漫筆スクラップ

頭ひとつのオロチかな②

 前回の続き。

 次は、話が少しだけ戻るツイート(時系列の「戻る」ではなく、内容的に)。


〈これは私の勝手な憶測なのですが、S田何某議員のLGBTについてのご発言の意図は、

①日本の少子化問題を解決したい
②年々膨れ上がる財政規模を懸念している
③LGBTの方々を、奇妙な活動に利用してほしくない

だと思います。
「生産性」という部分は敢えて入れる必要は無かったかなとは思いますが〉



 なんとも都合のいい解釈である。
 勝手な憶測などというレベルのものではない。アクロバティックで手前勝手な、実に都合のいい話のすり替えだ。犯罪的と言ってもいい。

 何度も言うが、「生産性」という言葉を入れようが入れまいが、同じことだ。その発想自体にも問題はあるが、たとえこの一言を削ったとしても、その人の思想が変わるわけではない。論考が、中身のあるものになるわけでもない。
 もし仮に、K林氏の憶測の通りなのであれば、そう書けば済むことだ。直接的にね。それについてのみ論じればいい。
 だがあの論考を読む限り、明らかにK林氏の憶測は、論考の主題ではない。意図を読み間違えている。論考にセクシュアルマイノリティを引いてきている時点で、その薄っぺらさが透けて見えるというものだが、やはりそれにも思い至らないようだ。
 故意かどうかは知らないが、このツイートは、主題をごまかそうとしている言葉のように感じられてしまう。ごまかしではなく、本気でそう思っているのだとしたら、はやりこれも問題あり。
 だから、犯罪的なのだ。

 ひとつずつ指摘しておこう。

 ①について(日本の少子化問題を解決したい)。
 そもそも、少子化対策に LGBT を巻き込むのがおかしい。
 少子化の問題は、LGBT とは無関係にもっと遥かに広範囲で、多岐にわたる問題だろう。それを、まるでセクシュアルマイノリティが存在しなければ解決するかのように言うのは、まったく理解できない。
 そうは言っていない...と言い訳するかもしれないが、ならば無関係の事柄を引いてこなければいい。擁護などもしなければいい。あのような見せかけの「擁護」パフォーマンスは、むしろ迷惑でしかない。
 以下省略。

 ②について(年々膨れ上がる財政規模を懸念している)。
 財政規模に対する懸念もまた、LGBT と関係しない。他に検討するべきことが...などと言うのもばかばかしくなる。関連付けること自体が、非常にナンセンスなのだ。
 諸所のことを考えれば、今後その規模はさらに膨れ上がっていくでしょうね。しかし問題の解決は、別のところに求めるべきである。昨今のあちらの様子は、解決するつもりがあるのか甚だ疑わしいが。

 ③について(LGBTの方々を、奇妙な活動に利用してほしくない)。
 S田氏は LGBT の理解者ではないし、基礎知識もないし、S田氏に援護して欲しいとも思わない。それをまるで LGBT の擁護者であるかのように書くのは、ほとんど悪意すら感じる。
 重ねて言うが、S田氏は断じて理解者ではない。実情は、まったく逆にある。擁護など、むしろ絶対お断り(正しい知識を得て認識を改めない限り)。
 奇妙な活動に利用しているのは、まさにS田氏自身であろう。自分のおかしな主張のために便利に使い、嘘ばかり並べ立てている。セクシュアルマイノリティに対してマイナスイメージや謝った認識を植え付けることこそあれど、援護になることなど何もない。

 要するに、K林氏の憶測する①②③は、いずれも論点がずれている。正確性がないし、事実も無視だ。

 次。


〈S田先生は、子供を産む人は素晴らしい!と言っていたのではなく、どちらかと言えば子供を産むことに税金を分配したいと言っていたのでは〉



 言ってない。どうすれば、そう読めるのか。繰り返しにしかならないが、そう言いたいのならば、それを主題として論じればいいだけのことなのだ。
 LGBT を引き合いに出す必要性は、完全にゼロである。
 仮に論考の失敗をひとつだけ挙げるとすれば、これは最大の失敗である。ただし、当人は以前からそういう思想であり、その主張を曲げない人物であるし、あの論考に見るべきものは何もないので、実際には「論考全体がすべて失敗」だが。

 この他にも、少子化と絡めてあれこれ言う人が後を絶たないが、絡める意味がまったくわからない。絡めてどうするの? まったく意味を成さないし、何ひとつ解決しませんが。
 LGBT と少子化を同列のように論じたりするから、本質を見失う。何が言いたいのか、わからなくなる。LGBT の存在程度では少子化には影響を与えられないし、何かしたとしても少子化対策にはならない。そんなことでは、子供は増えない。
 どこを見ているのか、疑問ばかりが湧いてくる。見るべき方向がおかしい。

 まぁ、しかしそれも、当然とも言える。あの、わけのわからなさは。
 あれは、少子化対策という大義名分を振りかざすことで、LGBT を否定しようとするものだ。
 少子化問題を論じるふりをしながら、実は少子化は主題ではなく、それを LGBT の全否定の理由に使おうとしているだけのもの。因果関係を見失っているだけでなく、事実は無視、論点はズレる、思想は歪んでいるし、人道にももとる。そして発言者は、それに気付けない。いいことはひとつもありませんね。
 その魂胆は、まことに醜いものである。頭がおかしな人にしか見えないので、そのような発言はおやめになった方がよろしいと思います。

 最後。


〈議会での発言は言葉足らずであったと反省しております。
私の周りには小学生の頃から同性愛者の友達がおり、同性愛者の方々に向けての差別が日本にあるなんて考えたこともなく、発言してしまいました。
そして趣味という多義語を使ってしまったことも悔いています。
よく議論する必要がありますね〉



 何をどう突っ込もうかと、頭を抱えてしまう。言うことが酷すぎて、二の句が継げない有り様だ。

 K林氏が、議会において「同性愛は嗜好だ」「障害かどうかわからない」などなど、S田氏とまさに同じ思考による発言を延々とぶってみせたのだが、これは、それへの言い訳ツイートである。
 言い訳ブログがまたぶっ飛んでいるのだが、ここでは触れない。

 完全に錯誤である。

 言葉足らずかどうかとか、そういう問題ではないのだ。
 このツイートに限って言えば、的外れな反省に始まり、想像力の欠如(私の周りには〜)、無意識の差別と無知(同性愛者の方々に向けての差別が日本にあるなんて考えたこともなく〜)、基礎知識の決定的な不足と著しい認識の歪み(趣味という多義語を〜)等々、まるで錯誤と無知のデパートである。
 単に無理解なのだ。これらの事情すべてにおいて。
 以下、省略。



 最後に、上記の発言にも関係する「歴史」とやらの話を少し書いておきたい。
 このところ「同性愛者に対する差別は日本にはない」などと言ってのける人を、度々見掛ける。それらは想像力の欠如や無知の問題で、これ自体は、昔からちょくちょく目にすることがあった。
 しかしこの頃は、これに続けて、あるいはその前段階として、意味のわからない発言がくることが少なくない。

 例えば、歴史的事実を見誤った「中世からの伝統として社会が受け入れてきたから、日本には差別はない」といった、意味のわからないもの。一応指摘しておくが、完全な誤りである。加えて、そもそも江戸以前の話を引いてきても意味がない。
 壮大な妄想を、まるで歴史に基づいて論理立てて表明していますとでも言いたげに述べ立てる。まったくお笑いである。

 ここでは思うことの詳細は省くが、僕自身は、擁護においても否定においても、江戸時代やそれ以前の実情を引いてくるのは、あまり有意味だと感じない。
 昔の日本はどうであったかを知るのは、悪くない。歴史を知ることは、大切なことではある。昔はそうであったが、翻って今はどうか...という視点も、あっていいだろう。
 しかし、「だから今でも...」というようなつなぎを持たせることには、疑問を持つ。特に、S田氏やK林氏のような論調においては、疑問は大きくなる。
 昔はどうであれ、今現在どうなのかが最も問題なのだ。それを見誤っては、元も子もない。現実を無視する態度は、怠慢といって差し支えないだろう。
 こうした人たちは、やはり有害である。

頭ひとつのオロチかな①

 先のS田氏の月刊誌への寄稿に関連する話、そこから派生する話は2回でやめようと思っていたのだが、もう少し書くことにした。
 その後のK林何某氏のツイートがとてつもなくおもしろすぎるので、これをこのまま流してしまうのはあまりに惜しい(褒めてない)。宗教と化した超個人的思想世界の無知なマスターベーション思考を全体的・一般的常識のように語る典型例として、非常によくできているのだ。
 他の話、セクシュアリティ以外の話はよそに置いておくとして。
 この二人は、セクシュアリティに関して、思想的に非常によく似ている。性格はかなり違うようだが、これに関する言動で、自己愛的にマスターベーションに興じる様は、コピペしたかのような同質性がある。
 そういう意味では、ぶっちゃけ前回の繰り返しである。

 関連で、某幹部などの発言も非常におもしろいことになっている(やっぱり褒めてない)が、ここではあまり触れずにおく。

 少し期間が開いてしまったネタである点は、ご了承いただきたく。もっとも、たとえ時間が経っても当人らの意識が変化しているわけではないので、ネタとして古ぼけることもない。
 また、あれこれ挙げて噛み付いてみたので、またまた長くなる。今回も2回に分けることにする。

 引用しながらコメントするつもりではあるけれど、指摘できる点はおおよそ共通している。
 いくら言葉を替えても、高尚そうにしていても、根は同じ。

 いくつかの点をまとめると、

・基礎的な認識、知識が欠けている
・事実に基づかない発言である
・LGBT と少子化には本質的に因果関係がないが、まったく考慮されていない
・S田氏の論考で最も問題とされるべきは、優生思想である
・事実のすり替えが行われている
・論点のすり替えが行われている
・私的な知人のごく限られた話を、全体の話に強引に転換している

 等々、大変お粗末である。

 では具体例を見てみよう。
 まず、ひとつ(いつものように、名前は英数を含むものに変換いたします)。


〈S田何某先生のLGBTについてのご発言、確かに「生産性」という言葉の響きはきつかったかもしれませんが、言葉だけ切り取らずに文脈を見ると、あの「生産性」は「子供を産めるかどうか」という意味だとわかります。
言葉を文脈から切り取り、感情的になり過ぎてはいけませんね〉



 もう、笑うしかないのである。冷笑である。
 わざわざ「文脈を見ると」などと言わずとも、まさに「子供を産めるかどうか」ということそのままであって、わかりきったことだ。「そういう意味だから大丈夫」とでも言いたげな様子に、ほとんど興ざめする思いだ。

 この言葉や言い回し自体も、充分に問題があろう。だがしかし、本質的にはそういう問題ではない。「言葉の響き」とか「切り取るな」とか、どうでもいいことなのだ。
 要するにS田氏もK林氏も、これらが優生思想と同義であるとの意識はまったくお持ちでないということなのでしょうね。この二人、驚くほど同じことを言うし、もともとよく似た考えをしていらっしゃるようなので、当然ではあるのだが。
 これでは辞めろといわれても、仕方がない。擁護すべきところもできるところもないので、どうしようもない。

 ついでに触れておく。
「議員が簡単に辞めていては議論にもならなくなる」などと言う人もいるが、「簡単に辞めろ」と言っているのではない。また、議論をしたくないわけでもない。政治家らしからぬ人がそこにいるのだ。失格者を、失格者のまま祭り上げたままにしておこうという認識の方が、僕には理解し難い。
 その上の者は、それに見合うだけの対処を施すことに、何の躊躇がいるのか。それができないのだから、彼らは同じ穴の狢でしょう。
 僕自身は、辞職についてシュプレヒコールを挙げようとしているわけではないが、当の発言者とその擁護者の皆様方の体たらくはあまりに情けないと感じる。辞めてしかるべきとも思う。
 政治家が語ってはならないことを語っているのだから、自らそれなりの身の施し方をするほうがよほど清潔で、有意義なのではなかろうか。

 重ねて言うが、議論をしたくないのではない。
 K林氏はリプライに対して「議論すること自体がタブーになってはいけませんね」とも述べているが、論点がおかしい。
 有意義な議論は歓迎するが、そもそも彼ら・彼女らとは議論にすらならない。なぜなら、基礎的知見がまったく欠けているからである。問題は、「議論」以前にあるのだ。
 それゆえか、議論にしてはならないようなことを平気で持ち出す人が、あまりに多い。結果は当然、おかしなことになる。初歩的事実の正誤に終始して、それ以上の、求められるべき議論にならない。なるわけがない。認識を誤っている者が、常に認識を改めようとしないのだから。正しい知識を得ようとしないのだから。
 議論をしたいのであれば、「議論すること自体がタブーになってはいけない」などとうそぶく人たちこそ、議論に必要な最低限度の知識をまず身に付けるべきだろう。数字を知らないのに「算数」を飛び越えて「数学」やろうとでもいうような、無謀さだ。
「議論にならない」のは、「議員が辞める」からではない。
 誰もがその愚かさに気付けそうなものだが、知らないということを知らない人や、知らないのに知っていると信じ切っている人などは、その無謀さにも気付かない。まさに「宗教」でしょう?

 次に移ろう。


〈私の周りのLGBTの方々は、有能で仕事ができたり才能があったり、尊敬できる方ばかりです。
何よりもきちんと納税しているし、「そういった意味での生産性」はとても高いです。
「あの本の中の、あの文脈での生産性」の問題を飛躍させ、必要以上に嘆き悲しみ怒ることは間違っていると思います〉



 いやあ、まったく何を言っているのだろう。頭は大丈夫なのか、本気で心配になってくる。
 セクシュアルマイノリティを擁護でもするつもりのようだが、まったく擁護になっていない。納税しているかどうかが問題なのではないし、セクシュアルマイノリティについての認識がもともと間違えている。こうした間違いに基づいて都合よく話を展開するのだから、続く話も意味不明となるのは必定である。
 その立場の人物が、この程度でしかない。認識も、発信の内容も。しかし同時に、この無茶苦茶ぶりがわからない人がまた、少なくない。
「生産性」の言葉の意味を飛躍させているのは、他ならぬK林氏自身であろう。まともな知識と感性お持ちならば、ここは先輩であろうと「そのような思想は間違っていると思います」とでも指摘しなければならないところ。やるべきことが、真反対だ。

 次も、関連でツイートされていたもの。


〈子供を持つ・持たないなんて、その人の自由だと私は思う。
前にもTwitterに書いたが、様々な事情から持ちたくない方も多い。
その気持ちもわかる。
私も子供を持つかどうかわからない。
ただ、移民大国スウェーデンに留学していた身からすると、人口が減り、国が滅びていくことを懸念せざるを得ない〉




〈子供を望まない方は持たなくてもよいし、子供を望む方には、ストレスや経済的負担をできるだけ感じることなく持ってほしい。
厚生労働省のデータでは、子供を望む方の4割が「3人欲しい」と答えたというし、一政治家として、産みたい人が産める社会を作りたい〉



 それ、セクシュアルマイノリティと関係ありませんよね?

 直接的にセクシュアルマイノリティを指して言っていることではないが、暗に擁護しているつもりにでもなっているのだろう。
 もしこれが、まったく別の場面で独立的に発せられていたら、それほど気にならなかったかもしれない。しかし、この流れの中だからこそ、大きな違和感を感じてしまう。これについては、この後でも触れる。
 結局、何が言いたいのかわからない。

 こういう無関係のことを、なんだか関係していることのように平気で引いてくるおかしな人が絶えない。関係しているというのなら、何がどう関係しているのだろう。本質も論点もズレている。
 子供を安心して産める社会、どうぞお作りになってください。これは喫緊の課題でもあるし、早急にね。「作りたい」とかツイートしてても、具体的なものに繋がるかは甚だ怪しいが。
 本気でそのつもりがあるなら、この文脈で少子化に言及したのは明らかな失敗だ。関係があると思っているなら、認識が甘すぎる。これぞ、本末転倒である。
 また、こうした点を横に置くとしても、それ以上のものがない。子供を望む・望まないとか、身体的な理由などで望めるかどうかとか、どうでもいい。同じ触れるのなら、問題に対してどうするのか、策を示せばいい話だ。まるで、こうした方たちが大好きな「策を示せ」の通りである。しかし、そのような提言などは、何もない。

 続きは、また次回。

生産ラインの子供たち②

 さて、前回の続き。
 かの論考に好意的なコメントをする人たちの話から始めよう。

 笑えるのは、あれを擁護する人たちの無様さである。O川何某氏などを例にすれば、こう述べている。

「一字一句改める必要がない正論だ。読まずに騒いでいるか読んでも理解できずに騒いでいる人は頭を冷やした方がいい」


 その言葉、そっくりそのままお返し申し上げたい。
 つまりO川氏は、どこに問題があるのか気付くこともできないのだそうだ。この論考のどこに問題があるのかわからないし、騒いでいる連中が理解できない...と。
 あれって、まったく事実に基づかない文章なんだけどなぁ。嘘ばかりが書き連ねてあるんだけどなぁ。あれほど事実を無視した論考だというのに、一字一句改める必要がないものだと読めるらしい。どうやったらそう読めるのか、皆目わからない。
 事実は事実であるので、誰にでも簡単に確認できることだ。
 コメントの最後には「勉強、熟考して中身のある議論をする人が増えることを希望したい」とまで述べているが、スッカスカで中身のない嘘で彩られた論考によって、何を議論しろというのだろうか。それを正論と呼んではばからない人って、いったい何を見ているのだろう。勉強・熟考すべきは、誰だろう。

「人生観はいろいろ」などとのたもうた人などにも、大きな疑問を感じる。静観や中立を装いながら、この一言で無知をさらけ出している。
 セクシュアリティは、人生観の問題ではない...とだけ言っておく。

 次に、先輩に掛けてもらったという言葉を見ることにしよう。そのまま引用する。

「雑誌の記事を全部読んだら、きちんと理解しているし、党の立場も配慮して言葉も選んで書いている。言葉足らずで誤解される所はあるかもしれないけど問題ないから」


 はたして、そうだろうか。図らずもこの言葉が、むしろこの論考の不適切さを強く補完しているように思えてならない。
 僕は全文を読んでこれを書いているが、どこに擁護できるものがあるのか、まったくわからない。S田氏のそれは、稚拙と言わざるを得ないと感じた。
 言葉はそれなりに選んでいるかもしれないが、それは、正しい知識に基づいて、セクシュアルマイノリティに関する事象を誤りなく伝えるためのものではない。まして「きちんと理解している」などとは、到底言えない。
 仮に、仮にだ、もし他の部分が正しく理解されていたとしても(実際にはまったくそんなことはないが)、それをもって「生産性がない」という言葉に正当性を持たせることは不可能だ。

 あれはね、セクシュアリティのことを知らない人が、セクシュアリティのことを知らない人に、よく書けているねと褒められた...と言っているのだ。おかしいよね。すごくおかしい。
「1+1=3」だと主張する人が、「1+1=3」だと思っている人に、何も間違えていないから問題ないよと褒められた...と言っているようなものだ。「1+1=2」だと知っている人からは、どう見えるでしょうね。
 擁護している人たちは、たいてい同じような認識しか持ち合わせていないので、このような問題山積の論考に賛同できるのだろう。それらの人たちを信用ならない人たちだと感じたとしても、何の不思議があろうか。

 こちら方面のみなさん口を揃えて「切り取るな」と言うけれど、切り取ろうが切り取るまいが、同じことだ。
 本当に最初から最後まで、酷い論考なのだ。見るべきところがひとつもない。ひとつもだ。だからどこを切り取ろうと、中身がなにもない。どう切り取ろうと、意見を付けることに不自由はしない。
 何か「ここだけは賛同できるが...」とでも言えるところがあれば挙げることにやぶさかではないが、ないものはないので挙げようがない。

 おそらく「切り取るな」とは、例えば「自分はセクシュアルマイノリティのことを理解できると書いているのに...」とでも言いたいのだろう。
 そうであろう箇所を、ひとつ例に挙げておこう。

「もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか」


 この部分だけでも指摘できる点がたくさんあるが、それらはさておき。
 読む人によっては、「理解がある人なんだな」と受け取るのかもしれない。しかし、本当にそうだろうか。本当に理解があるのか?
 その答えは、紛れもなく「生産性云々」他、多くの場所にしっかりと現れている。これは言うなれば、ただのフリである。
 セクシュアルマイノリティに理解があるのではない。そう述べてもいない。ただ「一緒にいても平気」という意味のことが書かれているだけだ。
 一緒にいても平気なら、誰もがセクシュアリティのことを正しく理解しているのか。答えは「NO」だ。正しく理解しているかどうかと、単に交流ができるかどうかとは、別次元の話だ。つながりはあるにしても。
 交流だけなら、上辺だけ取り繕えばできるものだ。自分が認めたくないセクシュアリティを嫌悪しながらでもね。
 そして現実には、交流すら躊躇する人も少なくない。この点でも、この記述は正確ではない。
 何も知らず、何もわからないからこそ、あれほど酷いものが書けるのだ。正しく理解できているのであれば、その文中でもっとも言いたいことであろう「LGBTへの支援の度が過ぎる」などという話が出てくるはずがない。どう考えてもおかしい。
 それをもって「私は理解者だ。全部読め」などと主張するのは、まったくもって愚鈍である。それを擁護のよすがとするのは、あきれるほどのナンセンスだ。
 すべて読んでも見るべきところが何もないので、読んだところで意味がない。本当に唾棄すべきもの。あえて言うならば、この方がどういう人なのかを知るには、非常に役に立つ。

 その後の動向についても、少し触れておこう。
「殺してやる」などという脅しがあったとか。これ自体は、褒められたものじゃない。むしろ当事者としては、こうした行為は冗談でもやめていただきたいし、許し難い。
 しかし、思うのだ。翻って、S田氏の言っていることはどうなのか? まさしく「非生産的な人物は不要」と言っているのと同義だ。実際にそうだろうと問うと、口先では違うと答えるかもしれないが。「非生産的な人は存在価値がないから殺してもいい」というどこかで聞いたような思想と、大差がない。
 S田氏は「生産性云々」の話で、セクシュアルマイノリティを殺しにかかっている。こうした人たちは、往々にしてセクシュアルマイノリティが存在しなくなればすべてが解決すると思っているものだが、S田氏もまたそうだ。
 直接「殺す」だの「死ね」だのとは言っていないが、暗にそう恫喝し、圧をかけている。その存在が抹消されれば、何も問題はない、みんなが幸せになれる...と。
 やんわりと、論考という形を取りながら、寄稿によって公然とそれをやってのけている。嘘っぱちのその主張によれば、性同一性障害を除くセクシュアリティは「嗜好」とのことだしね。
 S田氏のような人たちは、セクシュアリティを趣味と同じようなものだとしか思っていない。

 その諸処の問題に対して「セクシュアリティを変えればいい」と答える人がいたならば、その人は真性の「頭のおかしな人」というほかない。セクシュアリティは、変えたり治したりできるものではないのだから。「指向」と「嗜好」の区別もできない人の言葉に、説得力はない。
 どこかの国のナンバー2氏はこれを公言してはばからないが、それによって自分で自分の愚かさをアピールしている。アピールは好きにやってもらえばいいが、それらは非倫理的で非現実的な思想であることに加えて、「生物学的に歪んでいる」と言って差し支えない。
 生物としてのゆらぎや多様性を失った時、果たしてヒトはヒトであり続けることができるだろうか。興味深い命題だが、僕は存在し得ないと思う。
 おそらくその時、ヒトは、進化の線上にいる生物としてのヒトらしさを失う。その先の道は、滅びしかないのではないか。もしくは、ヒトをやめるかだ。

 最後に、これはセクシュアリティやセクシュアルマイノリティへの差別を遥かに超える話だということを指摘しておきたい。
 ここまでセクシュアリティ関連でいくつかの話をピックアップしてきたが、それに留まらない。上記の「セクシュアルマイノリティを消そうとしている」という話とも共通する、非常に危険な話だ。
 S田氏の論考は、極めて主観的なものだ。ごく個人的な、先入観と印象によるもの。その主張にある「生産性がない」も、極めて主観的。
 もしこれが容認されるなら、どれほど非倫理的・非人間的思想であろうとも、ごく主観的な「生産性がない」のたった一言で、どんな相手でも差別し、抹殺できてしまう。このような優生思想を得意げに政治家が語り、それを擁護する政治家が少なくない。背筋が凍るような恐ろしさだ。
 そうした思想の片鱗は、一般の中に潜んでいるのだろう。おそらく個人の中の「片鱗」を消し去ることは、不可能だ。ならば、それが表出しない社会を作るべきなのではないか。
 その片鱗が個人の中に存在し続けるものだとしても、政治家が公然と語ってはならないものだと思う。

 それにしても、よくあれほど逸脱した論考を載せたもんだなぁ。ぶっ飛びすぎてる。

生産ラインの子供たち①

 出ましたね。
 雑誌への寄稿において、どこかの議員殿が、セクシュアルマイノリティの人たちを指して「生産性がない」とし、そこに税金を投じることに疑問を示した論考である。
 これに関する批判的な指摘が、方々でなかなかやまない今日この頃。まぁ、S田氏が何か言ったところで、今更驚きもしないが。情けないことに相変わらず...といったところ。

 こうした「意見表明」が出るたびにここに取り上げているわけではないが、今回はいくらか絡んでみよう。
 順に文を挙げながらちまちま指摘していくこともできるけれど、そこまではしない。本当に最初から最後まであらゆる事柄を混同し、酷くまたつたない、とても論考とは呼べないものなんだよね(ここでは続けて「論考」と呼んでおく)。また、逐一指摘しなくても長くなるので、2回に分けることにする。

 冗談でもなんでもなく、言ってることがサッパリわからないレベルの話なのである。
 ご本人の資質だの無知ぶりだのは、ここではいちいち指摘しないことにする。特にこうした人たちの無知ぶりについては、過去に何度も書いている通りだ。これにも、それがそのまま当てはまる。
 ぶっちゃけ、そんな無知・無能を晒して恥ずかしいことだなぁ...と思ったりもするんだけれど、当の本人は露ほどもそうは思っていないものだ。ますます恥ずかしいことだなぁ。
 もっと簡単に言えば、頭がおかしい。それに対して無言を貫く、もしくは支持をする周辺の人たちも、同様でしょうね。
 あれが「政治」だと思っているのなら、やっぱり頭がおかしい。

 生産性とやらに価値観を求めているようだが、これ自体もう理解に苦しむ。生産性って、なんですか? 何を指す生産性ですか? なぜここで、生産性が重要ですか?
 子供を「産むことができない」から、どうしたというのだろう。人間としての存在価値と、何か関わりがあるだろうか。あると思っている人は、既に差別主義者と言っていいだろう。そして、それを生産性と言い表すセンスも神経も、僕にはわからない。

 本来ならば、そのようなことが重要なのではない。別の話をすべきなのだ。この論考は、本質を大きく外した論考である。故意にではなく、当たり前のこととしてこれをやってしまうところがまた、非常に怖い。
 重ねて言うが、あるべき話は、S田氏が問題にしようとしているようなものではない。生産性がどうかとか、税金の投入がどうだとか、それが重要なわけではないのだ。
 なぜ、そんな話になるのか? なぜ、それが重要事項であるかのように訴えるのか? 何も理解できていないからであろう。

 セクシュアルマイノリティの人たちも、一枚岩ではない。いろんな考えの人がいる。細部に至るほど、その違いは多様になる。それこそ、個人の自由だ。当然のことだ。それでいい。
 それでも、望むこと・言いたいことを最大公約数的に集約すれば、極めてシンプル。「不自然な格差の是正」とでも言い表そうか。普通に生きたいだけ。ただそれだけなのだ。
 無能で無理解な人たちは、その「不自然」さがわからないわけだけど。残念なことに。
 要するに、「差別」はやめてよ...ということ。当然の、当たり前のことを言っているにすぎない。

 もう少し付け加えて言い換えるなら、支援してくれという話じゃない。支援に疑問を呈しているけれど、そもそも「支援」が重要課題なのではない。支援なり対処なりが必要な事柄はあるにしても、それだけで解決するなら、むしろ話は早いのだ。でも現実には、どうだろう。
 そうじゃなくて、法律や税制上の差別があって、だからそれをやめて...って話だ。もちろん、差別はそれだけではない。多岐にわたる。
 ところがS田氏は、話を「親の同意」のみに矮小化している。ここでも、混同が起きている。物事のごく一部のみしか見ていないことも、よくわかる。
 この点においてS田氏は、そちらに深く関わることのできる議員でありながら、それに触れることもない。個人的で歪な思想の披露と、偏狭な感情論に終始している。しかも、それらをあらゆる方向で混同した上で。
 これはつまり、自らの職務を完全に放棄していると言える。

 こんな時「普通に生きたいのなら、普通の人になれば?」などと返す人もいるんだけれど、そうした指摘は極めておかしい。
 セクシュアルマイノリティが「普通ではない人」という意識が、まずわからない。なぜ、そのような前提があるのか。既に普通の人ですが? セクシュアリティの違いは、人としての正常性や異常性を区別するものではない。

 この論考には「LGBとTを一緒にするな」と書かれているが、なぜそれが一緒にされているのか、つまりなぜ共に行動するに至ったのか、歴史的経緯もまったく知らないのであろう。そうした事情は、完全に無視である。なんとなく性的少数者同士が寄り集まっているだけだろう...という程度の認識であると推察される(付け加えておけば、「T=性同一性障害」という単純な記述も、正確には誤りである)。
 この意識、先程の「差別はやめて欲しい」という話と対立的だ。
「差別と区別は違うし、きちんと書き分けられている」かのように言う人がいるけれど、変ですね。
 差別と区別は切り分けるべきだと僕も思っているが、切り分けを間違えている人や、違うものだと言いつつ混同している人は多い。
 S田氏のように支離滅裂でアクロバティックな論を唱える人に、こうした区別が正しくできるとは到底思えない。文中で度々話のすり替えが行われているのだが、差別と区別の違いだけは別だなんて言えるだろうか。実際この方の思想は、差別と区別の混同が甚だしい。
 その極め付けは、「(Tは性同一性障害という障害であるのに対して)LGBは、性的嗜好の話です」という記述だろう。
 とんでもない大間違いですね。勘違いなどとも呼べない。セクシュアリティのことが、まったくわかっていないことを示す一言だ。嗜好ではなく、指向である。指向は、セクシュアリティに関係なく存在する(指向がないという指向もある)。
 この後に出てくる「なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう」という記述もまた、セクシュアリティについて無知であることを如実に表している。性が二つに収まるわけがないことは、もはや常識である。
 それに先立ち「(性表現が多様すぎて)もうわけが分かりません」とも述べているが、わけがわからないのはS田氏の頭の方である。LGBの性同一性障害者もいますが、さて?
 また、代表的な略称・総称のようなものとして「LGBT」という表現がなされるが、実際の意味は広く捉えられている。総称としての「LGBT」は、それが指す直接的なセクシュアリティだけを示すものではない。4つの頭文字では表現し得ないセクシュアリティも、そこに含まれている。

 書いていることのほとんどは今までの繰り返しになってしまうが、仕方がないかな。

 今回はここまでといたします。

煙に巻くにも隠せぬ地

 いつぞや、シガーさんに関する規制云々について書いた。

 その関連で、先日、某議員が暴言と言われてしかるべきヤジを飛ばしてましたね。
 この個人の資質だのなんだのとか、関係する業者だとかは、ここではどうでもいい。ついでに言えば、某飲食店のことは、この個人とは切り離すべきだと思うけどね。そっちの話の多くは他社・他業者にも言えることなので的確とは言いがたいし、これをきっかけに標的としたり巻き込んだりすることには疑問を感じる。

 で、ヤジそのものも首をかしげるものだが、その「釈明」がまたおもしろい。おもしろいと言っても、褒めているわけではない。「言い訳」にもならない「言い訳」すぎて、すばらしくておもしろすぎる。

 なにがおもしろいって、

「まずは参考人の方はもとより、ご関係の皆様に不快な思いを与えたとすれば、心からの反省と共に深くお詫び申し上げる次第でございます。もちろん、参考人のご発言を妨害するような意図は全くなく、喫煙者を必要以上に差別すべきではないという想いで呟いたものです。とはいえ、今後、十分に注意して参りたいと存じます。この度は誠に申し訳ありませんでした」


 とな。

 なんだ、これは。ぜんぜん反省してないよね。しかも、言い訳にもならない言い訳のオンパレード。
 それなりの大きな責任を負う立場の人たちが度々使う「〜したとすれば...」という、まさに「ボク悪くないもん」という主張が見え隠れする、反省の色がまったく見えない言い回しは横に置いておくとして。

 シガーさんを愛する心無い人たちの代表のような言葉ですね。まぁ「代表」だから、まさにそのまま「代表」なのか...。

 煙を撒き散らすことへの無自覚さ。
 シガーさんを愛することで、虐げられている人たちが大勢いる...という事実を、まったく顧みることもない。さすが、無自覚なだけありますね。まったく意に介さない。

 ちなみに、その後送付された「詫び状」なるものもまた、おもしろすぎる。
 ここでは割愛して、終了といたします。

産まれ出ずれば世界はプリン

 誕生日絡みの話など。

 一番思い出に残っている誕生日はあるだろうか。
 僕はといえば、これといって特筆するものはない。誕生日はいつも家族だけでやっていたし、特別なプレゼントをもらうこともなかった。
 生まれ年や田舎だってことも関係しているかどうかは定かでないが、友達や近所で誕生日に集まることもなかったなぁ。パーティーする家もあると知っても、呼びたいと思ってなかったな。
 習慣的にそんなもんだと思っていた節がある。

 むしろ今現在の方が、ちょっと変わったことをしている。

 きっかけは、両親の海外旅行である。
 父が退職して落ち着いてから、まだ行けるうちに行っておきたいと、時々海外旅行に出掛けるようになった。初めての時は、心配性の母がいろいろと微に入り細に入り事前に調べていて、やりすぎだろうと思っていたが(後年慣れてくると、徐々に落ち着いていった)。
 しかし諸々の都合で、旅行期間がよく5月になった。

 それまでは、成人してからも何かしら祝ってくれていたが、あれからぱったりとなくなった。

 毎年の恒例行事だったとはいえ、それがなくなったとしても、さして不都合はない。
 がしかし、なんとなく誕生日に「何か欲しいかも」と思ったのだ。
 何がいいかな? 誕生日に食べるものの定番であろうものは、まずケーキだろう。しかしケーキは、自ら買って食べるほど好きなわけではない。ケーキやクリームと比べれば、饅頭やアンコのお菓子が好き。でもなんだか味気ないというか、物足りないというか...。
 そんな感じでいろいろと考えていて、ふとプリンを食べたいと思った。

 プリン! いいじゃないか。

 プリンも馬鹿にならない。種類も大きさも、いろんなものがある。
 あれ以来、毎年誕生日には自分用にプリンを買って帰る。自分が食べるためだけに、たったひとつ。
 いろんなプリンを買いましたねぇ。スーパーにも、おもしろいプリンがあれこれある。超シンプルなのも、やたらハデなのも。地元産もある。
 地元産なら、町内のケーキ屋さんもいい。買うのはケーキではない。プリンである。プリンを置いてないケーキ屋さんに、用はない。

 無理に、プリンだけにこだわる必要はない。例えば何か適当ないいスイーツなどあれば、それでもいい。でも他に思い付くものもなくて、プリンが続いている。
 食べてみたいけど、まだ口にしていないプリンもあるしね。

 小さな楽しみである。

諸悪なわけもないけれど

 ここでは、ひとまずシガーさんと呼ぶことにしよう。シュガーといえば砂糖だが、シュガーではない。シガーさん(仮・以下省略)。プカプカふかして、煙を吸って云々するアレである。

 少々前の話だが、飲食できるあっちゃこちゃでウンタラカンタラする「規則」のごときものの形だけはできあがってきた。
 だがしかし、なんとも中途半端なものが出てきたなと思う。

 正直なところを言おう。
 僕は、吸う人が悪い人だとは思わない。吸うことが悪いことだとも思わない。だから、滅びろなんて極端すぎて、とても賛同できない。
 吸いたい人は、吸えばいい。
 しかしそれでも、目に余る行為を度々目にするのも事実で、好ましくは思えない。

 ぶっちゃけ要するに、配慮があまりないと感じるんだよねぇ。

 シガーさんを愛する人からすれば、既に世間は冷たいし、肩身が狭いと思うだろう。
 それがまったくわからないではない。なにかと槍玉に上げられたり、批判に晒されたりで、リラックスしたい場面でそれができないかもしれない。
 不満も募るだろうが、それでもやっぱり配慮のなさは感じる。その感じ方は、けして弱くはない。

 肩身が狭いといっても、実はそれは、狭いと錯覚しているだけかもしれない。旧来がシガーを愛する人に甘過ぎただけで、身に付けるべきマナーが身に付いていない、あるべきマナーがないままだったのかもしれないがために。
 自由に吸えない過ごしにくさを感じたとしても、その「自由」は、配慮のある自由なのだろうか。最低限のマナーに裏打ちされた、多くの人に認められる自由なのだろうか。
 自由というより、勝手気儘に振舞っていただけではないのか?

 少なくとも、シガーを愛する人たちに、自覚のなさがかなりあるのは間違いない。全員とはもちろん言えないまでも。

 例えば煙。
 シガーさんの匂いや煙は、驚くほど遠くまで漂っていく。
 きっと、シガーさんを愛する人には、なんでもないことだろう。気にも留めないし、気にする必要もないと、当たり前のように思っている人は多いのではないだろうか。

 外で吸ってるんだからいいじゃん。外で吸っていれば迷惑掛けないよね、掛けてるわけないよね。どこかで、そう思ってはいないだろうか。
 しかし、そうではないのだ。繰り返すが、シガーさんの匂いや煙は、驚くほど遠くまで漂っていく。まことに。

 だんだんと薄まるとしても、広く拡散して届くこと自体がわからない。わからないし、無関心だろう。
 嘘でしょ? と言いたくなるであろう遠く離れた人にまで届く。なんでそんなことがわかるんだ...って、それは見なくても匂いに気付くし、吹かしているのがわかるからだ。遠くで吹かしている人がいることが。
 例えば、コンビニの入り口に灰皿があるとしよう。今時、そんなコンビニはそうそう見ないが。
 街中のあまり広くないコンビニを基準にすると、その数倍以上の広さの店の一番奥にいたとしても、吹かしているのはわかるだろう。
 まさか、そんなぁ、届くわけないや...と言われそうだけど、わかるもんはわかるし、あまりいい気はしないから仕方がない。いや、マジで。
 これはなにも、特殊な能力を身に付けた人たちだけのレア機能なわけではない。シガーを愛する人は鈍くなっててわからないかもしれないが、そうでない人で普通に鼻が健康的ならば、たいていは気付けるものと思われる。
 実際、僕だけが気付くわけじゃない。

 結局のところ、まわりに無頓着なんじゃないかと。

 無頓着といえば、歩きシガーさんも迷惑だ。
 あれも、誰にも迷惑を掛けていないつもりなんだろうけど、とんでもない勘違いだ。
 煙を撒き散らせば当然まわりに浴びせることになるし、後ろを歩いている人は煙の塊にまともに襲われる。その上、燃えるシガーさんは、子供の目線の位置まで下がる。
 おまけに歩きシガーさんをする人は、高い確率でその亡骸をポポイッと投げ捨てる。全員がそうだとは言わないし、前述の無頓着な人の数よりは絶対数が少ないと思われるが。

 これじゃ、印象が悪くなっても仕方がない。自ら印象の悪さを呼び込んでいるようなものだ。
 投げ捨てたりしない人は、そもそも歩きシガーさんをしないのかもしれないね。

 また、例えば周りを囲まれて、一方あるいは二方のみ閉じていないテントなどがあるとしよう。同じように、壁に囲まれた場所でもいい。
 シガーさんを愛する人たちは、そこで愛し合うことに何のためらいもないだろうし、何も悪くない・何も迷惑を掛けていないと、当然のように思っているだろう。
 でもね、ある程度の閉鎖性のある場所だと、多少風の通りがあったとしても、そんなものでは簡単には「痕跡」は消えない。なかなか匂いはなくならないし、それが建物の入り口にでも続いていれば、その中にも入り込んで行く。中にいれば、外で愛してる人がいるんだなと、見なくてもわかる。
 どこか一方以上が閉じた場所を例に挙げたが、仮に四方が開放されたテントであっても、似たことは起こる。
 シガーさんが漂わせるものは、そうしたものなのだ。

 シガーさんは文化なんだから、目くじら立てなくても...と、そんな話を聞くこともある。
 いやいや。「文化なんだから」と言える、それにふさわしい愛し方ができる人が、常日頃そうしている人が、はたしてどのくらいいるだろう。
 少なくともそれは、歩きシガーさんをしている人のことではない。外で愛していればいいことだよね...とだけ考えて、煙を撒き散らす行為に当てはまるものでもない。

 シガーさんを愛する人たちが嫌われるのには、それなりの理由があると思うのだ。
 だがしかし、一部の「嫌われ者たる所以の行為を繰り返す人たち」の影響で、そうではない人たちまで同類とみなされがちな点のみにおいては、同情を感じる。やっぱり素直にかわいそうだよね。
 そういう意味では、そこはシガーさんを愛する人たち全体で取り組むべきこと、できることもあるのかもしれないなぁ。

 自分は、シガーさんを愛してはいない。
 僕自身は、同席者が一言断りを入れてくれれば、OKしている。それだけでも、気持ちは違ってくるんだよね。

 ただ、本音としては、例えば飲食の席であれば、今は遠慮してくれ...とか思ってはいるけれど。
 だってさ、まさに「食事をしているところ」なんだから。なんで料理のいい香りがする中でタバコを吸うのか、わからない。わざわざタバコの煙で、おいしそうだと食欲をそそる香りや食事の楽しみを打ち消す必要がどこにあるのか、わからない。そんな感じ。
 そんなふうに思うくらいなので、よくレストランなどにある席は違えど仕切りがないという分煙は、まったく訳がわからないし、分煙の意味を成していないように感じる。
 あれ、やり方を根本的に間違えてると思う。ホントに。
 じゃあ、喫煙者が同じように感じるのかと言えば、感じてないことが多いよね。
 喫煙者は、概ね自分が吐き出すもの、吐き出されたものや自分の手元から拡散するものに対して鈍感だ。これ以上は言わない。

 で、例の「規則」に戻って。
 あれこれ書いてきたけれど、こうしたことが事実としてあるわけで、あれがなんとも中途半端で「配慮がない」ものだということは、一目瞭然だ。
 某業界には配慮したのかもしれないが、つまりはそれだけなのだ。

知らぬと居らぬは天と地と

 自分のまわりにゲイはいない...などと宣う人を見ることがある。自分のまわりにゲイはいないから、ゲイなどというものはいないし、一般的なものでもない...と。
 もし 5% 以上もゲイがいるのなら、身近にも必ずいるはずだけど、見たことがない。だから、その統計自体がおかしい。ゲイなどというものは幻想だ...。云々。

 はっきり言おう。そんな主張は、絵空事である。「自分のまわりにゲイはいない」という認識そのものが、むしろ幻想だよなぁ。
 他の記事でも触れたことがあるのだけど、改めてこれについて、掘り下げてみよう。

 自分のまわりにゲイはいない──。
 なぜ、こんな幻想を抱いてしまうのか。自分が知らないままだからこそ、起こることだろうなぁ。
 自分が知らないって、どういうことだろう。
 ゲイが、あるいはレズビアンが、自分のまわりにいないのではない。いるかもしれないけど、知らないだけなのだ。
 なんで知らないのか? 打ち明けられていないからだ。自分に対して、家族なり、友人なり知人なりが、いわゆるカミングアウトをしていないからだ。

 打ち明けられていない原因は、わからない。理由は千差万別、いろいろ考えられる。
 その人がそれだけの信用をされていないのかもしれないし、相手がカミングアウトに非常に臆病なのかもしれない。あるいは、カミングアウトする基準が、すごく厳しいのかもしれない。
 はたまた、例えば今ある友情をどうしても失いなくて、それがカミングアウトよりも重要なことなのかもしれない。その人に告白することが、社会的に、不要な不利益を自分にもたらすと思われていることだってあるだろう。

 同じ同性愛者であっても、カミングアウトに対する考え方そのものが人によりけり。けして一様じゃない。
 そこに環境だとか、友人関係に限らず人間関係での機微、その他諸々が加わってくるのだから、簡単にはいかない。良好な関係があるとしても、それだけではカミングアウトする理由にはならない人が、圧倒的に多いだろう。
 少ないながらも「歩くカミングアウト」というくらいオープンな人もいるけどね。

 いずれにせよ、自分は打ち明けられていないだけなのだ。
 本当はすぐそばにいるかもしれないのに、自分が知らないものだから、自分のまわりにはゲイはいないなどと思ってしまうのだ。

 このようなことを言う人には、ほとんどの人がなかなか打ち明けようと思わないだろう。
 ゲイを嫌悪したり、軽蔑したり、差別したり、ゲイに関することでなくとも普段から人格を否定する発言や行為を繰り返す。一般的な差別に敏感な人でも、同性愛に関しては例外的な態度を取る人もいる。そんな人に、積極的に打ち明けようなどとは、思わないものだ。ゲイだから、ではない。人なら誰しもそうだろう。
 信用できない人に、大切なことは話さない。

 ゲイを認めようとしない人ほど、冒頭のような主張をしたがる?

分けて目印貼り付けて

 いつの頃からだかもはやまったくわからないが、Mac では、随分前から画像をブラウズできるアプリを使っている。
 そうしたアプリはいろいろとあるけれど、動作が重かったり挙動がおかしかったりで、意外と納得できるものがないように思える。デジカメやプリンタなどのデジタル機器を購入すると、メーカーの画像ブラウザが付いてくることも珍しくない。そうしたブラウザもいろいろ使ってみたことがあるのだが、何かしら問題や大きな不満があるんだよねぇ。
 単に、いいものに出会えていないだけなのかどうかは、さっぱりわからない。

 そんな中で、GraphicConverter はお気に入りの一本だ。お気に入りと言っても、「これ以上ない」と言えるほどのステキさを感じているわけでもないんだけど。
 ただ、いろいろと便利ってあたりが重宝するし、代わりになるものもなくて、捨てがたいし捨てられない。他のアプリで、GraphicConverter を超えてくるほどのものがないし、やっぱり重宝する。

 まるで GraphicConverter に不満が多いように聞こえるかもしれないが、そうではない。
 いつしか消えていくアプリが少なくない中にあっては、古くからの、とても長い付き合いになる。最初に買った Mac に入れたのが始まりで、それ以来、すべてのバージョンではないものの、ここはバージョンアップするしかないというタイミングで新バージョンを購入し続けて、今に至っている。
 最初に購入した時は、いわゆる「シェアウェア」と呼ばれるもので、登録ID の発行を含めて購入手続きには手間も時間もかかった。今じゃ、ポチッとな...で終わるようなことが、「ちょっと面倒だったよね」と思い出されるわけだけど、当時はそれが当たり前だったのだ。
 ちなみに使っていた Mac は箱型のアイボリー色の某機で、OS はまだ 8 が出たばかりだったか、そんな頃のはず。

 名前から想像できるかもしれないが、その真価は「画像の変換」にあると言うべきだろう。対応するファイルの種類が非常に多くて、関係する機能もてんこ盛り。おかげで環境設定は、猥雑である。はっきり言って、猥雑である。見るだけでもめんどくさい。
 編集に関しては通り一遍といったところで、特筆すべきところはないかな。可もなく、不可もなく...のような。
 時々便利に使っていたのが、カタログ機能。今となっては、標準で付いてくる Preview で充分事足りるのだが、昔はそうもいかなかったのだ。

 とまあ、便利で高機能な GraphicConverter。
 機能と設定がてんこ盛りであるがゆえに、設定項目が多すぎて探すのが大変という難点にやられたのが、今回のお話。

 前述のように、GraphicConverter は画像変換で真価を発揮する。だがしかし、僕はもっぱら画像ブラウザとして使う。閲覧するためではなくて、仕分け・分類するために。
 見るのは一部なんだけど、いらないものは削除しつつ、特に「気になる」ものにはラベルを付けていく。付箋でも貼るような作業ですね。

 このラベル付け、けっこう面倒ではある。
 いろんなやり方を試して、ノートのトラックパッドでの操作で一応落ち着いていた。トラックパッドの2本指タップも使って、ポインタの移動、コンテクストメニューの呼び出し、ラベルの選択をしていた。なんとなく「そうするしかない」と、どこかで思い込んでしまっていたような気がする。先日までは。
 これでもマウスを使うよりはずっとスムーズなのだが、もっと楽になればもっと嬉しい。その思いが、最近急に強くなった。
 ショートカット(キーボードショートカット/ショートカットキー)でなんとかできないのかなぁ、できそうな気がするんだけどなぁ、と当然とっくに考えていてもよさそうなことに、今更思い当たった。遅い。遅いぞ、自分。改めて考えてみれば、バカみたいな話である。
 機能モリモリの GraphicConverter である。できたっておかしくないじゃないか。ショートカットを割り当てられるアプリだって、たくさんある。それができれば、もっと楽になるんじゃないの?

 そう思ったのは、長いことずっと、拡大して確認したい画像をマウスを使って開いていたからだ。
 ある日、ふと思った。そういえば、なんでダブルクリックで開いてんの?
 他のいくつもの操作、例えば複数選択だとか、ウィンドウ内の行き来、ファイルの遷移や削除といった作業は、ショートカットで実行している。選択したファイルを別ウィンドウで開くのだって、ショートカットでやればいいじゃないか。なんでそうしてないんだ?
 自分に生じた、初歩的な疑問。
 どうするって、ショートカットで開けばいいのだ。この場合、Finder などからファイルをアプリで開くといった動作とは違うので「open」ではない。
 選択アイテムを開くというコマンド、

「⌘」+「↓」

で、選択中の画像を新規ウィンドウで開くことができる。
 さらに拡大したければ、「shift」「⌘」「+」の同時押し。通常、拡大は「⌘」と「+」で実行するけど、GraphicConverter 上では「shift」付きじゃないとうまく動作しない。
 確認し終わったら、「⌘」+「W」でウィンドウを閉じる。
 これで、ファイルのオープン、拡大・縮小・クローズは楽になる。

 じゃあ、ついでにラベルもなんとかならないかな...。

 で、調べました。まずは環境設定から。
 しかしどうやら、環境設定でショートカットを指定することはできない。どこにも、そんな設定項目はない。昨今、この指定ができるものも少なくないので期待したのだが、あぁ応えてもらえない。
 それでも何かないかと、環境設定につぶさに目を通した。いや、通したつもりだった。しかし見つけることができなかった。
 ためしに OS のショートカットの設定も使ってみたけれど、これは GraphicConverter でうまく動作せず。
 ダメか...。

 それでもまだあきらめ切れずに、Web の検索をあれこれ見ていた時のこと。
 古い古いバージョンで、ラベルをショートカットで指定する設定を書き残してくれているページが見つかった。サイトやページそのものも今ではなかなか見ることのないような、随分と懐かしさを感じる風情であった。
 風情はともかく、昔はできたのなら、やっぱり今もできるかもしれないじゃないか! どこかに設定が残されているかもしれないじゃないか!

 ってことで、改めて環境設定を、こんどこそひとつひとつよくよく確認しながら見ていった。先に書いたように、項目が多くて確認だけでも大変なのだ。ちくしょう。
 昔と同じ項目は、ない。もちろんない。ないから、もし設定できるとしたら、どこか別のところに移動しているはずで、予想される分類からつぶさに見るしかないのであった。あぁ、ちくしょう。
 ほんで、ようやく見つけた。

 version9 では、環境設定から「ブラウザ > 編集」とたどった先に「キーボード」という項目がある。スペースキーの挙動を選択できるのだが、「スペースキーで QuickLook 切替」「スペースキーでラベル切替」としっかり記載されていた。ラジオボタンで、どちらかを選択可能。
 さらにラベルについては、プルダウンから自分の好みの設定を選ぶこともできた。僕が選んだのは、「0..7にラベルを設定、control+0..5で格付けを設定」である。
 これはつまり、「0〜7の数字キーを押して、色指定でラベルを付けられるよ」ということだ。0 ならラベルなし、1 なら赤...といった具合に。
 なんのことはない。他の設定項目と紛れるように置いてあるから、ぜんぜん気付かなかった。

 今までは...

