんで、ドクロでもどこか好きなところでも、ブンまわせ...と。
 でも僕は、大半をガチャに使ってる。貯まったらすぐに使うわけでもないんだけど、ほとんどがガチャに消えていくのだ。

 ゆっくりのんびりやってるからできることなのかもしれないけれど、エネルギーに使わなくてもあまり困らない。たまにガッツリまわすこともあるので、そんな時だけチャージしてやる。
 それで充分なのだ。

 1日の動き。

・適当で不真面目なレベル上げ
 ★3以上のヒーローを中心に6〜16体ばかり最大レベルに上げればおおよそ満足している。倍以上の差があるけど、それはその日その日の事情なので。大人の事情。
 周回命なのに、ここで既にほどほど。
 レベル上げは、クリスタル獲得のためでもある。ランクを上げるつもりのない餌も、ほぼ必ずレベルを上げてから使う(ただしヒーローが溜まりすぎた時などは、Lv1のまま餌にすることもある)。

・イベントはできるだけ参加
 ここでエネルギーやらクリスタルやらゴールドやら、戴けるものはできるだけ戴いておく。評価も付けて、もらえるものをもらっておく。

・古い廃坑も適当に
 1日まわせるだけまわすが、鍵はあまり補充しない。のんびり。

・古代の砦は大人の事情
 1日10回はまわすけど、それ以上はその日の事情に合わせて。
 強化石が落ちるから、ある程度はまわす。だけど、時間を注ぎ込むこともしない。そんな感じ。

・試練の巣は回数だけ
 3回やっとく。結果はあまり気にしていない。どのみちまだまだ育成中なのだ。

・対戦しない名誉の戦場
 やったりやらなかったり。今は育てるのが優先になってる感。放置ぎみでも、おおよそ同じランクに留まってます。
 挑戦することでもらえるはずのポイントは、当然入ってこないけど。

・ええかげんなギルド戦
 そこそこに。
 基本的に、対戦相手に合わせてチームを入れ替えるのがめんどくさいので、主にそのまんまで勝てる相手とドンパチ。

・宝の塔には休み休み登る
 スキマで、少しずつ。ノーマルをのんびりと全階クリアしたら、ハードもちょろちょろと。

・週に一度は一般ヒーロー10連
 通常は月曜日に。ギルドミッションのためでもある。ここにクリスタルを投入する。迷わず。

 ガチャるなんてもったいない! とか言われそうだけど、不都合はない。
 なぜなら、そんな感じでのんびりやってたら、クリスタルが常時5,000前後は貯まってる状態になった。ゴールドは1千万超えてます。
 周に一度くらいヒーロー10連ガチャっても、困らない。たまにエネルギーに振っても、何も困らない。
 課金してもいいと思えるんだけど、とりあえず課金の必要性がそれほど見当たりません。

 装備は厳選していきたいけれど、今はそこまで手がまわらない。というか、焦って無理に集めに行かなくてもいいかな、と。
 飽きるのが先か、装備を揃えはじめるのが先か...。どっちでしょうね。

 と、こんな感じで、他のゲームでもだいたい似たり寄ったり。
 早く強くできればそれはそれで嬉しいけど、のんびりでいいんです。

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