「ポインタ移動 → 2本指タップ → 開いたコンテクストメニューにポインタ移動 → ラベルを選択」

 と、今書くとすごくめんどくさく感じる操作をしていた。よくやってたなぁ、こんなこと。

 これが、数字キーをひとつ押す...だけで終了。ただ「1」とか「2」を押すだけ。
 ごちゃごちゃあっちゃこちゃ手を伸ばし、操作していたものが、キーただひとつになったわけだから、想像だけでもその差はおわかりいただけるだろう。歴然。天頂と地底。
 あほみたいに楽になった。

 もう、キーボードから手を離す必要はない。

あたらしきことに

 年が明けましたね。

 昨年は、思い返せばなかなかアクティブな年だったと言える。けれど感覚的には、 まったくそんなこともなく。
 実感がないわけでもないし、それぞれに楽しんだ。時が経つのは早いと感じながらも、一年が長く思われるようなところもある。なんとも。
 大きな出来事は、簡単に思い出すことができる。ひとつひとつを思い起こすと、その楽しさはすぐに胸に湧き上がるというのに、なぜか、それらの出来事が、どこか遠くにでもあるようなふうでもある。かんとも。
 そうした、微妙な感覚を持った年であった。単に「歳のせい」などと言っていいのかどうかは、わからない。

 折り紙で「大作」を作って、知人にプレゼントした。
 非常に喜んでくれて、その後も大切にしてくれていて、やっぱりこの人にはあげてよかったなと、心の底から素直に思える。恋愛云々はないけれど、いつもそんな元気で楽しくて素直でよく動いて実はめんどくさがりな面も持ちつつちょっとかわいいところがある彼が大好きだ。

 美術館には、例年のように出掛けている。ただしひとつ、いつもと違う行動も起こした。大袈裟かもしれないけれど「奮起」して、東京は新国立美術館へ足を運んだ。日帰りで。
 スラヴ叙事詩を見たいがために。
 人の多さはおおよそ予想通りではあったものの、人混みには少々参った。それでも、満足感は大きい。ついでに近くの美術館にも立ち寄って、さらに満足感プラス。

 とある資格試験で合格した。
 仕事でも立場が変わり、やることが増えた。忙しい上にやることが増えるとか、単純に言えばしんどいだけだ。やりがいもおもしろさもあるんだけれど、いいことばかりでもなく、悪いことばかりでもなく。

 奈良へ単独旅行。
 もともとぼっち旅は多いので、まぁいつものことだ。ただし例年とは趣を異にし、思い立ったのはある可能性を見出した時。
 ちょっと気持ちが切れることがあって、ついでに予定されていたことがなくなり、いくつかの事情の変化の流れから、その予定日を旅行に振り替えた。
 思った以上に、楽しかった。最も行きたい時季ともずれていたので、多少趣向を変えて巡ったのが、かえってよかったかな。
 できれば今年も来年も行きたいところだけれど、今年は無理かもなぁ。

 紅葉は、愛でる暇がない年も多い。
 昨年は、美術館に立ち寄るついでに、少しだけ足を伸ばして紅葉を楽しんできた。
 春には訪れたことがあったものの、秋は初めての場所。少し最盛期を過ぎた頃だったけれど、綺麗だったなぁ。またいずれ、最盛期にも行ってみたいものだ。

 年末には、長いこと放置していた部屋の整理・模様替えなども。
 あちこちガッツリと手を入れまくって、なかなか大掛かりなお片づけ。スッキリ綺麗になっていく。道具類の使い勝手も向上。気持ちいい。
 実はまだ、すべては終えられていない。今日もまた、その続きをば。

 そして、今年。
「イベント」としては、昨年よりも大きなものが控えている。まだ予定の予定といった段階で、なんとも言えないところだが。
 そのあたりは、春以降に決まってくると思っている。抱負らしい抱負もない(ぜひやりたいことはある)けど、この大イベントを乗り切ることが、おそらく今年の山になるだろうなぁ。

若き法師の先達は

 パンダが随分大きくなった。無事に育っているようで、喜ばしいことである。

 喜ばしいことなのだが、では僕が強い、あるいはそれなりの強さの興味・関心をパンダに対して持っているかといえば、そうでもない。さりとて、興味がないわけでもない。
 パンダはかわいいとは思うのだが、どこか醒めたようなところがある。なぜだろう。わからない。わからないが、多方面で上野のパンダだけをことさらに取り上げて大変賑やかしくて、その影響もいくらかはありそうだ。まわりが騒ぎすぎてると、かえって萎えてくるような。
 好きか嫌いかと問われればやはり好きだしかわいくてたまらないんだけれど、かといって、例えば「パンダのためだけにでも動物園へ出掛けよう」という気にはならない。どのみちパンダのいる動物園はいずれも遠いから、簡単に行けるものでもないが。

 そんな僕でも、上野動物園へ足を運んだことはある。
 動物は全般的に、好きと言っていい。動物園や水族館には、一人でも平気で行く。行っちゃう。行けちゃう。
 以前 Twitter などで、「ぼっち検定」のようなものが幾通りか流行り病のようにどんぶらこどんぶらこしていたことがあるが、僕はかなりの「高得点」を叩き出すはずだ。一人じゃなきゃ嫌なわけでもないけれど、友人などとはなかなか時間も合わないし、まぁたいていは一人で充分なのだ。
 ただ、一人になりたい時だってあるのは当然のこととして、時間の合う人がいた頃は、時々誘って出掛けたりもしていたものだ。今は、ほぼもっぱら一人である。

 話を戻して、上野。

 もちろんというべきか、1番の目的はパンダではなかった。上野で見たい動物を順に並べるとしたら、パンダは2番目といったところ。
 では、1番目は何か。オカピである。
 オカピはその昔、幻の動物とも言われた不思議な見てくれの動物だ。一見すると馬のようで、四肢にはご丁寧に縞模様まであるので(特に、お尻から後ろ脚にかけてがよく目立つ)、シマウマの仲間だなんて勘違いされることもある。実際、されていたのだが。
 しかし、そこかしこにキリンと同じ特徴を備える。特に、顔まわりや舌、脚先(蹄)などが特徴的ではないかと思う。まぁ、キリンの仲間だから、そういうものだ。しかも、キリンよりもキリンの祖先に近いといわれているので、さもありなん。そういう意味では、オカピがキリンに似ているのではなくて、キリンがオカピに似ているというべきかもしれないが、今ここではどっちだっていい。
 たかが動物園と笑われそうだが、オカピとの面会には感動すら覚えた。
 何より、その大きさに驚いた。知識として知ってはいても、こうした想像力の乏しい僕のことだ。いや、想像力というよりも、「実感」とでも言うべきか。目の当たりにしてみると、想像を超えて大きいのだ。やはり、実物にはかなわない。

 さて、そんな上野のパンダといえば、S津くんを思い出す。
 S津くんは、かつて一緒に働いていた大学生の男のコだ。高校卒業後、すぐにバイトを始めた若い子で、入社当初はとても初々しく、またウブでもあった。いくらか「影のようなもの」も合わせ持っていたが。
その「影」の意味は後年知ることになるのだけれど、ここでは割愛する。

 ある時、用事があって東京まで出向いたS津くん。広島に帰ってから、僕にこう言ったのだ。
「パンダ、いませんでした」
 ええ、それはそうでしょうね。
 上野にはパンダがいない時期がおよそ3年ほどあったが、そのいずれかの冬だったと記憶している。それと知らぬまま、いない時を狙ったように上野に行き、現場で初めて事実を知る。そんなS津くんは、確かに少々せっかちな部分がある。そして、世相にもやや疎い。
 事情を説明してあげると、「あちゃー」「知らなかったー」としきりに言っていた。

 しかし、話はこれで終わらない。

 早とちりなS津くんがひとしきり残念がった後で、こう続けたのだ。
「上野動物園って、キリンがいないんですね」
 S津くんが東京まで来たついでにと上野動物園へ足を運んだのは、キリンを見たかったからでもある。最も会いたかったであろうキリンに会えなかっただけならまだしも、キリンが「いない」だと?
 いや、ちょっと待ってくれ。そんなわけはない。
「いるよ」と答えると、彼は否定するのだ。「いませんでしたよ?」と。何度「いる」と言っても、「え? いませんでしたよ?」を繰り返す。
 そこでふと、彼の日頃の言動に思い当たる。
 まさか、半分しかまわっていないんじゃあなかろうか...。S津くんなら、あり得る話だ。そう思って、僕は切り出した。
「もしかして、全部まわらんかったんじゃない?」
 しかし彼は、当然のように否定する。
「いや、全部見てまわりましたよ?」
「森みたいなところの急な坂道、降りた?」
「え? なんですか、それ」
 やっぱりだ。やっぱりこのコ、半分しかまわってない。
 僕は更に、質問を重ねていく。
「大きな池のそば、通った?」
「え? 池なんて、ありませんでしたよ」
「オカピ、見とらんじゃろ」
「オカピ? なんですか、それ」
「サンショウウオとか、見んかったじゃろ」
「そんなん、いましたっけ」
「サイもカバもシマウマも、爬虫類とか両生類も見とらんじゃろ」
「そんなのいるんですか? 見てませんよ?」
 もはや、尋問である。
 行ったことのある人ならわかると思うが、上野動物園はエリアが大きくふたつに分かれている。東園と西園である。
 JR上野駅から近いのは、表門のある東園だ。入ってすぐの右手に、パンダがいる。その他、ゴリラやトラなどの猛禽類、ゾウ、ホッキョクグマにアザラシ、日本の動物の他、鳥類の多くが見られる。たしか猿山があるのも、東園。
 一方の西園には、2か所の出入り口がある。こちらはアフリカはサバンナに生息する動物の多くや、その他のサルの仲間、鳥類の一部、爬虫類、両生類などに会うことができる。
 このふたつのエリアを隔てているのが「森」で、それらをつなぐのが坂道およびモノレールなのである。
 西園エリアをクリアしなかったであろうS津くんのために、上野動物園がどうなっているのか、おおよそ説明する。
「上野はエリアがふたつに分かれてて、段違いみたいになってんの」「途中、東園の奥にモノレールがあって、その横に坂道があって、降りたら大きい池があるんよ」「池をぐるっとまわったら、その先にカバとかシマウマと並んで、キリンもおるよ」「ほんで、キリンの隣にオカピがおるんよ」
 そんな感じで。オカピがどんな動物なのかも、ついでに教えておいた。「たいていの人はパンダが一番に見たいかも知れんけど、僕はオカピが一番に見たい」という一言も添えて。
 上野に行ってオカピを見ないとか、なんてもったいない。しかも、パンダに会えなかった上に、S津くんの一番の目的のキリンも見てないなんて! 何をしに行ったのであろうか。
 あちゃー、しまったー...を繰り返すS津くん。
 まぁ仕方がない。笑いながらも、ちょっとくらいはかわいそうにも思えてくる。だが、同情までは感じない。

 しかしさらに、衝撃の発言が待っていた。

「広島に動物園って、ありませんよねー」
 は? あるよ?
「え! 動物園、あるんですか!?」
 安佐動物公園を知らんのかー! あと、福山にもあるんだよ。
「え、嘘でしょ? あったんですか!?」
 おまえはそれでも、広島県人かー!
 あとね、安佐動物園に、キリンもおるよ。
「え? キリン、広島にもいるんですか!?」
 はい、ご愁傷さまでございます。



*福山市立動物園にもいます。

まわりまわってカレンダー

 予定やスケジュールは、どうやって管理しているだろうか。
 紙のスケジュール帳を使うか。スマホなどのアプリを利用するか。アプリで管理するにも、カレンダー、手帳、リマインダーなどの中からひとつだけ選ぶのか。あるいは、いくつかのアプリを組み合わせるのか。
 それぞれに、利点と欠点がある。さらに人によって、使い方も違えば、必要な機能やスペースも違う。自分に合ったものを選ぶことができれば、それでいいのだろう。

 僕はといえば、昔は紙の手帳を使っていた。今は、アプリのみ。
 紙の手帳はカレンダー型の小さいものを使っていて、さほど困ることもなかった。だからアプリに乗り換えた時も、まず使いはじめたのはカレンダー型であった。
 リマインダーなども試してみたことがあるけれど、僕には不要なもののようだ。カレンダー型のアプリにもリマインダー機能を備えたものがたくさんあるが、こうした通知機能などは使うことがない。

 そんな具合で使い方はほぼ固定されているのだが、ここ最近、そのスケジュール系アプリ探しに奔走していた。
 なぜかといえば、愛用アプリが使えなくなったからだ。いつもの(?)iOS アップグレードによる非対応・更新絶望アプリの誕生である。

 予定の管理を アプリにしてから、長い間 aramas を使ってきた(スタート時は別のアプリだったが、それは過渡期の話)。
 機能はてんこ盛りになっておらず、ヘビーな使い方をしたい向きには物足りないかもしれない。しかし、僕には必要充分であった。見た目のシンプルさにも、高い好感度。
 カレンダーの「日」をタップすると、個別にタイムスケジュールが開く。もう一度タップすると、閉じる。これが、地味に嬉しい。地味ながらも、重要。
 上下のフリックで年を前後に行き来できるのも、大変便利であった。前年の同月は...とか、次年の同月に...なんて話になることもあって、フリックだけで移動できるのは、なかなかに心地よいのだ。
 今や当然のような予定の履歴からの再入力もできたし、まさに必要充分といったところ。
 ただひとつ、デザインまわりのブラッシュアップなどはされていないだけあって、多少古くささは感じる。それでも、不満というほどではない。
 僕にとってはもはや手放せないアプリであって、まだまだ末長く使う気でいた。しかし、使えなくなってしまったんですねぇ。

 実は aramas 以外に、Lifebear も使っている。
 Lifebear に乗り換えることも考えはした。しかし Lifebear は、別の目的で使っている。
 印刷物を作ることがあるのだが、この予定は通常の予定とは別に管理したい。一緒にすると、かえってわかりにくくなるのだ。何でもかんでも一緒にしなくても、都合が悪いなら別々でいい。
 Lifebear をこのままサブとして使うか、メインに変更するか、それが問題となる。僕の出した答は「できれば Lifebear はそのまま使う。もしいいものが見つからなかったら Lifebear をメインに変更」であった。
 Lifebear は好きだけれど、aramas の代わりにはなれないのであった。

 aramas にたどり着くまでがまた一苦労だったのだが、それはともかく、今現在。
 同じ使い勝手のアプリを見つけられたかといえば、見つけられていない。おそらくないのではないかと思われる。
 しかし、カスタマイズで同様の動作、妥協できる使い勝手や見た目を実現できるアプリは見つけた。フリック移動は絶望的だとしても、タップ時の動作以外の希望にも、おおよそ応えてくれた。

「さいすけ2」である。

 僕がスケジュールアプリに求めるもの(一部)。
・1段1週7日で月表示のカレンダー型
・月曜始まり
・横スクロール
・タイムスケジュール表示あり
・曜日などは、日本語表示
・iOS のカレンダーと同期
・平日と土日祝の表示差異あり(土日祝は色違いなど)
・「今日」の識別あり(カラー表示など)

 不要な情報、表示、機能など
・六曜(非表示に設定できればOK)
・リマインダー
・奇抜なカラーやデザイン

 さいすけ2は、カスタム機能がてんこ盛りすぎる。悪く言えば、設定が猥雑でわかりにくい部分がある。けれどそのおかげで、自分好みにいじくりまわせたのだ。色はもちろん、動作についてもかなりの部分で応えてくれた。
 すべてに満足できているわけではないけれど、少しの妥協で納得できるところは、妥協した。だいたいよければ、それでもいい。
 きっとこれ以上は望めないだろうなぁ。

 今後の改修に、ちょっとだけ期待。

悲しみよ悲しみに

 悲しみというものは、簡単に語り尽くせる気がしない。
 種類もいろいろなら程度も様々で、同じような状況でもその感じ方が違い、受け止め方が違い、それに対する受け手の表し方も考え方も、その他諸々千差万別。
 しかしその一方で、とかく消すだの乗り越えるだのと言われるものではないだろうか。悲しみに対して、何かしらの「対処法」のようなものが、あれこれと。
 こうしたものの多くは、つまるところ悲しみは晴らすべきもの、振り払うべきものという意識や前提があるように思われる。言い換えるなら、悲しみは良くないものだから...ということになるのだろうか。

 だからだろう、悲しみに対しての対処法というものが、人それぞれにいろいろとある。実際には「対処法」というほど大袈裟なものではないかもしれないけれど、要するに悲しい時にすることやしたいことだ。悲しい時はコレをすべきだ、なんて言う人もいる。
 気を紛らわせるために。気分転換のために。沈み込まないために。理由は何でもいいけれど、悲しさから逃れるなり離れるなり、抜け出すなりするために。
 例えば、楽しい・明るい音楽を聴くとか、自分の好きなことに没頭するとか、好きな場所に行くとか、案外そうした簡単なことだ。思い当たるものがある人は、多いのではないだろうか。

 僕はといえば、悲しい時にはコレだ! ってものがない。悲しい気持ちをどうにかするために、気分を変えるなどするためにすること、したいこと、あるいはしてきたことなどが。
 まったくしたことがないわけでもないんだけど、なくていいとも思っている。
 あ、でも、どこか眺めのいい景色の場所に行くのなんか、ちょっと魅力的。実際に行ったことはない。行ったことはないけど、魅力は感じる。そこに惹かれるものがあるのには、理由がある。それは、以下読み進めてもらえばおわかりいただけると思う。

 悲しみって、無理に紛らわせたり、変える必要のないものないんじゃないかと思うんだよね。
 必要なのは、「変えること」じゃなくて、「浸ること」じゃないかと。

 浸ること。
 悲しみを充分に、深くしっかりと受け止めることは、とても大切なことなのではないかと思っている。
 ただしそれは、閉じこもることとは違う。

 受け止めきれない時はどうするの? とか言われそうだけれど、言うなれば「どうもしない」のだ。どうにもできないとも言うが。
 まぁ、どうにもできないが故に、知らず閉じこもってしまうことはあるかもしれないけれど、そういう時は何かで気分を変えようという気力さえ湧いてこない。
 更に付け足せば、受け止めきれないような悲しさを、例えばプレイヤーの音楽で簡単に紛らわせられるとも思わない。少なくとも僕には、有効手段にならない。

 仮に音楽を流すとしたら、それは「明るく楽しい気分が高揚する」ものじゃない。むしろその逆で、静かな音楽であったり、どこか物悲しい音楽であったりする。消すのでも、蓋をするのでもない。少々気分を落ち着かせるくらいの、あるいは悲しみに浸るための助けになるくらいのものなのだ。
 自分でちゃんと浸ることができたなら、何でもないようなことがきっかけで、フイと浮上できたりする。
 その浮上までにどれだけの時間がかかるかは、時によりけり。それでいいと思うんだよね。だけど、そうじゃなきゃダメだなんてことは、思わない。人それぞれに、それぞれのやり方、考え方があっていい。
 ただ、悲しみを充分に受け入れないままだと、どこかで無理をしてしまっているかもしれないっていう心配はある。多かれ少なかれ、悲しみに浸ることは大切なんじゃないかな。

 悲しみに対する感覚や、反応の仕方の印象なんかもまた、人によって違う。泣かないことを悪いことのように言う人だっている。
 でもね、目に見えて「泣かない」から、「泣いていない」「悲しみを感じていない」ってことにはならないんだよね。

 本当に悲しい時、案外涙なんか出ない。

 涙が出るのは、本当の悲しさじゃない...なんて言うつもりはない。僕はそんなことも思わない。言えるはずもない。
 ただ、本当に悲しい時、涙が出ないことだってあるということは言っておきたい。深い悲しみを覚えた時、恐ろしく静かで涼やかな、諦観とも言えるような表現し難い感覚になることがあるのだ。
 でもこの感覚は、わかってもらえなくても仕方がない気もする。

 これに限らないけど、悲しみって、他人からはなかなかわかり辛い感覚でもあるのかもしれない。結局のところ「体験したことがないことはわからない」とでもいうような。
 共感できることもたくさんあるだろうけど、それでもね。特に、「普通の・正常な」感覚からするとね。

「あの空を覚えてる」という映画がある。原作を、ある意味大胆にリメイクしたようなもの。
 ここに「普通の感覚では理解できない」ような父親が出てくる。
 最愛の娘を事故で亡くし、毎日がどこか重苦しい空気に包まれる。妻も息子も大切に思っているのに、家族を守るための行動がいつまでも取れずにいる。ある時、とても大切にしている写真を入れた額を、机に叩きつけて壊し、むせぶように泣く。そんな父親。
 どこかで「あんな父親、あり得ない」「父親があんなことをするなんて、信じられない」なんて評価を見たことがある。
 確かに一見すると、ダメ夫でダメ父。けれど僕は、共感を覚えた。ダメ夫・ダメ父ぶりに共感したわけではない。
 どうしようもない悲しさに捕らわれた時、外から見れば信じられないような行動や態度を取ることだってある。大切にしているものを壊してしまったり、大切な家族を守ろうとしない。そんな「異常な」言動。
 それを、そんな悲しさを知らない人が「正常の範囲内」でできる「安易な想像」でもって「あんな父親、あり得ない」なんて言うのを聞いても、僕は今ひとつ共感できない。ああ、この人はそういう悲しみを知らないんだろうな...と思うのだ。

 もうひとつ。スターダスト・レビューの「木蘭の涙」を。
 元はアップテンポ気味で、明るい調子と言っていい。とても好きな曲のひとつだ。この曲には、アコースティックバージョンもある。こちらはややスローで、しみじみしている。
 元のアップテンポな曲調が好きという人は、当然いるだろう。その方が「悲しみを乗り越える感じがしていい」といった理由で。
 もちろんその感じ方が、悪いわけじゃない。それはそれで、いいのだ。ここは否定すべきところじゃないと思う。こうした自分の感じ方は、大切にして欲しい。
 だが僕は、アコースティック版の方がとてもいいと感じる。アップテンポ版が嫌いなんじゃなくて、どっちの方がより好きかってくらいのことだけど、アコースティック版の方により強い共感をいだく。
 僕の悲しみの捉え方が既に書いた通りなら、さもありなん...とわかっていただけるかもしれない。

 こういうことって、なかなか実体験がないとわかりにくいだろうなと思う。だらだらと書いてきたけれど、そういう想像もまた、同時に持っている。
 どんな流れであったかは忘れたが、昔、知人ともこんな話をしたことがある。彼は「そんな悲しみを感じたことがないからわからない」と素直に言っていた。けれどそれを、不思議だとも思わない。悪いとも思わない。
 きっと、そういうもの。

自覚する人、しない人

 過去の検索キーワードに、「ホモだと自覚しない人」とか「ホモとしての自覚」というものがある。「○○な人は同性愛者か」とか、そんなキーワードもある。
 何を知りたかったのか、正確にはわからない。わからないけれど、関連として思うことはいろいろとあるので、その一部を書いてみよう。
 ここでは主に「他人からの受け取り方・感じ方」の話をしますね。自分自身が、自分のセクシュアリティをどう捉えているか...といった話を絡めながら、しかしそれを主題にはしません。自分じゃなくて、他人がどうかって話(本人の自覚については、「自覚したのはいつの日か」「自分を知る怖さ」などでも触れています)。

 ゲイみたいに振る舞う。ゲイのように見える行動を取る──。
 それが本当にゲイの人に共通する言動かどうかはともかく、受け取る側が「そう見てしまう」振る舞いが、何かしらある(その意識や受け取りが、「正当」なものかどうかはともかく)。
 でも本人は、自分はゲイじゃないと言う。

 とりあえず「本当はどうなのか」は横に置くとして、ではそうした人はゲイなんだろうか。必ずゲイだと言えるのだろうか。
 自分はゲイじゃないという人であっても、まわりから「何らかの理由でゲイのように見えてしまう人」であれば、みんなゲイなんだろうか。
 結論めいたことを言えば、ゲイかもしれないけれど、ゲイだと断定はできないだろう。「ゲイのように見える人=ゲイ」ではないのだ。
 
 当の本人の意識として言えば、「ゲイだけど、ゲイだと認めない」のか「ゲイじゃないから、ゲイだと言わない」のか。
 さて、どちらだろう。そうした疑問はある。
 しかし、その疑問がどうであれ、たとえ傍から見るとゲイのように見えるとしても、それがどれほどゲイのような振る舞いであったとしても、ゲイだとは限らない。そんな決め付けはできない。断定なんてできないし、ゲイでなかったとしても何の不思議もない。

 素直に受け取れば当然わかるであろう事柄だけど、自分の思い込みを「唯一の真実」のように勘違いする人は少なくない。ほんでそうした人たちは、「ゲイでないはずがない」などと言ってしまう。
 そんな現実もあるから、もう少し続けます。

 まわりからの見た目や印象は、当たっている場合もあればそうでない場合もあるのは当然で、それだけで断定なんてできるはずがない。それは、「オカマのような人」だとか「女っぽい人」「女装する人」「オネエな人」など、よくある安易な指摘や思い込みすべてに当てはまる。
 類似する例を挙げれば、
・同性とキスしたがる人
・同性とハグしたがる人
・同性と手をつなぎたがる人
・同性と遊びたがる人
・股間のムスコさんを見たがる男
・オネエ言葉を使う男
 などなどまだまだ、いろいろありますね(ゲイを例にしてはいるけど、レズビアンとかにしたって同じこと)。また、「したがる人」と書きはしたけれど、「したことがある人」なども同様だ。
 これらはすべて根拠にはならないし、できない。
 そんなことだけで疑いなく判断できると思っている人は、改めた方がいい。100%間違いだとは言わないが、ただそれだけで断定なんてできるもんじゃない。
 更に言えば、安易な決め付けが、不幸な結果を招くことだってある。そうなってからでは遅い(これについては、あとで)。

 少し脱線して、先にチラと触れておいた自分のセクシュアリティに気付いていない場合の本人の意識としては、どうだろう。
 ゲイのように見えて、実際ゲイなんだけど、本人は自分のことをゲイだとはまったく思っていないことだってある。または、ゲイのようには見えなくても、実際はゲイで、しかし自分がゲイだとは思っていない...そんな場合だってある。だから当然、否定する。
 もちろん、そういう場合があるというだけで、それがすべてではない。
 ついでに付け加えれば、自分のセクシュアリティがよくわからないまま(大雑把にでも認識していないまま)だから、ゲイじゃないだろうと漠然と思っていて、とりあえず否定しているだけってこともあるかもしれない。
 何らかの理由で、自分がゲイなんだと認めたくなくて、認めない場合もある。認めるのが怖いとか、認めるのは悪いことなんじゃないかと思ってしまっていたりとか。
 理由や状況はいろいろあるけれど、本人が気付いてない・本質的にそうだと思っていないから、認めないことがある。それは確かにある。だから、本人の否定はあてにならない場合があることも事実だ。
 これを根拠のように「そうした人たちはゲイだ」などと言う人がいるかもしれない。だけどそれでも、それは根拠にならないし、できない。まわりの思い込みや安易な判断の方が、むしろもっとあてにならない。
 外見的な印象ほど不確実なものはない。コミュニケーションにおいては、大切なものではあるけれども。
 セクシュアリティは、外見的なものだけじゃないしね。セクシュアリティを表すもののうち、外見に依存し得るのはひとつだけ(それでも絶対的ではなく、曖昧さが残る)。残りのふたつは、目に見えない。
 その否定が、意識的か無意識的かはともかく、また本人の認識がどうであれ、他人が軽くあれこれ判断できるものじゃない。いずれにしても、本人がどうだろうと、他人がどうだろうと、この点には注意すべきだろう。

 あれこれ書いているけれど、結局のところ、他人にどう見えようが、当の本人のセクシュアリティとはさほど関係がないと思う。それだけのことだ。
 ただ、悲しいかな、「それだけのこと」がわからない人が少なくないという現実がある。
 外見的なものが直結する人も確かにいるけれど、そうじゃない人の方が多いと思っておいた方がいい。不幸な結果に繋がってからでは、遅い。

 ヤバイことって、いっぱいある。

 ゲイのように見える何か、感じる何かを、すべてゲイに直結させる人がいる。それどころか、「ゲイなの?」と聞いてみるだけならまだしも、「オマエはゲイだ!」と決めつけたりね。
 もしかしたら、偏見の強い人ほど、その傾向は強いかもしれない。
 しかし先に挙げたようないずれの行為も、既に書いた通り、ゲイと「イコール」で結ぶことができるわけじゃない。
 繰り返しになるけど、改めて言っておこう。
 この意味に、疑問を持つ人もいるかもしれない。「イコール」で結べないのがなぜなのかがわからない...という人も。
 物事が「A=B」のように簡潔にただひとつのものと結びつくとは限らないことは、自明のことだ。セクシュアリティもまたそうだし、ここで挙げたような例をすべて「ゲイの証拠」とするのは、あまりにも強引で軽率だ。
 それがわからないとしたら...その人には、かなり問題があるかと。

 自覚しないゲイがいても、おかしくない。
 でもだからといって、ゲイっぽいとか女っぽい男だとか、そんなことではセクシュアリティを判断できない。さらに、セクシュアリティを表現するものは3つあるとしても、実際にはそれほど単純なものじゃない。

 細かいことを言えば、例えばバイの可能性だってあるよね。どっち寄りかはともかく。同性に興味があるって意味ではゲイと共通点もあるけど、ゲイとも違う。DIG の場合もある。この場合が、最もヤバイ気がする。
 相手がどんなセクシュアリティであっても、不用意な一言が、その人を深く傷付けるかもしれない。安易な決めつけや判断は、想像する以上に危ないんじゃないかな。
 蛇足ながら付け加えておけば、「そう見える」のも、客観ではなく、主観なんだしね。しかもそれは、歪んだ主観かもしれない。

道をはずれてのんびりと

 続けて、ゲームの話。

 のんびりやってるとは、過去に書いた通り。じゃ、その実情って、どんな感じなの?
 そのあたりのことを書いてみよう。
 無課金で、早く強くなりたい人、サクサク効率よく進めたい人には、何の参考にもなりません。ええ、なりませんよ、まったく。

 今、一番マトモにやってるワン○クを例にするとしよう。

「ひたすらに周回」

 よく言われることのようなんだけど、これはワ○タクの基本である。さすがにここは、嫌でもそうなる。と思う。
 周回しなきゃ、レベルが上がらない。レベルが上がらなきゃ、進化できない。進化できなきゃ、進化の餌ができない。
 そんな感じなので、周回しないと何も進まないのだ。

 とはいえ僕自身については、僕のやることなので、「適当にまわして一応なんとなくそうなってる」程度のことだけど。他の部分も含めてわりと気ままにやってるし、周回自体ものんびりしたものなのだ。
 それはつまり、オート周回の回数のことでもある。そもそもオート周回ができなかったら、きっと僕はとっくにやめてる。続かない。そんな気がする。
 んで、オート。
 初期状態のままだと、オート周回ができる回数は、最大200。いつものやり方だと、僕は100前後しかオートでまわさない。時々すべて使い切ることもあるけど、日常的には100前後。
 普通の人(?)は、200使い切るようですけどね。ただし、1日に回復するのは100だけなので、使い切ると補充しない限り、100回しか自動でまわせない。だったら同じじゃないか...というのは、僕の心の声。本当に同じかどうかはともかく。
 他の人からすれば、「なにやってんの?」などと言われそうな様である。

 ただ、サ○ナなんかと違ってレベル上げ自体が楽で、その上オートもあるので、やりやすくはある。所持ヒーローの違いも、かなり影響してそうだなぁ。
 条件的にはさほど変わらない感じがありながらも、実際の加減はまったく違う。僕にとっては。

 さて、話を先に進めよう。
 どうすんだよ!? な筆頭、クリスタルの使い方。
「クリスタルはガチャに使うな」とは、ワ○タクにおける王道である。たぶん。
 じゃあ何に使うのでござるか。周回がキモの周回命なので、ガチャじゃなくて、エネルギー獲得に使うわけですね。ほんで、ドクロでもどこか好きなところでも、ブンまわせ...と。
 でも僕は、大半をガチャに使ってる。貯まったらすぐに使うわけでもないんだけど、ほとんどがガチャに消えていくのだ。

 ゆっくりのんびりやってるからできることなのかもしれないけれど、エネルギーに使わなくてもあまり困らない。たまにガッツリまわすこともあるので、そんな時だけチャージしてやる。
 それで充分なのだ。

 1日の動き。

・適当で不真面目なレベル上げ
 ★3以上のヒーローを中心に6〜16体ばかり最大レベルに上げればおおよそ満足している。倍以上の差があるけど、それはその日その日の事情なので。大人の事情。
 周回命なのに、ここで既にほどほど。
 レベル上げは、クリスタル獲得のためでもある。ランクを上げるつもりのない餌も、ほぼ必ずレベルを上げてから使う(ただしヒーローが溜まりすぎた時などは、Lv1のまま餌にすることもある)。

・イベントはできるだけ参加
 ここでエネルギーやらクリスタルやらゴールドやら、戴けるものはできるだけ戴いておく。評価も付けて、もらえるものをもらっておく。

・古い廃坑も適当に
 1日まわせるだけまわすが、鍵はあまり補充しない。のんびり。

・古代の砦は大人の事情
 1日10回はまわすけど、それ以上はその日の事情に合わせて。
 強化石が落ちるから、ある程度はまわす。だけど、時間を注ぎ込むこともしない。そんな感じ。

・試練の巣は回数だけ
 3回やっとく。結果はあまり気にしていない。どのみちまだまだ育成中なのだ。

・対戦しない名誉の戦場
 やったりやらなかったり。今は育てるのが優先になってる感。放置ぎみでも、おおよそ同じランクに留まってます。
 挑戦することでもらえるはずのポイントは、当然入ってこないけど。

・ええかげんなギルド戦
 そこそこに。
 基本的に、対戦相手に合わせてチームを入れ替えるのがめんどくさいので、主にそのまんまで勝てる相手とドンパチ。

・宝の塔には休み休み登る
 スキマで、少しずつ。ノーマルをのんびりと全階クリアしたら、ハードもちょろちょろと。

・週に一度は一般ヒーロー10連
 通常は月曜日に。ギルドミッションのためでもある。ここにクリスタルを投入する。迷わず。

 ガチャるなんてもったいない! とか言われそうだけど、不都合はない。
 なぜなら、そんな感じでのんびりやってたら、クリスタルが常時5,000前後は貯まってる状態になった。ゴールドは1千万超えてます。
 周に一度くらいヒーロー10連ガチャっても、困らない。たまにエネルギーに振っても、何も困らない。
 課金してもいいと思えるんだけど、とりあえず課金の必要性がそれほど見当たりません。

 装備は厳選していきたいけれど、今はそこまで手がまわらない。というか、焦って無理に集めに行かなくてもいいかな、と。
 飽きるのが先か、装備を揃えはじめるのが先か...。どっちでしょうね。

 と、こんな感じで、他のゲームでもだいたい似たり寄ったり。
 早く強くできればそれはそれで嬉しいけど、のんびりでいいんです。

飽きる冷めるも風しだい

 たまには、いつもとぜんぜんまったく違う話でも。

 ゲームをやる人・やらない人の差は、なかなか大きなものなんだろうと思う。
 僕が小学生の頃はファミコンがドカンと流行った時期なんだけど、自分では持っていなかった。親から買ってやろうかとは言われたものの、結局買ってもらわなかった。まったく欲しいと思わなかったわけでもなくて、でもなんとなく躊躇したっていう...。
 ファミコンとか、それに続くテレビゲームなんかは、もっぱら友達の家でやってました、ハイ。
 自宅では、ゲームウォッチやってましたねぇ。じゃりン子チエとか、ドンキーコングとか。
 このあたりの話は「遊びも楽ではないようで」でも書いているので、繰り返し。事情は変わらないし、囲碁に手を付けてないのも同様。囲碁ではないが、オセロの腕はも少し上げてみたいなと思って、多少の試みがあるようなないような。

 ほんで、今はどうかといえば、iPhone ですねぇ。

 スマホなどでゲームをやるかやらないか、これもまた大差があるけど、めっちゃやり込む人がいるのは言うに及ばず、ドドーン! と課金する人などもいて、ちょっと怖い。
 昔のテレビゲームとの大きな違い。「課金」ですね。オンラインの恐怖。いや、少し違うか。

 僕は基本的に無課金だけど、たまにゲームによっては課金することもないではない。課金する気になれるゲームと、なれないゲームがあるんだよね。
 何がどう違うって、わかんないです。好きか嫌いか、みたいなもんなんでしょうね。
 あと、充分に楽しんだなら、それに対してこちらから出すものがあってもいいでしょ? ゲームの場合はその限りじゃないけど、フリーウェアなどに関しては、純粋にそう思う部分がある。

 iPhone には、使いはじめた頃はゲームをまったく入れていなかった。最初は、あんまりゲームしたくないなと思ってたんだよね。
 ゲームにあれこれ手を出しはじめたのは、

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コレに手を付けた後のことですね。
 まわりで「おもしろい」って言う人がやたらと増えてきて、しばらくしてからのことだ。すぐにはインストールもしなかったので、人よりだいぶ遅れて、ちょっとやってみますか...と。
 思うに、その当時、いわゆる「拡散キャンペーン」のようなものに乗っかってる人がたくさんいたんじゃないかと。たぶん。
 そんな頃の、しかし昔の話なので、今みたいな究極進化だのなんだの、ある意味イッちゃってるプラス機能が付く前のことだ。
 しかしながら、あのコが欲しいっ! は実現していない。未だに。んでそれは、ゴッドフェスだのなんだのでピックアップされるような高人気モンスターではない。フェス、偏りすぎ(個人的希望によれば)。
 ゲームが得意なわけじゃないので、まぁぼちぼちと。今もぼちぼちと。
 過去、何度か課金したことがある。怖い。

 これのインルトールからしばらくしてからだけど、ポツリポツリとゲームもインストールするようになった。あれから、いろんなゲームを入れたり消したりしたなぁ。
 オセロなんかも入ってるけど、パズル系を除いた、今もまだインストールされたままのゲームをいくつか挙げてみよう。
 ただし、ゲーム名はスルーします。アイコンだけに留めて。コラボ中で、いつもと違うアイコンもあるけどね。

 pazdra.png
 公開から遅れること半年くらいから始めたゲームで、かつては一番よくやってたし、お気に入りでもあった。
 ここの会社のゲームは、シナリオなどはしっかりしてる印象がある。ストーリーが軽すぎる、もしくはアクロバティックで無理があるゲームが多い中では、めずらしくもあるしおもしろくもある。ただ、逆に理屈っぽくなりすぎることもある。
 キャラの多さも手伝って、しばらくは楽しく遊んでた。でもね、踏破イベントとかいろいろ改変が続いた頃から、あまりおもしろさを感じなくなってきた。
 何度か課金もしたことがあるんだけどね...。おそらく、課金額が最も高い。とても怖い。
 そろそろやめ時かなぁ...なんてぼんやり思ってる今日この頃。

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 最近ログインしかできてないけど、やめる気もないゲーム。
 ユルい。このユルさは嫌いではない。むしろ好き。
 ただひとつ、最強ナントカ決定戦はやる気になれない。あれは、時間を余らせた人と、金持ちのやるものじゃないかと思えてしまう。すべてではないが、結構な数の上位ランカーが弱い。毎度、弱い。マジで弱い。まだ育てきってない僕でも、余裕で勝てる。しかし、時間もない。お金もない。加えてめんどくさい。よって、上位は目指さない。合掌。
 ある意味厄介なことといえば、この決定戦でしか手に入らないアクセがあるってこと。でも、ガツガツやるのめんどくさい。うん、めんどくさいよ。
 他はさほど不満でもないんだよねぇ。UI にはよくできてるとは言い難い部分があったり、今ひとつあちこちこなれてない感があったりするんだけど、あんまり気にしてないんだよねぇ。UI 含めて、ユルさなんでしょうかね。と、そんなね。
 過去、複数回の課金実績あり。上記の2ゲームよりは小額。

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 これは公開初期にインストールして、そのままになってるゲーム。
 本気とはほど遠い、少し触ってるだけって程度でしかプレイしてなくて、しかし完全にやめてもいない。
 おもしろいかっていうと、いろいろ微妙なんだよね。基本的にただめんどくさいゲームだし(上のユルいのとはまったく違う意味で)、内容もさほど魅力がないし、あれ? これって、いいところがないってこと...?
 でも、なんとなく消せずにいる感じ。
 ああ、そうか、アレか。こう...フィギュア収集にも似たような...? うん、そうかもしれない。
 そもそもというかなんというか、この会社のゲームと僕は、あまり相性がよくないようで。
 無課金。もちろん。

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 このあたりは、インストールして触ってみて、ある程度プレイしたものもあるけど最近はマトモにやってなくて、とりあえずログインは続けてるけど、今後どうするかまだ未定...といった位置にある。
 すべて無課金。育てた苦労は、忘れるとしようか。

 pazdra.png
 今、一番よくやってるゲーム。1周年記念の前にやりはじめた。
 とはいえやっぱりぼちぼちなので、育てるのは遅いです。カメさんのようにノロイです。カメが本当にノロイかどうかはともかく。
 育てるのは遅いけど、ある程度は放置できるので、今の僕にはちょうどいいとも言える。
 使えるヒーローもそれなりに落ちてくるし、しばらくは飽きなさそうだ。
 マトモにやる気がないとか、一人で適当に楽しめればいいって時は、ギルドにも参加しないし、フレンドも積極的に作らない。その点コイツでは、ギルドには入ってるし、フレンドもぼちぼち。ある意味、今までで一番マトモにやってると言えるのかもしれないなぁ。
 ちなみに、のんびりでも自分の好きなように楽しんでやれればいいじゃないか...と思っちゃったりするので、「とりあえず初心者はアレを育てて、ここをまわって...」みたいな、よくある効率重視の助言にはあまり従わない。困った時には、頼ることもある。でも今回のこれは、始めた時期がよかったのもあるのか、労せずして使って楽しいモンスターが落ちてきたせいでもある。
 宝石の強化が簡単ではない。しんどい。あっちゃこっちゃで大量のゴールドが消費される。やはりしんどい。
 目下、反撃パーティーを育成中といったところ。とりあえず覚醒と特性の活性化ができれば、パーティーに幅ができるかな...と思ってるんだけど、どうなるかなぁ。そしたら、ギルド戦でも楽になりそうな気が...。
 今のところ、無課金。課金してもよさそう。だけど、その必要もないくらいで間に合ってる。

 他にもあるけど、主なものはこんなところで。

 ゲームって、やっぱり好き嫌いとか相性とかあると思うんだよね。同系統のゲームでも、ある人はAの方がいいと言い、またある人はBの方がおもしろいと言う。そういうものなんじゃないかな。
 AかBのどちらがおもしろいかで論争したり、どっちがおもしろいかと尋ねたりしても、あんまり意味がないように思うんだよね。
 自分が楽しめるなら、それでいい。

重宝するのにモノはなし

 この季節、5分丈、7分丈のシャツを重宝する。
 昼間は気温が上がるとはいえ夏ほどじゃないから半袖じゃまだ早い気がするし、かといって長袖じゃもう暑くて耐えられない感じになってしまうし、ええい、こんちくしょう。
 でも、5分丈や7分丈なら、ちょうどいい具合に両対応的に使える。完全両対応なわけじゃないにしても。

 ハンパ丈のシャツ、欲しい。

 いや、持ってはいるんだけれど、も少し数があればな...と。

 洋服探しで困るのはいつものことだが、それでも困り度は違う。5分丈・7分丈のシャツはどうかといえば、よく困るもののひとつなのだ。
 5分丈・7分丈に比べたら、例えば長袖のシャツやTシャツの方がはるかに探しやすい。まだマシっていう程度だとしても。

 サイズがないのは、いつものこと。ええ、いつものことですよ。違うのは、その種数なんですよ。

 例えばネットで。
 アイテムによってはSサイズも置いてるサイトであっても、これ気に入った! ってものに限って、Sがないっ! なんてこともよくあるわけでして。
 なんでこっちはSがあるのに、こっちはないの!? そんな疑問と衝撃に襲われるのです。泣く。

 サイト同士を比べれば、どっちかっていうと、アイテムによって傾向が違うことが多いかな。
 このサイトは、「パンツは OK、シャツは合わん」とか、逆に「パンツはないけど、シャツは合うものがある」とか。
 サイズが合うものがなんにもないことも珍しくない。どっちもあるけど一部だけ...なんてことも、当然ある。そんなもん、ザラです。一部のアイテムに留めないで、それもこれも小さいの作ってください。

 ふぅ。

 しかし、困るのはサイズだけではなかったり。
 サイトのカテゴリーである。この半端な袖丈を、どう分類するか。どのページにどう表示するか。それが、サイトによって違うんだよね。たまに。たまに違うことがある。
 個人的には、「5分丈・7分丈」は半袖や長袖とはわけて、「5分丈・7分丈」でまとめておいて欲しい。でも、長袖や半袖と一緒になってるサイトもある。
 そうしたサイトでは、販売方法がそれに適したようになってるわけでして、それはそれで「ああ、なるほど」と思う。なぜそうなっているのか意図はわかるんだけど、それでも「5分丈・7分丈」だけを見たい時にはやっぱりちょっと不便だなー。そうしたサイトは、ページも長くなりがちだし。
 いろいろと、やっぱり悩みは尽きないのです。

 まぁ何にしろ、サイズがなかったらどうもこうもないんだけどねぇ。

事実と思想を混乱し

 既に時間がたってしまったけれど、里親がウンヌンいうニュースが流れていましたね。
 これについては、多少昔の記事で触れたことがある。それ以外にも思うことはあるけれど、おいおい気が向いたら書くかもしれない。書かないかもしれない。


 さて、先日はD夫人と呼ばれる誰かさんが、無知をさらす代表者のような発言をしていましたね。これに対する指摘は、既に過去に繰り返している。発言内容は支離滅裂で、「結婚」と「自然の摂理」を同列に扱うことの不合理性にも思い至らないご様子(より正確に言い直せば、「個人の結婚観」と「客観的・自明的な自然の摂理」でしょうね)。
 わからないならわからないで、思っているだけで口に出さなければまだマシなのだが、そもそもこうした人たちは「自分にその知識がない」ということがわからないので、なかなかやっかいだ。
 きっとこの類いの発言は、この先まだまだ、ウン十年を越えて続いていくんだろうなー。

 そういえば...というにもちょっと遅すぎるし、これとは毛色が違うのだけど、さらに前のもので、別人による以下のような発言もありました(内容の直接的な色は違うが、根っこは交差する)。

 まるまる引用いたします。

トランスジェンダーの問題。しばしば、彼ら彼女らについて、「あの人は病気じゃありません!そう指摘するのは差別です!」「政府は彼女を正常だと認めて下さい!」と言っている人達がいるが、その彼女に必要なのは、政府のお墨付きではなく、治療だと思う。

レズ、ゲイ、バイセクシャルは「性癖」です。彼ら彼女らは法的に保護されるべきだと、一部の人たちが主張しているが、なぜ個人の趣味である「性癖」を法で保護しなければならないの?じゃあ、SMクラブに通ってるサラリーマンも、国で保護しなきゃね。サドもマゾも性癖なんだし。


 引用、ここまで。

 いやー、何を言っているのか、まったくわかりませんねぇ。指摘や引用が四方八方にズレていることもさることながら、なんら根拠のない発言ですね。
 この発言主個人についてどうこう言う気はない。そこはほっといて、発言内容は意味不明な典型例のひとつなので、これをネタにしてみよう。
「政府は彼女を正常だと認めて」というくだりなどは別の意味で違和感があるんだけど、それは横に置いておきますね。

 言ってることは読んだままなのだけど、ポイントを要約的に簡単にしちゃうと「トランスジェンダーは病気だから治療せよ」「ヘテロ以外のセクシュアリティは性癖・趣味であって、SM と同じもの」「性癖・趣味であるセクシュアリティを保護するなら、SM 癖者も保護せねば(たぶん風刺的な意味で)」というわけですね。
 サッパリちんぷんかんぷんです。事実に基づいていないので。自分の思い込みや決め付けで、好き勝手言っちゃってます。めちゃくちゃ歪んだ、事実を無視した思想です。

 ひとつ、注意を差し挟みます。
 先の「トランスジェンダー」は「性同一性障害(者)」を指しているものと思われますが、ここらあたりの正確さについては、ひとまず横に置いておくといたします。

 残念ながら、妄執に捕らわれた人は、哀れなほど自分の思い込みから逃れられない。この類いの主張をする人には、そんな人が多い。
 性的指向性は、誰にだって備わっている。それがなかったら、ヘテロだって男が女を、女が男を好きにならない。好きになることができない。ゲイとヘテロは、ここが逆なわけですね。ただし、この性的指向性が一方向だけに向くわけじゃない人とか、どこにも向かない人もいる。
 冒頭のトランスジェンダー云々を引いてくれば、一般的な性同一性障害(GID)の人なら性的指向は異性に向くので、ヘテロと同じだ。性自認も、同じと言える。生物学的な性が、「普通の人」と違うだけである。「だけ」といっても、この性自認と生物学的な性が違うという状態が、非常に大きな苦痛を産むわけですが。
 GID を病気や性癖と同じように思っているようだけど、あきれるほどに短絡的ですね。なんとなくの感覚だけで発言しているのがよくわかる。根拠がなく、当事者へ思いを致すこともない。
 どこにどのような治療が必要だというのかなぁ。おそらく、そんな指摘すら的確にできないだろう。病気などではないので、指摘できなくて当たり前なんだけど。それでも「精神が...」とか言い出しちゃったりするんだよね。

 続いて、レズ、ゲイ、バイセクシャルは性癖だという決め付け。もちろんそんな事実はないし、性癖などではない。仮にそれが性癖と呼ぶべきものだとするならば、男が女を、女が男を好きになるということもまた、性癖と呼ばなければならない。誰かが誰かを好きになることは、性癖か?
 こういうの、何を根拠にしてるんでしょうね。まぁ、根拠はないんだけど。ないものは、示すこともできないけど。
 しかし、彼らがしばしば根拠だと思っているものは、いくつかある。
 例えば「生物は子孫を残すことが目的であって、その目的から外れるものは正常ではない」などといった主張があるけれど、これは根拠ではない。それっぽい理屈を、それっぽく吐いているにすぎない。「生物は子孫を残すことが目的」なんて、誰が決めたんだ?
 いや、子孫を残すことは大切な営みではあるわけです。太古より延々と受け継がれてきた、今も絶えることなく続いているものです。生物全体として見れば、ね。
 しかし生物は、それだけが目的で、ひたすら効率を求めるものじゃない。遺伝子というものには、ゆらぎがある。それを含めて、生物は生物足り得るのだ。それがなかったら、その種はむしろ絶滅するだろう。

 ゲイやレズビアンは、性的指向が同性に、バイセクシュアルは両性に向くというだけのこと。性的指向が自分と同じではないからといって、それが正しくないとなぜ言えるのか?
 生まれ持った変えようのないもののひとつが、性的指向だ。性を表現するものは3つあるが、そのうち外部からの力で変更可能なのは、生物学的な性だけである。GID を含んで「トランスジェンダー」については理解できるという人がいるが(この主張の歪みはともかく)、おそらくは、だからこそ、まだ理解しやすいのだろう。
 しかし残りのふたつ、性自認と性的指向は、変更のしようがない。そんなに簡単に変わるものなら、ヘテロの皆さんだって簡単に同性愛者になれますよねー?
 ほんで、「自分と違うセクシュアリティ」を性癖としか見ていないので、SM を例に引いてくるという意味のわからなさ。同列に語ることのできない事項でもって、物事を比較したり例えたりするのは、歪なやり方だろう。
 しかも、SM クラブに通っているヘテロのサラリーマンは結婚できる(もしくはしている)。また、それに伴う法的な保証もありますよ。のっけから、そしてあらゆる点で、セクシュアルマイノリティと比較するには不適当ですね。

 さらにツッコミを入れておきます。
 保護がどうとか言っているけれど、これもおかしな話だ。
 確かに、「保護」のような主張をする人はいる。当事者というよりも、それに関わろうとする第三者に。
 でもね、法的に「保護」する必要はない。「保護」ではなく、生きる上で認められてしかるべきものが認められない状態に放置されているので、それを是正するべきであろう、と。「ヘテロの人たちと同じように、普通に生きたい」と願う当事者が望んでいることとは、一線を画す。
 同じ人間として、当たり前のことを言っているにすぎないのだ。保護しろと言っているのではなくて、当然認められているべきものを認めてよ、と言っているだけなのだ。
 ただそれだけのこと。

逝くこと逝かれること

 僕の望むものについては、先の記事に書いた通りだ。
 ごちゃごちゃしたことは一切不要と思っているので、その内容については説明もしないし、いらないだろう。

 さて、その記事を受けまして、死に対して思うことなどをいくつか。
 死んだらどこへ行くのか? そんなこと、僕は知らない。知らないし、死後の世界なんてなくていいと思ってさえいる。
 無神論者かと言われれば、違う。無宗教者かと問われれば、まぁそれに近いものだということにはなるんだろう。ただ、そう言われても、あるいはそれに近いものなんだろうと思いはしても、なんかピンとこないんだけどね。
 仏とか神とか宗教を否定するつもりはない。仏とか神はいないと主張するつもりもない。信じる人も信じない人も、また自分の宗教や宗派などに対する姿勢や行いがどうであろうと、どうぞご自由に...と。だからといって、不可知論者でもないからねー。
 とにかく、宗教について論議するつもりも、講釈垂れるつもりもないよ。お説教もいらないよ。

 近年は「終活」などという言葉もあって、シニア層には、自分が死を迎える時の準備にいそしむ人もいるそうだ。またそれと絡んで、「墓は立てるな」といった内容の本が売れたりするのだ。
 ここで僕が書いていることは、まるでそれに似た内容にも思えるわけだが、こんなことを考えだしたのは、なにも最近のことではない。いつからだか、もはや自分でもよくわからない。そのくらい昔から、若い頃からのことだ。
「千の風になって」がヒットするよりも、さらには「旅立つ日」が話題になるよりも、もっともっとずっと前のことだ。

 話を少し脇道へ。
 先に書いたことと重複するけれど、僕自身は、葬式って残された人のためのものだと思うんだよね。もちろん、宗教的な意味では、死んだ人のためのものなんだけれど。でも送る側の人にとっては、それが別れの気持ちの整理の第一段階なんじゃないかな。
 特に今の日本じゃ、そういう側面での意味が大きくなってるかもしれない。「葬式宗教」なんて言われたりするけど、そこにも同じような意味があるなと感じるところがある。

 こうした死後に関する思いを表明すると、それはナンタラ教と同じだ、ナニヤラと似ている、ウンタラ教と考え方は同じことだ、ダレソレの言うことと同様だ...だのなんだのかんだの指摘する人がいるものだけれど、僕は、既存の宗教との共通性や類似性が知りたいわけじゃない。魂の救いといったような道にいざなって欲しいわけでもない。僕の知らない(かもしれない)誰かと、思考の類似性を確認したいわけでもない。
 当然ながら、その「正しさ」を検証する必要もない。

 さらに、「千の風になって」のようなものを引き合いにされても、僕は困惑するばかりだ。僕が「お墓はいらないな」などと考えるようになったのは、それを知るずっと前のことだし、その詩の内容のようでありたいとも思っていない。
「千の風になって」で僕と共通するのは、「そこに私はいません」というくだりだけかな。曲の内容を否定するわけじゃないので、勘違いしないでね。

 死んだらどうなるかなんて、僕にはわからない。死んでまだ続きがあるとか、よくわからんし、続きがあったら正直しんどい気もする。あっさりと、なんにもなくていい。
 でも、もし死んでからまだ先があるとしたら、「自由な存在」だとおもしろいかもしれないなぁ。今そう思うだけで、実際はおもしろくないかもしれないけど。
 この意味では、「風を見た少年」には近いものがあると思う。「千の風になって」ではなくてね。


※「風を見た少年」は、小説です。

逝って望むもの

・葬式不要
・墓不要
・即刻焼却
・骨不要
・灰の処分にこだわりなし

 唐突な始まりですが、人それぞれ、死んだ後のことについて希望がある人は少なくないだろう。逆に、一切考えない人もいるだろう。

 僕はどうかといえば、まったく考えていないわけではないけど、事細かにあれこれ希望があるわけでもない。昨今、「終活」などというものが取りざたされることが多くなっているけれど、そうした準備などをしているわけでもない。

 んで、今のところ僕が望むことといえば、冒頭に挙げたことだけだ。

 簡単に言ってしまえば、なんにもいらないよ...と。焼く必要はあるけど、それ以外に望むものはない。
 告別だとか、浄めやら清めだとかもいらない。一切不要だ。だから、死んだら即刻、もたもたせずに迅速に、さっさと遺体を焼いてしまって欲しい。
 骨不要とは、灰になるまで焼く尽くしてしまえ...ということ。納骨もいらないし、拾ってもらいたいとも思わない。

 灰の処分方法についても、こだわりがない。「掃いて捨てる」で問題なし。ただし、現実的には法的な問題もあって、「自由に処分」できるわけではないけどね。
 希望としては、なんにも「特別なこと」はいらないんだよね。

 遺産のことは、考えてない。
 もっとも、残せるほどのものはないんだけれど、ね。

 しかし、ですよ。
 葬式のようなものは、僕としてはいらないんだけど、さらにはその時存在しているかどうかもわからないことだけれど、残されて僕を悼んでくれるような人がもし残っていたとしたら、その人たちにとっては必要なことなのかもしれない。そう考えたりもする。
 思うに、死後の儀式のようなものは、まだ生きている人にとってこそ必要な場合があるんじゃないかと。気持ちの区切りや、整理の期間として。

 だから、せめて代わりの何かが必要だというのなら...。

 冒頭に挙げた僕の希望することのすべてが終わった後で、好きなようにして欲しい。
 僕としては、バッハの「4つの序曲」から「管弦楽組曲 第3番 第2曲」、いわゆる「G線上のアリア」にあたる曲をお祈りの代わりにでも流して、偲ぶなりなんなり好きに過ごしてくれればよろしいかと。

 淡泊と言われようがなんだろうが、僕は何もいらないのだ。

迷って困ってまた買って

 エディタとかその類いのアプリはいろいろ使ったことがあるけれど、世の中に出まわっている類似のアプリをすべて使ったことがあるわけじゃない。当然だけど。
 Bear との出会いなどは、幸運の例のようなものだ。幸運があれば、もちろんその逆もまたあるわけです。
 今回は、そんな残念なお話。

 用途によって使い分けがしたいという意味のことは、過去にも書いたことがある。その中で最も変遷が多いのが、何某かの長文のアレコレをゴニョゴニョするために使うアプリである。なんのことやらさっぱりわからないかもしれないが、具体的なことは今ここで書く気もないが、まぁ細かいことはスルーして...。
 Evernote と同居していた時期もあるんだけど、やっぱり替えたいなー...と。そこでいろいろ調べてみまして、これがよさそうだから使ってみようと思って入れたのが、Write であった。

 Write 自体の世間の評価は、低くない。低くないというか、高い方のアプリのひとつでしょうね。
 Mac版と iOS版があって、保存も同期も意識することなく使える。あまり用はないけど、マークダウンもOK。こうした基本的な機能については、Bear などと大差ない。
 Write はタグ以外に、フォルダが使える。これが、Bear などと違う点のひとつだろうか。
 マトモに使えればとても便利なことは想像に難くないわけですが、しかし! 僕のところではうまく働いてくれなかった...。泣きます。

 あくまでも「僕のところでは使えなかった」ということだ。世間一般では、あまりそういうことがないようですね。どうやら。
 何がどう使えなかったのか? 同期である。なぜだか原因は分からないのだけれど、とにかくデータがうまく同期できないのだ。
 Mac 側では、特に問題がない。でも iPhone だと、一部のノートしか表示されない。ためしにキャッシュなどを削除したり、アプリを再インストールしたりといくつかできることを試してみたものの、解決しなかった。
 有料だってのに、使いものにならない...。泣きます。

 問い合わせるのが面倒で、文章を考える気にもなれない。でも、アプリは分けたい。しかし、有料だったからもったいない...。
 そのまま悩み続けると、堂々巡りになってしまいます。でもねー、使えないものは、どうしたって使いようがない。もはや価値がない。まずは使えなきゃ、話にならない。
 そんなわけで、泣く泣く他のアプリをインストールし直したのであった。

 代替アプリは、いろいろとあります。
 細かい違いはあるものの、こうしたアプリには、似たり寄ったりの機能を持つものも多い。それでも、僕には不要な機能を捨てたり、好きになれそうにない点を挙げたりして選別していくと、残るアプリはかなり絞られてくる。
 例えば、WriteRoom や Byword は、ノート管理の面で僕の希望と合わない。Letterspace は、Bear と近すぎる気がする。Ulysses はおもしろそうなんだけど、ちっと高すぎないかい? その当時は iCloud を使いたかったし、ブログとの深い連携も必要ないから Blogo はそぐわない...(以下省略)。
 と、そんな感じで。

 最後に残ったのは、iA Writer であった。かつて Write をインストールした時に、どっちにするかで最後まで迷ったアプリのひとつだ。
 今のところ、問題なく使えている。
 これはこれで、不都合がないわけじゃない。フォルダの上の階層へ移動する時の操作がプルダウン式のみだとか、ファイルリストの表示サイズが固定でやや小さめだとか、そんな感じで。とはいえ、そのほとんどはしばらく使ってるうちにたぶん慣れるであろう種類の不都合なので、もう少し様子を見なきゃどちらとも言えないかな。
 希望を言えば、入力時のフォントは好きなものを使いたいし、フォルダの移動をもっと楽にして欲しいなぁ。

 しかしなんと言っても、「買い直す」はめになったのがねぇ...。
 ちょっともやもやしながら、ひとまずめでたしめでたし。ひとまず...ね。

違うことは違うこと

 キミは僕と違うから、正常じゃない──。

 こんなことを言われたら、どう思うだろう。相手は、友達でも家族でも、先生でも、上司でも、同僚でも、見知らぬ他人でも、誰でもいい。
 根拠は、ない。正当な理由もない。彼はただ、自分と違うからダメだと言うのだ。「僕」だけが正常であって、それと違うものは異常だと。だから、「僕」と異質な「キミ」は異常だと。
 自分と考えが違うから、異常。自分と同じように行動しないから、異常。自分と同じものを好きにならないから、異常。自分と生き方が違うから、異常...。自分と違うものは何もかもダメで、ダメなものはすべて異常だと...。
 具体的な反応や主張は、いろいろあるかもしれない。けれど多かれ少なかれ、こんなことを言われたならば、誰もが戸惑いますよね。
 まったくもって、余計なお世話だ。自分と考えが違うから「ダメだ」なんて、むしろ意味が分からなくありませんか? 相手が誰であろうと、そんなことを他人に言われる筋合いではない。やっぱり変だよね。
 こんな主張、それ自体が「異常」だと言っても差し支えないかもしれない。

 ところが、この「自分と違っていたら正常じゃない」というわけのわからない主張がまかり通ることがある。この、エゴと偏見の塊のような、突飛で非常識な主張が。不思議なことに。
 まかり通るというより、ゴリ押しされると言う方がいいのかな。それを当然のように思っている人たちがいて、冷静に考えれば誰もが理解に苦しむであろうこうした主張を、なぜか正しいと言って絶対に譲らない(ただし、それを指摘すると、そんなことは思ってない...と返される)。
 そのひとつが、セクシュアリティに関する否定的見解ではないだろうか。

 とても突拍子のない発言なんだけど、そこではこれが正当化される。もちろん、論拠も何もないので、この正当化は歪んだ正当化なわけですが。

 そんな人たちは、自分の言うことの正当性を哀れなほど必死になって裏付けようと、視野の狭い見解を、あたかも広く世界が認めた見解であるかのようにも見せかける。
 なもんだから、あわせてこんな言葉もよく出てくる。

「自分のまわりの人たちは同じことを言っている」

 まわりの人たちとは、いったい幾人のことでしょうか。また、そのうちの何人が、本音で話をしてくれたでしょうか。
 仮に、小さな世界で、小さな仲間内で合意ができたとしても、それが世界と広く共有できる正しい意見だとは限らない。
 それになによりも、たった一人の合意者がいただけで、それを「まわりの人たち全員」であるかのように言い繕うなんてことは、悲しいかな、珍しいことじゃない。

「みんな同じように思っている」
 これも上の発言と同じことなんだけど、やっぱり視野が狭い。
 みんなって、あなたともうひとりいれば、それで「みんな」なんでしょう? あるいは、あなたが「仲間」だと思っている「歪んだ人の集まり」のみんなにすぎないかもしれませんね。ついでに、歪んだ仲間の中にいたら、自分の歪みにもなかなか気付けないでしょうね。
 もっとヒドイのになると、誰からもそんな同意を得ていなくても、「同意を得られるに違いない」という根拠のない「確信」を「事実」として口にしたりする。いやー、どうしましょ。救えません。

 しかし、こうした歪みについて指摘をしたとしても、逆に「その指摘と同じようなこと」を言って逆襲する人までいる。まるでマホカンタでも唱えたかのように。
 いや、もうそれ、笑うしかないでしょ。
「じゃあ、お前に賛同する奴を連れてきてみろ。町内を訪ね歩いてみろ」とか、そんなことを言いだしたりするんだよね。いやいや、まったく意味がありませんよ。
 この発言自体が差別意識をふんだんに盛り込んでいるんだけど、今は横に置いておきます。

 キミは僕と違うから、正常じゃない。

 そんな突拍子もない決め付けがまかり通るような世界で生きていきたい人は、いるんだろうか。
 僕は、生きていたくはない。

使い心地は軽やかに

 最近、Bear を使い始めた。
 Bear とは、なんぞや。マークダウンが使えるテキスト系のアプリである。Mac 版と iOS 版があって、意識しなくてもデータの同期ができるノート系のアプリである。

 しかーし! 僕はマークダウンが使いたかったわけじゃないから、肝心のマークダウンを使ってない。ないったらないのだ。

 これまでサイトの更新ネタの仮置きや編集には、主に MobisleNote を使っていた。でも、ちょっとした不満があるんだよね。
 本当に細かいことなんだけど、ちょこちょこちまちました部分で使いやすくないところがあったのだ。いや、基本的には不満はないんだけどね。
 例えば、デスクトップ版で自動保存される時の挙動(一旦ページのトップに戻ってしまうし、直前の編集内容が保存されずに消える)だとか、iOS版でページの最下部での表示が気持ちよくない(最終行が半分隠れた感じになってしまって、編集にやや支障をきたす)とか。そういう小さいことです。
 小さいとはいえ、繰り返しにしろ種類にしろ、数が積み重なればバカにならない。

 そんなわけで、これはこれで便利なんだけど、別のアプリに乗り換えようかな...などと長いこと思っていた。思ってはいたけど、乗り換えてもいなかった。
 腰が重いですね。

 ほんで、バージョンアップしたのを機会に Bear を試しに使ってみて、悪くないな...と。正直、マークダウン記法は使ってないから、そこの部分はむしろ不要かもしれないんだけどね。僕としては。今現在、マークダウンを使ってるのはタイトル部分だけ。
 宝の持ち腐れですね、うん。

 使い始めてすぐは、Mac 版でスクロールバーが常時表示されるわけではないことに戸惑った。これは想像だけど、マウスによる操作じゃなくてキー操作を前提としてるからなのかもしれないですね。ただ、スクロールバーは、ページの長さや位置を知る手掛かりにもなるものなので、そういう意味では常時表示されている方が便利だと思うんだけどなぁ。
 あと、ページのタイトルは、上部に常に表示されるわけじゃない。ページを下にスクロールしていくと最上段もページ送りについていくので、タイトルは見えなくなる。まぁ左側のリストに出てるから、タイトルがまったく分からなくなるわけでもない。がしかし、地味に不便な気がしなくもない。

 って、不満ばっかりじゃないか。

 いやいや。でもその他の点で、いいところもいっぱいあるんです。
 アプリの見た目が気持ちいい。フォルダはないけど、階層的に表記できるタグがあるから分類は簡単。そのタグの「管理」は、実質的にしなくていいようなもの。
 いいじゃないか。
 それに、見た目だけじゃなくて、使って気持ちいい! これ、重要。

 Mac版もiOS版も、左側がインデントしたかのように開いている。いくつかのマークダウンを表示するなどの領域のようですね。
 これも最初は戸惑ったんだけど、すぐに慣れてしまった。意外と気にならない不思議。

 といった按配でして、いい感じです。これは乗り換えるしかなかろうて。MobisleNote は使わなくなりそうだなぁ。
 今のところ、Bear にネタを溜めてるけど、アップ済みの記事は Bear に残していない。サイトにアップしたら、Evernote に移している。
 面倒といえば面倒だけど、昔からこうしてたし、意外なことに(?)あまり面倒だと思っていない。

 将来的には、マークダウンの一部を利用することもあるかもしれないけど、どうだろうな。使うかな。

 なんにしろ、こんな使用法はまったく「正しくない」ので、ご注意ください。僕は気にしてないけどね。

魔女が誰かを魔女と呼び

 同性愛を否定する発言に対しては、いろんな批判や指摘の仕方がある。
 その中には、こんなものも見られる。
 魔女狩りを例に引いて、「中世の魔女狩りでは同性愛者が含まれ云々...」といった具合に話の展開を試みる。おそらく、なんの罪もない普通の人が謂れのない糾弾に無用に晒されることの理不尽さなどを訴えたいものと思われる。
 この「魔女狩りだ」に反論して、否定的見解の持ち主さんなどは「中世の魔女狩りでは、普通の人も含まれていた」「女性も含まれていた」「同性愛者だけが標的にされたわけではないので、この件とは無関係だ」などと述べる(たいていは、他はトンチンカンでも、具体な意味に限ればここだけ反論が的を射ている。ただし「女性は〜」というくだりはやはりトンチンカンだし、「普通の人」という言い方は危うさがある)。

 魔女狩りを話題にするこういった例は、あちこちで目にする。
 内容も、だいたい似たり寄ったり。なんでどこでも同じようなやり取りになるのか、不思議なくらい似ている。

 この批判者が「中世の魔女狩り」そのものを指して問題点を指摘したかったのかどうかは知らない。おそらくそうではないし、意図が違う場合もあるのだろうとは思うけれど、言葉足らずなことが多いことが惜しまれる。
 いずれにせよ、「魔女狩りだ」とする発言は例の取り方や指摘のしかたがうまくないし、対する反論はその共通性に目をつむっているように思われる。

 僕は魔女狩りを引き合いに云々言ったことはないけれど、今回はこれを話のネタにしてみたい。

 中世の魔女狩りの実体が、どのようなものだったのか──。
 これは、とても重要なことだと思う。なぜ、それが起きたのか。それが起きた社会的な空気とは、どんなものだったのか。
 ここで注目したいそれは、具体的に「誰が」とか、きっかけそのもの、処刑された人たちの具体例だけを指すわけじゃない。経済だとかの話のみでもない。
 もちろん、学問的には、それらが重要になることも当然あるだろう。ただしその学問的に重要な要素が、問題の全体像を的確に表し得るとは限らない。
 直接的な、具体性のある発端の解明が、必ずしも重要なのではないと思うんだよね。いや、「それだけが重要なのではない」と言った方がいいのかな。大きく見た時のその性格とでもいおうか、それが空気感染する雰囲気のようなものだという点などにも注意すべきだろう。

 魔女狩りは、形を変えていくらでも現代に蘇ると思う。それも、いとも簡単に。まことにたやすく。規模の大小を問わず。なんでそう思うのかと言えば、身近な例なら「いじめ」などとも同じものだと思うからだ。
 しかも、簡単にはなくならない。悲しいかな、解決も難しいことが多い。具体性だけで容易に解決できるのなら、そうはならないはずなんだけどね。

 重要なのは、その構造のようなものじゃないかなぁ。それも、暗黙のルールのごときものがあるかのような。
 中世の以前・以後を問わず、似たような事例は枚挙に暇がない。非常に規模の大きな、国家レベルでの共通的事例も、当然ある。それはもちろん、「魔女狩り」とは呼ばれていないのだけれど。

 魔女狩りを蘇らせる方法は簡単で、しかもいくつでもある。加えて、どんなところにでも存在し得る。他のページの繰り返しでもあるけれど、それを端的に言えば「思い込む」ことだ。
 自分の信念だけを、唯一絶対のものとして信じ込む。自分だけが正しくて、他人は悪であると思い込む。自分の行動は常に善より成り、他人の行動は悪によって立つと考える。自分はただ、その信念のみを神のように信じ、その「良心」にさえ従っていればいいと確信する。その内なる規範を疑うこともまた、罪だと思い込む。
 これらすべてを、意識・無意識を問わず「思い込む」のだ。

 歪んだ信念の虜となって、その盲目ぶりに気付かず、たとえ下僕となり果てようとも一向に振り返ることもない。
 書いていて、なんだか哀れですね。
 そう思い込んでいるだけなんだけど、その人にとってその時その場では、絶対的にそれが「正しい」のだ。それに反する人は「正しくない」、つまり「人間じゃない・仲間じゃない...」ことにされてしまうのだ。
 なにやら空恐ろしい。むしろ、狂気の沙汰ですね。でもこれを、普通に、さも当たり前のようにやってのけるのだ。ごく普通の隣人が。
 思うに、狂気なんてそんなもんだろう。目に見える行動や言動としての「狂人」だけが、狂気を持ち合わせているわけじゃない。案外そのあたりに、日常の中に紛れているものだろう。

 こんなふうに言うと難しく聞こえるかもしれないし、自分は関係ないって思ってしまいがちかもしれない。だけど、誰にとっても縁遠い話じゃないと思う。
 要するに、どんな小さなことでも、自分が正しいと思っていることや自分がしていることを、誰かに否定されるのを許さない・許せない...なんてのは、この「思い込み」だってことです。
 誰にだって、こんなことはあり得ます。僕だって、覚えがあります。後から思い返して、いや違うな、そうじゃないな...って気付くこともある。

 魔女狩りといじめなどが似ていると思うのは、こういった点だ。

 学校や職場でのいじめ。陰湿だけど、いじめる側は罪の意識がない。あるわけがないとも言える。自分が絶対的に「正しい」と思い込んでいるんだから。それが覆されることは、「あり得ない」ことなのだから。
 人は、なんだかんだと理由を付ける。いじめだって、理由を付けてあれこれ言う。いじめた側は、何かと言い訳をする。たとえ自覚がなくてもね。いじめに加担していることにすら気付かない。あるいは、それが「正しい」と心底思っている。ハブられる奴は、ハブられて当然なのだ...と。しかも、それらを忘れる。
 でも、その理由は単に「私、悪くないもん」という「言い逃れ」であって、正当な理由がどこかにあるわけじゃない。なんで私は「間違っていない」のに、他人に何か言われなきゃいけないの? って。
 これって、傍から見るとなかなか滑稽です。だけど、本人は気付かない。指摘したって、ほとんど意味を成さない。

「○○さんって信じられないよねー」
「○○さんって感じ悪いよねー」
 表向きはマイルドなそんな「共感」でもって、簡単に事が始まり、しかも攻撃力を高めて持続する。
 マイルドなだけに、タチが悪い。罪の意識が希薄になるからだ。そして当人達は、嫌な奴は罰せられて当然と、ますます漠然と思い込み、信じきるようになる。しかも、終わりは見えない。
 それがいじめであり、差別であり、魔女狩りなのではないか。

 例にいじめを挙げたけれど、それに限らない。
 犯罪者の親族への執拗な嫌がらせ、被害者への止まぬ好奇のまなざし、特定の人たちへの差別、根拠のない一面的で集団的なリンチ...集団による理不尽な社会的制裁やそれに類するものは、世の中にいくらでも溢れている。
 特定の者を吊るし上げることを比喩として「魔女狩り」と言い表すことはよくあるけど、必ずしも大袈裟なことではなくて、ごく身近なものなのだ。インターネット上では、それにさらに拍車がかかることも多い。

 セクシュアルマイノリティに対する謂れのない攻撃もまた、同じ性格を持っている。
「中世の魔女狩りとは内容が違う」などと返すのは、一見的確なように錯覚するかもしれないけれど(事実、歴史としての具体性においては的外れではないのだけれど)、その共通性にまったく目が向いていないことは明白だ。目が向いていないということは、慮ることができないということだ。話を逸らす効果はあるけれど、それだけでしかなく、むしろ愚鈍なのではないだろうか。

 中世の魔女狩りでは「普通の人」が犠牲になったが、同性愛者は「普通の人」ではない...と、さらに反論する人もいるかもしれない。
 これに対する答えは、他のページでさんざん触れた通りだ。「普通の人ではない」という見解には、根拠がない。多数か少数かという、単なる数の違いでしかない。ここでは、これで充分だろう。その主張もまた、まさに誤りや思い込みにまみれている。
 好き嫌いとは別問題なのだ。好き嫌いは、個人の勝手にすればいい。気持ち悪いと思うのも結構だ。しかしそれを理由に、例えば「普通の人ではない」などと言うことのどこにも、正当性は見出せない。

 誰しも、たとえ間違っていても、場の流れには乗せられやすいものだろう。そんな時、人の思考は停止する。だけどそんな状況は、集団の中にだけ存在するわけじゃないと思う。個人の中にも、それはある。どちらも相互的で、気分に流されやすいものなのだから。
 自分は違う、そんなことはしないと思いがちだけど、人の心は盲信に弱い。その理不尽さを肝に銘じなければ、同じことは未来永劫繰り返される。
 そして愚かな人間は、それでもきっと同じことを繰り返し続ける。
 僕もその例外ではない。

 だからといって、希望がないとも思ってないけどね。

妹背の姿が意味するものは

 時々、僕には不思議に思える検索キーワードが使われていることもある。
 そのひとつが、折り紙の妹背山に関するもの。つながった二羽の折り鶴に対する「特別な意味」を知りたがっている、あるいはその有無を調べている様子が伺えるのだ。

 連鶴の妹背山の意味は、至極簡単なものだと思う。妹背という言葉は和歌にもしばしば織り込まれていて、それ自体は珍しい言葉じゃない。
 だけど、現代だからなのかどうなのか、日常的に使うことはないよなぁ。せいぜい、結婚式や披露宴の場で耳にすることがあるくらいだろう。ぜんぜん聞いたこともない! 初耳! って人がいても、不思議じゃない。特に、若い人たちにはね。

 妹背山とは、なんぞや。どこの山でござるか。

 山はひとまず置いといて、まずは妹背。
 妹背にはふたつの意味があるのだけど、そのひとつは、夫婦を意味するもの。こちらが、結婚式や披露宴で使われることがある意味ですね。妹背の契りがどうだとか、挨拶や祝辞、チャペルでの賛美歌などで夫婦を妹背と表現することは珍しくない。しかし、先ほど書いた通りだけど、そのような機会でもなければあまり使うことがないし、またそんな時なら必ず聞くわけでもなく、あまり馴染みはないかもしれませんね。
 もうひとつの意味は、異性の兄弟姉妹を表す。つまり兄と妹、または姉と弟のことだ。

 そんなわけで、向かい合うふたつの山を、夫婦兄妹になぞらえて、妹背山と呼んだりする。単に象徴的にそう呼ぶこともあれば、一方は妹山、もう一方は背山と名付けられていて、あわせて妹背山と呼ぶこともある。こういった山は、すぐそばに並んでいることもあれば、川などを隔てて向かい合っていることもある。
 いずれにせよ、そうした二つの山を、夫婦兄妹に見立てるなどして「妹背山」と呼んだわけですね。
 実例として、妹背山として知られる山には、奈良の吉野川を挟む妹山・背山や、和歌山の紀ノ川両岸に立つふたつの山などがある。

 といった具合で、妹背を平たく言えば夫婦のことで、そのように見立てた山が妹背山だ。
 連鶴の妹背山は、そうした見立てを二羽の折り鶴に移し替えた(映し取った)ものなんですね。たぶん。
 そんなわけで、左右紅白で色違いの妹背山を折るとよりおめでたい感じになるのでして、だから二色の妹背山を折りたい! でもどうやったらいいのかよくわかんない...なんて人も、相当数いるのです。たぶん。

 ここまでは、妹背山の純粋な意味の話。
 で、「特別な意味」とはなんぞや。

 もともとそんな意味は何ひとつ含まれていないのだけど、二羽の鶴に、セクシュアリティを超えた意味を求める人もいるみたいなんだよね。「求める」という言い方は、正確ではないかもしれないけれど。
 要するに、妹背山は、ゲイやレズビアンを表現し得ないのか...といったような。あるいはもっとストレートに、それを意味しないのか...と。
 繰り返すが、もともとそんな意味は、露ほどすらないのだ。ないったらないのだ。

 でもね、後世の人が、直接的な「妹背」を現すのではなくて、広く「カップル」を表現するものとして使おうが何をしようが、どうでもいいようなこと、現代人の勝手にやればいいことではある。ゲイのカップルが結婚式を挙げたり披露宴を開いた時に、たとえ妹背山を飾りに使ったりなどしても、それはその人たちの自由だ(結婚に関する法的な話はともかく)。「妹背」の本来の意味にこだわる必要は、まったくないだろう。
 使いたい場所で、それにふさわしく使われるなら、そんなことにこだわることはない。
 代替としてだったり、想い出としてだったり、あるものに別の意味を込めて、あるいは個人的にある思いが込められていて、それが本来とは別の使われ方をすることは、よくあることだと思う。この場合の妹背山も、広く言えばそのひとつにすぎないだろう。広く言わなくても、自由に使えばいいと思うけどね。

 でもそこに、ある種の特別な唯一無二のごとき意味付けをしてしまうのは、いかがなものかと思う。それが望まれているかどうかはわからないけど、同性カップルをこそ現すんだとか、もっと限定的にそれのみを象徴するかのように。
 レインボーを LGBT の象徴的なマークのひとつとして使うのは勝手だけど、レインボーはそれのみを表すものではないし、それのみを意味するものだと主張するのは行き過ぎだろう。妹背山もまた、然り。

 堅く元の意味にこだわる必要はないと思うけど、それを別の意味のみに限定するような象徴としてしまったのでは、おかしな縛りや硬さが生まれてしまいかねない。そうなったら、ちょっと悲しい。
 そうした意味にこだわるのではなくて、それに見合う形であれば、自由に使えばいいんじゃないかなぁ。

 だから、そういう意味では、妹背山についてのセクシュアリティ的な側面を調べること自体、無駄だし、必要ないことなのかもしれませんね。

復活したとて戻れぬことも

 以前、iPhone アプリのこんな話を書いたことがある。
 OS をアップグレードしたら CalcNote が普通には使えなくなったので、使えるところだけ使って、Money Care と併用することにした...と、簡単に言えばそんな話(詳細は「計算控えは便利なもの」参照)。

 6月のことだったと思う。既に3か月ばかり前で、最近のことじゃないけど。
 もうメンテナンスされることはないであろうと思われたその CalcNote が、バージョンアップした。いつ更新されたのかはっきり見ていなかったんだけど、Appアプリのアップデートのリストに見慣れないアイコンがあるなぁ...と思ってたら、それが CalcNote であった。
 見慣れぬアイコンが CalcNote だったことに気付いたのは、バージョンアップ後にアプリのアイコンが変わっていたから...というのんびりぶり。普段はアップデートリストを一通り見てから実行するんだけど、この時はそうしなかったというオマケ付き。いやはや。

 まぁ、とにかくアップデートされたのだ。

 もちろんというかなんというか、変わったのはアイコンだけではない。内部のデザインが一新されている。
 ほんで機能についてはどうかというと特に大きな変化はないんだけど(使い勝手が少し変わっている)、「普通に」使えるようになった。コレ、大事です。「普通に使える」ことは、とても重要なのだ。
 CalcNote が使えるなら、未だに困っていた「試しで計算して、項目とあわせて残しておく」とか、項目リスト式の計算結果をそのまま残すことができるようになるので、それだけでも非常にありがたい。助かる。嬉しいっ。

 でも、CalcNote からの受け継ぎで Money Care に担わせている役割については、むしろもう戻れない。しばらく使ってみて、Money Care で月々の「試算」をしてみるのが、なかなかに便利なのだ。
 CalcNote だと、毎回新規にノートを作らなきゃいけないけど、Money Care ならその必要もない。繰り返すような入力では履歴を使えるし、項目を別の月に変更するのも CalcNote より楽だ。
 もはや CalcNote に戻る理由がないのであった。

 そんなわけで、今後も CalcNote と Money Care は併用するつもりだ。併用であっても、前より便利。うん、いいじゃないか。

 やはり嬉しいのは、先に書いた通り、普通に使えるようになったことだ。
 以前 CalcNote で使えなくなっていたのは「新規追加」でして、つまり「普通に使えるようになった」とは、ノートや項目の新規追加ができるようになったということなのだ。

「新規追加」ができなかったら、新たに計算リストを作ることもできない。しかし、数字だけを変更して、昔作ったリストをそのまま流用することはできていた。僕はこの部分のみ使って、Money Care 併用していたわけです。
 見まわしても、「月に縛られないノートを作って、リストで項目を設けて計算して、それをそのまま残しておく」ということができる類似のアプリは、そう多くはない。しかも、似たアプリはあっても、CalcNote ほど使いやすくはない。だからこそ、「項目を伴う計算の保存」ではずっと困ってたんだよね。

 Money Care の役割は変わらないとしても、この復活は大変喜ばしいのだ。

おシリ合うのも一苦労

 前回の続きみたいな感じで。

 先に書いた通り、僕には「TOOT の XS」とか「もっとヒップが小さいアンダーウェア」とか、そんなものが欲しいという希望というのか願望というのか、とにかくそんなものがあったらいいなという気持ちがあるわけです。
 結局それは、僕がちびっ子だからなんだろう。
 ヒップが人並みと比べて大きいのか小さいのかは、正直よくわからない。どっちにしろ、全体的にもう少し小さくてもいいと感じるわけで、全体が小さけりゃよりフィットするだろうと想像できる。

 しかし、TOOT に限らず、フィット系のアンダーウェアのヒップに余裕があるだとか、しっかりカバーして伸びもいいなんてのは、一般的にはその方が履き心地のよさを確保できるからだ。たぶん。
 もし、ヒップを小さく作りすぎたら、あるいは伸びがないのにヒップサイズにピッタリで作ってしまったら、体を曲げた時に半ケツになりかねない。しゃがんだ時、体を前に傾けた時、自転車に乗った時、椅子に座った時、はしごを登る時...などなど考えられる状況はいくらでもある。
 単に伸びがいいだけでも、あるいは収縮力が強すぎても、同じことが起こる。
 半ケツは、やはり心地よくない。平気な人、いや、むしろ半ケツ歓迎カモンカモーンな人もいるけど、通常は好まれないものだ。

 ね。困るよね。オシリが出ちゃうと。
 そしたら、ヒップはそれなりの大きさに作るのが妥当だし、そう作らざるを得ないとも言える。うむ。

 いつだったか「ヒップは履き心地に大きく影響する」ようなことを書いたことがあるけど、こう思うからですね。おシリ、ナメるべからず(深い意味はない)。

 んで、ほいたら XS とか XXS ならいいんじゃね? ってなるよね。自然と。真偽はともかく。
 ところが実際には、そんなサイズがないんですねぇ。ないから泣きたくなるんですねぇ。

 クレボのボクサーは、このあたりがかなり絶妙といえるかもしれないのだ。完全にヒップを覆い隠すわけじゃないけど、かといって半ケツになるわけでもない。「やや半ケツ気味」と言えなくもないが。
 たぶん、僕の履き方と、モデルの癖と、サイズ感とが、わりとうまい具合にハマるんだろう。ベストではないとしても。当然、他の人は同じように感じなくても不思議じゃない。
 ただし、全モデルが同じ感触なわけではないだろう。モデルによって多少の違いがあるみたいだし、僕は全モデルを試したわけでもないから、これ以上のことは何とも言い難い。
 とはいえ、少なくとも僕にとっては、その立ち位置がなかなか絶妙なあたりにあるのだ。逆に言うと、ヒップの大きな人やヒップを完全にカバーして欲しい人には向かないウェアじゃないかと思う。
 さらに言えば、クレボに関しては、僕でも XS じゃない方がいいのかもしれないなー。S で充分な気がする。

 であるからして、やっぱり TOOT あたりで XS が欲しいんだよなぁ。
 それがベストかどうかは、まったくわからないが。うむ。

ベストとベターの狭間かな

 他のページを読めばわかると思うけど、今のところ、僕が一番よく履いているアンダーウェアは TOOT のナノボクサーだ。

 ここで改めて、僕の好みを大雑把に挙げておこう。
 僕は、フィット/ショート/ローライズなボクサーしか履かない。普段使いとしてはね。「遊び」は除くという意味で。しかしここでいう普段使いとは、どんな時でも...というのと同じである。勝負パンツなど、特に用意していないので。遊びは別として。
 ほんで、この好みに最もしっくりくるのが、TOOT なわけである。TOOT のナノボクサーなのである。はい。

 では、これがベストなのかといえば、違う。ベストではないのであった。
 最もしっくりくるといっても、条件付きなのだ。「自分の知る限りのアンダーウェアの中では」であって、プラス「他の要素も加味した上で、とりあえず使いやすくて」であるのだ。
 ベストではない。あくまでベターなのだ。

 おそらくなのだが、アンダーウェアで履き心地に大きく影響するのは、ヒップなんじゃないかと思っている。
 ヒップの伸縮性が高めだと、確かにいろいろと都合がいい。でもその代わり...かどうかはよくわからんけど、ベストなキープしておきたい位置からずり上がりやすいという欠点も持ち合わせている。ような気がする。
 僕はローライズしか履かないけど、さらに、できれば少し下げ気味というか、低めにゴム位置を固定したい。ところがどっこい、低めにしてても、上がってきちゃったりすることがあるんだよなぁ。その原因のひとつが、おそらくヒップの具合なのだ。
 ほいで、TOOT のナノボクサーはやや伸びがよすぎるし、少し大きめでもあるんだよね。だから、たぶん、きっとそのせいで、僕は腰のゴム位置を低めにキープできないのだ。
 それに、やっぱり微妙に大きく感じるんだよね。Sでもね。

 まぁ、単に僕のおケツが小さめなだけなのかもしれないが。制作上の基準モデルのおケツが、少なくとも僕よりは大きいのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。
 てか、そもそも「低めにキープ」することは考慮されていないんだろう。だから、TOOT としては、ヒップを小さめに作る理由もないものと思われる。

 clairvoyance underwear、いわゆるクレボは、その意味ではもっともベストに近いアンダーウェアかもしれない。
 はい、当サイトで、クレボは初登場でございます。
 クレボは生地の伸びは小さいのだけど、それも幸いしてか、ちょうどいい具合に「収まる」のだ。ずり上がってくることもないし。
 しかし、僕には常用できない。できない事情があるのだ。

 型に関しては、冒頭の通り好みがフィット/ショート/ローライズで、クレボもこの範疇にある。TOOT と比べると、むしろ、よりフィット/ショート/ローライズなのがクレボなのだ。
 サイズ的には、クレボで問題ない。クレボでいいじゃないかっ!
 なんだけど、常用では、僕はシンプルめのアンダーウェアが使いやすくて好きだ。この点、クレボは必ずしも僕の好みと重なるわけじゃない。時々シンプルめなのが出てくるので、それは好きなんだけどねー。主力はわりとハデめだから。かわいくはあるけど、とてもかわいいんだけど...、僕には常用できない。

 それに、あれだね。なんとなく、クレボとかは若いコの方が似合うかな...なんて思ったり。なんとなく。ある程度の歳の人が、キャッキャして履くものではなかろう...と。だから、僕が好んで常用するべきタイプのアンダーウェアじゃないはずだ。そんな気持ちもある。
 さらに。常用するには「安定供給」が必要だ。しかしクレボでそれを望むのは、ちと難しい。特に、特別仕様的な新作なんかは。このあたりは、あれやこれやと大人の事情があるので、責める気なんてぜんぜんないけどね。
 まとめ買いである程度は対処できるけど、それで対処しきれるとも限らない。だから、簡単に「常用」とはいかない。

 なかなか難しいですな。

 では、例えば TOOT のスーパーナノボクサーなどはどうなんだろう。
 あれは単に、ナノボクサーよりもさらにローライズになったモデル(特にフロント側が)なのであって、サイズ感が変化するわけじゃない。スタンダードタイプもない。
 よって、常用にはなりませんねぇ。

 もしかしたら、クレボの履き心地に近い TOOT のナノボクサーみたいなものがあったら、ベストなのかもしれない。ヒップがも少し小さめのナノボクサーとか、生地の伸びがもうちょい抑えられたナノボクサーとか。あるいは、TOOT のナノボクサーに XS サイズがあったら、もっといい履き心地になるかもしれない。
 これは、あくまで想像上の話である。XS のナノボクサーはまだしも、「クレボの履き心地に近いナノボクサー」なんてものは技術的に可能なのかわからないし、きっと生産されることもないだろうし、そんなものがあったとしてそれでベストかどうかもわからない。そういう非現実的な妄想だ。
 でも願わくば、そんなアンダーウェアを作って欲しいなぁ。せめて、XS のナノボクサー。自分じゃ、作れないから。

憂き目に遭うのが宿命で

 iPhone などのアプリでは、告知だとか何もないまま開発がストップしたり、突然サービスを終了したりすることがままある。ユーザーとしては非常に困るわけだけど、どうしようもないんだよねぇ。そういうものだと割り切るしかないんだろう。
 あえて言えば、アプリを世に送り出したのなら、開発者さんにはしっかり面倒見て欲しいなぁ、できれば後のことも考えて欲しいなぁ...なんて思わなくもない。だけど、それもまた難しい話なんだろうなってことも想像できる。
 そういう意味では、まだメジャーなアプリや名の知れた会社のアプリの方が、少しは安心できる。絶対的に安心を得るのは無理にしてもね。実際、大企業が自社のアプリを整理・集約などして、自分が使っていたアプリや機能が排除されて、謳い文句に反してかえって便利が悪くなる...なんてことがあるわけだし。

 このサイトでも、過去に何度か、そんな事情からアプリを乗り換えた時の話を書いたことがある。
 今回は直近の、お勉強に使えるアプリの話。

 何かを覚えたい時、例えば本をわさわさめくりつつ、見て、書いて、声に出して、を繰り返す。具体的な繰り返し方などはともかく、これはスタンダード的な覚え方のひとつだろうと思う。
 僕もこうした暗記をすることがあるんだけど、本やノートを持ち歩くんじゃなくて、iPhone に入れておいてどこでもチェックできるようにしたいこともある。本にしろ単語帳にしろ、荷物になるしね。

 こうした用途でよく使われるのが、暗記カードを模したアプリである。かつてはお勉強に使える暗記用アプリといえば、暗記カード系のアプリであったと言ってもいい。暗記カードをリアルに模したアプリもありますねぇ。
 これはこれで便利だし、昔は僕も利用したことがある。
 でもこれだと、文章の一部を隠すような「穴埋め」問題が作れない。まったく作れないわけじゃないけど、快適ではない。良くも悪くも、暗記カードであり、単語帳なのだ。
 僕にとって、この点は大きな不満だった。確かに短いワンフレーズ程度なら、一部を「虫食い」にすることもできる。でも用途によっては、それじゃ足りないのだ。ぜんぜん足りない。だから、快適じゃない。
 A=B のように簡潔に、短文程度で表現可能な場合にはいいんだけどねー。

 もっと違う使い方もしたい! ってわけで、こうした暗記カード的なアプリに代えて、穴埋めにも使えるアプリを好んで使っていた。

 僕が長く使っていたのは、AnkiBlank だ。
 AnkiBlank は、前後にスペース(空白文字)を入れるいわゆる分かち書きをすると、スペースに挟まれた箇所を隠すことができる。
 分かち書きの必要があるとはいえ、自分の好きな箇所の文字を隠すことができるわけだ。自由に文字を隠せるということは、うまく使えば単語帳風の使い方もできるし、○× だろうが選択問題だろうが、自由に作れるということなのだ。それも、単語帳のように限られたスペースを気にすることなく。行数を心配することもなく。
 とても便利なアプリですね。おかげで、最初は他のアプリと併用するつもりだったのが、AnkiBlank だけで済むようになった。
 表示フォントのサイズを自由に変更できないっていう残念な点はあったけど、まぁどうしようもない不満ではない。
 そんなわけで、AnkiBlank を非常に重宝していた。

 しかし! 今月に入ってすぐ、半年くらいぶりにデータを追加しようとして、あれ? と。なんか変だぞ。おかしいぞ。
 アプリ開発者のサイトを確認したところ、短いメッセージが載せられていた。それによると、この春にサービスを終了したのだと。
 なんですとー。なんとも寂しいし、なんとも困る。困るったら困るのだ。

 AnkiBlank は、Mac で作った CSV ファイルなどを読み込んで使える。この時、専用の Web サイトを介してインポートする。面倒といえば面倒な、特徴的な方法ですね。しかし、サービス終了により、これが使えなくなったのだ。
 仮にアプリだけはしばらく使うとしても、インポートを中継する専用サイトが使えなきゃ、カードの追加ができない。新たに入れたいものが入れられない。悲しいではないか。

 哀しもうがなんだろうが、どうにもならない。
 代替アプリを探すしかありませんね。

 代わりに使えるアプリを探してみて、最初の印象は「簡単に虫食いにできるアプリが増えたなぁ」であった。
 今でこそこうしたアプリが増えているけれど、昔はこうはいかなかった。暗記カード系のアプリばかりで、穴埋め系の類似アプリは少なかったんだよね。それを思えば、今は選り取り見取りですね。
 とはいえ、AnkiBlank とは随分と特徴が違う。同じ「穴埋め系」でありながらも。

 この穴埋め系のアプリ、「テキストでも何でもそのまま使えるよ!」という点をウリのひとつにしている。だから簡単で手間がかからないぞ、と。そのほとんどが、撮影やスキャンした画像や PDF をインポートして、それをそのまま使うことを想定している。PDF は、インポート時に画像に変換されるようだ(もしくは変換機能が付いている)。
 ここが AnkiBlank との最大の違いだろう。
 これは手間がかからない反面、PDF などを嫌でもそのまま使わなきゃならないという欠点もある。
 基本的に、アプリ側では自由に自分で「問題を作る」ことはできない。どうしても、ファイルを読み込む必要がある。
 だけど、ファイルの容量的な問題はともかく、「自分で問題を作る」ことに関しては、工夫次第でなんとでもなる。ノートに書くなどして撮影するとか、テキストアプリなどで作って PDF で保存したものを変換・インポートするとか。
 そう考えると、AnkiBlank とは勝手が違うけど、特に不便はないのかも。むしろ便利かもしれない。
 なんだ、問題ないじゃないか。容量的な問題以外は。たぶん。

 ほいで今は、「暗記マーカー」を使っている。
 ただ、似たようなアプリがいろいろあって、選ぶのに困りましたねぇ。こういうのはいつものことだけど。
 似たアプリがいくつかある中で、どれが自分にとって使いやすいのか、実際のところは使ってみなきゃわからない。たとえ調べたとしても「できること」はわかっても、「使いやすいかどうか」まではなかなかわからない。うん、わからないよ。

 僕が暗記マーカーを気に入った点は、主に以下の3点かな。
・直接タップして、答えを表示できる
・マーク箇所にノートを付け加えることができる
・撮影でなく、自分で打ち込んだノートが使える

 例えば、アプリによって答えの表示方法が違うし(虫食い部分を個別に直接タップしないアプリもある)、マークして隠すだけだったりするし(ノートやメモを付け加えられない)、撮影したファイルにしか対応していない場合もある。インポートの方法もアプリによって違う。まぁ、使う人の好みですね。
 撮影だけじゃなくてアプリ側で打ち込みもできる機能は、あまり使わないかもしれない。絶対に必要なわけじゃないけど、ちょっとしたものなら自分で打ち込みたいこともあるかもしれないので「担保」みたいなものかな。
 てな具合で、僕の要求に最も応えてくれそうなのが、暗記マーカーであった。実際にアプリを何種類か触ってみて、マークする時の操作感もこれが一番しっくりきた。横向き表示ができるところも、好感が持てる。

 しばらくはこれで安泰ですね。

 ...ですよね?

新緑あふれるこの季節

 サイト開設から10年半が経過、新装オープンからまる3年になりました。

 セクシュアリティに関しての記事がやたらと増えてしまって、なんだか自分でも苦笑いが浮かぶようだ。
 だけどそれでも、啓蒙・啓発を目的にしてるでもなく、積極的な交流などをするつもりもなく、言いたいことを言ってるだけで、オナニー街道まっしぐらなことは昔から変わらない。
 言いたいこと、書きたいことを書いてはいるけど、それらは内容が内容だけに、ちょっとカタめになりがち...なんてことはあります。も少し、書き方なんとかならんかなぁ...と思うこともしばしば。

 ですます調でやわらかめを目指す方が、あるいは敷居が下がるのかもしれない。「です・ます」の硬さじゃなくて、丁寧さが感じられるという意味で。僕がやると、そうはならないかもしれないけど。
 でもきっと、書く内容によっても変わると思うんだよねぇ。

 理屈っぽくなりがちだけど、そのへん、身近な話題でしっかり書いてくれる他サイトもあるわけでして、そんな書き方ができるのはとてもいいなと思うのです。
 まぁ、どっちかだけがいいとか、そんなことではないけれど。同じことを言っているのだけど、こっちならわかるけどこっちじゃわからない...なんで場合もあるわけでして。人によって書き方が違うと、そんないい点もある...かもしれない。

 実は結構、悩みます。この記事は、アップしていいんだろうか...だとか。
 どこかおかしなことは書いてないかなと、何度も読み直し、推敲する。バババッと勢いだけで書いてアップする...なんてことが、なかなかできない。

 1年前と少し違うのは、ひっそりとコミュニティページを作ったことですね。
 コミュニケーションが取れる手段を一応用意してはいるけれど、登録コミュニティ式なので完全フリーではない。敷居が高くはないが、低くもない。
 これは、「コメント機能の代替」ではないからだ。また、そんなことはほぼないにしても、万が一ガシガシと多方面にわたってたくさん書き込みが来ても、時間的にも管理しきれない気がするせいでもある。ウイルス系だとか迷惑な自動書き込みを手軽に防止する意味もある。
 登録自体は難しくないし、捨てアドレスでも使ってやればいいわけですが、する方にしてみたら敷居はそれほど低くない。わかってはいるけれど、変更予定もないのです。
 書いたことに対してのフィードバックの予備的措置として必要かもしれないと思うので、最低限の手段として置いてるだけとも言えますね。メールアドレスも置いてないですしね。

 そんな放置的なやり方をするのが、このサイト。いやはや。

議論もできないというけれど

 同性愛に否定的な発言をする人の中には、わざわざこんなことを言う人がいる。
「当事者や同性愛に肯定的な人とは、まともな議論にならない」
「否定的な見解を披露すると集団的に叩かれるので、話が先に進まないし、この種のことが言いにくくなる」
 だいたいこんな感じのことですね。
 同性愛者などの性的マイノリティ、もしくはそれに類する、あるいはそれらの人と関わりのある人や肯定的な人の中にも、似たようなことを口にする人がいる。
 その内容を簡単にまとめてしまえば、「同性愛や同性婚についてはもっと議論を深めていくべきなのに、少しでも同性愛に対して批判的な発言をすると非難が集中してしまって、まともな議論ができなくなる。まともな議論をしたいのなら、差別だなどと騒ぐのをやめるべき」と、おおよそこんなところだろうか。
 少なくとも言葉面は、いずれも似たような内容ですね。意識や知識面での差はともかく。

 確かに、議論の必要な課題はたくさんある。しかし僕は、このどちらにも違和感を感じるのだ。必要以上に叩いたり、ただ感情的に非難することには、僕も賛同しかねる。かといって、彼らの言うことに賛同できるかといえば、できない。
 なぜなら、議論がかみ合うのか、はなはだ疑問だからだ。そもそも議論になり得ないことに気付いていなかったり、その点を軽く見過ぎているのではないかと思えるのだ。

 簡単に言えば、「話を聞こう」「議論しよう」などともったいぶって言う人はいるけれど、実際には聞く耳を持ち合わせていないし、議論する気もなく、自分が誤った認識を持っていてもそれを改めるつもりもない...そんな人が少なくない。
「自分は聞く耳持ってあげてるからね」というなにやら押しつけがましい尊大げな「嘘の聞く耳」の態度は、ものすごく感じ悪いし、当事者の感情を逆なでするだけなんだけど(だから余計に話をしたくなくなるんだけど)、それはさておき。
 うそぶく彼らの言う「議論」は、事実に基づかない認識や思い込みによる自分の「信念」を押し付けること、相手の言うことやその存在(ここではつまり同性愛者など)を頑迷に否定することだったりする。
 これって、議論になる?
 もっと言えば、押しつけがましく「話を聞こう」などという態度でいることが、既に傲慢でして。これはいったい、なんなんだろう。言っていることが嘘だらけで支離滅裂で、なのに実は話を聞く気はなく、さらに自ら正しい知識を得ようと動く気もないし、客観的事実を教えられても否定しかしないなど、むしろ怠慢だとも言えますね。
 考え過ぎと言われるかもしれないけど、実際そういう人たちがけっこういますからねぇ。「常識」に欠けているのに、なぜかいわゆる「上から目線」みたいな。根拠もないのに「自分が正しいから、自分の言うことを聞け」という態度。議論以前のことで間違ったことを言っているのに、なんでそんなにエラそげなの...?

「この種のことが言いにくくなる」とのことだけれど、そもそも「この種のこと」の内容が事実によらないので、本末転倒だ。同じ人が同じ口で「同性愛は精神的にオカシイ人たちなので云々」「自然の摂理に反しているから云々」などと言っちゃったりするのだ。
 それ、言う必要がありますか? 自分の無知と恥を晒すようなものですが。すべて事実ではありませんからね。言いにくくなるもなにもない。このおかしさに気付けない人は...どうすればいいんでしょうね。
 それ自体が議論の内容だというつもりの人もいるけれど、本当にそれは議論するようなことなんだろうか。今更な事柄を。これらは議論すべき内容なのではなくて、正しい知識を持っているかどうか、単にそれだけの話だ。
 どちらが正しいのか分かり切っていることについて押し問答するのは、時間の無駄だ。建設的な議論になど、なり得ない。正解がわからない時にどちらが正しいのかを議論するとか、ある事柄をどう判断するかで議論するのとは、まったく意味が違う。とっくにわかっているようなことを蒸し返すようにあれこれ言うのは、議論だろうか。事実に基づかない偏見や先入観、信念、感情などを披露するのは、あるいはその押し付けをするのは、議論といえるかなぁ。
 これは議論ではなくて、先入観にとらわれることなく、事実を事実として理解できるかどうかの問題だろう。こういった発言をして、それが元で批判にさらされて、「議論もできない」なんて嘆いてみせるなど、自分で何を言っているのかわかっているのかなぁ。たぶん、わかってないんだけど。
 事実をそのまま認められない人たちの言う「議論」って、いったいなんだろう。
 もしそんな疑問に、「だからこそ議論をするのだ」などと返すとすれば、もはや笑うしかない。こういう堂々巡りを、これこそが正義だと宣いつつやってしまう人には、何を言ってあげればいいんだろう。

 もう少し、話を広げます。

 まず、最低限の正しい基礎知識は必要だと思う。それがないまま意見を交わして、建設的な議論は生まれるだろうか。
 基礎的な情報が決定的に欠けていて、そればかりか偏見でしかないものを事実とすり替えてしまっていては、結局、自分に都合のいい短絡的な思考しかできない。肯定だろうと、否定だろうと。
 間違えた思い込みの押し付けやそれに基づく主張は、議論じゃないよね。偏見に基づく事実によらない思想・信条を披露したり押し付けようとしたりするのは、議論ではありませんよ。ましてや、「自分は気持ち悪いと思うから」なんて理由で否定的見解を示すのは、議論だなんだ以前の話だ。

 何が正しいのかを考えよう...などともっともらしく言う人もいる。例えば、セクシュアリティについてだとかね。しかしそれは、「基礎知識」の範囲内でしょう? 今更、もったいぶって議論するようなことじゃないよね。
 例えば、同性愛が精神的な問題だと思っている人がいるとしよう。「その認識は間違っていますよ」という指摘に対して「それは違う。意志が弱いから普通になれないんだ。だから同性愛者は異常だ」などと反論するのは、議論ではない。それは事実を認められず、自分の思い込みを修正できないだけの、デタラメな主張だ。そんな反論を議論と称するなら、愚と言うほかない。
「1+1は2じゃない」と主張する人に「1+1=2 だよ」と教えたら、「違うよ。1+1=5 だよ」と反論するのは、おかしくないだろうか。これは、議論と呼ぶべきものだろうか。1+1 が 2 か 5 かの主張で争うのは、議論だろうか。
 例は何でもいいのだけど、あるいは「天動説は正しいのか」を議論しよう...などと言う人がいたらどうだろう。「天動説は正しいか」を、この現代で議論する人がいるだろうか。そんなことをしていたら、まぁ笑われるだろうなぁ(信仰等は別として)。
 議論のフリをする人には、残念ながら、こういうズレた人が多い。

 そんなわけで、「常識」が欠けた状態の人の言う「議論」には、違和感を感じてしまう。議論云々の前に発言の内容や思考が既に破綻しているわけで、突拍子もない、随分とおかしなことを言っているんだけど、それに気付けないんだよね。
 正しい基礎的知識を持ち合わせず、学習する気もない。「正しい知識」を得る気がないし、理解しようともしないし、できない...そんな人と、何が議論できるだろう。話が進まないって、どんな話を進めるつもりなのだろう。

 いたずらに叩いても得るものはないけど、議論に誘っても乗ってこないし、議論にならない。議論以前の問題なので。議論にならないなら、事実の確認をせざるを得ない。しかし見解について説明を求めても、まともな解答が返ってこない。
 逆にこちらが正しい指摘をしても、トンチンカンな返答をするばかり。何が正しいのかわかっていなくて、自分の「勘違い」だけで話をするから。その「勘違い」が絶対的に正しいと、ほとんど宗教的に思い込んでいるから。知識と理解が追い付かなくて、うまく判断ができないだけならまだしも、自分の信じるものが絶対的に正しいのだと思い込んでいるから。
 彼らにとってはそれが本当に正しいのかどうかはさほど重要ではなく、検証もしないし、する必要もないようだ。結局、誤りを認めず、話は先に進まない。
 全員がそうだとは言わないけど、こういった人が多いことも否定できない。
 それこそ、まともな議論にならないのだ。実は「議論にならない」と言っている人たち自身が、議論にならないようにしているっていうね。だからなのかどうなのか、延々と、いつまでたっても同じことを言っている。これじゃ、余計に話は進展しない。永遠に進展しないのではないかと思えるほどに。
 彼らは臆面もなく「何をバカなことを。オマエはあんな異常なヤツらを認めるのか? 話にならない」などと言ってしまうこともある。あるいは感情的に「気持ち悪い」から、それが「正しい」だとかね。いや、もうそれ、理屈も何もない「乱暴の極み」じゃないですか。
 話を聞く気もなくただ切り捨てたがるのは、むしろ同性愛者を認めようとしない人たちではなかろうか。

 ぶっちゃけ、「自分は気持ち悪いと思うから」「自分は認めたくないから」といった、たったそれだけのことで他人をおとしめて、なおかつそれを「正しい」と言ってしまってるんだよね。それ以上の理由は何もないのに。そんな個人的な感情を、正しく見せかけるために「理論武装」しているかのように取り繕っているだけのことだ。しかし、また何度も繰り返すが、その「理論武装」は事実によらないので、欠陥だらけだ。
 これって、本当に「正しい」ことなのかな。なんだか、非人間的といってもいい思考のように思えるけれど。
 それが許容されるのならば、逆にこの人に誰かが「理由はどうであれ、気持ち悪いからアイツは嫌いだ」という感情を抱いた時、この人は一人の人間として認められなくなっても当然だってことにならないのか。それは本当に許されることなのか。
 許されるのだとすれば、むしろこの社会そのものに存在価値はあるんだろうか。
 そんなことも思ったりする。

 しかし! 批判する側もする側で、感情的になりすぎる人が多々いる。あれも目に余るし、辟易する。
 まぁ、感情的になるのもわからないではない。「なんでこんな当たり前のことがわからないんだ!?」と思ってものすごくもどかしいだろうし、そのまま勢いで突っ走ってしまうのだろう。
 それに、心無い言葉で、嘘を撒き散らして自分を卑下されると、そりゃあ誰だって怒るだろう。でもそれさえも、そんな当たり前なことでさえも、ある種の人たちにとっては揚げ足を取る機会にしかならない。
 簡単なことがわかってもらえず、繰り返される心無い言葉に対して、つい乱暴な言葉を使ってしまったり、「怒り」をあらわにしてしまったりする。そうしたら今度は「だからやっぱりマイノリティは怖い」などとトンチンカンなことを言いだし、それでまた行き違いが起こり...。

 つい先日、新たに某国某州でセクシュアルマイノリティへの差別が合法化されたが、これもその延長線上にあるのかもしれない。
 法の謳い文句はどうであれ、そもそもはマイノリティの存在自体が問題なのではないと思われる。その積極的推進者の中に「暴力的」な人が存在し、それが憎悪を生み、「マイノリティによるマジョリティへの甚大な被害思想」へと変化し、差別の合法化に繋がったんじゃないかと(この法案自体については、某州知事は宗教戦争でもおっぱじめるつもりか? と思わされるようなものだと感じました)。まぁ、それでもそれは後付けの理由であって、出発点は「自分は気持ち悪いから認めなくない」っていう、単純にして非人間的なものなのかもしれないが。
 結局、マジョリティであろうがマイノリティであろうが、互いに許容しあい、理解しあうことができなければ、潰しあいに発展する。ただ、その「許容」は、なんでもかんでも際限なく許されるような「許容」であるべきではない。それは、許容とは言わない。いわゆる憲法的に認められるような自由、互いに認めあえる中での自由、公共の福祉に反しない「自由」というものの範疇にあるべきだろう。
 暴力的なマイノリティは、少数の中でもさらに少数派だ。大多数の当事者は、そのようなものを好まない。しかし、小さな負の印象は、大多数の者にも負の影響を及ぼす。
 そういう意味でも、マイノリティの暴力は行き過ぎだし、マジョリティの心無い言動はその許容の範囲を超える。差別を訴える暴力的な叫びからも、また、よくある逆差別という被害妄想を肯定する幻想的思想からも、何も生まれない。

 話を戻そう。

 行き違いや、傷付け合いをしていても、そこには何も得るものがないし、何も解決しない。そんな不毛な言葉の応酬よりも、議論した方が有意義だろう。本当の意味での議論をね。もっと違うことについて意見を交わし、議論するべきなんじゃないかと思う。
 この点でのみ、冒頭の意見には賛同できる。彼らの言う「議論」が「議論」じゃないことはともかくね。

 ただ、その議論の土台が、現状ではまだ足りてない...とも言えるのかもしれない。それが、マイノリティ側の発信の問題と片付けるには、受信側の混線が著しいようにも思われる。
 いずれにせよ、おそらく特効薬はない。

 案外、テレビの「極端な同性愛者の例」も問題なのかもしれないなぁ。メディア等でそれを「ウリ」にするならそうならざるを得ないけど、彼らのなりや言動が、同性愛者ってそういうものだという固定観念になりかねない。
 でもそれは、あくまで「ウリ」であって、彼らの姿はむしろ特殊な例なんだよね。すぐ隣にいる一般の同性愛者は、ごく普通の、おそらく拍子抜けするくらい普通の人たちだから。
 テレビに出るのなら、もっと「普通」の同性愛者が増えて欲しいなぁ。

写真の管理も楽じゃない

 昨年12月の中頃から、Lightroom を使っている。と言っても、一部の機能しか使ってないし、使いこなしているわけでもないし、RAW も扱ってないけど。

 もともと僕は、写真の管理・編集に Aperture を使っていた。
 Mac だと、無料で使える iPhoto もあるんだけど、使ってなかった。理由はいくつかあるんだけど、一番大きい理由は、容量の問題だ。iPhoto は、専用ライブラリに写真がコピーされる。これが嫌なんだよね。コピーされると、写真で占めるデータ量が元データとあわせて倍になる。大容量の内蔵ディスクか外付けならともかく、僕の MacBook にそんなに余裕はない。外付けにしたって、倍になるのはどうも...。かといって、元の写真はできれば削除せずに残しておきたい...。
 こんな感じで、容量に関することだけでも、事情があるんです。
 Aperture なら、コピーせずに、元の写真は残したまま、新たに分類も編集もできる。元データは外付けHDD でも問題ないし、閲覧だけなら外付けHDD とつながなくてもできる。加えて、編集は非破壊型。うん、問題ない。
 また、使いやすさなどの点でも、Aperture の方が気に入っていた。
 iPhoto は、難しいことがわからなくても、なんとなくでも使えるのがいいところだと思う。でも、レベル補正でお山をグリグリ動かしたいとか、もっと細かいことがしたいとか、そんな要求に応えてもらうには微妙なところがある。良くも悪くも「アバウト」なのだ。難しいことをしない時は、これで充分なんだけどね。
 あと、トリミングや回転の仕方だとか、複製の扱い方などなど、使い勝手がやっぱり違う。このあたりの操作感も、Aperture の方が好みだった。

 しかし、しばらくアップグレードを見送っているうちに、Aperture は開発中止のアナウンス。アップグレードをしておくべきかどうか、悩んだものだ。まぁ、ささいなことといえばその通りで、そんな小さな悩みは悩みのまま終わる。OS が 10.10.3(Yosemite)になると、予想されていた通り iPhoto もなくなり、Photos(写真アプリ)がそれに取って代わった。
 これは要するに、方針転換なんでしょうね。おそらく、資源の集中という意味もあるのかと。
 手広くやっていくんじゃなくて、特化する感じ? プロとコンシューマー両方をカバーするのではなく、コンシューマーを取り込む形でミドルあたりをカバーするアプリ1本にシフトして、一極集中するような。iPhoto と合わせて、写真アプリ(Photos)に統合したような形かな。知らんけど。
 Aperture が使えなくなったのは残念だけど、あるいはこの選択は「正解」なのかもしれない。
 競合他社の囲い込みだとか方針だとかに対抗するんじゃなくて、そこはサードパーティーに任せて、自分たちは違うレンジをカバーして、そちらに資源を集中しよう...みたいな。
 iOS の写真アプリからのシフトとしても、有効そうだしね。知らんけど。

 ほんで、Mac の写真アプリ。
 これ、よくできてると思う。iPhoto に、Aperture の機能をいくらか取り込んだような...というのが、僕の印象だ。
 iPhoto ユーザーにとっては、よりしっかり使えるようになってるかもしれないし、Aperture のコンシューマーにとってはこれで充分なんじゃないかと。
 画像の補正などのわけわからなさを、できるだけうまく隠してる感じだなと思った。初心者に使いやすく、しかし、もそっと突っ込んだ使い方もできる。iPhone で写真をたくさん撮るユーザーにも使いやすそうだ。
 とはいえ、右のものが左に変わっただけで何もできなくなる iPhoto ユーザーだった母は、相当混乱していた。しかし慣れてくると、その良さがわかってきたようだ。今では逆に、前より便利だと言っている(余談だが、当時まだ 10.9 を使っていた僕が Photos や iPhoto の使い勝手を知っているのは、母が使っていたからなのです)。

 ただ、昔からレベル補正とトーンカーブを主に使っていた僕としては、なんだか...なんだか......。ダメじゃないんだけど、もひとつ物足りない感じ...とでも言おうか。足りないというより、思ったようにできないというか...。
 いや、そのへんがバリバリ使えるわけじゃないんですよ。理解も中途半端だし、レベル補正はまだしも、特にトーンカーブはがしがし使いこなしていたわけじゃない。Mac ではともかく、iPhone だとレベル補正やトーンカーブを使ってすらいない。
 だったら、無理にレベル補正とトーンカーブにこだわる理由もない気もする。「こだわってる」わけでもないんだけど、それでもやっぱり慣れた使い方には引きずられるし、かといってちょこっと使うだけならやり方を変えてもいいようなものでもあるし...。
 しかしっ! なんか違うんだよねぇ。よくわからないけど。結果の微妙な違い?

 iPhone での補正は、そもそもこだわりらしきものをあまり持っていない。簡単にちょっといじる程度か、あるいはフィルターなどを使って激変するような加工をしちゃうから、Mac の時と違って、むしろレベル補正やトーンカーブを使う理由がない。
 iPhone では、細かい補正やややこしい編集をしようと思わないのだ。そういう気にならないし、その必要がない。ちょこちょこっと、編集できればいいのだ。確かに、レベル補正やトーンカーブが使えるアプリは入っている。でも、使わないんだよねぇ。iPhone でのそれらの操作は、必ずしもやりやすくないって事情もある(僕にとっては)。
 でも、Mac で写真を補正する時は、もうちょっとマトモにやりたいようなところがある。慣れもあるんだろうけどね。ほんでレベル補正などを使った場合と使わない場合を比べてみると、なんか同じようで違うような結果なんだよね。微妙ながらも。
 ざっくり言えば、「明るさ」とか「コントラスト」といった調整項目が、良くも悪くも「大雑把」だからなんだろう。実際、仕組みが違うわけだし。その違いは、効果を強く掛けてみるとよくわかる。

 まぁなんにしろ、僕は慣れたレベル補正が使いたいわけです。写真アプリでもお山をグリグリできるけど、どうも使いにくいんだよねー。僕にとっては、ね。
 他にも、写真の管理方法が変わるのが嫌だっていう事情もある。
 適当になんでもとにかく突っ込んどいて、あとで整理する...なんて時には、写真アプリは簡単に使えるし、すごくいいと思う。とりあえずまとめて入れたものをざっと見たり、ゆるく「適当に」仕分けしたりしたい人は、けっこういるんじゃないかなぁ。ちまちま使わなくて済む写真アプリの機能は便利だし、むしろおもしろいと思う。
 でも僕は、昔からフォルダに写真を仕分けていて、このままでも困らない。それどころか、勝手に配置を替えられると困る写真が入っているフォルダもある。僕は、僕の好きなように仕分けがしたいの!

 そんなわけで、やはり写真アプリは避けたいのであった。

 じゃあ、どうすんべ? 代替手段はあるのかな。
 てことで、Lightroom である。

 Photoshop や Illustrator、InDesign は昔から使っていて、今や CC。これには Lightroom もついてくるので、インストールさえすれば使える状態にある。使えるんだったら、使った方が金銭的にも無駄が減る。気分的なものかもしれないけど。
 だったらこれでいいんじゃね?

 正直なところ、インターフェースに関しては、Aperture の方が使いやすい。これが第一印象だった。
 実際、微妙な分かりにくさがある。カタログの扱いだとか、「現像」なる言葉遣いだとかも戸惑ったんだけど、もしかしたらずっと慣れることができないんじゃないかと思えるのが、左下にある「ヒストリー」のスクロールバーの位置だ。通常はどんなウィンドウでも右側にあるスクロールバーが、ここだけ左側にあるのだ。
 おそらく、その右側のエリアとの境目に、スクロールバーを置きたくなかったんだろう。見た目(インターフェースのデザイン)重視なら、確かに「邪魔なもの」がなくてスッキリする。でも、普通は右にあるものが左にあると、直感的に「正しい位置」に手が伸びない。結果的に、スクロールしにくいから使い辛い。さっと手が届かない感じで、もどかしくて、円滑な作業を阻害する。

 それはともかく。補正などの使い勝手はどうなんだ...と。
 最初は戸惑った。なんでって、慣れた形そのままのレベル補正じゃなくて、3色重ねのヒストグラムで、それが露光量他の調整と連動していたからだ。まぁ、当然といえば当然なんだけど、ヒストグラムを動かすと他も動くという状況そのものに、え? え? って、なっちゃったんだよね。
 とはいえ、僕は高度な処理をしているわけではないし、すぐ慣れた。

 いくつか調べて、いくらか触って、僕の基本的な使い方は以下のような感じになった。ヒストグラムを直接動かしても、対応する項目のツマミを調整しても、結果は同じ。今はわかりやすいように、項目名で書きます。

・カタログは、ひとつだけ(複数切り替えなんて、僕には無用)
・フォルダ内の写真は、すべて「追加」(容量はやっぱり節約です)
・必要なら、後から削除や分類(取捨選択は、見比べながらがラクチン)
・露光量でヒストグラムのバランスを取る(なんとなく)
・黒レベルと白レベルを調整(明るすぎる・暗すぎる箇所をいじくる)
・バランスを見ながら、トーンカーブのダークとライトを微調整(写真全体の明るさをちまちまと)
・シャドウとハイライトで引き締めと味付け(なんとなくな感じで)
・必要なら、その他の処理(色収差など)

 はい、この内容であれば、Lightroom を使うまでもないです。ごめんなさい。

 だけど、しばらく使ってみて、いいなと感じている。
 一元的に、オリジナルは残したまま、コピー不要で管理・編集できるし(非破壊型なので)。一部のインターフェースなどを除けば、補正もラクチンだし。気に入ってます。
 気持ちよく使えるって、やっぱり大事だな。

若き悩みも今深し

 検索キーワードには、自分が同性愛者で悩みを抱えているのかな...と思えるものもあったりする。
 その中には、同性に惹かれるとか、何らかのことで自分が同性愛らしいと気付いて、悩んでいるのかもしれないなと想像してしまうようなものもある。そんな悩みなどは、質問サイトにも時々投稿されているようですね。
 この種の悩みを持つ人には、中学生・高校生が多いんじゃないかと思う。若い人ほど、まわりからの「無理解」や「攻撃」に対する免疫がないし、それをなんとかする術がなくてなんともできなかったりするし、今現在や未来についての不安も大きいことだろう。
 では僕がなんとかしてあげられるかといえば、たぶん無理だ。
 当サイトに、どのくらいの同様の人がたどり着くものかもわからない。けれどそれはそれとして、僕の思うことを書き連ねておこう。

 焦る必要はないと思うのだ。

 同性愛者は、生きる意味があるのか...。そんな悩みを抱える人もいる。
 同性愛者かどうかは、もっと広くいえばセクシュアリティの違いは、基本的な自分自身の生きる意味とは関係のないことだ。
 生きる上でそこに意味を見いだすことはあり得るし、アイデンティティとまったく無関係でもない。しかし自分が自分として生きて行くことができれば、それでいいのではないだろうか。せっかく生まれてきたんだから。セクシュアリティがどうであろうともね。

 今、自分が同性愛者かどうかで戸惑っているかもしれない。自分は同性愛者なんじゃないかと気付き、不安や恐怖を感じているかもしれない。同性愛者なんだろうなと思いつつも、認めるのが怖いのかもしれない。
 仮に同性愛者だとしても、すぐにはそれを認められなくても構わないと思う。実際に、中学の頃に気付いてはいたけれど、大学生になってから、成人してから自分で認めることができたという人もたくさんいる。
 それでいい。何も問題はない。

 こんな悩みを抱えている時期は、それがゲイの人であれば、女性と付き合ってみようか...と考えたり、自分を好いてくれる女性に告白されて付き合ってみる人もいる。
 性というものはグラデーションのようなもので、裏と表のようにはっきりと分けるのは難しい。もし女性にも興味が持てるのであれば、バイセクシュアル(両性愛)、またはその傾向もあるのかもしれない。
 反対に、女性にはまったく、あるいはほとんど興味が持てないのであれば、もしかしたら無理に付き合わない方が彼女のためかもしれない。異性と付き合ったからといって、セクシュアリティが変わるわけじゃない。それでも付き合ってみれば、自分に納得できることもあるだろう。しかし無理に付き合えば、後々彼女を傷付けてしまいかねない。
 そうでないのなら、付き合ってみるのもいいと思う。それで幸せでいられるなら、そう生きる道もある。

 仮に付き合ってみて「やっぱりダメだ」とわかったとしても、自分を責めることはない。あなたはあなたのままでいい。
 その時は、同性愛者として生きればいいことだ。たとえすぐには、自分が同性愛者だということを受け入れられなかったとしても。
 いくらか彼女を傷付けてしまうかもしれないことが、心配ではあるけれど。

 自分がゲイだと確信したとしても、それはそのままでいい。
 やっぱり同性愛者なんだと思った時、悲観する人もいるだろう。生きてていいのかなって、また悩むこともあるだろう。そうは思っても、すぐには受け入れられないこともあるだろう。
 すぐに自分の気持ちに折り合いがつけられるなら、気持ちとしては幸いだ。
 しかしそうできなかったとしても、無理に変えることはない。自分を卑下することもない。自分は生きていても仕方がないなんて、思う必要もない。

 同性愛に限らず、ヘテロとは違うセクシュアリティ、いわゆるマイノリティなセクシュアリティは、社会的にはまだまだ充分に認められているとはいえない。だから、その意味では楽ではない。でも、もしも同性愛者だと自覚したのなら、そう生きる方が、自分を偽らないという気持ちの上では幸せでいられるだろう。
 自分を偽ることは、なかなか辛いものだ。それは残念ながら、当事者にしかわからない。まわりはそれを、わかってはくれない。
 それでも、そう生きる方が幸せでいられるだろう。

 自分が自分として、当たり前の自分として生きることは、とても大切なことだと思うのだ。

そもそも表示が高難度

 アンダーウェアは、自分で買って確かめてみるしかない...と、何度か書いたことがある。
 どれを選べばいいのか。これは履きやすいのか。そんなことを調べていると見受けられる検索キーワードが、後を絶たないんだよね。それで、そんなことを書いたわけです。
 これ、改めて言うけど、ホントにそうだと思う。自分で履いて、感触を確かめる以上のものはない。僕の体験からの実感であり、正直な感想なのだ。
「それが Web サイトじゃ確かめられないから困るの」とか言われちゃいそうだけど、だからこそ買って履いて納得しろ...と。逆説的にも聞こえるかもしれないけど、自身の感覚に勝るものはない。ないったらないのだ。
 それに結果として、自分のサイズをより正確に知るいい機会にもなるんだよね。おそらく。身も蓋もなかろうがなんだろうが。

 しかしですよ。
 そうは言っても、なんだかんだ理屈をたれても、僕だってやっぱり失敗はしたくない。不安や戸惑いは身に染みて知っているし、いろいろと調べたくなる気持ちは痛いほどわかる。
 仮に自由に試着できたとしても、日常で使ってみないとわからないとか、実感できないことだってある。それも含めて、買ってみるのが最善策なのだけれども、それでも僕とて、無条件にそれを受け入れているわけじゃないんだよね。
 どうしたって、なんでこんなことしなきゃいけないんだ? という疑問があるのだ。大いなる疑問が。そしてそれは、なぜか一向に解決されない問題の存在を意味している...と思う。

 今回は、そんな疑問と問題の話。

 僕がずっと疑問に思っているのは、販売サイトの「不親切さ」である。そもそもそれがなかったら、悩む労力は減るし、検索する時間も無駄にならなくて済むのだ。
 要するに、販売サイトの説明や表示がわかりにくいってことなんだけど、これだけだと話がまだ曖昧ですね。

 この「不親切さ」とは、なんぞや。
 ひとつには、表記のわかりにくさや統一性のなさがある。販売サイトが違えば表示方法も違うのは、一見当たり前ではある。だけど、だからこそ不親切だと思うのだ。たかがサイズ表示なのに、それをまともにしてもらえないという現実...。
 未だに S・M・L 等の表示しかしていないサイトもあるが、あれでサイズがわかってもらえると思っているのだとしたら、甘い。甘すぎるぞ。同じ S でも、国はもちろんのこと、メーカーが、あるいはモデルが違うと、微妙に差異が出てきたりすることがよくあるんだよね。

 具体的な表記についても、ウエストだけ表示していたり、対象の身長と体重だけが表示されていたりするわけだけど、いやー、それはあんまり参考にならないよう。
 ウエストが同じなら、あるいは身長と体重が同じなら、腰回りの形や大きさ、感覚が同じだとでも思っているのかな? んなもん、同じわけがない。やっぱり甘い。甘すぎるのだぞ。

 そんなサイズ表示の仕方だと、迷うに決まってる。僕はそんなサイトで、買い物をしたくない。
 つーか、ショップの中の人たちは、自分が購入する時に、ネットショップのそんな表記で困らないのかなぁ。

 しかし、もうひとつ。
 このわかりにくさを解消しようと工夫をするサイトもあるのだけれど、この工夫がまた「不親切」であったりする。わかりやすくしようとして、結局わかりやすくなっていないのであった。
 工夫の意味がない...。
 例えば GX3 は、モデルさんの写真と、身長と体重の組み合わせを使ったチャートを掲載している(ちなみに GX3 については、まだ当サイトで一切言及したことがない)。
 しかしこのチャート、たいして参考にならない。と、僕は言いたい。「何の参考にもならない」とまでは言うまい。

 なんで参考にならないのか?
 先にも言った通りだけど、身長と体重だけでは、アンダーウェアのサイズ的な履き心地はわからないと思うのだ。一応断っておくが、ここで言っているのは生地や肌触りの話ではない。フィット感であるとか、サイズ感などと言われたりもする履き心地のことである。
 身長と体重が同じでも、ヒップの大きさや腿の太さ、その他諸々、個人差があるものだ。プラス、どういう履き心地を「気持ちいい」と感じるかは、人それぞれだろう。だから僕は、少なくともアンダーウェアに関しては、身長と体重はあまり参考にならないと思う。だから、半端なチャートも参考にはならない。一切まったくこれっぽっちもならないとは言わないが。

 こういったチャートを掲載するよりも、直接的な実際のサイズをしっかり表示してくれた方がありがたいし、わかりやすくて役に立つ。と思う。

 たとえ細かく数字が示してあっても、それだけじゃわからなくない?
 そんな声も聞こえてきそうだが、ここは「経験」と「自分の好きなもの」との比較の蓄積なんだろうと。
 例えば、ブランドを問わず、今までトランクスしか履いてなかった人が、初めてボクサーを購入するとしたら。この時ばかりは、確かにわからないかもしれないし、すごく困ると思う(この時に困るのは、サイズよりも、むしろ履き心地の方かも)。
 この初回だけは、ウエストやヒップのヌードサイズを参考にどれかを狙って購入するか、比較のために複数サイズ購入するしかないかもしれない。

 しかし S・M・L なんて表記だと、その吟味すらままならない。とりあえず、自分は洋服を選ぶ時はいつも M だから...と、すんごくアバウトに選ぶしかない。
 これ、洋服とアンダーウェアのサイズは必ずしも同じにはならないし、M と L の間とか境の辺りを選ぶ人もいるから、けっこう困るんだよねー。そういった意味では、トランクスからボクサーに乗り換えようなんて時には、ひとまずスーパーの量産型格安ボクサーでも買ってみるのが無難かも。
 すると、次にステップに向かうことができる。

 まぁなんでもいいから、初回はなんとか乗り越えたとしよう。失敗かどうかはともかく。
 そこから、自分にピッタリくるサイズがどういうものなのか、自分がどういうものが好みなのかは、わかってくる。1枚では本当はわからないんだけど、まったくわからないわけではない。
 とにかく、多少なりとも比較はできるようになる。

 これ、僕にとってはアンダーウェアに限らないんだよね。わかりやすいところでは、Tシャツやポロシャツなんかもそう。実は、ブルゾンもカーデもそう。
 洋服は、リアルショップで購入することもあるだろう。アンダーウェアと違って試着もし放題だし、お気に入りの服だってできるのではなかろうか。
 そのお気に入りの服のサイズを測っておくのだ。ネットショップのサイズ表記と比べられるように、なるべく正確に。上着やシャツなら、肩幅、袖丈、裄丈、着丈、身幅...。ちなみに身幅は、裾ではなく、脇の下あたりで測るのがオススメ。
 それと、あわせて自分のヌードサイズも忘れずに。ヌードサイズも必要なのは、どの服が自分の体に合うのか、わかりやすくなるからだ。特にフィット系のアンダーウェアは伸縮性があるので、ヌードサイズとの差異が大きくなる。ブルゾンとか上着も、差が大きくなる。
 僕はこうするようになってから、ネットショップでの洋服の購入でサイズの失敗をしたことがほとんどない。記憶にあるのは1回だけで、この服はサイズがちょうどよさそうな知り合いにあげた。
 昔はよくわからなかったから、時々失敗してたよなぁ。
 できたら、お気に入りの服の実測は、1着じゃなくて複数着メモしておくといい。そうしたら、こっちの服より大きくてこっちよりは小さい...なんて場合もあることがわかるはずだ。
 Tシャツやポロシャツの場合は、縮むことを考慮しておいてもいいですね。

 話を戻そう。
 とにかく、比較できるもの、それもできるだけお気に入りが複数あると、ネットでの買い物はすごく楽になる。

 しかしっ!
 この比較のために必要なのがサイズなんだけど、このサイズ表記が「不親切」なんですねぇ。

 僕が必要だと思うのは、わけのわからんチャートなどではない。メーカーの表記も、あまりアテにはならない。
 平置きでいいのだ。アンダーウェアに関しては、少なくとも、ウエスト、ヒップ、股上の寸法が知りたい。この3点の、具体的な数字が欲しい。
 アイテムの数がそろって、お気に入りも増えてくると、もうその頃には「このブランドのこれと比べて...」なんてことができるようになっているはずだ。
 そのためにも、ウエスト、ヒップ、股上は必須なのだ。あと、サイドの丈とか裾幅も表記してくれてると、より親切かと。

 上では例に GX3 を挙げたものの、GX3 だけがどうというわけではもちろんない(GX3 のサイトではウエストやヒップのサイズも表示されているので、困ることはないけどね)。
 しかし、こういうわけのわかんないチャートが、意外と多いのだ。わかりやすくしようという努力が、空まわっているようなチャートですね。
 シャツとか洋服ならまだしも、アンダーウェアでのこの手のチャートは、自己満の自称チャートであって、実用ではあまり使いものにならないと思う。
 繰り返しになるけど、まったくならないとも言わないよ。
 GX3 の場合だと、「身長:約155〜172cm前後/体重:約44〜59kg前後」といった調子で分類して、各々ブランドごとの目安のサイズを掲載している。
 でもねー、自分のサイズのあたりがどのくらいになるか、身長と体重から計算しろとでも? めんどくさいし、わかりにくいし、やっぱり身長と体重でサイズを推し量るのは無理があると思う。体格の違いもあるけど、フィットするのが好きな人もいれば、ルーズな方が好きな人もいて履き方も一様ではないし、チャートでその答が出るかといえば、たぶん出ない。
 もしチャートを載せるのであれば、該当するモデルの腰回りのヌードサイズも必要だろうと思う。だけどこの点でも、モデルの身長と体重しか掲載されていないし、モデルの例が少なすぎるから自分と比較ができない。も少し言い方を変えると、同じ身長で体格の違うモデルさんが不足しているから、中途半端感は否めないわけです。
 仮にこの種のチャートをより完璧にしようとしたら、身長、体重の他、ウエストやヒップなどのヌードサイズを入力したら、最適値を算出、フィギュア的に体形が表示されて、参考サイズが網羅的に羅列され...みたいなシミュレーションできるシステムかもしれないですねぇ。インタラクティブな感じの。
 そこまでしろとは言いませんが、半端で使えない代物なものは仕方がない(繰り返すけど、GX3 のサイトには、チャートとは別にウエストやヒップのサイズ表示があります)。

 どのみち「僕のサイズ」は、チャート内にすら存在しないことが多いけどね...(GX3 は例外的)。

 なんにせよ、販売者が、わかりやすくて的確なサイズ表記をしっかりとしてくれたなら、購入者の悩みが少しは減ると思うのです。


※ここではサイズ表記の話をしたわけだけど、生地の肌触りとか伸縮性なども着心地に影響します。言うまでもないだろうけど。総合的に見れば、サイズ表記だけが悩みの種になるわけではありませんね。そこはさすがに Web 上ではわからないけれど、気になるなら一着でも体験してみれば充分かと。ただし、実用性を重視するなら、「変なもの」は買わないのが吉...かも? 素材が特殊だとかね。

いるものといらないもの

 こんな話をアップしようと思っていたのだが、そこへニュースが飛び込んできた。それは、Evernote に関するもの。
 まずアップ予定だった話から、順を追っていこう。

 Evernote を使いだしてからもう何年にもなるけど、Webサイトの保存やメモにはあまり使っていなかった。
 しかし最近、時々保存するようになっている。

 そのきっかけを作ったのは、Pocket である。
 これは保存しておきたいけど PDF にするほどでもないな...とか、とりあえずでいいから Evernote に保存しておこうかな...なんて思うことが、時々出てくるようになった。昔はあまりなかったんだけど、こう思うことが増えたのは、Pocket を使うようになってからだ。Pocket に溜めた記事を開いている時に、そんな欲求が度々出てくる。

 Webサイトは、丸ごと必要だと思えば PDF にしてしまうことが多い。
 Mac なので、Webサイトの PDF 化は標準機能で簡単にできる。PDF 化する時は、先に PrintWhatYouLike などのようなブックマークレットで不要な部分を削除しておく。

 ほんで、Evernote への保存はといえば。
 最初は、PDF の保存時と同じように、ブラウザで開いたページを PrintWhatYouLike で処理してから、Web Clipper を使って Evernote に送っていた。しかし、某ニュース系サイトの記事を同様に処理した時、Evernote 側の表示で不都合が生じた(先に付け加えておくと、これは古い情報でして...)。
 エラーなどではない。フォントがやたらとデカくなったり、使われている画像が元サイズのままだったりで、僕が固定しているウィンドウのサイズに収まらなかったのだ。
 まだ余裕があるからウィンドウを広げろと言われれば、確かにそれで対応できなくもない。でも、Evernote のウィンドウの左側は開けておきたいんだよね。諸々の都合で。だから、ウィンドウサイズは変えたくない。
 それに、フォントが自分の設定した標準の倍以上のサイズになるから、どのみち気に入らない。Evernote のノートは、フォントサイズなどを統一させたいのだ。ページによって設定が変わってしまったら、読みにくくてかなわない。だから、ウィンドウサイズの変更では、解決にはならない。

 なもんで、サイトの不要な部分を消して整理して、少なくともフォントサイズだけでもなんとかして保存できないのか? と思ったら、あるにはありましたねぇ。Evernote Clearly というものが。基本機能で言えば、Web Clipper と競合する機能拡張だ。
 ただし、普段使ってる Safari には対応していない。対応ブラウザの Firefox と Chrome はインストール済みだし使ってもいるけど、Safari でそのまま...てわけにはいかない。

 それでも、Clearly の方が、僕には便利であった。

 いつもの Webサイトの閲覧には、これまで通り Safari を使う。
 Safari で見ているページを Evernote に保存したい時は、URL をコピペして Chrome で開く。面倒なようだけど、回数は多くないのでさほど面倒でもない。
 Pocket に入っている記事を Evernote に保存したい時は、Chrome で開いて、Clearly で Evernote に送る。

 しばらく、こんな感じで使っていた。

 ところでここでひとつ、知ってる人は不思議に思うだろう。なんで Pocket から Evernote に保存しないんだ? と。そうです。Pocket は Evernote と連携できるので、直接保存できます。

 しかし。Pocket のブラウズ機能には、貧弱さがあることは否めない。うまく表示できないページもあるのだ。これが意外と多い。内蔵ブラウザで表示できなかったら、Safari とか他のブラウザで開くしかないよね。ブラウザで開いたら、そのままブラウザで保存したい。
 それと、Web Clipper で保存した時と似ていて、保存のされ方があまり好きじゃない。広告などは自動的に削除してくれるけど、フォントがね。どうやらオリジナルの影響を受けるようで。ええい、面倒だな。

 各ページを見る時はそれでもいいけど、Evernote に放り込むとなると、やはりそうとも言えない。保存した時、保存のされ方にばらつきがあると、やっぱり見にくいんだわ、これが。さっきも言ったけど。
 だからフォントの種類もサイズも、僕の設定に合わせて欲しいのだ。その方が、Evernote 内での閲覧性は上がる。揃ってた方が、気持ちいい。たぶん。
 まぁ僕がそう思うだけで、気にしない人は気にしないんだろう。

 その点、Clearly は過剰な変換はしないし、フォントは揃うし、画面サイズをはみ出すこともない。
 ブログなどは、その体裁を含めて、書いた人の意図があるのだから、そのまま保存したい...なんて人もいる。そんな人には、Clearly は向いていない。しかし、余計なものまで保存したくないなら、Clearly はよく働いてくれますね。
 もっとシンプルな方がいい人は、これでも物足りないかもしれないけど。

 それに、Webページをそのまま保存したい時は、PDF でいいし。そのままを Evernote に保存しようという気にはならないのだ。Clearly はちょうどいい案配になる。
 そんなわけで、僕は Chrome と Clearly を使っていたのです。

 と、ここまでがアップ予定だった話である。

 がしかし、ここにきて状況が変わる知らせが届いた。なんでも、Evernote が Clearly のサポートをやめて、Clipper に絞る...というのであった。
 でも、あんまり困らない。なんで困らないかっていうと、上にかいたネタの内容が既に古くなっていたからだ。

 Clipper だと、保存時に不都合があった...と書いた。
 しかし機能改善だとかもあってか、あるいは僕の使い方に難点もあったか、Clearly と遜色ない保存ができるようになっていた。ただし、Clearly の方が使いやすく感じるけどね。
 それと Clipper は、保存時にちょっとした乱れを生じることがある。まぁ保存には影響がないので、たいした問題でもないが。
 今のところ、他に問題は起きていないので、今後は Clipper で保存いたしまする。

僕の作法はこの通り

 綺麗な折り鶴の折り方を探す人が絶えませんね。
 綺麗な折り方を探し求める人が、何に困り、どうつまずき、どこにこだわっているのか聞いてみたいものである。しかし今のところ、このサイトにはそんな手段はない。ないったらないのだ。

 本当のところはよくわからないし、もしかしたら、10人いたら10通りの問題点なり疑問点なり悩みや知りたいことが出てくるのかもしれない。ほんで、それに対してこのサイトの記事がどのくらい役立っているのか、まったくわからない。
 しかしそれはそれとして、ここで改めて、僕の鶴の折り方の詳細を掲載しておこうと思う。何かの足しに、ヒントのひとつくらいにはなるんじゃないかと。現状で僕にできることは、そのくらいのものだろう。
 単に折り鶴の折り方なら、他にサイトがゴマンとあるし、そっちを見てもらった方がいい。そこに改めて僕が自分で掲載するのも面倒だ。面倒だとか、どんだけ面倒臭がりなんだと思わなくもないけど。

 過去に「折り鶴の作法」という記事をアップしている。今回のは、その詳細バージョンとでもいったところですね。

 さて、鶴に取りかかる前に、折り紙の基本の注意点などを。
 角の先までズレないように折って、辺と辺をぴっちり合わせる。これは、基本中の基本である。シャープに処理する...とでも言おうか。もっとも、わざとそうしない場合もないわけではないけど(今回の折り鶴でも、わざとずらす箇所がある)。
 ただ、市販の折り紙は、実は正確な正方形であるとは限らない。また、紙を折る時に歪みが生じることもある。繊維のクセがあって、それが折り加減に影響するとかね。だから三角に折っても、綺麗に重ならないことは珍しくない。少しだけズレちゃうことがよくある。
 でも折り鶴くらいのものなら、その程度の小さな難点は修正可能である。
 この修正の詳細については、記事の終わりに追加いたします。

 また、ここに掲載するのは、あくまで僕の折り方である。基本的な手順は変わらないのだけど、ごくごく普通の折り鶴とは違う点が3点ある。
 第一に、羽に折り目がない折り方である。羽に折り目がない折り鶴は、多少折り慣れないと少しばかり苦労を伴う。おそらくは。これは同時に、最初の手順が違うということを意味する。
 第二に、首と尾を折る時にちょっとだけ細工をする。
 第三に、羽は根元で折ってしまう。普通は広げるだけなんだけどね。
 一般的な折り図の通りに折らないのは、この3点だ。3点目などは、好みですけどね。
 また、鶴の基本形にする時のやり方が、少しばかり個性的であるかもしれないけど、よくわからない。まぁこのへんも好みで、適当に。



 さて、それでは鶴を折るといたしましょう。今回は青色で。細かい一折りひと折りを、画像で載せていきますね。

 正方形の紙が1枚。
 

 青(表)を上にしたまま、三角に折る。
 

 広げて、裏返す。この時点では、斜めに1本の折り目(山折り)が付いていますね。当然だけど、山折りと谷折りは、裏返すと逆になる。
 

 垂直方向を折る(辺に対して)。長方形に、辺と辺を合わせて半分に。
 

 一旦広げて、もう一方も同様に折る。それを広げると、こうなる。
 垂直方向の谷折り線が十字に2本。斜めに山折り線が1本。計3本の折り目がある。
 

 これを、今付けた3本の折り目だけを使って、スイと折り畳む。
  > 途中経過。

 紙の中央の頂点(3本の折り目が交差している場所)は、裏側(白面側)ではなく、表側(青面側)にへこんだ状態で折り畳む。
 これが逆になると、鶴の基本形ではなく、ふうせんの基本形へのステップとなる。しかしふうせんの基本形にするためには、もう1本折り目が必要だ。ここまで折ってきた通りに折りたたむなら、3本の折り目では折ることができない。

 正しく折り畳んだのが、次の写真だ。
 

 ひとつ、補足的なお断りを。
 ここではわかりやすくするために、折り筋を付けた後で一旦広げて戻した。でも実際には、広げずに、長方形に折った状態から即この形に持っていくことが多い。多いのだけど絶対でもなくて、一旦広げることもある。
 これは気分みたいなものですね、僕の。その都度、気まぐれとでもいうような。時によりけり。
 ただですね、一旦広げるよりも、長方形からダイレクトに変形する方がサッと折れますね。ちょいと開いてたたむだけ。手順もちょっとだけ少なくなる。だから、そう折ることが多い。
 ここではあえて写真や詳しい手順は掲載しないので、その気のある人は謎解きだとでも思ってお試しあれ。

 いずれにせよ、通常はもう少し手順が多くなる。
 最も一般的な方法では、三角に折る→もう半分、三角に折る→開いて潰す→開いて潰す...で、この形にする。もしくは、長方形に折る→左右互い違いに角を折って三角にする→中を開いて潰す...で、この形になる(こちらの写真は割愛)。
  > 最も一般的な手順。

 しかしどちらの方法でも、下図のように平たい面に折り筋ができてしまう。僕のやり方では、ないはずの折り目だ。ここは羽になるのである。羽には折り目がない方が、綺麗だ。
 

 次にこれを、折り鶴の基本形にする。いわゆる花弁折り。
 僕がよくやるのは、折り目をつける前に、とりあえずなんとなく形にしてから折り進めるというやり方だ。これは、あまり一般的ではないかも。
 鶴の背中になる部分(袋の頂点)を平らなまま押さえて、少し開いてやればいい。
 

 この「なんとなく」の形を作っておくと、実際に折る時にやりやすい気がする。気休めかもしれないが。
 この時、二股に分かれた側から折る方が、綺麗にできる。またこの方が、後で説明する修正もしやすい。

 途中経過。
 

 もう一方も、半分ほど折る。
 

 羽の先を折る時は、羽の根元の折り目をしっかり決めることと、紙を少し引くようにしながら折ることがポイントかな。

 片側をすべて折ったところ。
 

 もう一方も折る。
 

 これで、鶴の基本形の片面ができた。

 裏側も同様に。
 折り終わったのが、次の写真だ。これが、鶴の基本形。
 

 次は、首と尾の部分を折ります。ここで、ちょこっと細工する。
 通常は中央の辺に合わせて折る。しかしここをいっぱいまで折ると、次に中割り折りをする時に表裏(左右)の紙が互いにぶつかり合うので、折りにくくなってしまう。
 そこで、少しだけ中央からずらすのだ。ただし、角はキッチリ尖らせるように、折り目を角に集めるように折る。また、ずらすといっても、ずらしすぎてはならない。過ぎたるは及ばざるがごとし。
 

少し拡大してみましょう。
 

もちろん、裏側も反対側も、同様に。
  > 裏側終了。

  > 両カド終了。

 ちなみにこの時、僕は角の先の方をあとで折る。
 

 では、中割り折り。
 折り慣れない人だと、この中割り折りが難しく感じることもあるようで。中を割るように折るので、中割り折りという。たぶん。
  > 片方折ったところ。

 さきほどずらしておいた効果で、このように左右の紙の厚みがケンカすることなく、すんなり折れます。
  > 途中経過。

  > できました。

 がしかし、実はこの時点で、首と尾の先はまだ折りきっていない。
 

 なんでそんなことをするのか。それは、こういうことだ。
 このふたつの角は、左右対称ですね。
 つまりどちらを首にしてもいいわけだけど、より自由で積極的な視点で言い換えると、1羽だからどちらでも好きな方を選べる...ということだ。頭を変更できないタイプの連鶴にでもなるとそうもいかなくなるけど、1羽だからね。
 僕はこの時、より角が綺麗に折れている方を首にする。うまく揃わなかった方は、このまま隠してしまえばいいのだ。
  > 比較。

 ここでは、左の写真の角を首にしたい。こっちの方が、先まで綺麗に折れた。てなわけで、そのように。

 首が決まったので、尾も先まで綺麗に折りきってしまいます。
 

 羽は、根元で折るのが、僕の好み。
 

 出来上がり。
 



 さて、冒頭に挙げた、紙の「ズレ」や「歪み」について追加しておこう。
 この「ズレ」や「歪み」の修正は、角の折り目をずらさない...という単純なものだ。写真で例示しておこう。

 例えば三角に折る時、普通に頂点を合わせて折ると、底辺側の角がズレることがある(今は紙の裏表を、ここの説明とは逆にします)。
  > こんな具合に。

 紙の歪みとか、繊維の方向だとかの影響があるので、これは仕方がないことなのだ。
 しかし大雑把に言えば、このズレは途中で修正しながら折り進めれば、あまり問題にはならない。その程度のものである。
 折り鶴の場合は、簡単な作品だけど、ものすごく簡単なわけでもないし、いい具合にごまかしが効く。シンプルな作品ほどごまかしは効かなくなるし、難解な作品ほどズレが生じやすくて修正が難しくなる場合がある。
 しかし折り鶴なら、この後で挙げるズレも含めて、羽を広げてしまえば目立たなくなるし、なかなか都合がいい。この程度の重なりのズレは、簡単に誤差の範囲内でしかなくなる。

 では、手順の中で、修正するオススメのタイミングはどこか。と言っても好みだと思うので、これは人によって違う。たぶん。
 僕の場合は?
 首と尾の先を折る時も修正できるのだが、後からだと頭と尾の修正は難しくなるので、鶴の基本形に入る前に修正しておいた方がいいかと。このあたりで先に手を入れておくと、うまくいく。と思う。
  > この形。

 ズレてますね。
 

 これをちょいちょいと。
 

 もちろん、最初に三角に折った時点で修正することもできる。結果としてはそれと同じことなんだけど、僕はここで調整するのが好きなので。
 なぜなら、長い辺の端と端の角をしっかり合わせるのって、意外と難易度が高いから。簡単なようで、簡単じゃないんだよね。


 それともうひとつのポイントが、折り鶴の基本形での両の羽の状態だ。
 ここは、紙や折り方によっては左右の羽が同じように重ならないことがある。上の修正を加えた時、ここでズレが大きくなることもある。こんな感じで。
  > ちょっとズレてる。

 しかしここでは、それぞれの羽先の処理を優先する。左右の羽の重なりは、少々ズレていてもかまわない。
 なんでほっとくの? それは、羽の先が綺麗に折れていないと、みっともないからだ。こっちの方が重要なのだ。羽先は絶対に、角をきちんと合わせて折る。そうすることで、厳密には羽が左右対称になっていなくても、綺麗に見えるものである。
 羽を広げれば目立たなくなるし、羽の根元を折る時にも多少の修正ができる。いくらでもごまかしは効く。
 問題解決(?)。

 

 といった具合で、綺麗に見せるためには、荒技も含めていろいろあるのでありました。参考までに。

振り返ってみたならば

 最近、あれこれあって、書きたいことがいろいろできているんだけど、なかなか思うに任せない。と言っても、気に病んでいるわけではないが。それはそれでいいと思っている。のんびり。
 そういえば昔は、今とは違って日記のようなスタイルだったんだよなー。その日その日であったことなどを、3日にあげず書いていたしなぁ。
 随分と様変わりしたものです。

 どちらかといえばネタが少しずつ少しずつ増える一方で、当分切れることもなさそうなのが、今の状況である。それに更新スピードが追い付いてない...とも言えるけど。そのネタのヒントになるもののひとつが、当サイトへの検索に使われたキーワードである。
 今年もいろんなキーワードが使われてましたねぇ。
 でも、大雑把に分けると、4つに大別できる。とりあえず「その他」は無視で。
 折り紙、アンダーウェア、シューズのソールの黄ばみ取り、セクシュアリティ。この4つです。

 その中から、ちょいと折り紙について。
 折り紙は、大半が妹背山、特に2色の色分けバージョンの妹背山の検索が多い。
 あれはやり方は簡単なんだけど、知らない人は「なんで?」って思うものだし、折り間違えることもある(妹背山の詳細は「折り紙」タグから、いくつかある該当記事をご覧ください)。

 そういえば小学5年の頃だったか、妹背山(普通の妹背山)の折り方を教えろとしつこく迫ってきた友達がいた。単に折り鶴を2羽折るだけだから、最初は「紙をこう切って、あとは折り鶴を2羽別々に折るだけ」って教えた。もちろん、頭の位置も含めてね。だけど、なぜかそれができなくて、「次は?」「次はどうするの?」「それで次は?」って最後のひと折りまでしつこすぎて、嫌になったことがある。
 妹背山の折り方を教えて欲しいと言われたことは、これまで何度もある。わりと簡単にできるし、そのわりには見栄えがして、ちょっとすごいかも...とも思われるし、便利で手軽な「使える作品」なんだよね。
 だけど後にも先にも、あんな人はいなかったなぁ。
 しかし今思えば、1羽の折り鶴を折るのも苦手な人もいるし、特にそんな人にとっては、数が2羽に増えて、それが繋がってるなんて、何がどこでどうなってるのかイミフだったんだろうなー...と、ちょっとかわいそうな気もしないではない。その当時は、かなりイライラしたけどね。

 とにもかくにも、細かく見るといろいろと不思議なキーワードもちょこちょこ使われていて、なかなかおもしろい。そのいくつかは、またネタに使わせてもらおうと思っている。

 さて、実生活ではどうだったかな。
 昨年は「高い買い物をしなかった」と書いたんだけど、今年は久々に万を超える服を買ったり、デジカメを買ったりしましたねぇ。
 服は、コートです。もともとパンツを購入するつもりで、時々顔を出しているお店に行った。前にどんなものがあるのか見ていたので、おおよそは決まっていた。早々に選び出した2本で悩んだものの、無事購入。と言っても、裾上げと、ついでにウエストも直してもらったけど。これは、いつものお約束。
 で、仕上がったパンツを引き取りに行った時に、なんだか心惹かれるコートがあったのだ。
 試着してみると、これがジャストサイズな感じであった。あえて言えば、二の腕のあたりはもう少し細くていいけど。しかしそれでも、こうピッタリくる服とは、なかなか対面できない。とはいえ、買えば懐は痛い。これは迷います。その時を逃すと、次はいつそんな服にお目にかかれるかわからないのだから。
 という事情があるのも、ある意味ひとつのお約束。
 結局は、ある時に買わないとね...ってことで、買ってしまったわけです。

 デジカメは、超望遠タイプ。ミラーレスとかデジタル一眼とかじゃなくてね。
 どこかのポイントだとかがいろいろ貯まってて、それを使った。
 まぁこの類いの機種は、「お手軽さ」だと思う。デジタルでも、画質にどこまでもこだわろうと思えばデジタル一眼に歩があるし、コンデジやその延長線上のデジカメじゃあどうしたってかなわない。総合的に劣るのはもちろんだが、撮像素子とか細かいスペックからして、不利だ。
 だけど、デジイチより遥かに安い金額で、ある程度のことはできる。目的を絞れば、ハイエンド機を凌ぐ点もある。そのへん、どこまで許せるかとか、自分がどう使うかがポイントなんだと思う。使い方や目的に合わせればいい。
 それに、たしかにコンデジより「いい機種」を持つ人が増えたけど、だからといって「いい写真」や「おもしろい写真」がそのまま増えるわけじゃないんだよね。機能的に優れる機種は、スペック上の「担保」はあるけれど、それがそのまま写真の出来やおもしろさにつながるわけじゃない。
 とはいえ、各々撮りたいものも違うわけで、ぶっちゃけ自分が満足できればいいわけですが。
 それはともかく、超望遠タイプのデジカメがどこまで使える代物なのかを図りかねて、買うまでけっこう悩んだなぁ。僕の目的にどこまで応えてくれるのか、本当に使いやすいのか...。
 結果的には、大満足とは言えないまでも、満足です。撮像素子も小さいし、「画質」とか言いだすとキリがないけど、これはこれで使える。何より、楽しければいい。

 そんなこんなな本年も、残すところ2日。
 よいお年をお迎えください。

これも驕りの一種かな

 先日から、妙な発言が止まりませんねぇ。
 議員だとか公職だとかに就いている人たちが、同性愛者についてデタラメな批判や否定、揶揄を発信している。なんともかんとも。
 年齢の高い人ほどこういった偏見が強く、事実に基づかない手前勝手な自説を曲げようとしない傾向があるんだよねー。ほんで、同性愛者が嫌いで認めたくない若い人もまた、同じ傾向を持つ。

 どれもこれも基礎的知識に欠けていて、言い分は的を外してばかりで、その発言のどこにも正当性を見いだせないという、救いようのないものである。
 まぁ、これは氷山の一角にすぎない。続く時には、どんどん続くんだろうと思う。年末までに、まだまだありそうな気もする。
 発言の度に問題化しているわけで、後から発言する人は学習してもよさそうなものだが、それは期待できないだろう。彼らは、学習する気がまるでありませんから。

 僕には、恥と無知を晒してるなぁ...と思えてならない。
 議員にしろなんにしろ、ちっとも学習できないのがいい歳をした大人ですからねぇ。あぁ、間違っていたんだなと知り、正しい理解を深めるのならともかく、そんな様子は微塵もない。
 自分の不見識ぶりを振りまいているだけに見えてしまう。

 さて、それらの発言がどんなものであるのか、相手にするのもばかばかしくなるようなものだが、見てみよう。
 一度に書くので、とても長くなりますが...。

 発端とも言えそうなのが、「同性愛者は異常動物で、異常人間が多くなれば人類の破滅。その報道は倫理観に欠ける。正当化するな」とかとかいう内容の某議員の発言ですね。
 倫理観に欠けているのは、むしろこの方だろう。同性愛は倫理の問題ではないし、異常などという性質のものでもない。人類が破滅するなんてことも、あり得ない。
 基礎的知識も倫理観もないので、こんな発言になるのだろう。
 この発言の主は、「その時はお酒を飲んだ時でありましたし」「普段は全く深く考えてもいませんし」「本当に軽はずみで書いてしまったということでありますので」などとも言っていたようだが、それは言い訳にも免罪符にもならない。むしろ、自分の無知と不勉強さと軽率さを露呈している。
 だから目くじら立てなくても...とか、だから軽く流してよ...とでも言いたげだが、酒の席なら何を言っても許されるというわけではないし、深く考えていないのなら考えてみてはいかがでしょう。考えていないのにわざわざあれほどの発言をしたのだとしたら、あまりに軽薄だよなぁ。
 本当に軽はずみで...って、軽はずみだからこそ、むしろ本心が出ているのではないのかな?
 他の発言を見ていても、つまりはこれがこの人の、人となりなんだろうなと思わずにはいられない。同性愛に限らず、印象で独善的に判断した、根拠のない発言が多い。利己的な独りよがりの見地しか持ち合わせていないようである。しかし、それを改める気もないのだろう。
 それで政治家が務まるのだから、楽なものである。
 また、「まじめ人間が馬鹿を見る」などとも言っていたけれど、それ、同性愛者かどうかには、まったく無関係のことですよね。異性愛者ならみんな「まじめ」だとでも思っているのかなぁ。

「正常」という名の暴力...。

「同性愛は異常でしょ。だいたい、何で同性愛者とかは自分の変態的異常性を公表したがるんだ?」と受けた某職員がいた。
 これも、トンチンカンな発言だよなぁ
 冒頭の不見識ぶりに続いて、「だいたい...」と言いながら「だいたい...」の内容が的を射ていない。同性愛と変態は違うし、同性愛者に異常性があるわけでもないし、誰もが積極的に公表したがるわけでもない。
 この発言も、何ひとつ正確なものがない。哀れですね。
 たしかに、公表する人はいる。積極的かどうかはともかく。それが社会的に広く認められた著名な人でもあれば、驚きを持って受け止められることも多い。しかし、その状況そのものが、既に「異常」で「差別を孕む」ものなのではないのか?
 今現在は、わざわざ公表しなければならない状況があるのだ。「公表しなけりゃいいんじゃない?」などという話ではない。自分が自分のアイデンティティを守るために思考を重ね、何某かの決意によってわざわざ公表し、それが「当たり前」に受け止められるとは限らないという現状の「異常性」が省みられないという現実があるのだ。
 カミングアウトするかしないかは、その個人が決めればいいことだ。でも、そんなことで悩まなきゃいけないのは、なぜなんだろうなぁ。これって、同性愛が異常だからではなくて、同性愛を異常だと思い込み、理解しようとしない人が大勢いるからじゃないの?
 著名人に、前向きな思考によって公表しようとする人がいるのは確かだろう。だけどそれもまた、世間の差別がまだまだ根深いということを知っているからこその行動であったりする。この行動そのものが、差別の存在を強く物語っている。
「あいつらなんで公表したがるんだ?」などという発言からは、性についてはおろか、その行動の意味も、なんら理解していないことがよくわかる。

 こういった発言は、しばしば「不適切な発言」として片付けられ、削除される。「賛同発言」からの「発言削除」という流れでも、同様だ。
 でもね、「不適切な発言」ではなくて、「誤った発言」とか「理解していなかった発言」と言うべきでしょうねぇ。「(自分が)誤解した発言」ならまだしも、「不適切」と表現するのだ。
 あの人たちは「不適切な発言だった」だとか「誤解を与える表現だった」だとかよく使うけど、なんとも釈然としない言い方なんだよねー。弁解のようにも使うけれど、それは弁解にはならない。
 自分は悪くない...と暗に言ってるようなもので、批判をかわして自分が逃げるためだけの便利な口実のようにしか見えない。
 まるでそれを証明するかのように、「自分が間違っていました」とはけして言わない。自分は悪くないけど、本当のことを理解する気もないけど、とりあえずその場にそぐわない発言だったみたいです...と。他人事のように、暗にそう言っている。
 発言を取り消そうが、書き込みを削除しようが、意識は変わらないんだよね。何もわかっていない。何も変わらない。
 内輪では、発言を正当化する者同士で賛同しあったり、同性愛者を批判したりするのだろう。情けないことにね。それを情けないと指摘しない周辺も、同じ穴の狢だ。
 不適切なのではなく、真実を知らなかったし、知ろうともしていなかった結果の発言だろう。何が正しくて、何が間違えているのか、正確に判断できていない。
 辞職などについて問われると、「与えられた責務・職責を全うしたい」などと答えるのも、常套句ですね。この後に出てくる誰かさんも、同じことを言っていた。
 いやー、全うしたい...って、既に全うできてませんよー。どうするの?

 話が少々逸れてしまっているが、もっとも、この趣旨の発言は珍しいものではない。珍しいものでないことそれ自体が、嘆かわしいことではあるが。
 それらの発言そのものは、政治家だから許されないわけじゃない。誰が発言しても、同じことだ。発言の意味自体は、なんら変わることがない。
 それでも、立場が変われば、発言の責任や重みは、変わり得るものだろう。政治の運営にかかわるつもりなら、そのくらいの「常識」は持っていてもいいんじゃないかなぁ。
 それがないのに、職責なんて全うできるの?

 渋谷区の例の条例について、「男らしさや女らしさ、男女による結婚を尊重し祝福する日本社会の価値観を否定するもの」と批判した人もいる。「婚姻は次の世代を産み育てること」「同性カップルから子どもは生まれない」「憲法に"結婚は両性の合意のみに基づく"とあり、条例制定権を逸脱している」とも言ってますね。
 これも、ツッコミどころが満載です。
 男らしさ、女らしさがどうとか言っているけれど、それはヘテロセクシュアルにだけ備わるものだろうか。そうではなかろうて。
 日本社会の価値観とやらを持ち出す人の根拠も、よくわからないんだよね。よくよく聞いてみれば、その価値観とやらが、たかだか200年にも満たない新しい歴史、それも著しく偏った偏見に基づくもののことを言っていたりする。
 普段はグローバルだのなんだの言うのだけれど、こういう時だけ都合よく手を翻す態度も、感心できるものではない。そもそもその価値観が作られたのは、遮断されていた欧米(特にプロイセン)の文化や思想が入ってきたこととも関係している。その欧米は、同性愛者に対する社会的地位などの改善においても、先進国となりつつありますが...さて、どうするのでしょうね。
 あの条例が学校教育で「性的少数者に対する理解を深める」としていることについては、「教育への介入で、子どもの価値観を混乱させかねない」とも言っている。
 しかし、教えないことの方が、むしろ価値観を混乱させるかもしれませんよ。今はその混乱を、数少ない同性愛者などのマイノリティだけに、当事者個人だけに押し付けているとも言える。しかも、救いのない状態に放置して。多様なものを多様だとせずに、狭い視野の固定観念を「正しい」と教えれば、当然そうなるよね。その固定観念から外れるものは、「異質なもの」「異常なもの」としてしか扱われない。それがセクシュアルマイノリティ、特に子供を苦しめることになるというのに。
 ここで事実なのは、ただひとつ。「同性カップルから子どもは生まれない」という点だけだ。でもねー、子供が産まれないからどうだというのだろう。結婚さえすれば許されるとでも? 子供を産まない、あるいは産めない夫婦には、何と言うつもりなのだろう。やはり暴言を浴びせるのでしょうか。
 それに、子供を持ちたい同性カップルもいる。彼ら・彼女らが、それをどう実現できるかは、ここで深くは触れない。現状では体外受精は不可能だが、仮に人工授精などの他の方法で子供を得るカップルが増えるとすれば...どうなんでしょうね。
 それはさておき、いつも思うことだけど、同性カップルがどうとか言う前に、「普通の家庭」が抱える「目に見えていない重大な問題」について考えた方が、よほど有意義だと思う。
 さらに、憲法にも言及しているけど、そこには同性愛者の結婚については何も書かれていませんよ。また、「結婚」ではなく「婚姻」です。いずれにしろ、同性愛者の結婚(婚姻)が禁じられているわけではない。見識に欠けてます。

 もうひとつ。
 某議員が、某職員による同性愛者を中傷する上記のツイートに関連する質疑で、「同性愛は異常だ」とやじを飛ばしたというもの。
 これも、発言そのものの不正確さもさることながら、その後の発言も、どういう言い訳なのかとあきれるばかりだ。
「やじではない。私人としてつぶやいただけ」と言ったそうだが、やじかどうかが問題なのではないだろう。また、私人としてなら許されるのであれば、どこで何を言ってもいいということですよね。それはまさに、どのような暴力も差別も許される際限のない乱れが蔓延する世界を認めることになるのでは? 彼らが大好きな「規律正しい」世の中は、永遠にやって来ない。皮肉にも、彼ら自身の思想によって。彼らの言う「規律正しい」社会が、歪んだものだってことはともかくね。
「差別的な意識はなく、誰かを中傷するものではない。同性愛を社会全体が認めて拡大すれば人口減少につながるとの思いから発言した」と、トンチンカンなことも言っている。
 差別的な意識はない、中傷もしてないって言うけれど、きっとおおありでしょうね。この言い訳、苦しすぎるよ。
 この後半部分も、もう笑ってしまう。「同性愛を社会全体が認めて拡大すれば人口減少につながるとの思いから」って、いやいや、おかしいでしょう、根本的に。社会全体に認められたからといって、同性愛者が拡大するわけがない。
 セクシュアリティが、倫理や精神、あるいは嗜好の問題だとでも思っているのだろう。違いますよ。認めるかどうかには関係なく、同性愛者はいる。そんなことでは、同性愛者は増えも減りもしない。増える要因はあり得るけど、それは社会での認知とは無関係だ。
 また「人口減少」とやらにも、結びつくわけがない。仮に高めに見積もって、同性愛者が10%いるとしよう(おおよそ 5〜8% というのが定説です)。で? そのまま人口が10%減少するとでも? 異性と結婚する同性愛者もいるけれど、それはむしろ少数派だ。ごっそり減少するわけがない。
 そんなことを言っている限り、人口問題は永遠に解決しませんよ。問題の本質を見ずに、見当違いの話を問題として持ち出している限りはね。それも、不見識であるが故にね。
 さらに、表現の自由だから撤回する必要はなく、問題もないのだとか。あれ? 公共の福祉に反する明らかに差別的な発言も、公共の福祉を乱す事実に基づかない誹謗中傷も、表現の自由として認められるんでしたっけ。これは表現の自由の問題ではないし、公共の福祉に反する事実に基づかない誤った発言を取り消すことに、何をためらうことがあろうか。
 おかしな正当化ですねぇ。それが間違いだろうと何だろうと、よほど自分の言ったことを引っ込めたくないらしい。

 その他、某弁護士による指向と嗜好の区別もできていない発言などが続いているけど、割愛。
 ホント、あきれるよなぁ。彼らこそ、人を深く理解すべき人たちではないのですか? 驕り高ぶることしかできないのなら、責務など果たせないだろうし、その席が相応しいとは思えない。

 科学的な不確かさと、自己都合による倫理・正義を基にする主張の暴力性。それがわからない人たちが、公職に多いという現実が透けて見える(年寄りが多い世界なので、ある意味では当然のことだが)。
 しかもこれって、子供に対しては容赦ない暴力になり得るのでは? 大人ならある程度の耐性を持っているけど、そんな力も知識もなく仲間もいないであろう子供たちを、否応なく深く傷付けると思いますが。青少年の心をズタズタにしようとも、それがどんな嘘であろうとも、自分が正しいと信じることならば、なんでも許されるんでしょうかねぇ。
 当事者全体に対して失礼なのはもちろんだが、心ない言葉が、多感な子供に対しては、命を奪いかねないほどの凶器になり得るのだという重みを感じて欲しい。
 気持ち悪いとか生理的にどうだとか、そういう人がいるのは致し方のないことかもしれない。けれど、それらの人たちが主張する自分たちに都合のいいこういった言説こそ、倫理にもとる。もう一度言っておこう。倫理的に問題だというその主張こそ、倫理に欠けています。
 それ、自分の「気分」を、理論を装って「あたかも正しいことであるかのように」見せかけているだけでしょう? でもその理論武装は、不確かな「思い込み」に基くものなので、ハナから破綻している。
 それを真っ逆さまに主張していることの歪さに、気付いて欲しいものですね。

記憶と記録に残るもの

 今年も残すところ、あと1か月ちょっと。
 まだ年の瀬でもないしこんなことを言うのはまだ早いかもしれないけど、有名人の結婚がいくつもあった印象だ。
 そう思うのは、長らく結婚しないのかと言われていてようやく...という某ミュージシャンの影響があるのかないのか。あるいは、昨年末あたりからの、僕でもわかる有名人の入籍や交際の話が続いたからか。
 うーん、どうなんだろ。

 まぁ僕は芸能界関係には疎いので、本当にただの印象に過ぎない。実際には、昨年は昨年で、一昨年は一昨年で、毎年いろいろ続いてたわけでして。
 印象に与える影響を考えると、「気になる人か」と「気にならなくても目立つか」とは、大きなポイントのひとつなんだろうなー。ちなみに某ミュージシャンは、後者です。僕にとっては、ね。

 結婚式といえば、披露宴がありますね。必ずではないけど。
 僕はいわゆる普通の結婚かどうかに関係なく結婚をする気はないし、したこともないので、自分で披露宴を開いたことはない。だけど、親戚縁者が多かったり、同年代に結婚が続いたりで、結婚式や披露宴には何度も出席している。
 ほんで披露宴といえば余興があるけど、音楽つながりの仲間の披露宴は賑やかなものが多い。合奏あり、合唱あり、歌も楽器もソロありで、曲はといえばポップス、ロック、ジャズ、クラシックとジャンルを問わず、クラシックも古くはルネサンスやそれ以前の時代から現代まで...といった具合に多彩で、楽しい。披露宴で使う全曲を、すべて出席者(と新郎新婦)の生演奏で賄うこともある。
 演奏するのもいいけど、聴いてるだけでも楽しめる。

 音楽つながりを離れて、僕個人はどうかといえば、昔々に一度、従姉の披露宴で演奏を頼まれたことがある。
 もう何年だっけ。15年ばかり前になるかな。

 しかしそれは、僕にとっては黒歴史である。

 やはり披露宴には、それに適する曲選びというものがある。
 曲選びというものは、どういう視点を取るか、何を一番の目的とするか、どういう内容で何をしなければならないのか、どんな場面で使うのか、何某かの制限があれば何ができないのか、あるいは何をやってはいけないのか、重視することや制約によって変わり得るものだ。
 と言っても、大抵は難しく考えなくてもいいんだろうね。多くの場合、どうしたら誰に喜んでもらえるかなーとか、そういう単純なことなわけです。

 しかし「なんでもいいからやって」なんて言われて、いざ自分がやることを考えたら、まさに際限のない中から選ばなきゃならないわけで、これはこれで大変だ。
 ねーちゃん、大変ですよそれ、マジで。
 僕としては、有名でなくていいので、クラシック系で耳当たりの悪くない曲を選んでおけば無難だし、プラスお祝い代わりになって、自分でも歌いやすいものがいいな...くらいに思っていた。場合によっては、ボップスとかでもいい。

 しかしここで、横槍が入った。

 その槍を振りかざしたのは我が母なのだが、とんでもないことを言いだした。
 わかりやすく言えば、オペラとか、ババーン! と歌い上げるような曲を歌えと。それが望まれているのだと。めちゃくちゃ簡単にすると、そういう意味の槍である。

 いやー、それ違うと思う。

 あの頃は僕にも柔軟性がなくて、内心では閉口しながらも従わざるを得ないような状況であった。今でも柔軟性が高いとはとても言えないが、今とは比べるべくもない。
 とてつもない要求に沿いつつ、僕に歌えるもの。そんな都合のいい曲、簡単に見つかるわけもなし。

 それにしても、母の強権(狂犬?)ぶりには困ったものである。
 なんというか、自分が信じるものに対しては融通が利かないし、他人にもその考えを押し付けるところがある。たとえその内容が、間違えていたとしてもね。
 表向きは仲違いしているわけではないが、正直なところ内情はといえば、母と僕とは、ほとんど水と油のごとくに交わらないのではないかというくらいに別の世界にいるのは確かだ。いろんな意味で。共通項もあるけどね。
 程度を示すのは難しいけど、かなりの部分で相容れない。
 そんな母でそれが当たり前なので、本人には「要求して押し付けた」つもりはまったくないんだけどねー。

 ともかく母のむちゃくちゃな「指令」で選択肢を狭められて選んだのは、いわゆるイタリア歌曲みたいなもの。ええ、もういちいち説明はしませんよ。実際に何を歌ったかも言いませんよ。つーか、具体的な曲名なんてとても口にはできない。
 なんでもいいから、要するにイタリア歌曲みたいなもの。ちょっとハデめの。
 そんなもん、ウケるわけがねえ!
 そもそも僕は、そっちが専門ではない。僕の得意とするものとは、路線が違う。まったく違う。脱線どころの話ではない。線路も根こそぎ吹っ飛ぶ勢いである。

 後の祭りだけど、本当に本当に心底自分が嫌になるほどバカな選択であったと思うわけです。思わずにいらりょうか。
 しかもマイクだって、妙な使い方されて...。だからあんな、なんともいえない...その......。しかもこれって、きっと映像が残って......。


 うわゎぁぁぁあああああ!



  ∧_∧ ザック     lヽ_lヽ
( •ω•) ザック   (   )
(つD―○|> ,.;∴ ゚。°と   i
しーーJ彡 ・;;過去'∴  しーーJ



 ...と、なかったことにできれば、そうしたい。
 しかしこの類いの過去は、消し去れない。

 あー、やだやだ。

 そうは言っても、ちゃんと歌いましたよ。喜んでいただきましたよ(本心が別にあるかは、怖くて聞けない)。
 でも、本音云々はどうであろうと、自分では許せない。恥ずかしくて死にそう。

 それにしてもこういう嫌な記憶というものは、なぜ時々ふっと思い出してしまうものなのだろう。ほんで思い出すたびに、ひぇぇもう生きていけないよう...て気持ちになるのだ。
 あんなもん、歌わなきゃよかったよ...。ただひとり、そう繰り返すばかり。
 死にたい。

 あぁぁ...。

 今でもこの黒歴史が頭をよぎると、そうじゃなくて「Panis Angelicus」とか「The Rose」とかにしとけばよかった...なんて思うんだよね。他にも考えられる曲はいっぱいあるというのに、よりによってあんなものを...。
 もし今歌うなら、さらに選択肢は増えるなぁ。


※ Panis Angelicus は祝いの曲ではないけど、場違いでもない。実際、いろんな場面で便利に使われてますねぇ。僕が歌うとしたら、どちらかといえば少年合唱などのイメージに近い方向になる。語弊はあるけど、おそらく一般的であろう感覚で言えば。間違っても、ボチェッリとかフレミングみたいにはやらないし、やりたくないし、どうやったってならない。

どちらを選びましょうか

 時々、「ボクサーとビキニ、どっちが履きやすいのけ?」のごとき内容の検索で、当サイトにたどり着いている人がいるようで。
 これ、ぶっちゃけ個人の好みなんじゃないかなぁ。ホントにそう思う。以前も書いた通りで、自分で履いてみろ...みたいな。自分がどっちか好きか、どっちが履きやすいか、履いて比べてみるしかなかろうて...と。身も蓋もないけど。
 自分の好みを人に判断してもらおうなんて、どだい無理な話なのだ。たぶん。

 いや、わかるよ。聞きたい、調べたい気持ちはわかるよ。理由も事情も人それぞれにあるにせよ、知りたい気持ちだけはわかるよ。
 僕は、ボクサーとビキニで悩んだことはないけどね。
 なんだかんだ言いつつも、どれかを選ばなきゃならないことはあるわけでして。特に未知のものが含まれてたりなんかすると、僕だって迷うし、調べたくもなるから。新開拓のブランドだとかね。即断即決というわけにはいかないのだ。
 ボクサーとビキニで迷ったり疑問に思ったりする人も、悩み方としては同じようなもんだろうと思うわけです。具体的な点や、その対象が違うだけで。だから、調べたい気持ちはわかるんだよね。

 しかしそれでも、あえて言おう。
 一般的な区別や使い分けの基準はあくまで一般的なものでしかないし、他人の評価はいくらかの参考にしかならないのだ。自分は自分一人だけなのだから。自分で履いて、自分で納得するしかないのだ。
 つくづく、身も蓋もないけど。

 確かに一般的には、機能的な違いなどから、どういう時にどんなアンダーウェアが適しているのかという、使い分けを含めた区別はある。僕はそのあたりのこと、よく知らないけどね。基本的にボクサーしか履かないし、さほど重視もしてない。つーかそれ以前に、そういった区別に心を砕く必要に迫られるシーンがないんだよなぁ。
 しかしですよ、それは一般的な区別でしかないのだ。目的に合わせて使い分ける場合があるとしても、「どっちが履きやすいか?」なんてのは、そんな使い分けとはちょっと違う話だと思う。「どっちが適しているか?」ではないわけでして。
 そもそも日常生活で常用として履くのに、目的だとか機能的な差だとか、ほとんど関係ないし。好みとしての履きやすさの比較は、個人の好き嫌いによるところが大きいことは否めないだろう。
 個人の好みともなると、他人にはわからない。下着の好みなんて、自分で履かなきゃわからない。見た目はともかく、履き心地はね。機能性込みで考えたとしても、説明の通りに納得できるとは限らない。
 あらゆるメーカーとその各モデルについて、多角的に網羅して冷静に比較するサイトでもあれば話が違ってくるかもしれないけど、そんなサイトは、ない。

 と、もはや本題なのかなんなのかよくわからないことをあれこれ書いてしまったが、少しだけボクサーとビキニについて考えてみよう。二者の比較ではないけど、表面に触れる程度の感覚的なことについて、僕の思うことを、さらに好き勝手につらつらと。
 比較検討するつもりはないので、性質のポイントを挙げて比べたりなんてしませんよ。

 ボクサーとビキニの違いって、なんだろう。

 なんだろうって、見た目ですよ。簡単に言えば、話はこれで終わりである。
 でもこの見た目、結構重要だったりする。僕は遊び心でビキニも何枚か持ってるけど、カッコよく見えるものとか、エロく感じるものとか、いろいろあるわけです。言うなれば、フェチ的な。それを自分でも履こうと思ったら、ちびっこい僕の前には、やはりサイズの問題が立ちはだかるわけですが。
 特にあれですよ、ジョグストラップ的なTバックとか。あれって小さいのがなかったり、フリーサイズしかなかったりすることが多いんだよねぇ。そんなもん履けるきゃ。
 それはともかく、この見た目の違いは、履き心地の違いでもある。なんでそうなるかと言えば、生地の面積と形が違うからだろう。生地の有無だけで、すごく感じが違ってくるからねぇ。不思議なくらいに。
 もちろん、見た目でわからない部分もある。デザインやブランドごとのことではなくて、密着度合だとか、もっと一般的な履き心地とかね。生地や編み方もそれぞれ違うわけで、これも履き心地や肌触り、好みなどに直結する。だけどこれらは、ボクサーにもビキニにもそれぞれで差があるものなので、とりあえず横に置いておこう。

 まず、ビキニ。
 身体に沿うデザインと機能性(機動性?)でしょうね。モデルによるけど、基本的に脚の可動部あたりに生地の切れ目があるので、動きやすさは言うに及ばず。
 生地が少ないから、肌の露出度は高くなる。機能性はともかく、日常生活での欠点としては、その上に履くパンツが傷みやすくなることかな。肌と生地が直接当たるからねぇ。スーツなんかだと、気にしてもいいことかも。
 ちなみに、ボクサーやトランクスを履き慣れているとスースーするはずだけど、これは慣れでしょ。逆に慣れると、ボクサーの腿あたりの締め付けが嫌になるってこともあるかもしれないなー。
 あとボクサーと比べると、小さめのモデルがけっこう多い。小さめのモデルは、そのままやっぱり小さいから、そのぶんこう...切れ込む感じ? 食い込むのとは違うけど、身体にピッタリくる感じはあると思うなぁ。

 では、ボクサーはどうだろう。
 ちょっと乱暴に言えば、トランクスと同じような形の、身体にフィットするパンツ...といったところだろう(ローライズとかいろいろあるけど、それはともかく)。フィットといっても、フィット加減はいろいろある。加減は様々だけど、基本的にトランクスよりは身体に沿う形をしているし、フィットするものをボクサーと呼ぶことが多い。フィットしないもの(ボクサートランクス)と区別して、フィットするものを「ボクサービキニ」などと言い換えることもありますね(ただしこの言葉、小さいものを指すこともあるようで)。
 話が逸れるが、日本でのアンダーウェアの種類の呼称は、欧米などのそれとは違う。説明とかいろいろ面倒だし、もちろんここでは日本的な呼称に従ってます。ただねー、海外ブランド品は現地での呼称をそのまま使ってる場合もあって、お店では違う種類のものが同じ名前で売られてる...なんてこともある。ああ面倒くさい。

 話を戻そう。
 日本では一般的にフィットするものを「ボクサー」と称することが多いけれど、同じフィットとはいうものの、ビキニのそれには及ばない。たぶん。
 これは語弊があるかもしれないが、このフィット感の違いを生むもののひとつが「余計な生地の有無」であるかもしれない。
 ビキニだって、わざわざゆるゆるの、サイズあってんのか疑問が湧くようなものを履いてる人もいるわけでして。ゆるゆるだったら、フィットしない。だけど、より小さい範囲でまとまるのか、広い範囲をカバーするのか比較できるわけでして、「身体にピッタリくる感じ」の違いは当然あるだろう。
 履き心地の好き嫌いに意外と大きく影響しそうなのが、それと関連するビキニにない脚の部分の生地だ。この長さが、モデルによっていろいろありますが。長い方が冬は暖かいだろうけど、夏だと蒸すかもしれない。長いと保護力は高いけど、邪魔に感じて短いものを好むかもしれない。
 さらに、ここの生地があるかないかだけで、ムスコさんあたりとか、ビキニと同じエリアの生地の感じが変わるはずだ。その周辺の生地から受ける力の有無や、その加減が違ってくるからだ。それにあわせて設計もされるだろう。あるいはこれが、「身体にピッタリくる感じ」の違いを産むポイントのひとつなのかも。
 太股から腰にかけての部分の生地の有無。見た目も随分違うわけだけど、履き心地の好き嫌いへの影響の大きさは、意外に大きいんじゃないかなぁ。

 カップの有無の違いは? と思う人もいるかもしれないが、カップの有無はビキニとボクサーの違いとは別の問題である。たぶん。ビキニ、ボクサー共に、カップのあるモデルとないモデルがあるので。
 ビキニには、カップがないものが多いわけではありますが。

 意外と難しいのは、両者の境界線かもしれないな。
 いつの頃からか、曖昧な形態のアンダーウェアが増えているのだ。スーパーローライズ系の丈の短いボクサーと、切れ込みの少ないカップ付きのビキニとか。ビキニかと思ったら、ボクサーと表示してあったりする。もちろんその逆もある。TOOT のナノボクサーを超える、生地の面が少ない、ボクサーにしてはやたらと小さくて、しかしビキニでもないような。
 このあたりは、メーカーの判断なのかもしれないが。メーカーさんなりのこだわりみたいな細かい違いがあるんだろうけど、よくわからない。
 オシリの具合などを基準にしているかもしれないけど、広く見れば、ビキニとボクサーの違いとしては弱い気がする。ヒップの大きなビキニもあるし、ヒップの小さいボクサーもある。
 あるいは、サイドの幅を基準にしている場合もあるのかな。何cm以上はボクサーで、それ以下はビキニとか。でもこれもメーカーの基準であって、一般的な判断材料にはならない。僕らには、むしろ混乱があるだけだ。
 なんともはや。

 違いをいくつか挙げてみたが、結局履き心地は、一般的な視点でしか書くことができない。もしくは逆に、よりつっこんだ超個人的視点か。先に書いたように、メーカーやモデルを絞り込まずに、多面的に網羅でもしない限りは。
 個人的な視点、つまり僕の好みはあるけれど、それは他の人にとってはまったく逆の要素となり得る。僕にとっての履き心地の良さが、ある人には嫌いなところであっても不思議ではない。
 ということはつまり、ボクサーとビキニのどっちが履きやすいかを調べても、徒労に終わる可能性は高いのではないだろうか。ネットで検索してみたものの、結局なんだかよくわからない...なんてことになりそうだ。
 やっぱり、自分で買って、自分で履いて、自分でしっかり納得するのが一番ですね。うん。(結局ここに戻ったり...)。

 だから僕は、言いたい。自分の好きなものを履こうよ...と。
 好きなものを、気持ちよく、気分よく履くのが一番じゃないかな。履き心地でも、見た目でも、理由は何でもいい。履き方だって人ぞれぞれあって一様ではないけれど、それも好きなようにすればいいと思うんだよね。例えばムスコさんにどっちを向いていただくかとか、メーカーの想定がどうだろうと、自分の好みに合わせればいいじゃないか。
 いや、ホントに。

 ちなみに、僕の思うことを気ままに書いただけなんだけど、一般的に見ても、視点によっては利点が欠点に、欠点が利点になり得ますよ。だから参考になる比較検討は、多面的で網羅的じゃなきゃ意味がないのです。たぶん。
 あと、ムスコさん(というよりタネ)にとってはどうするのがいいとかそんな話もあるけど、普通に生活してる限りは、それほど気にしなくてもいいんじゃないかなぁ。特殊な環境にあるとか、なんぞ運動をする時に股間を圧迫するとか、他人と比べて突出した何かがあるなら、話は別ですが。
 気を付けるにしても、神経質になりすぎる必要はないと思われます。

素早い折りとはこれいかに

 妹背山の簡単で早く折れる折り方──。

 これは、過去にあった検索キーワードのひとつである。

 そんなもん、ありませんっ。
 そんなものがあったら、僕だって知りたい。

 僕は面倒だと思っていないけれど、気持ちはわからなくもない。思えば、子供の頃はそんなことを考えた記憶があるにはある。確かそんなことを考えたことがあるよなぁ...という程度のおぼろげな記憶だけど。

 一羽でも面倒なのに、二羽なんて...。
 羽がくっついてて折りにくいよう...。

 あるいは別の理由があるのかもしれないけど、早い折り方を探す人は、たぶんそんなところなんじゃないかと想像する。

 2枚重ねて途中まで折って、一旦広げる人も、いるにはいる。先に二羽の折り目を一度に付けちゃおう! という作戦ですね。これなら折り筋をあらかじめ付けることができるから、その先に進むと折りやすさはある。
 しかし、いいことばかりじゃあない。これだと、その折り筋が邪魔をしてしまうかもしれない。折り筋が完璧(?)であれば問題ないけど、2枚重ねて折るとなると、ズレやすくなる。となると、綺麗に折れないかもしれない。仕上がりの美しさを求めるなら、必ずしも有効な手段ではなさそうだ。

 慣れれば、ある程度は早く折れるようになると思う。更に綺麗に折る技もある(僕がやってる小細工とは別の技)。
 でもきっと、早く折りたいわけじゃないんだよね。いや、早くは折りたいのかもしれないけど、それはスピード勝負としての「速さ」ではないのだろう...と。やっぱり面倒くさいんだろうと思うわけです。面倒くさいから、手早く楽に折れないものかな...と。
 折り鶴といわず、折り紙自体を折る機会も興味もない人ほど、そうかもしれない。まぁ日常的にそんな環境にある人の方が、少ないと思うけど。

 妹背山を素早く折る...なんて芸当はできないけど、折り鶴を、多少の手間を省いて、しかも綺麗に折る方法はある。それは、他の記事でも触れている通り、先に3本の折り筋を付けるやり方だ。人によってはこれも面倒に感じるかも知れないけど、僕はこの方法が気に入っている。
 詳細は、「折り紙」タグからご覧ください。

 つか、たった2羽で、簡単に早く! なんて言わないでぇ...。面倒な人には面倒なのかもしれないんだけど、そんなムチャクチャ言わないでぇ...。
 面倒なんだろうなぁと想像しつつも、こう思わないでもない。
 でも、2羽ですから。たったの2羽ですから。1羽の倍だけど。
 それでも、多いものだと100羽近い鶴を折らなきゃならないわけでして。それも、紙が切れないように、頭の位置を間違えないように、注意を払いながら。
 さらに、面倒だといっても、妹背山ならたかが知れている。折り鶴や連鶴からは離れるけど、複雑で難解な作品、いわゆる不折正方形一枚折りともなると、カブトムシとかステゴザウルスとか、ひとつのものを折るのに数時間とか当たり前のようにかかったりするから。そのぶん、完成した時の気分はなかなか爽快ですが。
 2羽なんてカワイイもんですね。たぶんね。たぶん。

二人の幸せ

 日本でも、同性婚に関する、より積極的な動きが出てきてますね。まだまだ充分ではないだろうけど、おもしろい動きだと思います。
 同性婚は、ゲイの間でも興味の差が大きい。ゲイやバイセクシュアルだからといって、みんながみんな同性婚の実現を望んでいるわけでもない。興味のない人は、今のままでいいと思っているものなのである。実現されても恩恵がないから、むしろ今のままがいい...とかなんとか思ってる、ちょっとひねくれたような人もいる。
 けれど、僕は思うのだ。自分には関係なくても、結婚できるようにしておくことは大切なんじゃないかな...と。

 確かに、今の自分には関係がないことかもしれない。僕だって、直接的には関係がない。そんな予定もないし、少なくとも今はその願望もないのだから。
 でも、環境整備の意味を過小評価する必要はないだろうなぁ。
 選択肢があるということが、大事なことのひとつだと思う。そして結婚するかしないかを選び、結婚を選ぶなら、結婚によって得られるべき権利が与えられる。そんな当たり前であるはずのことが、当たり前になることが重要なのだ。今は、結婚を選ぶことすらできない。
 また、これは未来の話、未来につながる話でもあると思う。今の自分だけのことじゃない。同性愛者だけのことでもない。今の行動が、未来の同じように悩み苦しむ人たちの、もっと自由な当たり前の暮らしにつながるかもしれない。
 さらに結婚に限らず、ここからいい意味でのいろいろな社会的影響が発生する可能性だってある。それは、セクシュアルマイノリティを超えた、広く多くの人々の暮らしの改善につながっていくかもしれない。
 と書くには書いたが、まぁこれはほとんど夢物語に近いというか、そんな影響まで起こる可能性は限りなく低いけど、まったくないとも言い切れない、ささやかな希望のような、妄想みたいなものですね。
 そんなわけで僕は、ほとんど陰ながらではあるけれど、応援している。


 さて、憲法第24条には、こうある。
 1項「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」
 2項「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない」

 一方、民法では第二章「婚姻」第一節「婚姻の成立」第一款「婚姻の要件」がある。
 その第739条には、第1項「婚姻は、戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、その効力を生ずる」、第2項「前項の届出は、当事者双方及び成年の証人二人以上が署名した書面で、又はこれらの者から口頭で、しなければならない」と書かれている。

 この二つが、同性婚の議論でよく俎上に載せられる条文等ですね。

 僕は法学者ではないし、詳しくもない。法律関係は、専門知識を持つ人に助力してもらった方がいいに決まってる。
 でも、同性婚が違憲だの合憲だのいう話を聞いていると、疑問だって湧くわけです。素朴なものも含めてね。

 僕は、現状では同性婚を即実現はできないけど、憲法上は特に問題はないと思っている。
 世間では、憲法で該当の条文ができた理由や成り立ちなどからの解釈を引き合いに、改憲なしで同性婚が可能だという論がある。成り立ちにこだわる人もいるが、それは「憲法24条は同性婚については何も述べていない」ということとも通じる。同様に、民法でも「婚姻が異性カップルでのみ成立するとは規定されていない」と指摘されている。また、基本的人権などの観点からのアプローチもある。
 これらはこれらで大切なことだし、これで話は充分に通ると思うのだけど、ここではちょっと斜めな視点を加えてみたい。「一般的な解釈」のここはなんだかおかしいんじゃないかな、こうなんじゃないかな...というひとつの考え方を、なかなか聞くことのない視点からつらつら書いてみようと思う。
 これは、性的少数者としての、また性の「事実」を通しての、見解のひとつです。解答というよりは、「両性」という文言にこだわる(両性=男女という)意見に対する疑問とも言える。言うなれば、法律以前の素朴な疑問だ。
 これは僕の考え・疑問であって、他に同じことを考えている人がいるかどうかは知らない。
 程度はともかく、歪んだ「常識」に捕らわれているとわかりにくい話かもしれないことを、先に付け加えておきます。ほんでより一般的な話は、最後に少し書き足すことにいたします。

 さて、様々な賛否があるわけだけど、そもそもなぜ性を2極だけに分けなきゃいけないんだ? という疑問がある。性って、そんなにシンプルでしたっけ。
 ほんで、この答はわりと単純だと思うんだよね。

 両性とは何ぞや。

 性を2極として読めば、両性=♂♀=男女。こういうことになるだろう。
 非常に素直な読み方と言えそうだが、この素直さとは、ある種の「常識」に沿ったものであって、大袈裟に言えば「永遠不滅の常識」によるものではない。事実が反映されていないのだ。見ようによっては、歪んだ常識である。
 性は、それほど単一的なものではない。

 憲法では、「書かれていないことは禁止されていない」という読み方がしばしばなされる。某隊を合憲とする論などは、その代表格ですね。

 では、性はどうか。
 同性を禁じているわけではない...の一言で済みそうなもので、実際にそう指摘されているわけだ。「憲法24条は同性婚については何も述べていない」という指摘ですね。
 でもとりあえずそれは横に置いておこう。ほんで「両性」について、もう少し考えてみよう。

 性は、それほど単一なものではない。先にそう書いたが、性とは、男と女のみを表し得ない。性は多様なものである。「性」が、「♂♀」と規定されていないのなら、性の多様性がここに含まれたとして、なんの不思議があるだろう。むしろそれが、ごく自然なことである。
 確かに性別は、通常♂♀で区別する。これは言うなれば動物学的な性差による区別だと思うが、しかし性の違いは、それだけで正確に表すことができるわけではない。
「性」が男と女だけで表せないものだということは、そう解釈できるのではなく、当然のことなのだ。性の多様性については、当サイトでも既にそこかしこで触れている。「性」は、生物学的に♂♀に分類されない性はもちろんのこと、性自認の違い、性的指向の違いも含んでいるのだ。
 つまり、条文における「性」にも生物学的な性、性自認、性的指向のすべてが含まれると考えたって、なんらおかしくはないではないか。生物学的な性だけが、それのみで性を表すのではないのだ。
 だとすれば、「両性」の幅は「男女」などという狭いものではなくなる。むしろ、憲法の条文のみは「生物学的な男女」を意味すると解釈する方が不自然かもしれない。

 でも、同性婚なら「同性」じゃん。「両性」じゃないじゃん。生物学的な性、性自認、性的指向のすべてが同じじゃん──。
 こう言われそうだけど、まず「同性」に対する言葉は「異性」であって、「両性」ではない。
 実際のところ、ゲイは生物学的には同性なわけだけど、性質的には何らかの違いを持っているものだ(生物学的に同性ではないゲイもいると言えるけど、ここではもっとも単純な例として)。性が多様な意味を含み得るのなら、生物学的な性が同じだからというだけで、「両性」でないと言い切れるか。
 まぁこの意味では、ゲイやレズビアンを対象とする「同性婚」という言い方そのものに、疑問の余地があるわけですが。「多性婚」とか? なんか違うな。なんだろう。

 また、こんな解釈もできる。
「両性」という言葉は、辞書では「男性と女性/雄と雌」のように説明されることが多い。しかし銘柄を問わず、辞書が常に正しく、正確なわけではない。あるいは、言葉を具体的に説明するとも限らない。辞書とはそうしたものである。
 辞書の説明を引いてくるのは、場合によってはナンセンスだ。適切さも正確さも欠いてしまうことだってあるだろう。
「両」とは、二つのものを表す。
「性」はといえば、辞書では「男女の区別」のように説明はされるものの、この説明では正確さを欠くことは明らかだ。生物学上の差異のみを意味するなら正確らしさがあるけれど(それでも誤解を生じるので正確とは言えないが)、それ以外の男女の差異が含まれていないんだよね。「総合的な男女の区別の差」とでも言うような(言い換えるなら、性に関する三つの視点から見た男女の区別の差...といったところだろうか)。
 正確さを欠く「男性と女性」との説明は、象徴的・抽象的な言葉の説明だと見ることもできる。その言葉を説明するための、単なる代表例としての「男女」だ。辞書にはこうした例が、たくさんありますね。
 現実として、「性差」は2極のものではなくてグラデーションであると言われている。三つの性表現があり、その差が割合の違いであるのなら、境は非常に曖昧だ。「両性」を「男女」に縛り切れるものだろうか。
 してみると、生物学的な性が同じかどうかに関わらず、二人揃えば、あるいは「両性」と表現し得るのではなかろうか。うーん。
 というのは、まぁおそらく言い過ぎなのだけど、「両性=男女」では「両性」の表現として不正確なことだけは確かだ。

 なにやら訳のわからん話をしているように見えるかもしれないけれど、憲法や法律の解釈に限らずとも、こういうことはよくあるよね。乱暴に言えば、言葉遊びのような...。言葉遊びに徹することが、いいとは思わないけど。
 こうした解釈の方法に倣うのが問題なら、諸々のありとあらゆる解釈は...さて、どうなるのでしょうね。

 ごちゃごちゃとあれこれ書いてきたけど、つまりはこういうことです。
 事実たる性の多様性を認めて、「両性」の意味を広く捉えちゃえばいいんじゃね? と、こう言いたいだけだ。「両性」に関して言えば...ね。
 法律における「性」は、身体的な性差というのがひとつの標準になっているようではあるけど、そう規定されているわけじゃないし、そうでなければならない理由も、それに固執する必要もないと思うんだよねぇ。
 実際の憲法の運用では、「ここでは同性婚(など)は想定されていないので...」と、拒否されるわけですが。しかしこれは同時に、ここでは「同性婚については何も述べていない」ということでもある。

 言葉はコミュニケーションに重要なツールでもあって、言葉遊びに埋没したくはない。しかしながら、辞書や法律の言葉に、事実を正確に反映していない説明があるのもまた事実だ。
「性別」のより正確で「簡潔な」言葉の意味としては「男女の区別の差(のようなもの)」なのであって、生物学的な男女のみを指すのではない。いかに「男女」と説明しようとも、そこに含まれる科学的現実は、2極に分類などできないことを教えている。「両性」もまた、しかり。

「両性の同意が必要なんだから、同性婚は不可能」という主張が、「両性」の意味を、何の疑いもなく「男女」と置き換えていることは確かだろう。
 しかし性の多様性を鑑みれば、「両性=男女」と決め付けること自体に無理がある。しかも憲法にも民法にも「両性=男女」などという規定は、どこにもない。
 言葉遊びのような細かいことは差し置いても、「生物学的な性」「性自認」「性的指向」のすべてにおいてヘテロ・セクシュアルのごとき差異を持つ「性」だけに結婚を限定するのは、もはや正当性すら疑われるかもしれない。個人の権利を持ち出すまでもなく。

 そしてこれは、「同性婚」を超えて、もっと広く捉えるべきことだろう。
 例えばここまで触れなかったことで言えば、中性的な人もいることを忘れてはならない。生物学的な半陰陽(両性具有)の人についてはそれとなく触れたけれど、性自認や性的指向が中性的な人もいるのだ。
 繰り返すけど、性はグラデーション。性質には微妙な差が存在する。

 もし同性婚がこの日本で実現するなら、ゲイやレズビアンだけでなく、トランスジェンダー他諸々のマイノリティの結婚の自由も確保して欲しい。
 さらに、違う立場の人たちの結婚の障害もなくなれば、もっといいだろう。結婚に際して障害や問題が発生するのは、なにもセクシュアルマイノリティだけではない。
 結ばれたいと思う二人が、共に生きていきたいと思う誰もが、当たり前のことを当たり前にして、幸せになれるようにね。
 僕は願いを含めて、そんなふうに思うのです。



【追記的に】
 最後に、もう少し。ここに書かなかった点を加えて、いくつか書き足しておきます。より一般的な話を含めて、僕の個人的考えも合わせて、前置きの補足ついでにね。

 憲法で言葉上むしろ壁になりそうなのは、第24条1項にある「夫婦が」との記述かもしれませんね。同性婚などでも「夫婦」と同等の関係のパートナーではあるけれど、これをそのまま「夫婦」と呼称していいものか。さすがに無理があるだろうなぁ。
 でもこれは、柔軟な対応で事足りるだろう。民法などで、「夫婦」そのものではなくとも、同性パートナーを「夫婦」と同等のものとしてしまうとかね。制度設計がうまくできれば、それで解決できるはずだ。

 また、「婚姻」についての問題もある。
 憲法24条では、「婚姻」が同性間で成り立つと考えるのは難しい...と見る向きもある。この条項をそのまま同性婚などに流用しようとすれば、確かにそうだろう。
 しかし仮に、同性間での「婚姻」は成り立たないと解釈したとしても、これは同性婚を「婚姻」と呼ぶことができないというだけのことでもある。
 つまり、憲法24条は同性婚については何も述べていないわけだし、婚姻と同等の効果を持つ「同性婚」という制度を作ることまでが違憲ということにはならない。「同性婚」の実現を阻むものは、実はここには存在していない。
 同性婚が違憲だという主張は、憲法の「婚姻」に関する定めをそのまま同性婚に当てはめようとするから生じる不具合にすぎない。新しい制度を作れば済む話なので、同性婚を実現する上で、憲法の文言の「両性」も「夫婦」もさほど重要じゃないってわけですねぇ。
 さんざん「両性」について書いておいてなんですが、あれは僕の素朴な疑問なので。

 それと、戸籍法ですね。
 例えば戸籍法は、第6節「婚姻」第74条で、婚姻の届書に記載する事項として、「夫婦が称する氏」と規定していて、同性の結婚は想定されていないと解釈できる。その他、割愛。
 婚姻の届け出をそのまま流用するなら、改正の必要がありそうだ。でもこれも、一般的な「婚姻」とは別に同等の制度を整備すれば解決できるのではないか。どちらがいいかは...どうなんでしょうね。

 何がベストな選択なのかはよくわからないけど、そんなわけで、憲法改正までする必要はないんじゃないかなぁ。
 改正が難しいから避けようということじゃない。
 憲法改正の手続きが厳しすぎて、改正ができない...とよく言われる。でも、本当にそうなんだろうか。憲法の改正が一度もされていないのは、その手続きが厳しいからではなくて、別の理由があるからだと、僕は思ってます。
 なんにしろ、憲法は今のままで、現在の婚姻の制度とは別に、同等の権利を保障される新しい制度を作る方が現実的じゃないかなー。作るというより「加える」でもいいと思う。それが戸籍法とも折りあう形で実現できれば、なおいいかと。

 まぁ、このあたりのことについては実際の動きや提案がいろいろとなされているので、ここではこれまでといたします。


※戸籍云々の詳細な話は、ここでは割愛しました。より広く捉えたへんてこな話が書きたかったので。しかし現状では、特に GID やトランスジェンダーなどの人が結婚を考える時には、戸籍が深く関わってきます。性差による婚姻の壁は、すべてなくなって欲しいですね。

未知と嗜好の狭間かな

 返答に困る質問、正直答えようのない疑問というものはある。
 といっても、ここで言ってるのは深刻な話ではない。アンダーウェアのことである。よくあるのが、TOOT と GMW はどっちがいいの? とか。

 そんなの知りませんっ!

...というのは、正直な感想である。マジで。
 両者の違いは他の記事で触れているので、改めて、そんなの知らないよ...というお話を、つらつら書き散らしてみましょう。

 とりあえず、デザインの問題は横に置いておこう。

 他の記事の繰り返しにもなるんだけど、どっちがいいかなんて、僕の知ったこっちゃないような話なのです。なんでかって、どっちがいいかは自分が決めるしかないからだ。この「自分で決めるしかない」というのは投げやりなわけではなくて、重要なことだと思うのだ。
 確かに、履き心地は違う。しかし、その違いをどう感じるかは、人それぞれだ。体つきも違えば、好みも違う。
 アンダーウェアに限らず、僕が好きなものを、友人が好きとは限らない。僕の好みが、常に知人とマッチするわけもない。ぼくが愛してやまないものを、恋人も愛してくれる保証はない。
 体つきで言えば、身長も体重も違う。体脂肪率も違う。ウエストのサイズ、ヒップの大きさ、腿の太さ...などなど、それぞれ個人差がある。たとえ身長と体重が同じでもね。
 加えて、ムスコさんの大きさや形だって差があるわけだから、これだけでも好みの差が大きくなりそうなことは想像できる。
 アンダーウェアに対する基本的な好みの差も、千差万別である。同じボクサーパンツであっても、緩めが好きなのか、キツめが好きなのか。ハイライズとローライズはどっちがいいのか。などなど。
 デニムパンツなんかだって好みがあると思うが、アンダーウェアはそれよりデリケートなわけで、もしかしたら如実に好みの差が出るものなのかもしれない。もっとも、見えないところだから、まったく気にしない人もいるけど。
 そして何よりも、自分の感覚は、自分のものでしかないのだ。同じアンダーウェアを履いても、その感じ方が人それぞれ違っていても当然のことだろう。それが、履き心地を決める重要な要素なんじゃないかな...と。見えない要素ですが。

 こういった履き心地に、他の要素が加わってくる。見た目の好みとか。股間が強調されるのが嫌いだとか好きだとかね。それが理由で選んでる人もいるから。
 あと、最初に脇に追いやった色や模様のデザインなどもね。

 Web でわかるのは、「ある程度のこと」までだよなぁ。どっちがいいかとか、アンダーウェアについては、そんな判断までなかなかできるものじゃない。誰かの基準をそのまま自分に当てはめるなんて、なかなかできないことだ。
 差を知ることに、意味がないとは思わない。参考にはなるしね。基本的な差を確認することには、意味があるだろうし、重要な情報になり得る。僕も、そういった情報を元に買い物をする。でも、「で、結局どっちがいいの?」なんて聞かれたら、困ることこの上ない。困るよ、ホント。困るから。
 僕はあなたではないのです。僕の身体は、あなたの身体ではないのです。僕の感覚は、あなたの感覚ではないのです。
 と、無情に畳み掛けてしまったが、どっちがいいのか他人に決めてもらおうなんて、甘いのだ。いや、ホントに。
 だから、やっぱり実際に買って、自分で履いて確かめてみるのが一番なのです。それ以上に説得力のある判断材料なんて、きっとどこにもない。たぶん。

 ぶっちゃけ、好き嫌いだと思うのだ。総合的に、好き嫌いだと思うのだ。

 そんなわけだから、僕はどっちがいいかの判定はしませんよ(判定はしないけど、僕は TOOT の比率が圧倒的に高い。それは、TOOT と GMW なら、TOOT の方がしっくりくるから。僕にとってはね)。

混同が混乱をきたし

 性に関することは、性的マイノリティが絡むと混同する人が少なくない。関連することはそこかしこで書いてるけど、そのあたりの話をもう少し掘り下げ。

 ぶっちゃけ性関連に限らず、どんなことだろうと物事はしばしば混同してしまうものだと思う。「混同なんてしない」なんていう人もまた、混同することは多々あるはずだ。気付いていないだけではなかろうか。
 僕とて同じで、一凡人なら尚更とでも言おうか、ちょっと一歩引いて、冷静に考えなきゃなと思うことがあるわけです。混同がない人なんて、そうそういない。だからといって、それが「悪」だとは思わないし、絶望もしないけど。
 時には他の意見にも耳を傾けて、検証する。ほんでもし混同に気付いたら、修正する。これができればいいことだろう。

 性に関して混同する人は、事実と思想などとを、しばしば同じもののように語る。同性愛を否定するにも、一方の視点で論破できないとなると他方で反論を試みたり、交わらないはずの事柄をごっちゃにしてめまぐるしく行き来したりする。だから主張が破綻をきたすのだけれど、それを無意識に、正しいと思い込んでやってしまう。
 彼らは、何を勘違いしてしまっているのか、混同していることがなかなか理解できない。だから、主張の破綻にも気付けない。そんなことがあるのです。
 簡単に言えば、そのような混同は、単なる話のすり替えなのだ。また、自己否定と同等のことを言っているようなものだ。しかし、当人はそう思っていない。差別しようが蔑視しようが、おかまいなし。ゲイを認めたくないもんだから、それをいかに正当化するか、そこにやたら注力してしまったりね。それが結果的に、思考停止を招いているように思われる。
 このあたりのことは、また記事を改めてもいいかもしれない。

 ここはまず、性的に確かなものとそれ以外のものを、分けて考えてみるといいと思うのです。質の違うものを同一に見ていたら、頭が混乱するのはむしろ当然じゃないかなぁ。

 まず、性的に確かなものについて。「確かなもの」というのは、基本的に思想などに左右されないものということだ。
 この確かなものは、三つに分けることができる。性に関する、三つの視点である。

・生物学的な性
・性自認
・性的指向

 ひとつずつ、ゆっくりと。

 まず、生物学的な性。
 これは誰でもすぐにわかるよね。いわゆる性別のことだ。♂か♀か。♂は♂の身体をしているし、♀は♀の身体で生まれる。見た目で判断できる、生物学的な性別だ。
 ただしこれとて♂と♀しかないわけじゃなくて、半陰陽(いわゆる両性具有)とか、♂と♀で分けられないものもある。

 次に、性自認。
 これは、自分の性を男と女のどっちだと認識しているか、ということ。自分は男なの? 女なの? どっちだと思っているんだろう。単純なようで、一番わかりにくいことかもしれない。
 普通は自分のことを、男は男、女は女だと思っているわけだね。性自認が、生物学的な性と同じである。男は男、女は女、このままである。
 しかし世の中、そんな人ばかりではない。
 トランスジェンダー、トランスセクシュアルなどとも言われるけど、日本語では今のところは性同一性障害(GID)と呼ばれているものがある。この呼び名の良し悪しや、言い換えはともかくね(正確には、性同一性障害とトランスジェンダーは別のものを意味します)。
 彼ら、彼女らは、生物学的な性と性自認が一致しないというか、同じではないのだ。例えば、体は男なのに、自分は女だと感じていたりする。生物学的な性と性自認に、ズレがあるとでも言おうか(ズレという言い方は、わかりやすいけど、正確ではないかも)。
 これはなかなか辛いだろうことは、想像に難くない。例えば自分は女だと思っているのに身体が男だったら、どんなに苦しいか。さらにそのおかげで、自分は女なのに、男であることを強要されるのだから。女らしくいたいと思うしそれが自然なことなのに、男らしさを押し付けられるのだから。
 まだ不充分とはいえ、最近は理解が進んできたのが救いではある。わかりにくさ故か、しばしば同性愛などと混同されるが、まったく別のものである。しかしその一方で、ゲイなどと比べると受け入れられやすいという面もなくはない。なくはない...というだけで、良し悪しでもなければ、どっちが楽だとか苦しいだとか比較の問題でもない。
 ひとつ注意が必要なことは、性自認もまた、二色だけで綺麗に色分けできないものだということだ。例えば、自分を中性的なものとして捉えている人もいるのです。

 最後に、性的指向。
 これは話は単純なんだけど、なかなか理解できない人、あるいは理解しようとしない人が多い。
 性的な指向とは、恋愛や性愛の対象がどの性なのかということ。人間の根本的な性傾向だ。平たく言えば、性的な興味が男性に向くのか、女性に向くのかということである。
 ヘテロなら、男は女が好きだし、女は男が好きだ。同性愛者の場合には、男は男が好きで、女は女が好きなのだ。別段、難しいことではない。それだけの話だ。
 間違えてはならないのは、指向とは特定の方向のことであって、嗜好(たしなみ・好み)ではないということ。これもまた、区別できない人をよく見る。指向と嗜好の言葉の意味の違いは知っていても、同性愛が嗜好的なもののように言う人は、何も知らないのと同様である。

 少し話が逸れるが、性的指向に付け加え。
 上に「平たく言えば、性的な興味が男性に向くのか、女性に向くのかということだ」と書いたけれど、より正しくはその他様々な指向性がある。例えば、無性愛。いわゆるAセクシュアル(Aセクシャル)である。また、これと混同されやすいが、非性愛もある。こちらは、ノンセクシュアル(ノンセクシャル)のこと。
 このふたつは、似て非なるものだ。言葉面は似ているようだけど、意味は全然違う。詳しいことはここでは取り上げないが、非常に混同されやすいし、実際に使い分けられていない文言も多い。
 無性愛者は「他者に対して恒常的に恋愛感情や性的欲求を抱かない」人たちだ。
 非性愛者は「他者に対しての恋愛感情はあり得ても、恒常的に性的欲求を持たず、性的行為を望まない」のだ。
 つまり、Aセクシュアルであれば、性別も性的指向も無関係とも言えるのだ。例えば、ゲイでAセクシュアル...などというものはあり得ない。恋愛感情や性的欲求を持たない──言い換えると、誰かを好きになったり、好き嫌いはともかくセークスしたくなったりしないわけだから、ゲイだとかヘテロだとか、そんな分け方はできないよね。
 このくらいに留めておくけど、同じではないので要注意です。

 話を戻しましょう。

 生物学的な性、性自認、性的指向。
 実際の性の世界では、これら三つのものが様々に組み合わさる(組み合わせというより、「混合」とでもいったところかな。それぞれに微細な差があるからね)。ゲイなんて、すごく単純な例なのだ。なんせ性的指向がヘテロと逆なだけだから。
 生物学的な性は女で、性自認は男、性的指向は男。そんな人もいる。言い換えるとこれは、女の体で生まれた性同一性障害のゲイだ。
 こうなってくると、分かりにくさは否めないかもしれない。本人にとっては、それがごく普通のことなんだけどね。内面的な苦しさはともかく。単純に、男と女しかいなくて互いに惹かれあうだけ...という認識しかない人だと、もはや理解の範疇を遥かに飛び越えてしまって、何も考えないまま軽いノリのように差別することもあるだろう。悲しいことですね。

 またまたちょっと脱線するけど、いわゆるセクシュアルマイノリティの中にも、性的な差別はある。
 挙げるとキリがないのでいちいち書かないけど、その中のひとつが、自分と違うマイノリティに対する偏見や差別だ。
 例えば自分が、ゲイだとする。日々ヘテロからの差別を感じながらも、レズビアンであったり GID であったり、自分とは違う人たちを卑下したりするのだ。
 そういう人もいるということであって、もちろん誰でもがそうであるわけじゃない。一部の人の話だ。
 さらに同じゲイ同士にだって、あれこれと...ね。結局、セクシュアリティがどうだろうと、そういうところもヘテロと変わらないんだよなぁ。マイノリティであるぶん、かえってそういう汚さは目立つかもしれない。差別的態度を取る本人は、けっこう開き直って自分の言行を正当化していたりするので、なんともかんとも。
 同じ人間ですから。と、そう悟っていられればそれはそれで幸せなのかもしれないけど、なぜそうなる...と疑問がいっぱい湧いてくる。

 閑話休題。

 上記の3点は、確かなものとして挙げた性に関する三つの視点である。
 つたない説明では語弊はあるかもしれないが、いずれにせよ正しいだの間違いだの言えるようなものじゃない。否定しても仕方のないものなのだ。

 これに思想、宗教、哲学などが加わってくるんだけど、そういうものは性的に確かなものとは別の要素だ。これらは、基準となるものが明確じゃない。考え方次第で、いくらでも基準が変わる。その思想の内容や主張も、いくらでも変わってしまうということだ。
 時代によって、様々な思想などが生まれてきた。その時代なり地域なり個人なりにおいて「正しい」と思われるもの、「正しい」とされるものだ。
 思想はともかく、そもそも哲学は思索であって、なんらかの問題に対する絶対的な「解答」ではないけど。
 哲学に関して言うと、あれですね。同性愛を哲学して否定しようとする場合もあるわけだけど、たいていは「同性愛は罪か」のごとき命題による。まぁのっけからナンセンスですね。何であれ「罪」かどうか問える質のものではないことについて、意識的に問うてみることに意味はあるかもしれない。男であることは罪か? 女であることは罪か? 人間は罪か?
 だけど、偏狭的な大義や前提、感情のみを拠り所に否定的に思索しても、得るものはない。根本を見ずして根本を語ろうとしても、無理があるのは当然だろう。こういう時は、肯定と否定両面から、差分なく見てみるのがよさそうだけど、これがなかなか難しいかも。
 ほんでもし「同性愛は罪か」を問うのなら、同時に「異性愛は罪か」も問うてみるのはいかがでしょう。もっと言うなら「愛は罪か」とか、網羅的にね。

「確かなもの」に対して「不確かなもの」がそれを否定するのは、なんだかおかしいよね。
 例が少々突飛かもしれないけど、「1+1=2」は確かなものだとしよう(とりあえずは)。それを、「1+1=2」を取り巻く思想があるとして、その思想が「1+1=2 ではない」と主張すると、おかしなことになるよね。泥ダンゴの話じゃないけど。
 あるいは、化学的に発現する現象や、物理的に確認される事象に対して、誰かが思想に反するからと「それはおかしい」などと批判したら? やっぱりわけがわからなくなる。
 1+1=2 ではない、そういう考え方があり得ないってこととは違う。n進法がどうだとか、記号や符号がどうだとか、そういうこととも違う。ある種の考え方としてはあり得ても、それが「変えられない事実」と重なり合う時、物理的・科学的に常に正しいわけではない。
 ほんでもって、その思想にはしばしば間違いがあるし、基準も常に定まっているものじゃない。

 事実を思想で否定することが、過去に様々な不幸を生んできた。思想に反する新しい事実は、たいてい不幸に晒される。今は常識であっても、昔は論外だったこともたくさんある。
 例えばそうだなぁ、人体とか。その昔、ローマでは人体の解剖が禁じられていたこともあって、猿や鳥といった動物の解剖結果がそのまま人体の構造として当てはめられていた。キリスト教の思想的な影響(創世記のアダムとイブの物語とか)もあり、それが絶対的なものであった。それを間違いだと正しく否定したら、非難轟々だったりね。
 これって、悲しいことだよね。

 本来的な意味では、科学に哲学や思想はつきものだし、哲学のない科学は科学たり得ないのだろう。だけどそれは、上でいう事実と思想のガチンコとは違う話だ。
 これも混同すると、悲惨なことになるんじゃないかなぁ。

ポッケの中には何がある

 主に iPhone でのこと。
 例えば Twitter を見ていて、これは Mac で確認したい...と思うことがある。あるいは閲覧中の Web サイトを、後で Mac で開きたくなることもある。Mac で保存したいとか、大きな画面で見たいとか、まぁその他諸々、理由はその都度違っていたりもするわけだけど。
 そんな時、それをどうやって Mac に送るか。方法はいろいろ考えられるよね。

 目の前に Mac があって、その時すぐ送るのなら、iPhone から Mac に直接的にコピペで送れるアプリもある。しかし僕は、そんな状況にない時に送りたいものができることが多い。なんでもいいから iPhone で見ているものを、後で Mac で開けるようにしておきたいのだ。
 そしたらやっぱり、なにがしかのアプリにコピペ...が素直なやり方である。メッセージやファイルを送信するなり、共有するなり、いろいろできる。
 具体的な例を挙げると、メールを使う、標準アプリのメモを使う、Evernote に飛ばす、Dropbox に保存する、共有可能な ToDoアプリにメモする...などなど、手段はゴマンとある。それぞれ目的に合わせてアプリを使い分けてもいいし、オールインワン的に使ってもいい。アプリをあれこれ使いたくないなんて場合もあるので、そんな時は Evernote など既に使っているアプリを利用した方が幸せになれるだろう。
 対処法は百花繚乱なのだが、僕はこんな用途で、長いこと ChatWork を使ってきた。

 ChatWork は、すごく簡単に言ってしまうと、ビジネス系のチャットサービスである。iPhone 他モバイル端末では、専用アプリが用意されている。Webアプリ様になっているので、PC だろうと Mac だろうと、あるいは家でも出先でも、どこからでも確認することができる。
 類似のサービスはいろいろとあって、それぞれ利点・欠点がある。競合品と比べると、ChatWork はシンプルな方だろう。
 ファイルの共有もできるのだが、やはり中心はチャット機能である。セキュアな中で会話をし、連絡を取りあったり、議論を深めたりすることができる。ビジネス系チャットアプリの基本ではあるけど、ここが使いやすいかどうかは人によりけり...かな。

 でも僕は、チャットには使っていない。そういう意味では、チャットの使いやすさは、さほど重要ではない。
 僕の ChatWork のアカウントにつながっているユーザーは、僕だけである。誰かを巻き込むつもりはないし、誰かと使いたいとも思っていない。僕ただ一人。にもかかわらず、単純に1グループだけなんてことはしていない。
 テーマごとにグループをいくつか作って、コピペする内容によって振り分けるのだ。ほいで、コピペで送ったチャットを Mac で確認する。目的を達したコピペ会話は、削除する。これで ChatWork には、また後日チェックしたいコピペだけが残っていく。
 こんな具合で、グループは複数あるけど、すべて僕のぼっちチャットなのであった。

 およそチャットらしくない使い方だけど、これが意外と便利で重宝していた。

 チャットといえば、LINE はその筆頭と言えるでしょうね。僕は嫌いだけど。
 LINE を LINE らしく使う上では、きっと楽しいのだ。そのための敷居は、低くしてあるよね。手軽に楽しく...みたいな。楽しく使えている人は、それでいい。
 だけど、その LINE的な楽しさを補助する機能が、僕にはお節介が過ぎるように感じられるのだ。余計なことすんな...て叫びたくなる。
 入力欄も狭いし、重くはないけどいろんなストレスを感じるし、使いやすいと思ったことがない。アカウントの保守・引き継ぎ・バックアップなんかも面倒だし。
 しかし何より、自分のアドレスをまるまる LINE に預ける気になんてなれない。今だからというわけじゃなくて、LINE が広まる前から、その点には引っ掛かりを感じていた。専用アドレスをいちいち教えなくていいという面では利点だが、勝手に見つけられてしまうと考えれば欠点とも言える。だから実際の利用も、長く躊躇していた。
 そんな案配でして、できれば LINE は使いたくない。使いたくないけど、職場の人たちが LINE 使いばっかりなので、仕方なく使っている感じだ。実際、LINE に登録されているのは、職場の人だけ。
 僕としては、他のサービスにでもいざないたいところである。

 LINE の話はいいとして。

 最近、ChatWork に担わせていたコピペの中継的な役割を、Pocket に変更してみた。
 正直、舐めていたというか、半信半疑だったというか、とにかくよくわからなかったんだけど使ってみたら気持ちよかったっていうものなのです。

 いつものことながら、レビューを作る気はないのだが。ないったらないのだが。

 Pocket は、いろんなものをとりあえず放り込んでおく場所みたいなものですね。いらなくなったら捨てる。
 これは十人十色の使い方ができるだろうなぁ。
 いろいろなサービスやアプリとも連携できるので、保存は簡単。僕が Twitter で主に使っている feather も対応済みだ。メニューを開くと「Pocket に保存」があるので、タップするだけだ。コピペの必要はない。

 長期的な保存なら、Evernote などに送るのがいいだろう。用途や目的は人それぞれだが、ちょっと置いとこ...くらいのものを短期・中期的に保存するのに便利だ。
 使うまでは、おおよそ想像はつくものの、ピンとこない部分もあった。ホントに便利なんだろうか、僕に使えるんだろうか...と。しかし保存も閲覧も楽で、ここまで気持ちよく使えるとは思っていなかった。

 無理に「使いこなす」ことはない。作者の想定した使い方であろうとなかろうと、構わない。自分に合ったように使っちゃえばいいのだ。

 カテゴリーなどの分類がしたい場合は、ラベル機能を使えばいい。僕は ChatWork でグループ分けしていたテーマを、ラベルにしている。
 ただし、ラベルは保存時に最初から付けられるわけではない。でも、その必要がないとも言えるんだよね。
 とりあえず保存 → 保存記事を閲覧 → 確認したものは削除 → 後回しにするものはラベルを付ける...。こんな具合に使うと、保存時にラベルを付ける必要はないのだ。
 これが Pocket らしい使い方かどうかは、知らんけど。

詳しくと言われても

 過去の検索キーワードを見ていると、妹背山の詳しい折り方、あるいはわかりやすい折り方が知りたい人が結構いることが伺える。
 しかし端的に言えば、妹背山に限らず連鶴はただの折り鶴の集合である。切り込みを入れて、それぞれひとつの正方形で一羽の鶴を折るだけのことで、折り方と言われても...というのがストレートな最初の感想だ。確かに、連鶴の中には、どうやってその一羽を折るのかがわかりにくいものもあるにはある。あるけれど、基本は「ひとつの正方形で一羽の鶴」であって、これは揺るがない。
 正方形でなくても、鶴は折れるけどね。これは、通常の連鶴には当てはまらない。

 妹背山はどうか。
 紙を見る限りは、非常に単純明快である。ふたつの正方形が並び、切り込みは1箇所。つなぎも1箇所で、しかもつなぎの辺の長さが長い。つなぎが「点」の時は切れることもあるが、その心配もなく、正方形ひとつずつ鶴を折ればいいだけのことだ。一羽ずつの手順としては、普通の折り鶴となんら変わりはない。
 間違えるとしたら、羽の位置である。これは、頭と尾、左右の羽の位置関係さえ間違えなければ、どうということはない。あと、首なり尾なりを折る時に、少し難しく感じるかもしれないなぁ。

 とまあそんなことを思ったりもするわけだが、これって、鶴が折れる人の感覚なんだろうか。折れない人にとっては、簡単なものでもわけわかめで、奇天烈な世界なのかもしれない。
 そういうわけで、僕が妹背山を折る過程を、改めて載せてみようと思う。
 しかし、どのみち一羽ごとに見れば、折り方は一羽の折り鶴となんら変わりがないので、色違いの妹背山とさほど変化のない内容になるけどね(左右色違いの2色の妹背山については「妹背の山に見るものは」参照)。

 では、始めましょう。

 まずは、「秘傳千羽鶴折形」の妹背山の図。
 Imoseyama_tenkaizu.jpg > 妹背山。

 ものすごくシンプルですねぇ。「秘傳千羽鶴折形」の図は、すべてこんな感じである。中には、筆が滑ったのか勘違いしたのか、明らかにおかしな図もある。

 なんにしろ、妹背山は 1:2 の紙があればいいのだ。
 Imoseyama01.jpg > 正方形を半分に切った紙。

 1:2 の紙に、折り目を入れてしまいます。正方形に、十字に折り線を入れる要領で。
 Imoseyama02.jpg > 2等分と4等分。

 正方形ふたつの中央の折り目に沿って、半分ほど切ります。
 Imoseyama03.jpg > 中央を、1/2 ほど切り込む。

 これで、準備は整った。「千羽鶴折形」の図と同様の形になりましたね。
 Imoseyama04.jpg > 同じ向きにしてみる。

 これでここに、鶴を折るのに充分な切り込みがある二つの正方形ができたわけです。
 Imoseyama05.jpg > 正方形と正方形。

 鶴を折るのに充分な切り込み...とは、必要なだけの切り込みなのだ。すべてがつながったままだと折れないからだ。1:2 の紙に切り込みを入れないままだと、鶴は折れない。
 例えば、1/4 ほど切り込んだら? それを綺麗に折れたとしたら、首が半分くらいつながった鶴になる。だけど、ほぼ無理だと言っていい。

 逆に、このような切り込みを入れたらどうだろう。
 Imoseyama_Hyoutanmachi.jpg > 中央を残して切り込む。

 これなら、二羽の鶴を折ることができる。この場合、羽も離れて、お腹のあたりがわずかにつながった鶴ができる。
 ちなみに、四羽がこんな感じで繋がる「瓢簞町」と名付けられた連鶴もある。

 さて、妹背山に戻ります。
 色違いの妹背山でも掲載したが、折り進める前に、改めて頭&尾、左右の羽の位置関係を頭に入れておこう。

 一羽の鶴では、このようになる。
 Orizuru_com.jpg > 頭・尾、羽の位置関係。

 鶴に限らないのだが、折り出される角の位置関係は、どこかひとつの角が決まれば他も決まる。
 折り鶴の場合は、四つの角にくるのは頭・尾・左右の羽である。頭が決まれば、他は決まる。あるいは、羽が決まれば、頭と尾の位置も決まる。
 妹背山は、羽がつながっている。ということは、切り込みを入れた角は頭か尾になり、残した部分(正方形がつながっている部分)は羽にならなければならない。

 と説明されても思い浮かばないかもしれない。

 妹背山での角の位置関係は、こうなる。
 Imoseyama06.jpg > 妹背山での例。

 頭と尾は、どっちがどっちでもたいした問題ではない。一般的には、切った角が頭とされてますが。この写真もそれに従ってるけれど、僕はむしろ逆の方が好きかも。

 ところで、今から一枚の紙で二羽を折ることになる。この時、一羽ずつ完成させることもできるのだが、僕は二羽を同時進行的に折るのが好きだ。昔はより同時進行に近い折り方をしていたけど、今の好みは半同時進行といったところだ。
 以下、一部を除いて、僕の好みで展開する。

 では折り進めましょう。
 ここで僕は、斜めに1本、折り目を追加します。谷折りで。頭と尾になる角を結ぶ折り目ですよ。羽になる角は、くれぐれも折らないように。
 Imoseyama07.jpg > 谷折り。

 これは、マサキ式(仮)での話である。羽に折り目のない折り鶴ができるのだ(「折り鶴の作法」参照)。
 ごくごく普通に折りたい場合は、それぞれの正方形で通常の手順を使って折っていけばいい。三角に折って、もう一度三角に折って、袋を開いて潰して...と。
 ちなみに、垂直方向の線は、山折りになっている。これも、僕のやり方に合わせた折り目である。

 ひとつの正方形につき、それぞれ3本の折り目ができましたね。この折り筋を使って、このまま折り畳みます。すると、瞬く間にこうなります。
 Imoseyama08.jpg > 鶴の基本形の前段階がふたつ。

 通常の折り方で、三角→三角→開いて潰す→開いて潰す...という手順が、これだけでできるわけだ。

 一羽ずつは普通の鶴です。鶴の基本形にいたしましょう。
 鶴の基本形とは、首と尾の部分を細く折る前の段階の形のことだ。この基本形から先、折り方を変えるといろいろなものを折ることができる。その代表格が折り鶴なので、鶴の基本形と呼ばれている。
 Imoseyama09.jpg > 一羽の片側終了。

 Imoseyama10.jpg > 一羽終了。

 Imoseyama11.jpg > その裏側です。

 Imoseyama12.jpg > もう一羽の片側終了。

 Imoseyama13.jpg > 二羽とも終了。

 ここでは一羽ずつ折ったのだが、二羽を同時進行的に折っても、もちろん支障はない。
 また、外側を先に折ったけれど、もちろん内側から折ったって問題はない。これは、好みでしょうね。内側からでも、外側からでも、順番はお好きなように。

 難しく感じる箇所があるとすれば、この二羽目を折る時だ。
 一羽目では余裕があるのでさほどでもないはずだが、二羽目の羽側を中央に合わせて折る時、隣の鶴をひっくり返したりできないので、狭いなぁ...と感じるんじゃないかと思う。
 そんな事情もあるので、次の首と尾を細くする時に、僕は紙がつながっている側の首(尾)から折る。全体としては手順に違いはないのだが、ここだけ「どこから折るか」にこだわるというか、好みがハッキリしてるかも。

 紙がつながっている側...とは、なんぞや。つまり、二羽の羽がつながった側のことなのだが、そこがわからんよ...と言われるかもしれないので。
 Imoseyama14.jpg > つながってる方。

 Imoseyama15.jpg > つながっていない方。

 この2枚の写真でいうと、上の「つながってる方」から折るのだ。こちら側は、一般的には「尾」に、僕の好みでは「頭」になる側である。

 Imoseyama16.jpg > 内側を、細く縦半分。

 写真の通り、首(尾)を二羽とも折ってしまいます。

 Imoseyama17.jpg > 外側も折る。

 もう一方も、折りましょう。
 Imoseyama18.jpg > 二羽とも両側終了。

 あとは、特に困る箇所もないだろう。

 Imoseyama19.jpg > 中割折り。

 Imoseyama20.jpg > 頭を折る。

 最後の羽は、通常の折り鶴と同様に開いても問題ない。
 僕は羽の付け根で折るのが好きなので、そうする。

 Imoseyama21.jpg > できあがり。

 Imoseyama22.jpg > 後ろ姿。

 この通り、折り方というほどの折り方はない。
 やはり一番注意を要するのは、頭(尾)の位置だろうなぁ。

思って書いて考えて

 改装オープンしてから、2年がたちました。のんびりオナニープレイしてるから続いてる感がありありと現れている。隠す気もないし、実際その通りなので、問題ではない。

 当サイトには、いろんな記事がある。
 話題はあっちこっちに飛んでて、脈絡なんてない。ええ、ありませんよ。好きなようにあれこれ書いてたら、こうなるのは当然である。見ようによっては、むちゃくちゃですね。変える気もないけど。
 唯一できるだけ避けてるのは、政治的なネタくらいかなぁ。たまにいくらか含まれている話題もあるけど、そっち側にはあまり突っ込んで行かないようにしている。

 セクシュアリティに関することで書いておきたいことも、ちょこちょこ思い浮かぶ。メモや下書きを眺めるだけでも、あれこれありますねぇ。
 わりと最近で言えば、都某区のパートナーシップ云々に関わる話も、ごちゃごちゃしてる。憲法や民法絡みで、結婚が認められるかどうかとか、そんな話も百花繚乱である。賛否いずれもけっこういろんな動きがあって、人間っておもしろいなと一方で感じつつ、僕は僕で思うこともある。

 でも、そんな話題ばっかりにしたくもない。したくないから、他の話も差し挟む。その時思い付いたことを書くこともあれば、わざと入れることもある。いずれ書きたいなと思って書き留めているネタを仕上げることもある。
 どうしなきゃとか、いわゆる筋の通ったコンセプトがないので、勝手気ままにやるのです。それでいいと思っている。

 いろいろと書いてみると、自分で物事を整理できることもある。あるいは書いた後で、さらに考えることもある。この書き方は失敗だったなぁ...と思うことだってある。
 そんな有用性もあって、昔はもっと日記に近かったサイト運営も、随分変わったなとしみじみ思ってしまったりもする。個人的な有用性だから、読む人には関係ないけど。

 読んだ人がどう思っているかは、知らなし、わからない。アクセス解析やページの遷移を見ることもできるが、面倒だからチェックしていない。
 無理にわかる必要もないと思うので、コメントも BBS のごときものも付けていない。なんらかのフォームくらいは設置してもいいかもしれないけど、まぁ気が向いたら...。
 統計すらあんまり見てないけど、キーワードだけは毎月見てるなぁ。中には笑ってしまうキーワードや意外なキーワードもあってなかなかおもしろいし、新たなネタを思い付くこともあるから。きっと同じ人は読まないけど、返答的な記事を書くこともある。

 About などにも書いてるけど、なんらかの情報を網羅する特定のジャンルに絞られたサイトじゃないからね。交流を目的にしてるわけでもないし。オナニープレイですから。

 ただ、昔のエントリーに関しては、いっそのことなくしておいてもいいかな...とも思っている。ここは、再開当初と気持ちが変わってきている。
 まぁ削除するとしても、おいおいかな。

 いずれにせよ、ひたすら一方通行です。

真っ白になあれ

 シューズも長いこと履いていると、色が変わることがある。
 それが革製品で、いい色が出てきたりするなら、むしろ歓迎されるでしょうね。でも、そんなシューズばかりではない。特に悩ましいと思えるのが、黄ばみである。少なくとも僕にとっては、悩みとなる。

 スニーカーと呼ぶこともあるが、アディダスとかナイキとか、合成皮革でもキャンバスでもなんでもいいけど、カジュアル系(?)の各種シューズがある。その白いソールである。これが、経年劣化などで黄色くなることがある。不思議なほどに変色する。何もしていないのに、見事なまでに黄色くなるのだ。
 たとえ黄ばんでも、「これがビンテージ感あっていいんだよ」という人は、そのままで幸せになれるので問題ない。しかし、ソールまわりは白がいい! と思う人もいる。僕のように。
 こういう人は、少なくないのではないかと思う。しかとはわからないけど。ネットを検索すると、ブログやら Q&Aサイトやら、似たような内容の情報がたくさんヒットする。質問サイトも、複数の人が類似の質問を繰り返してるっていうね。

 今はソールまわりの話なのだが、キャンバス地のシューズの黄ばみでお困りの人も多いようですね。
 これは、酢で解決する...という記事をあちこちで見掛ける。僕はやったことがないので知らないが、きちんと手順を踏んでやれば、本当に白くなるようで。おもしろいですねぇ。
 やり方は、それらのページを見てください。うまくいかない場合のヒントもあります。

 ソールまわりの黄ばみに戻ろう。
 先に書いたように、類似の記事はいろいろとヒットする。しかしヒットするだけではない。「ソールの黄ばみはどうやっても取れん!」と、怒られるのである。マジか。それじゃ、なんの解決にもならないよう。悲しいよう。
 それだけではない。眉唾な情報とか、いやその方法はいかがなものか...という情報も出てくる。激落ちくんで擦れとか。消毒スプレーを吹き付けろとか。あるいはそれで落ちる汚れもあるのかもしれないけど、なんだかなぁ。
 と、よくわからないことがいっぱい書いてあるのだが、それらはともかく、実は違う黄ばみを取る方法がある。あるのだ。思い付いて、やってみたら黄ばみが取れた! という方法が。

 先に写真を掲載いたしましょう。

ShoesBleaching_01.jpg > あら不思議。

 もちろん、100%完璧にできるかどうかは、わからない。同じ黄ばみでも、質が違うものもあるかもしれないし。それにおそらく処置の仕方しだいで、結果にブレも出てくるだろう。やや手間がかかるから。
 しかし僕は、思い付きを試して、うまくいった。ソールまわりが黄ばんだ手許のシューズ2足を、いずれも白く蘇らせた。

 使ったのは「ワイドハイターEXパワー」である。
 どこかの他サイトの記事には、「ハイターでは白くならない」という発言がいくつか見受けられる。それは間違えてはいないが、正確ではない。「ハイターだけでは白くならない」と言うべきである。
 そうです。ハイター「だけ」使っても、シューズのソールは漂白できないのだ。

 もうひとつ必要なのは、日光である。


 以下、僕の処置手順です。

1. とりあえずシューズを洗って、付いている汚れを落とす。僕は、洗剤も使わずソールまわりだけ洗った。

2. ラップを広げて、シューズを置く。

3. ソールのまわりに、ワイドハイターEXパワーを塗る。慣れたらすばやくできるよ。

4. シューズをラップで包む。

5. 約4時間、日光浴。

6. ラップをはがして、ハイターを洗い流す。

 以上。


 詳細と追加事項を書いていきますね。

 ラップで包むのは、他にいい方法があれば、それでいい。ようするに、乾き防止みたいなもののつもり。しかし日光に当たらなきゃ意味がないので、とりあえず今回はラップを使った。ポリ袋のようなものでもいいかも?
 ラップで包んでも、暑い日などであれば、塗った上の方は1時間もあれば乾いてしまうかもしれない。
 僕はあまり気にしなかったけど、途中でハイターを追加投入してもいいだろう。早ければ1時間程度でも白くなってるので、黄ばみが残っているところに追加で塗ってやるのだ。

 日光浴中は、こんな感じであった。
ShoesBleaching_02.jpg > ぬくぬく。

 僕は、ラップを包んで留めるのに、紙テープを使った。工業用テープだとか、製本テープなどと呼ばれることもある。白い、紙のテープである。注射の後、刺し口に脱脂綿を留めるのに使うのと同じ感じの。
 セロテープでもいいんだろうけど、セロテープをシューズに貼るのにちょっと抵抗を感じたので。ちなみにわざわざ買ってきたわけじゃなくて、ちょうど持っていた紙テープだ。かつては僕の必需品だったからねー。

 ほんで、難しいのは、ハイターを塗る時である。
 筆などの方が絶対にいいと思うけど、僕はあいにくこんな用途に使える筆を持っていなかった(もったいない)ので、歯ブラシを使った(新品の、不要な歯ブラシ)。ただ、洗うわけじゃないから、ブラシらしくは使わない。ただ、塗るだけである。
 筆に比べると毛が硬い歯ブラシは、下手すると毛が跳ねてハイターが飛び散る。気を付けてくださいね(後日、さらにもう1足ほど漂白。ついに筆を使いましたが、歯ブラシより圧倒的に塗りやすいです。当然だけど。ただ、筆は筆特有のブラシとは違った「飛び散り」があるので、そこはご注意ください)。

 こういう細かい作業なので、テキトーにええかげんにやると、全体を綺麗に白くできない...かもしれない。当然、期待した結果は得られない。
 ここに掲載した写真は2足目なのだが、1足目は加減もわからないし、少しばかり粗いやり方になっていたので、隅の方とか黄ばみがいくらか残ってしまった。もっとも、それでも見違えるほど白くなったけど。不完全な結果でも、軽く感動してしまった。

 では、黄ばみが残りやすいのは、どのあたり?

ShoesBleaching_03.jpg > 赤いところなど。

 写真で赤くなぞったあたり、ソールの上側の端(皮革との際の部分)とか、先端の上側、先端の左右や奥の脇...そういった細かいところや乾きやすいところが、黄ばみが残りやすいだ場所だ。
 1足目で多少残ってしまったので、2足目で補強処置をしたところ、さらに白くできた。ハイターの追加投入や丁寧な処置で、解決するようである。

 面倒くさい人は、どぼーん! と豪快にいってもいいかもしれないが、僕はそんな勇気を持ち合わせてはいない。
 漂白剤はけして生易しいものではないので、全体を豪快に浸けるとか、シューズの場合には避けた方がいいんじゃないかと思う。たぶん。知らんけど。
 当然だが、シューズが傷んでも、何が起こっても、僕は責任取れません。
 ソールの外周だけ浸して、先端とか浸からない部分は別の処置をするのも手かもしれないなぁ。

 日光浴の時間は、もしかしたら4時間もいらないかも。
 注意点は、置き場所だ。4時間なりなんなり、その時間はしっかり日光が当たる場所に置くことだ。思わぬ死角が影を落とすこともありますよ。南に開けた、東西に邪魔になりそうなものがない場所がいいでしょうねぇ。

 手間がかかるのが欠点だが、他にも欠点があるかどうかはわからない。たとえば、ソールの強度とか腐食に変化や影響はないのか...とか。日光に晒すベストな時間もわからない。長く浸けすぎるとよくないとか、あるかもしれない。
 実際のところ、成分名のみを突き合わせれば、溶けちゃったりするんじゃないの? とか、有毒ガスが発生しかねないような組み合わせなんかもある。見た目は同じようでも、中身は違う...なんてことは、化学製品には多い。ゴム質のものもまた同様で、ソールの材質は様々なのだ。漂白液の成分も、ひとつじゃない。
 ここでは、具体的な注意すべき成分名などは挙げません。そのあたりは僕もわからないことが多いし、網羅もできない。これなら大丈夫! とも言えない。自分で調べてね。
 無責任なようだが、そんな責任も取れません。これはあくまで、僕の試した結果なのです。やってみるなら、あくまで自己責任でどうぞ。

 なんにしろ、そんなこんなでめでたく白くなりました。僕はこれで満足だ。

 では、もう一度。
ShoesBleaching_01.jpg

 このシューズ。10年以上前に購入したものだ。傷みはあまりないのでまだまだ履けるけど、黄ばみが気になって、最近は靴箱に入ったままだった。祝・復活。


 ちなみにさらに調べてみると、似たようなことをしてる人はいるもので、ハイターと日光で、プラ系の黄ばみを漂白した人だとかもいた。こういうものは、ドボンといけて楽である。
 僕はただの思い付きでやってみたらうまくいったのだが、中には科学的な根拠(のようなもの)に基づいて実行してる人もいた。頭が下がります。

 あと、僕はハイターを使ったけれど、漂白剤には、成分は違えど類似する機能を持つものが他にもある。それでも同様に白くなると思われる。
 一応繰り返しておくが、いずれにしても日光はポイントですよ。あとは自己責任と。
 お陽さん、偉大なり。


【追記】
 僕の「思い付き」とやらについて、追記しておきます。
 シューズの白いソールの黄ばみに困っている人は、広い世界に結構いるんだろうと思う。実のところ、それ専用の漂白液のごときものが、製品として販売されているのだ。
 販売サイトは多くはないが、輸入品をネットショップなどで入手できる。これを買って使えば、問題解決だ。しかし、けして安くはない。ここがネックである。
 この製品の成分を見ると、一般的な漂白剤に共通して使われているものと、よく似たものが入っている。細かい成分名や分量はともかく、その働きとしては同じものなのだ。
 だったら、ハイターとか同等の漂白剤でもいいんじゃね? よし、試してみよう! その方が安上がりだし! というのが、僕の「思い付き」の経緯である。
 ぶっちゃけ、ただの真似なのだ。
 どうやってシューズを液に浸しておくか、ここでさんざん悩みましたが。いろいろやり方は考えてみたのだが、結局は、某製品と同じようにラップを使ったのであった。
 ラップの使い方は、僕の「こんな具合かな」という感覚だけど。

 後でキーワードを変えて調べたところ、「ハイター+日光」でプラ系の黄ばみを白くすることが、この記事を書く2年ばかり前にちょっとした流行りになっていたようですね。ブログや Twitter で話題になっていた様子が伺える。知らなんだー。
 しかし、同じことを、シューズのソールのような材質のもので試した人はいないんだろうか。僕が検索した時は、かなり探し回ったけど出てこなかったんだよね。
 まぁとにもかくにも、プラでなくてもできることはわかったわけでして。問題はあるかもしれないけど、僕は満足なので、めでたしめでたし。

計算控えは便利なもの

 iPhone6 にして困ったことは、使えなくなった、あるいは使いにくくなったアプリがあることだ。
 例えば、メモモモ。iPhone6 でも使えるのだが、まだ iPhone6 のサイズと iOS8 に対応していない。だから現状では見た目がスッキリしないし、カーソル移動も難がある。それでも使ってるけど。ちょこっとメモを置いておくのに便利だから、手放せない。
 こういったアプリが、どうしても出てくる。

 そんな中で一番困ったアプリは、CalcNote である。「計算ノート」という名前でも出回っていた。
 これは、リストに項目と数字を入力すると、その合計を出してくれる、計算機能付きのノートというか、リストというか、そんな感じのものだ。
 Excel などの表計算でも、計算だけなら同じことができる。でも、表計算だと見た目がイケてない。広すぎる不要なスペースもある。計算し直そうとしたら、計算式を書き換えないといけない。メモをたくさん残すように使おうと思ったら、必ずしも使い勝手がいいわけではない。
 CalcNote は、ノート内での各項目は、四則演算と消し込みが簡単に切り替えられるようになっていた。もちろん作ったノートの名称(ファイル名みたいなもの)は、自由に付けられる。ノートは、フォルダに分けることもできる。
 そんな具合で、非常に便利であった。
 必要なものを書き出して、その値段の合計を出したい時ってあると思う。買わなきゃならないもの、予想される出費や経費の概算、お買い物の予定金額の内訳...などなど。ちょこっと計算したいだけなのに、表計算だと使い勝手が悪いし、大仰なのだ。「大は小を兼ねる」と言うには、大きすぎてかえって便利が悪い。
 計算だけができればいいわけじゃなくて、メモとして残しておきたい。だから計算機でも不都合だ。計算の履歴なら残せる計算機もあるが、履歴が欲しいわけじゃない。
 必要充分な決まった入力欄だけがあるノートのような CalcNote は、こんな時に重宝していた。

 しかしこれが、iOS8 で使い物にならなくなった。
 全く使えないわけでもなくて、過去に作ったノートの使い回しならできる。ところが新しいノートや項目が、まったく追加できない。これは困る。すごく困る。
 ほいで、代わりのアプリを探したわけですね。使えないしアップデートされそうもないなら、代わりを探さざるを得ない。
 似たようなアプリから探し始めたのだが、気に入ったものはなかった。類似アプリはあるけど、使い勝手が悪いのだ。四則演算ができない(加算・減算のみ対応など)とか、できても四則演算を簡単に切り替えられないし、消し込みもできず、分類も難しく...といった按配で。
 僕が試した限りでは、どれも「とりあえず最低限のことはできますよ」というようなアプリなのだ。

 家計簿系のアプリにも手を広げて、20種類以上インストールしてみた。明らかに僕の希望に合わないアプリは除外しつつ。

 最後に残ったのは、Money Care であった。昨年の秋から、これを使っている。多機能な家計簿的アプリである。
 見た目が気に入ったのもあるんだけど、1か月単位でリストのように表示できる点が好印象。1ページにまとめたような表示で、前後の月にはフリックするか、ナビゲーションをタップして移動する。なかなか気持ちがいい。
 羅列だけなら他のアプリもできるのだが、どうもスッキリしなかったのだ。

 四則演算の切り替えや、項目の消し込みはできない。家計簿系のアプリだから、当然ではある。でもここは、割り切ることにした。必要なら、マイナスはマイナスで打ち込む(アプリにとってのマイナスで)。
 割り切りは、それだけではない。先に書いた通り、当初は CalcNote から乗り換えるアプリを考えていたのだが、代替となるアプリがないので完全移行はあきらめた。CalcNote で過去に作ったノートを使い回すことはできるので、CalcNote と Money Care で作業を分担することにした。
 分担させても、気持ちよく使えればそれでいいのだ。今のところ、特に面倒は感じていない。

 Money Care の項目表示は、日付順である。まるでカレンダーアプリのように。そこで僕は、月の頭(1日)に、毎月決まっている項目を入力することにした。これ、一度入力した項目は、次回入力時に項目名と金額の候補がセットで表示される。ここも好感度アップ。項目を丸ごとコピーはできないものの、入力は楽ですね。
 逆に月末の日付で、既にわかっている不定期な予定項目を入力しておく。購入予定のものとかね。
 あとは適当に、随時追加する。追加分は、追加した日の日付のまま放置する。いちいち変えるのは面倒だしね。単に日付の順なので、万が一不都合がある時だけ変更すればいい。
 中には、次の月に越す項目も出てくる。そんな時は、処理日の月を変更する。日付をタップしてダイヤルを回すだけなので、手間ではない。

 あと、計算には含めないけど、例えば覚書にメモしておきたい予定がある時には、項目だけ入れておくこともある。金額は 0円にして。

 各項目の金額の右には、小さなアイコンのようなマークが表示される。これもおもしろいですね。
 未来の日付で入力すると、「×」が付く。入力日を過ぎると、「!」に変わる。詳しくは知らないが、事前に入力してそのままのもの、つまり決済処理されてないものに警告として付くんだと思う。後から入力した項目には、チェックマークが付く。
 このマークはそれぞれ、タップすると表示が切り替わる。「!」を、完了項目としてチェックマークに変更できるわけですね。たぶん。

 カテゴリーの設定などもできるのだが、僕は使っていない。家計簿として使ってないから、必要ないのだ。
 その他、分析やタグ、資産管理など、多機能でできることがいろいろあるのだが、いずれも僕は使っていない。アプリの作者が聞いたら、あまりにも想定とかけ離れた使い方に泣きそうですね。検索もできますよ。
 ちなみに日本語には未対応のアプリだけど、利用する機能が限定されててらしくない使い方なので、操作に迷うことはない。

 まったくもって、変な使い方ですねー。

無駄な議論に辟易と

 先日、某番組でまたまた訳のわからない発言が流れていたようですね。
「同性婚を認めたら、少子化に拍車がかかる」などと。

 もちろんそんなことはあり得ないのだが、この答はさほど難しいものではない。少し考えれば、簡単にわかることだ。
 ご大層にかしこまって議論してみたり、政治家だの知識人と呼ばれる人たちだのが、さもこれが真実であるかのように口にしてみたりする。
 しかし実際には、そこには価値のある話があるわけでもなく、ただその人の認識の程度が知れるだけのことですね。答は明白なのだから。
 こんな簡単な問題がわからないのは、よほどなにも考えていないのか、なんなのか。認識不足にも満たない、稚拙で幼稚な発言だ。
 情けない限りである。

 はっきり言って、無駄な議論だ。議論にすらなり得ない。

 同性婚が法的に認められようが認められまいが、同性愛者は増えも減りもしない。少子化には、ほぼなんの影響も与えない。
 簡単に言えば、これで話は終わりである。

 海外のデータを引き合いに、同性婚と少子化との因果関係は認められないことを示したサイトなどもある。データとして提示されれば数字上のわかりやすさがあるので、意義は大きい。
 でもね、そんな話を持ち出すまでもないのだ。しごく簡単な話なのだから。
 簡単な話なんだけど、同性愛者を認めたくないんだろう。思考停止でもしているのか、わからない人にはこんな簡単なことですらわからない。
 誠に不思議なことに。

 同性愛者だけど、今は異性と結婚して子供を産み育てている人が、そうしなくなる...などと、もっともらしい理屈を付ける人もいる。
 いやいや、その理論が崩壊したような理屈はいったいなんですか。
 同性愛者を少数者であると知っていて、しかも場合によっては同じ口が、少数派は認めないとまで言いながら、なぜこんな屁理屈が言えるのだろう。社会に与える影響は、それほど大きなものですか?
 びっくりするなぁ。

 同性愛者の割合は正確にはわからないが、おおよそ 5〜8%程度だと言われている。数字の高い報告では、10%というデータもある。
 そんな同性愛者が、どれほど少子化に影響を与えられるというのだろう。
 さらに言えば、子育てもしたい同性愛者は少なからずいる。出生率には何の影響もないけれど、親子関係のある家庭はむしろ増えるかもしれませんね。
 微々たるものだけど。

 少子化には、同性愛者とは無関係の、多様で複合的な問題が横たわっている。それを直視しない限り、解決することはないだろう。
 なのに、同性婚が諸悪の根源であるかのように言うのは、話のすり替えもさることながら、トンチンカンなこの論自体がまさに差別そのものであって、おおいに問題を抱えている。

 伝統的な家族制度が...などというフレーズも、都合よく使われますね。
 それはなんですか。何を指してますか?
 伝統的と言いながら、彼らの言う伝統は、所詮200年にも満たない浅い歴史の「伝統」を指していることが多々ある。それが本当に「伝統」と言えるものかどうかはともかく。
 あるいはそれは、彼らの考える「正しい家族」、つまり、両親がいて子供がいる「健全な家族」でしかない。狭い見方ですね。これでいけば、それ以外の家族は「正しくない」ということになる。「正しく」なければ、認められないことになる。
 親がいなければ、「正しく」ないのかな。子供がいなければ、「正しく」ないのかな。家族の構成なんて、正しいだの正しくないだのというようなものではないはずだ。しかも彼らは、これまた同じ口で、現実に合わない憲法がどうだとか唱えたりするので、もう何が何だか。
 そして以前にも書いたことがあるが、その「正しい」「普通の」家族が抱える問題は大きい。普段無視しているそれを、直視する方が先だろうに。
 いずれにせよ、やはり同性愛者は増えも減りもしない。

 少し脇道にそれるが、都某区の同性パートナーを認める動きに関連して、やはり反対勢力もある。
 ここでも曰く、伝統的家族制度が混乱し、普通の人々が脅かされる...と。トンデモな笑える話の典型ですねぇ。
 普通の人が脅かされるとも主張するが、こういった勢力は、要するに同性愛者を認めたくないだけなんだろう。だからこういった言説には、悪意すら感じる非常に恣意的で限定的で、一方的な見地が色濃く出ている。配布物に書かれたことなど、一文一文にいちいちツッコミどころが満載で、的を外しまくったくだらないものだ。
 また、少数派の何が、それほどまでに大きな影響を与えることができるというのか論理的に説明して欲しいものだが、そんなことができる人はいない。そもそもそんな危機はないのだから。存在しない危機を、危機だと言っているのだから。
 さらに彼らは、多様化することが悪であるかのようにも言うことがある。
 もともとこの世は、あるいは社会は、あるいは人間は多様なものであって、均質ではない。それを画一的、平均的にしか捉えようとしていないんじゃないかな。
 このような「違いを認められない」人たちこそ、むしろ社会を蝕むように思える。
 しかし一方で、彼らは自分の領域が侵されると、声高に少数者や弱者としての自分の権利を主張するものだ。ますます訳がわからなくなってきますね。

 こういう訳のわからない屁理屈を正義のように言う人には、その根拠を示すことができなかったり、どのような影響があるのか因果関係を説明できなかったり、重大な認識の誤りに気付けなかったりする人が多いですね。
 かの議員殿も、一事が万事であるならば、早々に議員などお辞めになった方が世の人々は幸せになれるかもしれない。

 不利にしないようにすることと、正面から認めることの間にはやはりギャップがあります...などという発言など、言い訳にもならない。
 自分が同性愛者を認められない(生理的にだかどうだか知らないが)、あるいは理解することができない(理解力や想像力、共感力に欠けているために?)、それを体良く綺麗に言い直しただけのことだろう。
 ギャップがあろうがなかろうが、認めればいいだけの話だ。人が人であることをね。
 しかしどうやらそれができず、「私は嫌いだから認めたくありません」とは言わずに、「ギャップがある」などとうそぶいてみせる。自分が、理解する能力を持ち合わせていないことは棚に上げて。これが差別なんだと指摘しても、おそらく理解できないだろう。
 ギャップがあるからどうしたというのか。それが法的に認められてしかるべきこと、言い換えるならより多くの人の「人として普通に生きたい」という希望に応える環境を整えることと、何か関係があるのだろうか。ギャップがあるというなら、むしろそのギャップを埋めてはいかがでしょう。
 ギャップの有無など、理由にも言い訳にもならない。
 そもそもこの世はギャップで溢れてますが、さてどうするの? それらこの世に存在するギャップが認められないと言うのなら、もはや死ぬしかなくなる。

 多くの場合、弱者たる少数者に暮らしやすい社会は、多数者にとっても暮らしやすい社会であることすら理解できていないようで。政治家であるにもかかわらず。
 議員たる価値があるのでしょうかねぇ(念のために付け加えておくが、少数者優遇を推進しろと言っているのではない)。
 彼らの言うことは、事実ではなく、単なる個人の思想や感情だ。事実でないものを、事実と同様に事実だと言っているのだ。
 このあたりの話は、また日を改めて書こうかな。

 こんな考えの人は、少なからずいる。これは単に、電波に乗って流れた、その代表例のひとつに過ぎない。
 場合によっては、テレビ局を含めて、番組に関わったすべての人が、同罪にもなりかねないだろう。今回の番組自体は、そうではないようだけど。

妹背の山に見るものは

 さて、前回に続き2色の折り鶴の作り方。
 前回は1羽を2色で色分けする方法を書いたが、今回は2羽2色パターンである。

 それでは始めましょ。
 2羽2色パターンの折り鶴は、「千羽鶴折形」でいうところの「妹背山」の変形である。

 Imoseyama.jpg > 普通の妹背山。

 話がそれるけど、「千羽鶴折形」について付け加えておこう。
 正確には「秘傳千羽鶴折形」というタイトルで、江戸時代に編纂された本だ。一枚の紙に切り込みを入れるといろんな形の鶴を作れるのだが、これを連鶴という。その連鶴の手本帳のようなものである。手本といっても指南するわけではなくて、切り方と補助線と出来上がりの図と、そこに添えられた狂歌に挿し絵しか載ってないけどね。
 それぞれの1羽の鶴の折り方は同じだから、当然である。

「妹背山」は、こんなふうになってます(これは、元の図に頭の位置などを付け加えて、わかりやすく書き換えた図)。
 ImoseyamaOrizu.jpg > 正方形が二つぶんの長方形に、切り込み。

 面倒なので、カメラで撮影。これでもシンプルな図だけど、これだけわかれば充分だ。元はもっとシンプルです。切り込みの線しか入ってないので。
 通常の妹背山は、左右の鶴の表裏を揃えて折る。色違いの鶴を作る場合には、それを逆にすればいいだけである。

 1:2 の紙が必要なので、正方形を半分にするとしよう。
 2colorImoseyama01.jpg > 1:2 の紙。

 まず、縦長半分に折って開く。
 2colorImoseyama02.jpg > 縦に折り線が1本。

 最初の線の直角方向は、4等分にする。半分に折って、さらに半分に折れば OK。こだわりたければ、ここで山折り・谷折りを工夫するといい(詳細は省略)。
 2colorImoseyama03.jpg > 4本の線を追加。

 中央の折り線の部分に、半分ほど切り込みを入れる。くれぐれも切りすぎて、分離させたりなどしないように。切れ目が浅すぎても、この後うまくいかなくなるよ。
 2colorImoseyama04.jpg > 半分切断。

 2colorImoseyama05.jpg > 切り込みを拡大してみる。

 ここでも、頭の位置には注意するべし。妹背山は2羽の羽どうしが繋がっているので、紙が繋がってる部分が羽になる。下の写真は、既に斜めに折り筋を付けたものである(頭と尾は、逆でもいい)。
 2colorImoseyama06.jpg > 尾頭と羽の位置関係。

 ちなみに、上の図は正確ではない。上図は、普通の妹背山の位置関係である。色違いの妹背山を折ると、一方の鶴(ここでは左側の鶴)の頭と尾は、もう一方の鶴と逆になる。

 少し脱線するが、連鶴を作る時には、羽に折り目のないマサキ式(仮)折り鶴の作り方が、なかなか役に立つ。なぜなら、先に示したように、頭か尾の角と羽の角とは、位置関係が決まっているからだ(鶴に限らないけど)。
 妹背山の場合、切り込みを入れてできた角は頭か尾になる。そこへ先に折り目をつけてしまえば、どこが羽なのかわかりやすくなるから、間違えることがない。しかも仕上がりが綺麗だ。一石二鶴である。それが、上の写真の例なのだ。

 あとは、左と右で分かれた正方形を使って、折り鶴を折るだけだ。注意点は、片方は表を外側に、もう片方は裏を外側にすること。
 そうやって折ったのが、次の写真だ。
 2colorImoseyama07.jpg > 2羽2色の折り鶴、妹背山。

 2colorImoseyama08.jpg > 光の加減も考慮して、後ろ姿も。

 紅白だと、なんだかおめでたい感じになるね。

鶴を二色で艶やかに

 年が明けましたね。今年はどんな年になりますことやら。

 さて、過去の検索キーワードに、「一枚の紙で二色出てくる折り鶴の作り方」というものがあった。この検索の真の目的に曖昧な部分はあるけど、おもしろいのでネタにしてみよう。まだ三が日だし、時期的にも悪くない。たぶん。

「一枚の紙で二色の折り鶴」なるキーワードは、単純なようで実はそうでもない。僕はここから、2通りの鶴を思い浮かべるのだ。
 ひとつは、ごく単純なパターン。1羽を2色で色分けする。
 もうひとつは1羽ではなく、2羽を2色で色分けする。
 3羽以上でもいいけどね。見た感じとか折りやすさとかいろいろ考えると、1羽か2羽が妥当だろうなぁ。ここでは、1羽と2羽ということにしておこう。
 これ、どちらも可能です。いずれも1枚の紙で、折れるのです。「一枚の紙で二色の折り鶴」というだけだと、どちらか特定は難しい。キーワードを素直に受け取れば、1羽2色パターンの可能性が高そうな気はする。だけど、そうとも限らない。
 冒頭で「曖昧な部分はある」と書いたのは、そういうわけだ。
 連想は複数あるけど、ついでだし、難しくないからどっちも折り方を載せちゃう。ただ、一度に載せると記事が長くなるので、ひとつずつにしておこう。

 まず今回は、1羽2色パターン。
 1羽2色パターンには、様々なバリエーションが考えられる。今は、左右の色分けバリエーションを作ってみよう。他のバリエーションは、その応用でできる。
 折る前に、紙の準備が必要です。と言っても、ただ「折り紙を用意してね」などという準備ではない。表裏が違う色の紙じゃないと2色折り鶴はできないから、片面色付き(裏が白)か、両面折り紙などを使うといい。普通の折り紙を用意すれば、できますね。
 形は、正方形からスタートする。

 ちなみに以下、鶴はすべてマサキ式(仮)で折るのでご留意ください(「折り鶴の作法」参照)。あと、細かいひと折りひと折りは省略しますよ。またここでは、表が赤、裏が白の折り紙を使うのです。

 さて、正方形の紙が一枚。
 2colorOrizuru01.jpg

 これを、三角に縦横どちらも半分に折る。これは、山折りでも谷折りでもさほど問題はない。
 2colorOrizuru02.jpg > 十字に折り線が付きました。

 とりあえず、どちらかの辺のふたつの角を、両方とも裏でも表でも、同じ側へ折りましょうか。角は、十字の中心点に合わせる。ここでは赤を表に、表側へ。
 2colorOrizuru03.jpg > 片側の辺の両角を表側へ折ったところ。

 反対側の辺の角は、裏側へ折りますよ。裏返して折って、ひっくり返せばいいですね。すると、こうなる。
 2colorOrizuru04.jpg > 2色の正方形出現。

 ここからは、普通の折り鶴と同じである。
 ただし、尾頭と羽の位置に注意が必要だ。先に、普通の正方形で説明いたしましょう。

 折り鶴は、対称の位置にある角が、それぞれ「頭と尾」「左右の羽」になる。
 下図の通りだ。
 2colorOrizuru05.jpg > 頭尾と羽の位置関係。

 これが頭に入っていれば、難しくはない。
 2色折り鶴に戻ろう。つまりこの紙の場合は、下図のようになる。頭と尾は、逆でもいい。逆にすると、羽の左右が入れ替わるだけ。
 2colorOrizuru06.jpg > 左右色分けでの正しい位置関係。

 2colorOrizuru07.jpg > 例えばこうすると、体の前後で色分けできる。

 互い違いにすれば、まだらな色分けもできますね。
 今は左右の色分けをしようと思うので、最初の図の位置関係になるように折る(繰り返すけど、頭と尾は逆でもいいですよ)。あとは普通に折ればいいので省略して、完成品を掲載いたします。
 2colorOrizuru08.jpg > 1羽左右色違いの折り鶴。

 はい、あまり綺麗ではないけど、完成です。
 これ、いろいろ細工をするともっと綺麗になるんだけど、何もせずに普通に折ると、だいたいこんなもんだね。折った時の紙の厚みが影響してくる。

 もっと綺麗に折ろうと思ったら、糊付けするのがオススメかな。
 最初に2色の正方形を作った時に、糊付けをするのだ。それだけのことで紙にズレが生じなくなる。ちょっとした最初の一手間で、翼も首も上の写真のようにズレることなく仕上げられるのだ。
 普通の糊でもできるのだが、こんな時に僕はいつもボンドを使っている。扱いやすいし、注入するにも伸ばすにも楽で、糊より乾きやすくて、紙がクタクタになることもない。
 そうやって折ったのが、下の写真の鶴である。光が当たって、首や尾が白っぽく写ってるけど、まぁご愛嬌といったところで。

 2colorOrizuru09.jpg > こんなふうに綺麗になる。

 おしまい。

 2羽2色パターンは、また次回。


※ 別記事の通り、便宜上「マサキ式(仮)」と書いた折り鶴の折り方は、オリガミアンなどにはよく知られた方法です。

一寸先には何がある

 今年も終わりますね。あと3日。
 社会的な話題も、いろいろありましたねぇ。
 明るい話題では、テニスとか、フィギュアとか、ノーベル賞とか。
 一方で、豪雨や土砂のみならず、台風も火山の噴火もあって、災害が続いた。地震も頻発。
 非常に訳のわからない政権に唖然としたりもした。これはまだ継続中で、来年はさらに口が塞がらなくなることだろう。

 個人的には、特にこれという大きな出来事は、あったような、なかったような。

 そういえば、今年の一番高い買い物ってなんだろう。
 常用、もしくは半常用してるものかもしれないなぁ。顔に使うローションとか、薬とか、そういう類いのもの。
 と思ったのだが、Mac のバッテリーがあるな。バッテリーが膨張してたので、ようやく交換した。長らく放置してたけど。これが 12,824円かかってる。
 でも、洋服とかシューズなどではないんだなぁ。服飾類だと、シューズかな。1足、6,000円くらいで買った。
 お買い物はそんな感じで。

 ほんで、特筆すべき大きな出来事はなかったけど、僕の環境に変化はあった。デカイとは言えないけど、小さくもない変化がね。
 それは、合唱との関わり方である。
 詳細についてはここでは控えるが、個人的な事情で多少距離を置くことにした。今も団体に協力はしてるけど、正メンバーではない。
 発足当初から長く関わってきた。でも、今は僕の気持ちが、正メンバーとして席を置くには少々しんどいのだ。だから、無理言って外してもらった。
 あの手この手の提案をもらったけどね。それをやんわりと避けつつ。

 先に書いたように、個人の問題であって、団体自体の問題ではない。
 それはそれで問題はあって、リーダー的な人がその立て直しを図っている。とはいえ、僕の最大の事情とは関わりがない。

 思えば、発足時から在籍してるメンバー、減ったよなー。
 発足メンバーがいなくなるのは、悪いことじゃない。メンバーが入れ替わりながら存続できるかどうか、存続して有意義な活動ができるかどうかが大切だと思う。
 問題は、常に発生しうる。それをうまく解決して、次に向かわなきゃね。今までもそうしてきたから。

 それはともかく、今後、僕のこの「事情」がどうなっていくのかわからない。
 自分の気持ちが落ち着いたら、また正メンバーに戻してもらうこともあるかもしれない。今はまだその時ではないが。
 とりあえず今は、準メンバーのような今の立場が気に入っている。精神的に楽だから。これはなかなか大事なことである。

 人生、何が起こるかわからない。

 年内最後の更新です。
 よいお年をお迎えください。

自分を知る怖さ

 このところ、ゲイ関連の検索がちょこちょこ入っているようで。
 まぁ、そういう記事をアップしてるからなー。当初の予定と内容がちょっと変わってきてる気もしなくもないけど、そこはそれほどこだわってもいない。成すがままとでもいうか、少し違うけど、まぁそんなところ。
 今のところキーワードを分類するには至らない程度だが、「自覚したのはいつの日か」にたどり着くものが多い様子ですね。この記事は、僕のすごくもやもやなゲイを自認する過程に触れたものだ。
 それと重複もするけど、もう少し一般的な話も加えつつ、その怖さについて書いてみよう。でもこれをクソ真面目に書くと、書く方も、そしてたぶん読む方もしんどいので、なるべく重さは軽減しつついきたいと思います。

 物事の自覚というものは、えてして曖昧で、なかなか難しいことだと思う。
 曖昧というのは、いつ自覚したのかわからないことが、たくさんあるからだ。連続した物事の中では、違いの境は曖昧なものだ。ハッキリ色分けできないことって多いよね。成長に関して言えば、自分が異性に惹かれはじめたのはいつからか(ヘテロの場合)。思春期は、いつ始まったのか。反抗期は? 少年と青年の境は? 時期的な区切りが曖昧なことって多い。
 あるいは、自分の性格とか。他人から見て自分の性格はこうだと思われていたとしても、自分にその自覚はないかもしれない。たとえそれを指摘されたとしても、自覚できるとは限らない。自覚というものは、簡単なようで難しい。
 感覚的に捉えること、あるいは捉えてしまいがちなことほど、自覚は曖昧になるように思える。それが時節を伴うものなら尚更だ。

 ゲイ、広く言えばセクシュアリティについての自覚、性自認に至る過程もまた、はっきりしなくても不思議じゃない。むしろそれが自然で、当然のことなんじゃないかな。

 曖昧さがごく当たり前のように思われるわけだけど、一方で「ゲイに目覚めたきっかけ」を具体的に挙げる人もいる。
 ここではそれについて、深く追求はしない。でもこれは、「気付いた(自覚した)きっかけ」であって、ゲイとして生まれてたんだけど、ずっとそれに気付かないままだっただけかもしれない。理由や状況もいろいろだから、単純に判断はできないけどね。ただひとつの解答があるわけではなくて、何が「本当」なのか、本人にもわからないことかもなー。
 これだけでも簡単な話じゃない。

 いずれにせよ、通常はゲイの人は、自然と男が好きになる。レズビアンなら、女が好きになる。
 同性愛者にとっての自然さが、同性に惹かれることなのだ。誰から教えられたわけでもなく、ヘテロが異性に惹かれるのと同じでね。

 でも、自然だからこそ、ここに苦しさが生まれる。自分にとっての自然さが、まわりの大多数にとっては「不自然」なことにされるのだから。
 ヘテロだったら、周囲の人のほとんどが同じヘテロなので、情報や感覚を気軽に共有できる。「クラスのA子さんはかわいいよね」「昨日のテレビのダレソレ綺麗だったね」「芸能人なら誰が好き?」なんていうような、友達と交わす何気ない会話。ごく当たり前で、たわいのないことだ。
 これはそのまま、自己肯定感を強める助けになる。「自分はこれでいいんだ」という肯定は、安心感にもつながる。自信にもなる。自分の存在を、認めることができる。
 だけど僕らは、それができない。自分にとっては自然なことが、周囲からは不自然なこととして見られてしまうから。奇異なものとして否定されたり、好奇の目にさらされたり、異常だとして非難や軽蔑をされたりすることだってある。
 共感はおろか、自己肯定すらできなくなる。辛いね。

 ゲイって、いつ頃ゲイだと気付くものだろう。
 これはいろいろです。十人十色です。だけど、小学校中学年から高学年あたりで...という人は少なくない。自覚の程度はともかく、なんとなくおぼろげにでも、自分は男に惹かれるなと感じ始めるのだ。たいていは、中学くらいまでには気付くかな。大学生になってから...なんていう、遅い人もいるけどね。
 僕の場合、強い自覚はなかったけど、それは小学3年の頃だ。当時、ハッキリ気付いていたわけじゃなくて、思い返せば...なんだけどね。以前、書いた通りだ。
「年齢が低いほど異常じゃないか」などと考える人がいる。まったくもって理不尽なことこの上ない。そもそも同性愛は異常ではないし、自認する年齢なんてさらに無関係だ。
 これは身体的なことではないけれど、声変わりや第二次性徴に個人差があるのと似たようなものだ。女のコに惹かれ始める男のコの年齢に、個人差があるのと同じことだ(もちろん、逆もまた然り)。

 だけど世間一般には、ゲイの少年が、ゲイをごく普通のものだと理解して安心するには、情報が少なすぎる。まわりの理解もない。あるいは、理解があるのかないのかわからない。五里霧中なのだ。だからおぼろげな自覚が進むほど、自分はどうかしてるんじゃないか、頭がおかしくなったんじゃないかと不安になってしまう。
 そんな時は、手近なものでこっそり調べてみたり、ふとした拍子に知識を得たりする。辞書や辞典、保健の教科書などがその代表格だ。
 辞書で関連語を調べてみるとか、同じことをしたことのある同性愛者は多いんじゃないかなぁ。もしかしたら、まわりに「仲間」や「理解者」がいないことで怖れを感じていた人ほど、こんなことを細々と調べて、悶々としちゃうかも。
 しかし不幸なことに、辞書は本当のことを教えてくれない。辞書に限らないけど、それが正しくない情報であることも多いのだ。
 特に昔はそうだった。今でこそ大半の辞書がより正確な記述に書き改めているが、「同性愛」はもちろんのこと、その他広く関連する言葉の説明(例えば「恋」など)が、昔の辞書は実に不正確で、一面的であった。それは、広辞苑のような世間に広く支持されている辞書でも同様だ。
 古い版の辞書を開いてみるといい。そこには「異常」「一過性」「精神的」「病」などといった言葉を見ることができる。すべて誤りです。
 こんなものを見たら、自己否定しかできなくなる。

 正常と異常という言葉もまた、曖昧だ。
 基準があってないようなものなんだよね。普遍的な基準があるわけじゃない。あるのは、その都度違う基準なのだ。
 あることを「正常」とした時、それと異質のものは「異常」とされる。しかし視点を変えれば、正常と異常はひっくり返る。真っ逆さまにひっくり返ってしまう。そんな例は、身近にたくさんあるものだ。機械の動作の正常・異常とは違うのだ。
 同性愛なら、ヘテロを正常とすれば、ゲイは異常とされてしまう。だけど生物として異常なわけじゃないから、この説明は正しくもなければ正確でもない。もちろん、どちらも正常だ。

 いろいろな難しい問題を孕んでいるのに、若い人ほど知識を得るのが難しいのが現実。
 自分に正しい知識も何もなかったら? まわりがゲイを自然に受け入れる環境でなかったら? そんな状況が当たり前にあるわけだけど、そこでは、自分が正常だと素直に思うことができない。自分に自信が持てない。
 まわりに受け入れられることのない自分。それは同時に、自分を知られる恐怖でもある。

 僕は子供の頃、テレビや雑誌で見かける「同性愛者」に、共感などを感じなかった。
 彼ら自身がダメなわけではない。メディアに露出される彼らが、極端な例であったり、昔思われていたステレオタイプ的な歪みを含むイメージのゲイやオカマであったり、笑いに転化されたものであることが問題なのだ。
 自分が「普通」に過ごしているだけに、その異質性に戸惑いがあった。自分が男が好きであることと、彼らの性的指向とは、何か違うんじゃないかと思ってしまうのだ。単なる「ネタ」との違いのような。自分と違いすぎていて、なんだかよくわからないけど、あの人たちと僕とは違うな...と。
 そう感じざるを得なかった。当時はそれを、漠然と「何か違うな」と感じていたわけだけど。

 こんな案配なので、自分が何者か知ることは、恐怖も伴う。しかもその怖さは、自分を知り、自分を受け入れる怖さだけじゃない。
 自分が受け入れられない日常がある。それは、まわりから暗に否定されることでもある。まわりからの無言の圧力を感じて、恐怖感にさいなまれる。
 おかげで、相乗的に恐怖感が強化されてしまう。純粋に自分を知ることだけでも怖いのに、まわりからの否定が加わるから、恐ろしくてたまらなくなるのだ。悲しいことにね。

 ここに書いたことは、個人の体験・告白を織り交ぜたものであって、誰しもが同じ体験をし、同じ感覚でいるわけじゃない。だけど、似た経験をした人が多いのも事実だ。
 他のゲイの人が書いた本や告白とてそうだ。当然ながら何かしら僕とは違うわけだけど、そこには共感できる部分もいっぱいあるんだよね。細かいことは違っていても、大枠では似てることもよくある。

 今でこそこうしてあれこれ書いたりできるけど、あの頃はしんどかったなー。毎日普通に、でもあまり目立たないように過ごしながら、心の中では常に恐れていたしね。バレるんじゃないか、バレちゃいけない、自分がよくわからない、どうしたらいいのかさっぱりわからない、怖くてしんどい...。
 それでも自分は、「普通に」自分としてあるのだ。その自分と周囲との違いのおかげで、学校や家庭での日常が、まるで牢獄のようになる。
 オトナはどうとでもなるかもしれない。子供にこそ、こういう苦しみから逃れられる方法が必要なんだろうなぁ。

羽も翼も軽やかに

 feather という iOS の Twitterクライアントがある。これがバージョンアップで使いやすくなってて、最近悩ましい。

 feather の特徴といえば、まずはタブということになるだろう。
 いろいろな TL を、タブとして表示できる。リストを多用する人などには、嬉しい機能ですね。昔は僕もリストを盛んに切り替えていたので、あの頃これがあったら便利だっただろうなぁ。
 今もリストは使うけど、切り替えながら使うことがなくなった。iPad ではひとつのリストを表示しっぱなしで、メインTL や他のリストを見ない。iPhone でも、必要になったらリストを使うくらい。というか、そもそもメインTL をリストのように使っているので、こうなったんだけどね。昔は他に一番よく見るリストがあって、それと同じものをメインTL に表示したのだ。だから、リストを切り換える必要が少なくなった。

 しかし、リストを多用せずとも、feather のタブは使いやすい。
 SOICHA とか The World なども、リストを含む複数の TL を並べて、切り替えて使える。でも、たいていは TL を順に繰らなきゃいけない。表示したい TL に、即座に切り替えられないのだ。不要な TL を経由するなど、ストレスになる。これが、メインTL にリストと同じものを持ってきた理由のひとつでもある。

 feather のタブは、フッターを使う。フッターに、自由に並べることができるのだ。表示する TL も、順番も、好きなようにできる。ほいで、表示したい TL のタブのアイコンをタップすれば、即座に切り替えられる。
 マルチアカウント対応で、アカウントごとに色が違うので、見やすさも確保されている。フッターをフリックすれば、ページを行き来するようにフッターが入れ替わる。

 このタブは、相当自由度が高い。例えば DM の会話表示だとか、画像の表示だとか、検索結果だとか、そんなものまでタブにできる。
 ここまで自由だと、いろんな使い方ができますね。
 フッターに置けるタブは5コなので、アカウントごとにフッターを分けてもいいし、リストの関連性で分類してもいい。各々、好きなグループにまとめてページを入れ替えられる。

 僕はひとまず、裏アカと表アカのホームとメンションを並べてみた。
 これが超絶便利だ。アカウントを「切り替える」必要がない。ただ、フッターをポチンとタップすればいいだけだ。メンションなどを見るのと変わらないスムーズさである。
 本格的に使うようになった時には、アカウントごとにフッターを入れ替える方がいいかもしれないなー。

 現状、僕のタブは1ページに4つだけ。フッターの残るひとつは、新規ツイートボタンである。
 デフォルトだと、新規ツイートボタンがフッターの上に浮くように表示されている。これもタブとして表示できるので、フッターの右端に置いた。
 他のタブと違うのは、不動のタブになること。だからこれを置くと、他のタブが4コしか置けない。僕は困らないけど、タブの数が減るのが嫌ならできないことかもなー。

 と、こういった特徴があるわけなのだが、feather が悩ましいのは、他にもいろんなことができるからだ。僕にとってその筆頭は、アカウントをまたいだ操作だ。
 新規ツイートは、ヘッダーをフリックするとツイートするアカウントを切り換えられる。リツイートでも、ボタンを長押しするとアカウントを選択できる。前はできなかったはずなのだが、これで非常に使いやすくなった。

 他、いろんな動作をするので、場合によっては上の方にあるボタン類などに指を伸ばす必要もない。
 例えば、Safari などと同じように、ディスプレイの左端を右へスワイプすれば、前の画面に戻れる。設定次第では、タブボタンをタップしたら前の画面に戻ったりもできる(デフォルトでは「自動」で、状況によって動作が変わる)。あるいはツイートの入力画面では、ツールバーを下にスワイプすれば閉じられる。右上の「閉じる」を使わなくてもいい。
 iPhone6 は大きいし、スパスパ操作できる。

 こんな具合なので、通常の操作では、メインで使っている Tweetbot より気持ちよく使えてしまうのだ。
 同期できないなどの難点もあるが、非常に使いやすい。Tweetbot から浮気したくなる。

 未読数が表示できないけど、いくつかの不満は今後対応する模様。

 あと、個人的には以下のような希望はある。
 ・アカウント別の色を変更したい。
 ・新規ツイートのツールバーをカスタマイズしたい。
 ・Tweet Marker などによる同期

 ツールバーには、僕が普段使わないものも多い。また、よく使うものがスワイプしないと出てこない。だからカスタマイズできると、すごーくありがたいなぁ。
 同期は、クライアントをまたいで使えるから便利。これは Tweet Marker でもいいし、可能なら iCloud でもいいと思う。とりあえず既読マークへの対応だけでもできると、Mac で Twitter を使いたい時に、「どこだっけ?」ってならずに済むし。

 先行するいろいろなクライアントのいいとこ取りをしたような、それでいてスッキリなデザインで勝手のいい、使って気持ちいいアプリですね。

そこにも事情があるんです

これまで、アンダーウェアについては何度か話題にした。しかし、意図的に避けて、直接触れなかったブランドがある。
 C-IN2 である。
 今履いているアンダーウェアのブランドは、BVD と TOOT が中心で、これに DUGAS や GMW などがちょこっと加わる感じ。その「などがちょこっと」の中に、C-IN2 もある。

 C-IN2 は基本的に欧米サイズなので、僕にとってお呼びじゃないようなブランドなんだけど、一部欧米サイズでいう XS がある。おかげで、数は限られるものの、僕でも履けなくはないのだ。
 しかし、履けなくはない...と言うように、まったく問題がないわけではない。C-IN2 には、僕のメインのアンダーウェアとは違う特徴やクセがある。プラス、持ってるモデルのシリーズが、1種類だけなのだ。
 このあたりが、C-IN2 への言及を避けさせていた。今回は思い切って書いちゃうけどね。

 さて、C-IN2 に限らず、ひとつのブランドが複数のシリーズやモデルのラインを持っているのは、ごく普通のことだ。C-IN2 もまたそうなんだけど、僕の手元にあるのは、すべて C-IN2 ZEN である。これしかない。C-IN2 ZEN の中の、何種類かを持ってるわけ。
 だから、同じ C-IN2 でも、他のラインについては知りませんっ。いろんな特徴に対して、適確に答える自信なんてありませんっ。
 ようするに、他のラインのパンツは履いたことがないから、情報不足の部分があることは否めない(かと言って、TOOT や BVD なら何でも知ってるわけじゃないけどね)。

 ここに改めて書くこともないだろうが、C-IN2 の特徴のひとつはローライズだろうか。
 その他、機能的なカッティング、刺激的なデザイン、カラーバリエーション...てあたりが一般に向けた宣伝的な特徴になるのかな。
 そしてもうひとつ、「カップ」である。

 C-IN2 のフロントスペースは、他社のカップと比べると、ポーチともいえるようなものだ。普通のいわゆる「カップ」とは、少々違うものだと思う。
 もちろん、メーカー・ブランドによって多少の違いがあるのは当然だ。今まで触れたブランドでいえば、GMW のカップはやや異質と言えるかな。しかし C-IN2 は、それを超えるのだ。
 C-IN2 の中でも、昔からのモデルには「ぶら下げ」とでもいうような機能が付いている。それがどんな具合なのか、もちろん僕は知らない。履いたことがないから。
 今のカップはそれとはぜんぜん違うけど、元を辿ればその派生みたいなものかもしれない。他のメーカーとの違いのひとつは、ここなんだろうなぁ(2xist は創業者が同じだからか、同様の機能を持っている。でも僕にはサイズが大きすぎるから、用がない)。
 TOOT や GMW のカップは「身体と密着&ホールド」って感じ? C-IN2 は、包み込む感じかなー。
 ちなみに、中身については下向き収納が推奨されるみたいだし、もともと欧米発のブランドは下向きがデフォである。だけど各自のお好みで、どうにでもすればいいかと。

 カップの話はさておき。

 僕の感じる小さな問題点は、C-IN2 の他の特徴と拮抗する。大雑把に言えば、サイズ感の問題である。
 僕は「フィット/ショート/ローライズ」の組み合わせしか履かない。このうち、フィットとローライズが少し引っ掛かるのだ。引っ掛かるけど、捨てきれない。
 ちょっと大きい感じなんだよね。サイズ感が、微妙に緩い。ゆるゆるではないし、確かにフィットしてるんだけど、かといってピッタリでもない。フィットはするけど、密着はしないような感じ?
 深さも、ほんの少しだけど深め。普段履いている TOOT や BVD のローライズよりも、ちょこっとだけ、ホントちょこっとだけゴムが上にくる。
 僕にとっては、なんだか不思議な装着感なのだ。

 深さはともかく、このサイズ感が生まれる理由のひとつは、おそらくヒップの大きさじゃないかと思う。単なる日本サイズの S と欧米サイズの XS の違いではない。TOOT などと比べると、やたらとヒップが大きいのだ。
 平置きしてみると、よくわかる。パッと見も、かなり大きく見えるんだよね。いや、こりゃデカすぎるだろ...と、思ってしまうほどに。特にヒップの部分が大きくて、あり余るほどに見えるし、持ち上げればダランと垂れ下がる。そのわりには、履いた感じは大きすぎない。不思議だ。
 欧米サイズの XS だけど、これが C-IN2 の特徴ってことなのかどうなのか。よくわからないけど、見た目は明らかにデカイわりに、サイズ感は微妙に緩いだけで、こりゃダメだ...とならない。摩訶不思議だ。
 大きいくせに、履けちゃうんだよね。デカイからって、ルーズになるわけでもなし。僕のおケツは大きくもないのに。これは、どうしてこうなるのかよくわからないので、説明しきれないなー。
 たぶん、それなりの大きさにヒップが作ってあって、締め付けがなくてフィットするような、そんな感じになってるんじゃないかと。それが意図されたものかどうかはともかく。
 ヒップの大きな人とか、締め付けは嫌いだけどフィットするのが好きな人なんかが履くと、ベストなのかもしれないね。

 お付き合いの長さでは、C-IN2 は新参者のような位置にいる。一番古いのはたぶん TOOT で、BVD がそれに続く。
 手持ちの在庫の関係で、今、最も使用率の高いのは BVD だ。だけど BVD は10年以上前に買ったのが最後で、それ以来気に入ったものが出てこない。だんだん傷んで履けなくなるわけだし、おそらく今後は比率が下がっていくだろう。
 さすがに C-IN2 がそれに取って代わることはないけど、サイズ感の微妙さがあるにもかかわらず、捨て難いアンダーウェアなのだ。
 やっぱり不思議だなぁ。

(某販売サイトに C-IN2 M からの限定モデルが登場している。これはヒップが少し小さめになっているようで、こっちの方が僕には合ってるのかもなー)

ヤッて試してほくほくと

 前回は、iPhone6 のメーラーのことを書いた。メールアプリをいろいろ使ってみて、Boxer Light に落ち着いた話ね。
 この2週間で、これにかなりの変化があった。

 まず、Boxer Light から。
 あれからあちこち触ってみて、いろんなことができることを知った。Boxer がどこまで何ができるのかよくわからないまま使い始めたので、後から持ってる機能などに気付くのです。
 事前にわかっていたのは、マルチアカウントで、IMAP にも対応ってことくらいかな。
 マルチアカウントは必要になったら設定したかったし、まず最初に設定したいアドレスが IMAP だったから、これだけは使う前に調べてあった(つまり付け加えると、前回の記事で試したと書いたアプリは、すべてマルチアカウントと IMAP に対応してたってことでもある)。

 さて、実際に触ってわかったこと。
 いろいろあるけど、一番ありがたかったのはフォルダの表示・非表示かもしれない。
 Boxer は、アプリ起動時の表示フォルダを指定できるらしい(そういう設定がある)。しかしふと見れば、フォルダのリストの右上端っこに「EDIT」ってあるので、ぽちんとタップしてみた。そしたら、フォルダを好きなようにいじくれる画面が出てきた。
 標準で用意されているフォルダは、チェックボックスで表示を管理する。その他、好きなフォルダを追加可能。表示順も、お好みのままに並べ替えられる。
 僕はメールで ToDo は使わないから、ToDo をはじめ、不要なフォルダはチェックを外して非表示にした。
 逆に、ごみ箱とか、設定したアカウント内にある自作フォルダを表示させた。自作フォルダは、とりあえずトップに表示させたいものをひとつだけ。このフォルダだけ、よく使うんだよね。
 今設定してあるアカウントはひとつだから、このアカウントのフォルダをデフォにしても同じことだけど、今のところこれで落ち着いている。
 削除もフラグ付きも未読も、アカウントを切り替えることなく使える。ありがたいですね。僕はアカウントをひとつしか設定してないから、恩恵が大きいとは言えなさそうだけど。

 しかしここに、新たな刺客(?)が現れた。
 Boxer がアップデートされて、500円に値下げされたのだ。Light じゃなくて、1,000円の有料版が。たぶん一時的に(調べてないから、詳しいことは知らない)。
 Light を使い始めたところに有料版が半額で投入されるという、なんとも悩ましくてステキなタイミングのアップデートである。
 2日ばかり悩んだ末に、購入しました。
 安いアプリも多い中で見ると、たかが500円でもやや高く感じなくもないのは仕方がない。たぶん。でも、現状では満足している。
 有料版にしたことで、署名の編集や細かい設定も可能になった。よくよく見ると、細々と設定できるんだよね。これで、Light版での不満は解消して、プラスも付いてきた。
 メールを削除する時に1タップ多く感じなくもないが、どうしようもない不便さではない。
 ついでに付け加えておくと、スレッド表示で、スレッドのメールをまとめてごっそり処理できるのは便利だなー。これは Boxer に限らず、スレッド表示ができるアプリではほぼ共通だけど。

 新たに気付いた不満は、住所録だ。
 これも後から知ったのだが、Boxer は自分の中に連絡先を読み込むらしい。しかしそれを知らずに、連絡先へのアクセスを許可した。
 その後、連絡先アプリで、古くから残ったままになっていた不要なアドレスを削除した。自分の複数あるアドレスも表示名を変更、アイコンを設定した。さっぱりして、見やすくなった。
 で、幸か不幸か、このおかげで気付いた。古いアドレスが、Boxer で残ってしまうことに。
 連絡先アプリで削除したアドレスや表示名が、Boxer で宛先候補として表示されるのだ。もちろん、新しく登録したものや、修正後のアドレスも表示される。二重に出てくるわけですよ。
 FAQ も見てみたら、現状 Boxer でアドレスを編集できないけど、将来対応するかも? みたいな意味のことが書いてあった。
 とにかく、今はそういったことができない。今できる対処法は、一度アプリをアンインストールすること。再度インストールすれば、新しいアドレスだけが読み込まれる。でもそれも面倒で、やってない。
 リフレッシュ機能希望です。切に。編集とか削除はできなくていい。めんどくさいから。ワンタップで、すっぱりサッパリしっかり連絡先と同じアドレスにリフレッシュしてくれるのがいい。


 これと平行して、標準メールアプリもいじくり回していた。ほんで、こっちも新たな便利機能があることを知った。
 標準メーラーの不満点のひとつが、すべてのアカウントを統合したごみ箱などを表示できないことだった。しかしこれ、できるようになってたんですねぇ。既に iOS7 で。知りませんでした。
 そんなわけで、更にいじくり回すことになった。フォルダの表示を変更して、フリックの設定も変更して、自分好みに近付ける。
 標準メーラーは、良くも悪くも中庸的な部分がある。全体的な使い勝手は、Sparrow とか Mailbox の方がいいと思う。
 でもこれなら、標準メーラーでも充分だ。何より、文字化けしないし。Sparrow ですべて文字化けするメールが時々あるんだけど、標準メーラーならちゃんと読める。キャリア依存の絵文字はともかくね。
 Sparrow を使う意味が薄れた。

 そんなわけで、今は PC系のメールは標準メーラーで、ガラケーのメールは Boxer で送受信している。特にガラケーのメールは、すこぶる快適にやり取りできている。
 めでたし。


(ちなみに、Mailbox は使っていない。Gmail 専用なので、それ以外のアドレスが設定できないから)

乗り換えるのもラクじゃない

 数日前、iPhone6 を手にした。
 久々だなぁ。約4年ぶりの変更である。4 をずっと使っていたので、もう OS のアップグレードもできないし、アプリもいずれ使えなくなっていくし、4 で動きの悪いアプリもある。そろそろキツイかなと。5s の時に見送ったから、もう限界が近いかなと。
 4 から 6 なので、個人的には超絶パワーアップだなー。

 確かに、不安要素はある。いろいろと disられてるようにね。
 それはよくないでしょ...と僕も思うけど、たたく必要はないかな。ヒステリックな disりは、機種に関わらず辟易する。まぁ iPhone6 や iOS8 に関しては、しっかりして欲しいなー...とは思う。

 世間で disられてる内容には「Wi-Fi を掴まない・掴みにくい」というものもある。でも僕の場合、むしろ 4 よりよく反応してくれている。4 だと入りにくかった場所でも、Wi-Fi で通信できるようになっているのだ。
 今のところ、困ったことは起こっていない。使い込むうちに、問題が出てくるかもしれないけど。

 今回もまた iPhone にしたのは、一言で表すなら、いろいろ替えるのが面倒だからだ。
 もちろん Android も選択肢になるわけだが、今気に入ってるやり方を変えなきゃいけない場合も多々あるし、使ってるアプリがなかったり、あっても買い直さなきゃならない。それがかなり面倒で、しかも物入りに思えるんだよね。
 同じ iPhone なら、5s などを選ぶという手もある。型落ちでも、安いのは魅力的。それでも 6 にしたのは、また数年は使うだろうと思ってのことだ(故障さえしなければ)。長く使おうと思ったら、新しい機種の方が長持ちしていいかもな...と。新しくなっていく OS やアプリが、対応しなくなるから。
 その間に、Apple に何があるかはわからないが。

 今回は、MNP にした。SB から au へ。
 これは MNP を使いたかったからなのだが、副次的に、メールを便利に使えるようになった。ほとんど電話専用機と化しているガラケーがあるのだが、そのメールを iPhone で処理できるようになった。これはありがたい(逆に iPhone では、一切電話をしない)。
 もともと、ガラケーのメールを iPhone で送受信したいとはずっと思っていた。しかし、いろいろ面倒なんだよね。キャリアさんのおかげで。
 現在 au は、IMAP/SMTP の自由な設定ができなくなっている。ネット上にはガラケーのメールを iPhone で送受信する方法を解説したページもたくさんあるけど、そのほとんどは昔の話である。今はできない。
 また、Gmail で集約する方法もある。これは設定自体は難しくないのだが、送信時に困ることがある。僕も昔やったことがある。
 スマホの使用率が上がっている昨今、メールは自由にやり取りできるのが理想的だと思う。ところがキャリアさんは、迷惑メール対策として、PC アドレスを拒否する設定を用意していたりする。いやいや、その設定自体が迷惑で意味不明です。時代にそぐわないでしょうに。
 これ、何が起こるかわからない人もいるかもしれないが、スマホなどから Gmail などの PCアドレスで送信すると、届かない人がいるのだ。迷惑メール扱いになって、拒否されるのだ。相手もスマホなのに。自分の設定した Gmail は受信できるけど、自由に送信ができない。特に、送信アドレスを差し替えている場合に頻発する(なりすましメールだと判定される)。なんだそれ、意味ないぞ。

 そんなこんなで、うまくやれないままきていた。
 でも今回の MNP で iPhone もガラケーと同じ au になったので、IMAP/SMTP の他、必要な情報が取れるようになった。おかげで無事に、ガラケーのメールを iPhone で送受信できている。

 このメールの設定でひとつ困ったのは、使うアプリである。
 Sparrow は前から使ってるけど、ガラケーのキャリアメールはアプリを独立させたかった。ガラケーのメールは、よく文字化けもするしね。
 ところが使うつもりだったメーラーが、iOS8 にまだ対応していないという、なんともかんともな落とし穴があった。画面の大きさの変化に対応できないとかそんな問題じゃなくて、起動後の設定が一切できないという笑えない症状を発するのだ。なんでだよー。どうしようもないじゃんけ。
 そんなわけで、とりあえず代わりのアプリを探したのだ。
 ええ、試しましたよ、いろいろと。これだけのために有料なのもどうかと思うので、とりあえず無料で。無理なら安いのがいいなー。

 日本からだとダウンロードできないアプリもあるので、実際に試したのは6種類かな。
 LightMail は、読み込めないメールがあった。UI とか会話表示ができるとか、そのあたりはいいんだけどね。フォルダもうまく表示できなかったし、僕が試した限りでは使いものにならない。
 ibisMail は、昔試用したことがある。振り分け機能付きのメーラーである。改めて使ってみて、大きな不満はないけど、いまいち使いたくならないという不思議な感じ。こう、欲をくすぐるような、惹かれるものがないような...。メッセージの表示などには問題ないから、それがなければ使ったかもしれない。
 デコメーラー は、読み込みに不備あり。さっさと削除でござる。
 CloudMagic は、メッセージはちゃんと読み込んでくれた。でも、一部文字化けする。このあたり、Sparrow と同様だね。対応してる文字コードがアレなんだろう。
 Inky Mail は、大きな問題はなかった。最後、どっちにするか迷ったアプリのひとつ。メッセージもちゃんと読み込んでくれたし、UI もいい。だけど、日付の表示が気に入らなくて、採用にならず。

 と、こんな感じで、代用で使うことにしたのは Boxer Light である。
 設定が1箇所うまくいかなくて気になるけど、使えなくはない。
 左右スワイプでの挙動は、4種類ほど設定できる。でも、ミディアムとロングで使い分けるのがめんどくさいというか少し難しく感じてしまうので、僕は左右2種類だけにした。
 Light版の不満は、署名かな。署名が編集できない。送信前に、修正・削除ははできる。しかし見た目にはわからないけど、本文と署名がブロックで分けられてるようで、ここが面倒ではある。署名が編集できる有料版もあるけど、1,000円は高く感じる。

 純正のメールアプリは、いろんなアドレスを受信できるようにしている。これは、文字化け対策でもある。もし文字化け問題が改善したら、Boxer でなくてもいいんだよなぁ。
 それか、純正メールと Boxer で役割を入れ替えるか。

 ともあれ当面は、これでやっていくつもりである。

後悔は先にタたぬ

 今まで買ったメガネは何本あるだろう。すべてをしっかり思い出すのは、かなり困難ですね。
 メガネを掛け始めたのは、中学の時だ。中学の何年からだったか、はっきりとは覚えていない。たぶん、1年生だったと思う。写真を探してみたらわかると思うけど、面倒だからそこまでしない。
 昔のことだったし、まだメガネにこだわりも何もなかった。であるからして、その1本目のメガネは、特にどうということもないデザインであった。今だったら、絶対掛けない感じの。

 メガネを初めて買い替えたのは、いつだったかなぁ。最初に行ったT社だったか、乗り換えたU社だったか...。おそらく行くお店を変えてからだったと思うのだが、それがいつのことだかこれまたよくわからない。日記もつけてなかったしな。
 主に利用するメガネ屋さんは、T社→U社→P社と変えてきた。
 T社からU社に乗り換えたのは、金額的な問題があってのことだ。メガネって、お金かかるんだよね。特に、レンズが高くつく。
 僕の場合、右の視力が特に弱いので、レンズの度は高くなる。すると、レンズが厚くなるのだ。だけどほっといたら左右のレンズの厚みのバランスが悪すぎるから、右だけオプションで何段階か薄くしてもらう。さらに、乱視もある。
 もともとレンズは高いものなのだが、それに薄型化と乱視を加えると、なかなかステキな金額になるのです。
 T社は、フレームもレンズも高くつく。しかしU社は、同じ条件でも、T社よりどちらも安かった。

 このU社で、メガネを何度も購入している。視力が変わっていったから、レンズを替えるついでにフレームも買い換えた。これがスタートかな。
 やがて、どうせ掛けるのなら、複数持ってる方がおもしろいなと思いだした。金額面でも、U社は複数持ちやすかったしね。
 しかしここで、何度か失敗もした。
 店頭でいいなと思って買ったものの、いざ使い始めると不都合が出てくるとか、なんだかイマイチに思えたりとか、あるのだ。いろいろと。まぁいろいろと。この経験は、後々活きてきますがね。
 視力が安定後にU社で購入したメガネは今では予備的になっているが、まだしっかり使っている。現役なのは、2本かな。その他のいらんメガネは処分したから、もう手許にはない。

 U社を主に使っている間に、1本だけ他社で購入したメガネがある。
 たまたまどこかで通りかかったのだが、これいいなーと思うメガネがあって、買っちゃった...という。
 このナイロールの Plusmix は、今持っているメインメガネの中では、一番古くて、一番普通のメガネである。
 先に付け加えておくと、後年、京都で買ったメガネが1本あるのだが、これもイレギュラーな購入ですね。このメガネは、現在、予備的な位置にある。

 更に本数を増やしていったのは、大学卒業後のこと。これが、現在のメインメガネにつながる。
 しかしそれらを購入したのはU社ではなく、新たに行き始めたP社である。

 P社は、フレームが高い。そういうブランドをたくさん置いてるから、仕方ないんだけどね。でも、フレームと一緒に買うと、レンズを 10,000円で作ってくれる(昔はもう少し高かった)。これがとてもありがたい。
 このレンズ代は、とても安い。U社なら 30,000〜50,000程度で、T社なら 60,000 を超えることもめずらしくない。それを 10,000 で作ってもらえるわけだから。薄型が標準で、度が上がろうが、乱視が入ろうが、とにかくフレームと一緒だと 10,000円なのだ。

 P社では、いろいろな掛けやすいメガネも知った。
 うろ覚えでハッキリしないのだが、たしかここで2本目に購入したのが、Alain mikli だったと思う。今でも、一番のお気に入り。ブルーのダブルバーで、スッキリデザイン。まわりからのウケもいい(と言っても、メガネを替えても気付かない人は多いけど...)。
 その他、999.9、JAPONISM、theo、ic! berlin などが、メインメガネ入りした。999.9 は少なくとも3本買ったが、モスグリーンのセルフレームは今でもメインメガネだ。グレーの細フレームはサブ機、レッド系のナイロールはお蔵入り。

 しかし、ここでも失敗は経験した。一番印象が大きいのは、ic! berlin かな。
 今使っている ic! berlin は2本目なのだが、1本目はすぐ掛けなくなってしまった。それは、レンズの違いが原因だ。
 当時はまだ広く浸透していなかったブランドで、お店の人もわからないことがあったのだ。
 メガネのレンズには、球面と非球面がある。僕が掛けているメガネは、すべて球面だ。ic! berlin はフレームがすごく薄くてペラペラなのだが、そのフレームのおかげで、お店の人も非球面でないとはめられないと思っていたそうだ。
 しかし、これが困るわけですよ。球面しか使ってない中に、1本だけ非球面が加わるとどうなるか。球面と非球面では、見え方がかなり違うのだ。
 大丈夫だろうと思ったんだけど、甘かった。もう、ぜんぜん慣れなくて、クラクラするような感じで、目もすごく疲れて、ギブアップ。すぐに掛けなくなってしまった(厳密には、レンズの違いで変わる見え方には、球面か非球面かだけでなく、他の要素も絡んでくる)。
 あと、ノーズパッドの部分がちくちくしたんだよね。薄いから、ノーズパッドも普通のものは付けられない。今持っている ic! berlin は違うのだが、このすぐ掛けなくなったメガネはゴム管状のものがノーズパッドとして付いていて、この端っこがちくちく鼻を刺激した。痒いよう。
 これらは初体験だったので、致し方ない部分はある。

 もうひとつ、初体験。
 theo はお気に入りだったのだが、フレームがチタン的でもセル的でもなくて、ラバーのようなあまりない質であった。これはこれでおもしろいのだが、後年、これがベトベトして汚れが付くようになってしまった。これじゃあ掛けられない...。
 仕方なく、今はお蔵入りしている。この形の眼鏡は、違う質でいいのがあれば欲しい。theo にあれば文句なしだが、残念ながらまだ見たことがない。

 こういう失敗はまだかわいいというか仕方がないなと思うのだが、実際に掛け始めると、なんかこのデザインは違う...なんて思って、別のメガネにすればよかったと後悔したこともある。先に触れた通りだが、これって何回あったっけ。
 主にU社を使っていた頃に経験したことだが、こういうことがあるんだよね。

 なんでそんなに失敗するのさ?
 そう思うかもしれないが、メガネ選びはなかなか大変なのだ。一筋縄ではいかない。しかも視力がよくないから、お店で掛けてみても、具合がしっかりハッキリわからないんだよねー。
 これ、視力のいい人にはなかなかわからないだろうなぁ。ダテメガネを選ぶのとは、ワケが違うのです。

 こうしたデザインや掛け心地での失敗があるのだが、調整も1度で済まないことがある。
 調整は後からいくらでもできるから、大きな問題ではない。それでも、またお店に出向くのが面倒だ。あー、面倒だ。だから最近は、しっかりじっくり調整してもらう。それができるようになったのも、昔の経験があるからだ。
 こうした失敗のおかげで、後からしまったなーなどと思うことが少なくなった。と思う。たぶん。
 終わりよければ、すべてよし。

 ちなみに格安のオシャレメガネなら、今ではO社やZ社などいくつかありますね。随分増えたなぁ。僕は買ったことないけど。

無人島に音楽を

 ちょっとしたネタなどで、こんな質問をされることがある。

「無人島にCDを1枚だけ持っていけるとしたら、何を選ぶ?」

 そんな意味の質問だ。この時、無人島じゃ CD 聴けないから、ただ毎日円盤を眺めてるしかないんじゃ...などといった疑問を差し挟んではならない。普通はそんなことする人、いないけど。

 僕は、何だろう。
 これが入ってる CD がいいかな...と思うものはあるのだが、具体的にどの CD かということになると、選ぶのが難しいというか、大変というか、とにかく迷ってしまう。
 しかし選ぶ CD に迷うだけで、曲は決まっている。
 J.S.バッハ「管弦楽組曲第3番」である。この第2曲は、いわゆる「G線上のアリア」として知られている曲と、ほぼ同じ曲だ。

 クラシックの CD を選ぶ時って、演奏者がどうかとか思ってしまうんだよね。僕はそれほどでもないけど、やたらと細かいことにこだわる人もいる。あの人の指揮がいいとか、あの楽団がいいとか、同じ楽団でも何年の録音がいいだとか、そのくらいならまだかわいいもんで、他にもまぁいろいろと。
 ほんでこの曲も、ご多分に漏れずいろんな録音がある。ここでどの演奏がどうだとか、評価とか解説とかするつもりはない。それが知りたければ、どこか他のサイトを探してくださいな。そういうサイトはたくさんあるので。

 ほんで、本題に戻りますが、この曲で、僕だとどうなるか。そうだなー。どれがいいだろう。
 ルツェルン弦楽合奏団、アムステルダムバロックオーケストラ、イングリッシュバロックソロイスツ。他にも心惹かれる演奏はたくさんあるけど、こんなあたりかな。おおよそ僕の好みが見て取れますね。たぶん。

 たいてい管弦楽組曲は何曲かが1枚に収められている(2枚組みで全曲収録もある)ので、厳密にはその組み合わせも無関係ではない。この収録曲の違いで選ぶこともできる。
 だけど、まぁだいたいこんなところです。

 なんでこの曲なのかは、自分の生死観的なものとも関係がある。関係あるのは、第2曲だけだけど。
 そのあたりのことは、またいずれ。

微妙なポイントこそ命

 褌。フンドシである。
 みなさん、フンドシは好きですかー。フンドシにも、いろいろある。最近はカラフルなものも増えて、女性まで身に付けるとか。
 フンドシ好きは、結構いるんだよね。付けるのもだけど、愛でるのが。褌フェチ的な人がいるんですよね。

 さて、僕はといえば、自分では付けたことがない。ひとつくらい持っててもいいかな...とか思わないではないんだけどねぇ。
 で、フンドシ姿も萌えるには萌えるんだけど、なんでも OK なわけでもない。一部のフンドシには萌えるけど、萌えないのもいっぱいある。
 どう言えばいいのか、萌える微妙なポイントがあるのだ。

 フンドシといえど、一筋縄ではいかない。
 と言っても、これはフンドシに限った話ではないが。フェチみたいなものって、そうだよね。何事にも、許容範囲や微妙な萌えポイントがあるのは普通のことである。たぶん。
 服装に関する萌えの例を列挙してみよう。
 学ランとブレザー、ソックスの形状、好きなユニ、サカユニのソックスの色や履き方、競パンのメーカーやカラーリング、裸にはソックスかシューズか、女装はアリかナシか...。
 きりがないのでこのへんでやめるけど、野球のユニフォームで、シャツの形状だとか、ボタンの有無にこだわる人もいる。まことに深遠な世界ですね。
 ちなみにこれ、ゲイだからってわけじゃない。ヘテロにもヘテロのポイントはあるのだ。スカートとパンツとか、スカートならこういうのがいいとか、それはそれはいろいろと。

 さて、フンドシに戻ろう。
 フンドシにも種類がある。主なものは4種類ばかりかな。越中、もっこ、黒猫、そして六尺である。仮に主なものとして挙げてみたけど、いやこのピックアップは違うだろ...ということはあり得る。あり得るけど、それはここでは重要ではない。仮ですよ、仮。
 とにもかくにも、このうち僕が興味があるのは、六尺である。だからといって、六尺だけに興味があるわけでもない。でも、六尺が一番好きで、萌える。場合によっては黒猫もいいんだけど、他はさほどでもないんだよね。
 なんでって、説明は難しい。それは、あらゆるフェチが論理的に説明できないのと同じである。なんか物足りないんだよなー。

 この六尺褌、ただ六尺ならなんでもいいわけではない。
 六尺の延長で九尺も関係あるのだが、細かいことはともかく、要するにさらしの締め方にも複数通りある。この締め方が、僕にとっては結構重要なのだ。画像でも用意すれば一目瞭然なのだが、画像はない。ないったらないのだ。
 こう、全体的にシャープな感じ? ゆるゆるなのはダメだし、前が広がったような形も嫌だ。細めだけど、細すぎず。深さも、浅すぎず深すぎず。ヘソより上でくるくる巻く締め方もあるけど、あれはイマイチ萌えないのだ。
 腰回りはねじっててもねじってなくてもいいんだけど、太すぎるのはダメかな。それに、前に垂らさない締め方がいいねー。

 そんなこんなで、例えば褌の祭や画像があったとしても、褌姿の人が目の前にいたとしても、なんでも萌えるわけではないのだ。

 しかし話はこれで終わらない。これに、体型的な好みが付加される。僕だけがというわけではなくて、一般的にもね。マッチョがいいとか嫌だとか、その他諸々。
 人によっては、マッチョと褌の組み合わせできゃあきゃあ言ったりするものなんだけど(海水浴場で女のコの水着姿にきゃあきゃあ言うのと似てる?)、また別の人は、マッチョすぎるよ...とか、筋肉つき過ぎでキモチワルイ...とか言っちゃうわけです。もちろん、その締め方は萎えるよ...なんてこともあるわけだけど。
 こうして、さらに細分化されていくわけである(体形について付け加えておくと、「マッチョ&褌」好きには、細身の人に褌は似合わない! と断ずる人も多い。単に好き嫌いの話だと思いますが)。

 フェチというもの、まことに深遠ですね。

日記の流儀もカラフルで

 Evernote である。
 これは、いろんな使い方ができてしまう。使っている人が10人集まったら、10通りの使い方が集まるんじゃないかと思える。そのあたりの詳しいことは、改めて言うまでもあるまい。
 僕にも、僕なりの使い方がある。
 過去に書いた通り Webサイトの更新にも使っているのだが、その他にも雑多な情報のストックなどもする。この「とりあえず入れておこう」とか「溜めておこう」なんてことに、Evernote はなかなか便利である。無理に整理することもない。必要なものだけ分類して、残りは「その他」なんてことにしても問題ないかもしれない。
 いろいろ「書き溜めておく」という意味では、日記も似たようなものかもしれませんね。僕は日記にも、Evernote を使っている。ただし、保存だけだけど。

 どのくらいの人が、日記を書くものだろうか。
 書き方も千差万別だろうなぁ。紙かデジタルかに始まり、使うツールや書き方など、その人その人の流儀があるはずだ。
 日記を書こうと思う人は多いらしいが、これがなかなか続かない。僕もそうであった。スケジュール帳にメモ程度の日記を書くことすら、続かないことが多い。
 iPhone などに日記系のアプリがたくさんあるのも、書きたいけれど続かない人が多いからかもしれない。だから書かないとプッシュ通知で促したりするアプリも多いわけだけど、あれは煩わしいから嫌いだ。書きたい時に通知してくれるならまだしも、否応なく「書け!」と言ってくるわけで、今はその時じゃない...などという事情は、当然ながら考慮してくれない。
 みなさん、日記の継続には苦労されているようですね。なんで続かないんだろうねー。
 続ける意志が...とか言われたら、もはやそれまでだが。でも自分の感覚としては、意志とは別の何かなんだよね。よくわからんけど。

 僕はと言えば、当然の如く Mac や iPhone で、日記専用アプリをいくつか使ったことがある。しかしやはり、継続はなかなか難しい。どうしてかなー。不思議ですねぇ。
 アプリの場合、使い勝手が自分の感覚とマッチしないことも、原因としてありそうだ。

 専用アプリで一番続いたのは、iPhone の Diary+ だな。めずらしく、あれはまともに続けて使っていた。その流れで、今も日記は続けられている。日記といっても、簡単なメモ程度ですよ。毎日きちんと書いてもないし。
 まともに続けられていたならそのまま継続してもよさそうなものだが、今は Diary+ を使っていない。
 今の日記の軸は、Evernote である。Evernote にまとめてしまった方が、何かと便利だ。Mac でも閲覧できるしね。Diary+ には Mac 用アプリもあって同期もできるんだけど、僕の Snow Leopard には非対応なのだ。
 ただし、Evernote で日記用にノートを新規作成することはない。
 ノートの作成に使っているのは、EverGear である。PostEver や SmartEver などと同じように、Evernote にノートを送れるアプリですね。これを、iPhone で使っている。

 EverGear には、ひな形作成機能がある。自分で自由にひな形を作れるのだ。
 よくあるのが「○行日記」などだが、僕はこういった形式を決めていない。ひな形に入れているのは、「日付」+「の日記」だけだ。ひな形から新規でメモを作ると、1行目に「○月○日 の日記」と入力される。あとは、自分の思うままに記入する。
 日記の内容は、とりあえずメモだけしておいてもいい。後から編集して、送信するのだ。暇な時に、まとめて編集・送信することもよくある。
 送信先は、あらかじめ Evernote のノートブックを指定できる。日記用のノートブックを作って送信先に設定しておけば、あとは書いて送信するだけだ。
 毎日必ず書くのがベストだと思う。だけど僕は、そうしていない。1週間以上飛ぶことはまずないが、書きたい時だけ書いている。このゆるさも、続いてる理由かもしれないなぁ。

 EverGear は日記専用にしてあるので、他のノートの投下はしない。日記以外のノートには、PostEver を使うか、直接 Evernote を使う。稀にメールも使う。
 こういう割り切りは、必要かもしれない。オールインワンもいいのだが、目的を絞ると使い勝手が向上する場合もある。僕の場合、Evernote はオールインワン的だけど、それを補助するアプリは目的別なのだ。

 Diary+ から EverGear に変えてから、より書きやすくなったと思う。
 もともとは、単に日記も Evernote にまとめることにしただけなのだが、後から考えてみると、ノートが送信前後で分かれる点がポイントになっているようだ。そのおかげで、とりあえず項目だけ書き留めておいて後から編集・送信する場合でも、未編集かどうかで迷うことがない。Diary+ もよかったけど、こうはいかない。
 2年以上前から今も続いているから、この方法が僕には合っているんだろうなー。

その違いは何ですか

 夏も終わりですね。なんだか、夏らしくない夏であった。
 関東あたりは暑い日も多かったようだが、このあたりはさっぱり。夏の入りは暑かったものの、夏の盛りの時期はといえばさほどでもなく、夏前の方が暑かったくらいだ。その煽りか、ヒグラシもツクツクボウシも、クマゼミやアブラゼミですら元気がない。いつもならにぎやかなんだけどなぁ。

 さて、夏に飲むものといえば、ビールですね。だけど僕は、ビールは飲まない。
 学生の頃は飲んでたんだけどね。卒業してから、とんと飲まなくなった。もともと炭酸が苦手なのだ。だから、サイダーもコーラも飲まない。
 それでも学生の頃は、ビールは付き合いで飲んでたわけだけど。
 しかしそれも付き合い程度で、昔からお酒自体それほどたくさん飲まなかったなー。ビールとか、せいぜい初めの一口程度で満足してしまうし、あとはまさしく付き合い。がっぽがっぽ飲むことはせず、適当に杯を傾けつ逃がしつ。
 そんなふうであった。強くもないしね。少し飲めればいいの。

 今もお酒は飲むけど、先に書いたように、ビールはまったく口にしなくなった。
 じゃ、何を飲んでるのー?

 以前書いたことがあるが、日本酒がメインである。泡盛とワインも時々。リキュールもたまに飲む。
 大学卒業後のことだが、何かの集まりがあって飲むこともある。そんな時、一杯目にみんながビールを注文する中、一人僕だけ「日本酒を」なんてことになるわけです。そしたら、「ええー!?」とかなんとか、ブーイングが上がるという。
 いいじゃないか。ほっといてくれ。ビールハニガテナンダヨ。
 そもそも一杯目がビールだなんて、誰が決めた。そんな習慣めいたわけのわからぬものなど、僕には邪魔でしかない。意味不明である。

 しかしその日本酒も、やはり一度に何度も杯を重ねることは、ほとんどない。普段は、多くても数杯程度がいいとこだ。強制とかされると、正直かなり萎える。
 好きに飲ませてくださいな。

 一時の焼酎のブームらしきものは落ち着いたと思うが、日本酒離れと焼酎LOVE は続いてますね。僕はといえば、焼酎は飲まない。
 泡盛は飲むのに、焼酎は飲まないの? そうです、飲まないのです。
 同じ蒸留酒じゃん...なんて声も聞こえてきそうだが、飲まないのだ。よくわからないけど、好きになれないのだ。未だおいしいと思ったことがない。
 思うに、製法の微妙な違いが、僕の好き嫌いと関係してるんだろうなぁ。

 確かにどちらも蒸留酒で、分類上は同じだ。どちらも味はあるし、臭みだってある。臭みはむしろ、一般的には泡盛の方が強い。なのに、焼酎が好きになれない不思議。自分でも謎です。
 泡盛には普通に古酒があるように、「余計な成分」の有無や量が違うんだろうな...なんて、勝手に思っている。日本酒だって、焼酎から見れば「余計な成分」だらけみたいなもんだし(焼酎にも古酒はあるけど、そもそも焼酎は「新酒」で飲むものなんじゃないかとも思っていたり。あと、単に熟成と言っても、泡盛と焼酎ではその意味が少し違うような気もするし、ましてやウイスキーなら尚更じゃないかなぁ)。

 原料とか麹菌の違いが味わいにどう影響しているのか僕にはよくわからないけど、泡盛は飲むのに焼酎は飲まない...という僕の好みは、こうしてあるのです。
 ちなみに、蒸留酒かどうかは関係なく、ウイスキーとかブランデー、テキーラとかも飲みませんよ。

アンダーウェアの怪

 このサイトへの検索キーワードで圧倒的に多いのが、アンダーウェアに関するもの。
 その中でも特に目に付くのが GMW、つまり GOOD MEN WEAR だ。なんでこんなに多いんだろ。何を調べてるんだろ。何が知りたいのかなぁ。買える場所を探してるのかなぁ。
 買える場所なら、たしかに限られてるよなー。探したくもなる。かつて僕も、いろんなところを探したもんだ。

 キーワードの組み合わせが意図の推測しにくいものも多くてなんだかよくわからないけど、とにかくそんなわけで GMW 購入の話など。

 ネットショップなるものができてもう随分たつが、買えるもの、買い方、配達方法、送料など、いろいろ変わってきましたね。
 この数年で広がってきたネットスーパーなどは、ネットで実店舗と同じ商品を注文できて、購入したものはその日に届く。サイトでのネットショップとしての見てくれは同じようなものでも、結果や体験は違う。「ちょっとスーパーへ」に近い感覚で使えると思う。使ったことないけど。
 一方で、一般的なものとは違って、そこでしか買えないものもある。個別の商品はもちろんのこと、購入経路でもね。
 例えば、主な販売経路はネットで、それ以外はごく限られた実店舗で販売する...なんて商品も少なくない。ネット販売しかしていないものも、珍しくなくなった。実店舗では販売してないけど、ネットでは広く取り扱い店舗が確保されている例もあれば、窓口となる販売サイトが限定されていることもままある。
 ショップによって、方針は様々ですね。

 TOOT や GMW も、ネット中心のブランドである。他にもあるけど、今はこの2社に絞るとしよう。
 まず TOOT の場合、販売サイトで確認できるように、全国にポツポツと取り扱い店舗がある。百貨店とか、ショッピングモールにもありますね。小さいお店も混ざってます。
 しかし、リアルショップの数は多いとは言えない。

 取り扱い店舗が少ないと困るのは、実物を見て買いたい場合だろうなぁ。特に色とか、モニターによっては違う色に見えるし。でも履き心地に関しては、普通は下着の試着はできないし、するようなものでもないし、ネットで買っても同じことじゃないかなー。
 前にも書いたけど、安いものではないとはいえ、買って試してみるのが一番いい。
 あと、こっそり買いたい時とか? 事情は千差万別いろいろありうるけど、例えば同居人に知られたくなかったりすると、困るよね。
 そんな時には、局留めとか営業所留めとか、コンビニ受け取りを使う方法がある。ネットショップによってこのあたりの対応は違うので、調べないといけないけどね。局留めは可能なネットショップが多いかな。コンビニ受け取りは、対応ショップが少ないか。
 昔と違って、郵便局は遅い時間までやってるところが多い。夜間窓口で対応してくれるんだけど、その時間内なら自分の好きな時に取りに行けばいいから、一見面倒なようで、案外便利だったりー。取り扱い内容と時間は局によって違うので、日本郵便のサイトなどで調べてね。

 他の話を先にしてしまったが、一方の GMW はどうかといえば、TOOT と比べてさらに間口が狭い。そうです。狭いのです。キュキュッと閉まる初心者のアレのように。
 GMW はリアルショップでの取り扱いが少ない上に、ネットでの販売もほぼ公式サイト1箇所のみ(実際には1箇所だけじゃないけど、商品が限定されたりして、便利とは言い難い)。さらにその公式サイトでの販売も、期間限定。ネットであっても、いつでも買えるわけじゃない。こりゃタイヘン。
 GMW が気になるなら、とりあえず会員登録しちゃえばいいと思う。登録は金がかかるわけでもなし。
 販売期間はサイトにも告知が出るけど、度々サイトを調べに行くなんてめんどくさい。登録してメールを許可しておけば、販売が始まる前日にメールでお知らせがくるので、その方が便利じゃないかな。
 販売期間が限定されることのデメリットは、とりあえず閲覧できないこと。商品だけでも見ておいて、金額を先に確認して...なんてことは、かなわないのです。人気のデザインは、うかうかしてるとすぐ品切れになることも考えられるしね。軽い争奪戦です。

 こうしていろいろ書いてみると、なんだか簡単ではない気がしてくるねぇ。
 でも、そうでもないんだよー。ぶっちゃけ慣れだね、慣れ。いろんな意味で。ネットショップで買うということも、その他あれこれも含めて。

 さて、付加的に、リアルショップについても書いておこう。
 公式には販売店舗ではないけど、取り扱いのあるリアルショップがまったくないわけでもない。だから、根気よく探してみても悪くはない。気の長い話だが。
 そういうお店は、街角の小さな専門店だったり、人通りの少ない裏通りの衣料品店だったり、こじんまりしたセレクトショップであることも多い。
 残念なことに、せっかく販売店があっても、僕には用がないけどねー。なぜなら、サイズがないからですよ。例によって、例の如く。サイズがないからですよ! はははー。
 小さなお店が、売れ筋の商品とサイズに限定して仕入れたとしても、不思議なことではない。それはつまり、ほぼすべてが M と L だということだ。僕は S(SS)ですからね。仕方がないですね。そうですね。
 TOOT でいえば、昔はわが県内にも、モデルもサイズもしっかりそろえてるお店があった。たしかサイトには掲載されてなかったけど、通常の行動範囲内に、いくらか置いてるセレクトショップもあった。しかし悲しいことに、なくなってしまったのだ(販売中止と閉店)。
 ほんで今は、新たにサイトに掲載された別のお店で売ってる。だけどやっぱり、サイズがないから用はない。

 最後にもうひとつ。買ってみろ! という身も蓋もないような話。
「買って試してみるのが一番いい」とは上でも他でも書いたが、やっぱり勇気がいるよね。
 まずは最低限でも、自分のサイズをよく把握しておくことが大切だろう。SML だけじゃなくて、自分の履いているアンダーウェアのウエストは何センチか(など)も、実際に計ってみるといい。その上で、サイトに掲載されているサイズをチェックする。アメリカンサイズかどうかも、要注意点かな。
 ブランドによってサイズ感が違うけど、それはどうしようもない。それに的確に答えてくれるものなど、おそらくこの世にはない。ないったらないのだ。たぶん。
 レビューやらなんやらは、確かに参考になる。でも他人の評価は、主観による他人の履き心地だから、同じように感じるとは限らない。自分で履いて納得するのが確実だ。身体だって、自分とまったく同じ人はいない。仮に身長・体重が同じスペックでも、ウエストは違うかもしれないし、オシリの大きさも違うかもしれない。
 実際、特にフィットするタイプのアンダーウェアを履く場合には、ウエストよりもヒップがモノを言う。着心地やサイズ感に大きな影響があるのは、ウエストではない。股の前後とオシリの具合がどうかが、重要なのだ。たぶん。
 だけどヒップのサイズを表示してるショップなんて、そうそうない(最近の TOOT は表示あり)。加えて、ロングのボクサーになると、太股の太さもあるからねぇ。
 さらに、履き方だって違うかもしれない。上げ方とかね。特にムスコさんには、上を向いていただく人もいれば、下を向いていただきたい人もいて、その「容姿」だって違うもの。カップがあろうとなかろうと無視できないことだけど、ありなら尚更、カップの大きさや形が履き心地に影響を与えますね。

「履きやすい」の一言も、どう履きやすいのか千差万別なのだ。

 ただ、同じブランドならだいたい似た傾向があるし、だんだん予測はつくようになると思う。そうなると、レビューの読み方も違ってくる...ような気がする。
 同ブランドでも、別シリーズや別生地だと冒険も込みになるかもしれないね(実際、カップの大きさが違ってたりする)。同ブランドを買ったことがあるなら、それとの比較をショップに問い合わせてみる方法もある。しかしそれでも、完璧ではない。
 その履き心地も、肌触りだって感じ方に個人差があるし、やっぱり本当のところは自分でしかわからない。ここで冒険するか、安全策を取るか、結局は自分で決めるしかない。
 肌に直接触れる、それもデリケートなエリアとその周辺に触れるものだから、余計に感じ方の差は激しいかもしれない。
 まったくもって、買い物だけでも一苦労ですね。

 僕もそろそろ、次のアンダーウェアを買わなきゃなー。

折り鶴の作法

 折り鶴である。原爆の子の像への捧げものだったり、お見舞いだったり、贈り物だったり、高校野球での励ましであったり、いろいろな場面で出てくる、あの鶴だ。
 いろいろ語り始めると終わらないので、それはひとまず横へ。
 折り鶴の折り方は、基本としては1通りだ。しかし実際に世に出回っている折図は、2通りある。最初を二等辺三角形に折るか、長方形に折るかの違いである。
 ところがこの最初の部分、オリガミアンなどにはよく知られた折り方が、もう1通りある。
 さらに、首や尾、羽の折り方に好みがあって、それを含めるといろんなパターンができあがる。たかが折り鶴といえど、一筋縄ではいかないのであった。

 以下は、自分式折り鶴の折り方とでもいうようなものである。羽に折り筋のない、綺麗な折り鶴になりますよ。

 ヒマな人、そして折る苦労(?)をいとわない人は、お試しあれ。最近は、折り鶴の折り方そのものを知らない人が多いんだけどね。男女問わず。
 以下、一通りは知っているものとして、話を進めますよ。折り方がぜんぜんわからないよ! という人は、ネット上にも折図があるので、検索して探してもらうといいだろう。
 と言いはしたけど、折図を見てもわけがわからないという人もいるので、話はそれほど簡単でもなかったり...。


 用意するもの。正方形の紙、1枚。当然っちゃ、当然。

 orizuru_01.jpg

 出来上がりは、色付きの面が外側といたしましょう。今は、赤ね。以下、色面を「赤」としか書かないから。


 それではまず、赤を上にして、三角に折りませう。

 orizuru_02.jpg


 いったん開いて、裏返す。まんなかに、斜めに折り筋がついてるね?

 orizuru_03.jpg


 縦と横、どっちも半分に折って、戻す。長方形に、辺と辺をあわせてね。十字に折り線を付けるわけだ。

 orizuru_04.jpg > 長方形。


 ほんで、縦横1回ずつ折って、開くと...。

 orizuru_05.jpg > 折って開いたところ。

 写真ではわかりにくいのだが、斜めに1本。十字に縦横2本。合計3本の折り線がある。


 ここまでできたら、付いている折り筋どおりに折りたたむ。

 orizuru_06.jpg > くれぐれも、折り筋どおりに。

 簡単に、早く折れるねっ! しかもキレイ。

 さてさて、こうならなかった人。できないヨ...と憤慨している人。あるいは、三角形になってしまった人。
 それは、ふうせんの基本形へのステップである。頂点の向きが違う。一度開いて、頂点を逆にしようね。
 厳密には、今まで付けた折り筋のとおりであれば、三角形にはならない。だから、ふうせんの基本形はできないはずだ。もしそれが完璧にできてしまうとしたら、すでに折り筋が1本余計についてしまっているのだ。あわあわわ。
 仕上がりが綺麗な折り鶴にしたい時には、改めて紙を用意して折り直しましょう。

 orizuru_07.jpg > 正しい頂点。

 orizuru_08.jpg > まちがい頂点。


 では、次。
 さっき頂点だった部分は、背中になるのである。そこはぺったんこにしたまま、反対の角のところをちょいと開く。

 orizuru_09.jpg > こんな具合に。


 ついでに「なんとなく」形にしてやる。

 orizuru_10.jpg > こんなふうに。


 そのまま中央の辺にあわせて折る。カドもキッチリね。

 orizuru_11.jpg

 残りは、さきっちょがズレないようにしながらピシッと折る! 羽の中央に折り筋がないから、やや折りにくいかもしれないね。慣れればどうってことはない。

 orizuru_12.jpg orizuru_13.jpg


 んで、こうなる。

 orizuru_14.jpg > 片側できあがり。

 orizuru_15.jpg > 両側できあがり。


 折り紙で綺麗に折るために必要な基本的注意点は、やはり角や辺をキッチリ合わせて折ることかな。
 よく、なんでそんなに綺麗になるの? とか言われるのだが、僕としては普通に折っているだけだ。しかしよく見ていると、綺麗にならない人は最初の一手二手で、既にずれているようで。

 さて、鶴を先に進めましょ。と言ってもあとは、ほぼ普通通りに折っていくだけだ。


 首と尾の部分を細くして...。

 orizuru_16.jpg > 縦半分に折る。


 中わり折りってのをして...。

 orizuru_17.jpg > 両側、中割折り完了。


 首を作って...。

 orizuru_18.jpg > 折り鶴出現ですね。

 上の写真のように、僕の好みは首と尾をやや胴体から引き出す。この角度は、人によって好みが分かれる。内寄りの方が縦方向にスッと立って、シャープな感じになるので、それも好きだけどね。

 ちなみに、首と尾を細くする時に、ちょっとした細工をすると、よりキレイに折れる。初心者には少し難しいのだが、簡単に触れておこう。
 紙は、折り込んでいくほど厚みが増す。この首と尾の部分は、細くする時に辺をちょうどに重ねると、中わり折りをする時に両側の紙同士がぶつかりあう。それを避けようと思ったら、事前に準備しておけばいい。つまり、辺と辺をキッチリ合わさずに、わざとわずかにずらすのだ。
 ただし、ずらしすぎると頭を折る時にあまり見栄えがよくないので、ほどほどに。過ぎたるは及ばざるがごとし。またたとえ辺をずらしても、角はきちんとシャープに処理すること。


 では、次に参りましょう。
 僕の好みでは、羽は根元で折る。

 orizuru_19.jpg > 普通は折らずに広げる。


 羽を横向きにして、背中をほんの少しふくらませて、完成。

 orizuru_20.jpg

 でーきた、できたっ!

 羽の上面に折線がなくて、シャープである。よーく見てね。羽に線がないから。くれぐれも、画像に加工なんぞ施していないので。

 orizuru_21.jpg > 普通の羽の折り鶴。

開いて閉じて、右! 左!

 前回、某サイトの改装について書いた。
 この新サイトのことをいろいろと検討する際に、大活躍したアプリがある。先月の初旬あたりから使い始めた、WorkFlowy だ。
 これは、クラウド型のアウトライナーである。アウトラインエディタである。アウトラインプロセッサーの簡易版みたいなものである。
 Mac では Webブラウザでアクセスする。iPhone や iPad にはアプリがあるので、それを使う。

 このアプリ、見た目がすごくシンプル。でも、必要なものはそろっている。余計な機能は持たず、過不足がないって感じで。
 項目のランクを上げ下げするのも楽だし、移動はドラッグすればいい。コピペも簡単。他のアプリから改行付きでコピペすると、各行がそれぞれ項目になる。
 項目をひとつ選ぶと、その項目がトップ表示に切り替わる。目的ごとにトップレベルの項目を分けておくと、必要な内容だけを表示することができるというわけですね。
 各項目には、ノートを付属させることもできる。使わない人には、無用のものかもしれないが。ちょろっと何かを付け足しておくには、悪くない。だから、一覧表示できるようにしておきたい内容の記述には向かない。
 各項目は字消しできるので、ToDo としても使える。

 こんな具合でいろんなことができるけど、見た目はいたってシンプルだ。
 類似のアプリでは、階層ごとに項目のマークの色や形が変わることも珍しくない。でもこれは、すべて同じ。「・」だけである。いたってシンプル。だけど、スッキリ見やすい。

 ステキです。

 Mac では、昔から Tree を使っている。その iOS アプリがあったら、きっとそれを常用してたと思う。でもないんだよね。残念なことに。
 だからその代わりとして、何かいいものはないのか? と思って、時々探していた。もう長いこと探し求めていた。でも、なかなか自分の思うものはないんだなぁ。
 それが先月、ひょいと見つけてしまった。シンプルすぎるかな? と思いつつも、よさそうだから試しに使ってみたところ、非常に具合がよかったわけです。こんないいもの、いつからあったの?

 Tree と連携させようと思ったら、基本的にコピペなんだけど、ちょっとうまくいかない部分はある。
 同じアプリで同期などができれば、理想的ではある。でも僕の場合、アプリが別々になっててもさほど問題もないし(目的を微妙にわけている)、時々必要になったら一方からもう一方へ移す程度でいい。少なくとも項目は反映できるし、似たアウトライン系のアプリがふたつあっても、困らないのだ。
 すこぶる快適である(あえて言ってみる)。

どこでもいいって、どこですか?

 最近、あれこれと用事があって、Web は放置していた。ネタは用意していたものの。まぁのんびりやってるので、まったく気にしてないが。

 このところ、WordPress を触っていた。必要があって。
 実際に触るのはこれが初めてなのだが、あれやこれやと調べることの連続で、なかなか大変であった(正確にはまだ継続中)。
 今回は、いくつか条件付きなので、余計に面倒なのかもしれないけどねー。

 それは、僕も関わっているある集団の Webサイトである。
 今もサイトはある。小さなサイトなので、特別なものは何も用意してないし、構造もシンプル。更新は、HTML と CSS を直接編集してアップする。それで事足りるのだ。この管理を、僕がしている。
 それを全面改装しようとしているのだ。
 Webサイトのコンテンツなどについて検討する部署が別にあるのだが、簡単に言うと、そちらさんが内容をもっと充実させたい...と(これは僕も望むところ)。ほんで、集団内の個人に関わる情報の更新を、できればメンバー個人にやってもらいたい...と(これはそっちの部署の手抜きですね)。

 もちろん、方法はいろいろ考えられる。
 でも、大枠をまず考えた時に、WordPress が一番対処しやすいように思えた。ライセンスとか、そういった部分も含めて。
 細かい部分を考えると、面倒臭いこともある。また、後々のことも考えておいた方がいい。今は僕が管理しているからいいけど、僕の手を離れた時にどう管理するのか...とかね。
 HTML を多少なりともわかる人は、おそらく僕以外に一人しかいない。僕が前管理者から引き継いだ時にやたらと汚かった HTML と CSS は、面倒がないように整理はしてある。古臭いデザインも、変えた。だけど、まったく知識がない人からすれば、これでも敷居が低くはないと思う。

 それを、より管理しやすいようにしようとしたら、CMS がうってつけに思われる。
 しかしメンテナンスのことも考えておくべきで、特にアップデートは必要だと思う。カスタマイズしすぎるとそれが面倒になるから、本体にはなるべく手を入れたくない。運営面では、メンバーが一部コンテンツを更新できるようにする必要もある。
 こういった条件もあって、選んだのが WordPress なのだ。

 まず、メンバーは登録ユーザーで管理する。アップデートの手間を省くために、なるべく本体には手を入れない。プラグインに頼りすぎるのもどうかと思うが、多種多様なプラグインがあるので、積極的に利用する。
 そんな感じで事前にいろいろ調べて、検討・発案部署の要望にも応えられそうな方法を考えた。そっちで考えてもらってもいいのだが、相談されたのでもう自分で考えた。
 本体にまったく手を入れないというのは現実的じゃないが、WordPress なら子テーマを使える。それで代用的に解決する。同時に、メニューや構造も少し変更する。時系列に並ぶ必要がある情報については、ブログを流用すればいい。などなど。
 青写真はできた。

 ただ、それがすべてすんなり実行できたわけではない。当然ながら。実際にやってみると、戸惑うこともたくさんあるんだよね。
 なかでも苦労したのが、カスタムフィールドである。
 メンバーの更新情報には、投稿ページを使いたい。どんどこ投稿してもらって、それがブログ風に時系列で表示されてくれた方が、手間がかからない。
 しかし、自由気ままの好き勝手に更新されても困る。記事の内容は毎回違うのだが、掲載する情報の種類は決まっているのだ。雛形にできるほどに。だから、書式も表示順も統一したい。でないと、見栄えが悪くなる。
 書式の統一は、今まで僕が自分でやっていた。送られてきた情報の書式には、ほぼ必ずブレがある。ブレがあると統一感に欠けるので、決まった書式に修正する。ほんでレイアウトは共通の CSS で指定して、キッチリ見た目をそろえていたのだ。
 改装後も、見た目はやっぱりそろえたい。何をどうやっても、後から多少のチェックと修正は必要になると思うけど、できるだけ統一ルールに従って更新して欲しい。
 そこで、プラグインを使ってカスタムフィールドで入力項目を作り、入力欄には注意書きを付け、同じ順で項目を出力させることにした。

 使ったプラグインは、Advanced Custom Fields というもの。これが、僕のようなシロートにはけしてわかりやすくはない代物であった。
 フィールドの作成や注意書きは自由にできるし、入力必須かどうかも簡単に設定できて、作ったカスタムフィールドを使うカテゴリーを指定することもできる。それはわかりやすいし、使い方も難しくないし、重宝する。面倒がなくて、ありがたい。
 しかし、その出力方法がわからなかった。
 基本的な出力はわかるのだが、入力される値は、ただの1行だけの文字列でもない。改行ありなので、それってどうすりゃいいんだよ...とか。
 なによりも、「このコードを任意の場所に入れてね」とか書いてあるんだけど、「任意」ってどこだよ!? という疑問。

 わかる人にはなんでもないことが、PHP がよくわからん僕にはちんぷんかんぷんなのであった。シロートさんというのは、こういうものなのである。
 しかもプログラムらしく(?)、フィールドの取得方法がひとつじゃない。どれを使えばいいんですか。さらには例えば、同じ書き方なんだけど、あるサイトではシングルクオートだとしている箇所が、別のサイトではダブルクオートじゃなきゃダメだというのだ。いったいどっちなんですか。
 しかし初心者向けを謳うサイトでも、そんな解説まではしてくれない。それ以上は PHP のお勉強が必要になってしまう。時間もないし、なるべく面倒は避けたい。
 結局、自分の求める結果が得られそうな、僕でもいじれるコードを見つけて少し変更して、それを実際にファイルのいろんな場所に入れてみた。タイトルと本文が逆転したり、ページが真っ白になったり、表示が乱れたり。
 それで慌てるようなことはないが、少しずつ手を加えては試すことを繰り返した。

 最後の最後、すぐにわからなかったのが、ループである。投稿ページでは、投稿されるごとに同じフィールドが繰り返されることになる。
 これ、そうじゃないの? と想像はしつつも、勝手に間に入れ込んでいいのかよくわからないもんだから、とりあえず入れた場所が、<while〜> の外だった(そこはあんまり見てなかったんだけど、事故が少なそうな場所に入れたから)。
 これでためしに記事をひとつ入れてみたら、ちゃんと表示された。できたー...と思ったけど、ためしにもうひとつ記事を入れてみたら、新しい記事は空っぽで表示された。
 ここで、なんで...? と思ってしまうわけですよ。わかんないから。ほんで、ハタと気付いた。ようやく。ループしないといけないから、<while〜> の中に入れろってことかな? と。
 それって、「任意の場所」じゃないじゃないかー!
 とにもかくにも、おっかなびっくり <while〜> の中で差し障りがなさそうな場所にコードを移動させてみた。こうしてようやく求める結果を得ることができた。やれやれ。

 ちなみに採用したそれは、たぶんスマートなやり方ではない。そうだろうと想像はできるんだけど、今の僕にはこれが限界だな。

大好きです

 あなたのことが、大好きです!

 誰だって、そう言えたらステキだよね。
 そう言えない時の苦しさ。

 毎日、誰かのことが気になって仕方がない。この気持ちを、どうしたらいいのかわからない。どこにぶつけたらいいのか、悩む日々。
 ずっと一緒にいれたらなぁ...と、そんなことを思ってしまう。一緒に過ごして、一緒にご飯を食べて、一緒に笑って、一緒に泣いて...。そうやって、一緒に思い出を積み重ねていきたい。
 切なる思いに、身をよじる。たまらなくなる。
 それでもこの気持ちを、口にできない。伝える勇気が出なくて、言葉を飲み込んで、また今日も胸の奥にしまう。毎日そればかり。
 一人じゃ心細いから、せめて誰か背中を押してくれないかな...なんて思ったり。あるいは、自分のこと好きだったりしないかな...、それで、好きだって言ってくれないかな...なんて都合のいいことを考えてみたり。
 けれど一方で、そんな小さな望みを抱く自分が嫌にもなって、自己嫌悪でまた落ち込む。
 たったの一言だ。「好きです」と。
 簡単で短い言葉なのに、どうしても伝えられなくて、目で追うばかり。話をして笑いあって、とても楽しいのに、胸に秘めた想いは抑え付けて、どこか醒めている。悲しさを覚えながら。
 それで気付いてもらえるわけもない。気付いて欲しいのに。気付いて欲しくて、ずっと待っているのに。
 だけど気付かれちゃいけないと、必死に黙って、耐えてもいる。自分のこと認めてよ! って心の中で何度も叫びながら、それでも何もできなくて、自分の想いを押し殺す。
 たわいもないことで一緒に笑いあう、そんな時の嬉しさ。
 楽しい時間は、すぐに過ぎていく。もっとずっと一緒にいたいのに、無情に流れていく。
 もっと知りたい。好きな人のことを、もっと知りたい。この貴重な時間を、もっと大切にしたい。
 特別じゃなくていい。二人っきりで、この時間を埋め尽くしたい。くだらないことで満たしたい。そんな時間が、ずっと続いて欲しい。
 もしも特別な関係になれるなら、抱きしめあって、想いを伝えたい。その手で触れ合い、互いの腕で包み、包まれて過ごしたい。許されるなら、そんなわがままを自分のものにしたい──。

 と、誰もがそっくりこのままの気持ちを抱くわけではないが、わかるよね? いろいろな気持ちを織り交ぜてみたので、僕自身このままの気持ちではないし、この部分が嫌だとかいろいろツッコミどころもあるだろうが、それはともかく。
 誰にだって、悩みはある。
 あの人を好きになること自体避けるべきことじゃないかとか、この気持ちは罪だとか、そんなことを含めて、誰かを好きになるといろんなことを考えてしまうものだ。それは自然なことだろう。
 この気持ちに、ヘテロだとかゲイだとか、そんなものは関係がない。
 あるのはただ「好き」という素直な気持ちなのだ。

自覚したのはいつの日か

 ゲイになったきっかけは何か──。

 これは何気ない質問だが、文面通りならば正しいとは言えなさそうだ。なぜなら、性的指向は後天的なものではないからだ。
 同性愛者が生まれる主な要因が遺伝的なものであることは、疑いようがない。それがすべてではないとしても、基本的に性的指向は、生まれる前に既に決まっている。
 もともとゲイとして生を受けているのであれば、後から「なったきっかけ」が付いてくるわけではないはずだ。だから多くの場合、なったきっかけではなく、気付いたきっかけがあるわけだ。

 ゲイ同士でも、同じ問いは発せられる。しかし実際に問いたいことは、その程度のことであることも多い。同性愛者が生まれる理由なんてなんだっていい...と、そんなふうに思う当事者は結構いるしね。
 その時この質問には、「なった」か「気付いた」かという細かく深い使い分けや意味はほとんどない。それは、悪気があるわけでもなんでもない。良し悪しでもない。気になるかどうかという程度のことかもしれない。
 僕はなぜ同性愛者が生まれるのか興味があるし、遺伝的要因は否定し難いから、似たことを聞くとしても「ゲイになったきっかけは?」とは言わないけどね。ほんで、他の人がそう質問したら、きっとその質問の文言が気になると思う。指摘はしないとしても。

 さて、それはともかく。
 僕がゲイだと気付いたきっかけはどうかというと、よくわからない。ゲイだと自覚したのは、いつのことであったか...。これは本当に、ちと難しい問いなのだ。自分でもよくわからないなんてなんだか不思議に感じるかもしれないが、そうなのだ。

 ヘテロの人なら、自分がヘテロだと自覚することがあっただろうか。
 また、異性にいつから惹かれていたか、覚えているだろうか。男のコなら女のコに、女のコなら男のコに、いつ頃から興味を抱くようになったか。それを思い浮かべてもらえばいい。それと同じことだと思う。
 年齢も記憶の鮮明さも、千差万別。人それぞれ、違う記憶や体験があるはずだ。よく覚えている人もいれば、自覚らしい自覚がない人もいる。
 それに何より、自分が「ヘテロだ」なんて、自覚なんかしない。ごく普通のことなのだ。

 もちろん、自分が「普通」じゃないなと自覚していくわけだが、そもそもゲイなんて言葉も同性愛なんてものも知らず、自分で当たり前のようにそうなって、自覚と知識が後から徐々に入ってきたのだ。
 どんな物事でも、初めから知識や自覚があったら、そっちの方が怖い。

 ゲイだと気付いたきっかけはまったく覚えていないが、いつ頃から同性への興味が強くなっていったかは、なんとなくわかる。
 記憶の限りだと、小学3年の頃だ。もちろん子供のことだから、今とは違う興味の持ち方だけど。好きだとか、キスしたいとか、セークスしたいとか、裸にしたいとか、当然そういうことではない。
 小学生の間は、ずっと自覚的に強く意識しないままだったなぁ。ただ、同じクラスや学校内のイケる男子がいろいろと気になったり、街で見かけた同年代の「イケメン」に目が行ったり、なんだりかんだり...。後から思えばそういうことはあったのだが、自分が同性に興味があるということをはっきり自認していなかった。
 語弊はあるかもしれないが、あの人カッコイイなー...と、性的な意味ではなく、同性の友人や有名人に素直に憧れたり惹かれたりすることは、誰しもあるだろう。その延長のような感覚でいたような気がする。
 いろんな現実や意味が結びついて、自覚していくのは、もっとずっと後のことだ。

 オナヌーを覚えたのは、たぶん小学3年か4年。確かにいわゆる「ネタ」にしたのが男だった覚えはあるのだが、それが直ちに自覚につながるわけではない。まだ小学生のことで、成人の思う「ネタ」の意味とは少し違うので、さもありなん。
 そこに、大人や青年が思うような意味や自覚はない。

 小学6年の時、短時間の性教育があった。確か2回に分けて、集中講義のごとき授業があったように記憶している。あの頃は今のように、低学年から継続的に教育されるわけではなかった。
 その性教育でも、特に自分に疑問を感じはしなかった。それは一見不可解かもしれないが、不思議なことではない。なぜなら当時の性教育では、性の多様性について教えられることはなかったからだ。
 男性と女性の違いだとか、赤ちゃんができる過程の簡単な説明などはあるけれど、言うなればそれは仕組みの話なのだ。性的指向だとか、性の多様性には触れられなかった。ホルモンがどういうものかを補足説明するために、性転換に近い事例はあった(男性が女性ホルモンを投与されるとどうなるか...といった例だった)が、それとて身体的な変化のことであって、指向性とは違う話だ。
 こういった生物的な話を聞いても、それが性的指向に具体的につながるわけもない。性教育は生殖教育のようなものであって、恋愛教育ではなかったのだ。だから当然のように、自分の実際の興味との違いと結び付いていかなかったんだろうなぁ。

 しかし考えてみれば、語弊はあるかもしれないが、もともと僕は「バイ的な色」があったので、それも自覚を遅らせた原因のひとつであるかもしれない。
 それが、本来的な意味でのバイであったのか、ゲイとして自覚を強める過渡期の気持ちの揺れであったのか、よくわからないが。長い間、自分の中にいろいろな戸惑いも抱えていたので、こういうことがよくわからなくなっている。

 自分に多少なりとも、意識的な意味で疑問を持ち始めたのは、中学生の頃だったと思う。
 中2〜中3といえば、「ホモ」に代わって「レズ」という言葉が広まった頃でもある。そんな言葉を初めて知ったのがいつ頃のことかは、覚えていない。「ホモ」なる言葉は小学生で知ったはずだが、正確な意味が今ひとつよくわからないままだった気がする。

 こうして曖昧なまま、ゲイであることを徐々に自認していく。その過程も、詳しくは覚えていない。いったい何がどうなって、どこでどれがどうつながっていったのか。
 友人との何気ない会話、テレビ、ラジオ、小説、手近な雑誌...。具体的ではないが、そんなものからこぼれるように出てくる小さな情報が徐々に寄り集まって、少しずつつながって大きくなっていったんだと思う。
 まだパソコン通信が細々と(?)生きていた頃、インターネットが広く普及する前のことだ。今ならネットでチャチャッといとも簡単に調べられるような何気ない情報でも、昔はそうはいかなかった。
 物事を知るにも、調べるにも、手間も時間もかかる。ゲイや同性愛のことともなると、更に簡単にはいかない。自分を知るのも、一苦労であった。

 若い人はピンとこないだろうが、ケータイはおろか、ピッチと呼んでいた PHS もまだなかった。それに近いツールといえばポケベルだけど、それですら高校から大学にかけての時期が全盛期であった。大学在学中に、ポケベルがピッチに、ピッチがケータイに徐々に置き換わっていった。
 パソコン通信はやがてもっと広く、今で言うインターネット、WWW となる(この説明だと正確ではないが、そんな感じってことで)。インターネットが普及する前というのは、言い換えればまだパソコンの普及率も低かった頃なのだ。Windows が爆発的に売れて世界を席巻するのも、まだ先の話。
 パソコンではなく、ワープロがパソコンのようにディスプレイとキーボード付きで売られ、それがよく使われていた。どっちがいいか? なんて話もあったなぁ。図の挿入もできたが、文章だけならパソコンを使わずとも、これで事足りる。
 そういう、一般家庭でパソコンがワープロ機を駆逐する前の時代。
 今はまた違った問題にさらされているけれど、情報を得るのが簡単になったもんだよなー。

 そんな頃の話なので、微々たる情報であっても、本やメディアから得るのが普通なわけだ。
 そういえば、主人公でも何でもいいけど、ゲイが登場する小説を始めて読んだのはいつのことだったかなぁ。どれが一冊目だったかも、よく覚えてないけどね。
 いくつかの言葉を知った小説に、「潮騒の少年」がある。出版は、1993年。
 新刊で買ったかどうかは覚えていないが(たぶん新刊で買った)、海外小説なので文化の違いに戸惑いつつも、こういう言い方するんだな...とかいろいろ思った記憶がある。
 本当にいろいろなところから少しずつ知識を得たはずなのだが、これもその最初期の一冊なのかなぁ。

 こんな具合で、自分の性的指向に気付いたのがいつのことなのか、ハッキリしないのであった。感覚的には、いつの間にか...といった様なのだ。

 しかし不思議なことに、自分が嫌だと思ったことはない。
 異性愛者との違いに戸惑い、自分がなんなのかよくわからなくておおいに悩みはしたし、しんどいこともいっぱいあった。楽には生きられないし、正直疲れることもたくさんある。それでも不思議と、嫌だとは思わなかった。自分を捉える言葉もないままだったこともあるのか、疲れるし悩むけど、嫌ではなかったのだ。
 嫌になったところで、どうしようもないんだけどね。性的指向は、意志だとか、自分の力でどうにかなるものじゃないから。

 異性愛者だって同じことだ。男なら女を、女なら男を好きになるのはやめろと言われて、ハイそうします...というわけにはいかない。
 誰かを好きになったら、その気持ちはなかなか止められない。もしそれが、なんらかの理由で好きになっちゃいけない相手だとしても、意志で簡単に消せるものじゃない。できることといえば、その気持ちを隠したり、自分の気持ちに嘘をついたりすることだけだ。

 できることなら、すべての人に幸せを。


     ・・・━━━━━━━━━━━・・・


 同性愛者が生まれる理由については、「ゲイ」タグの付いた記事などで触れている。
 情報がまとめられたサイト、多数あり。リンクはしないので、検索を。

 Aqua⇔Breeze内の主な関連記事
 ・私はあなたとしますんです
 ・ゲイであったりなかったり
 ・我思うに、我在り
 ・遺伝学を超えたもの
 ・線路は続くよどこまでも
 ・同性婚のムスコは異常?

あのコとこのコで更新ヨロシコ

Mac ですよ」でも書いた通り、現在サイトの更新に使っている主なアプリは Evernote である。Mac、iPad mini、iPhone の両刀ならぬ三刀使いで使用中だ(画像についてはとりあえず外すとして、文章の方について)。

 かつては Bento が軸だったわけだが、Bento から Evernote に鞍替えした頃からの過程の話をしよう。これがそのまま、サイトの更新の現状にもなるはずだ。

 Bento を主力にしていた頃は、Bento を更新前の清書や掲載記事の保存には使っていたが、もうひとつその前の段階もあった。
 言うなれば、ネタ帳のようなもの? ネタ帳のごとき記事のストックや下書きには、Evernote を使っていた。メモのストックなので、用が済んだら削除するだけである。
 メモだけなら、他のアプリでもいい。しかし Mac でも使い回せるようにしようと思ったら、同期などができて、Mac、iPhone どちらにもアプリがないと便利が悪い。こんな時、iPhone の標準アプリのメモや Evernote は手軽だと思う。ただし標準メモは、メモの数が多くなると面倒になってくる。
 類似のサービスはいろいろあるけれど、あれこれ手を出すよりは、まとめられるものはひとつにしておいた方が面倒がなくていい。
 使い方次第だから、Dropbox がよければそっちにすればいいんだけどね。この辺りは、やはりその人なりの好みや使い方の違いがモノを言うかと。僕の場合、Dropbox は他の用途に使っているし、別々のファイルになるのが面倒なので、Web の更新には使っていない。

 Bento も Mac と同期できる。しかし、徐々に Evernote の依存度が上がってきていて、Bento と分離する意味も薄れていた。Bento は、パーソナルデータベースとしておもしろい。ところが、時には長文になることもある多くの文章をまとめる上では、必ずしも使いやすくはない。
 だから、Evernote に集めてしまおうかと考えたのだ。

 Evernote を使い始めた頃は、まだ iPad mini がなかった。
 だから、自分の手元にあったのは、Mac と iPhone だ。その影響もあるのだが、ネタのストックならば、手軽にちょこちょこっと追加できる方がいい。となると、iPad mini の 存在がどうであれ、iPhone から追加することも多くなりますね。思い浮かんだ時や気になった時に、ポンと。
 修正には、iPhone も Mac も使っていた。
 問題はあった。Evernote は雑多なことを放り込んでおくにはいいのだが、いかんせんエディタとしては使いにくかった。そう感じない人もいるだろうが、僕にはメモの作成と閲覧が必ずしもしやすくはないように思われたのだ。今は少し違うが、昔はそう感じる場面が多かった。

 それを解決するために、Bento から乗り換えた当初は、iPhone に SmartEver を入れていた。

 アプリの評価は、分かれるものだと思っている。どう使うか、どの機能が必須なのか、デザインの好み、何を重視するのか...。十人十色の基準がある。
 だから他人が高評価でも自分には合わないことはあるし、その逆も当然ある。他人の意見は、自分の使い方と照らし合わせながら吟味しないとね。

 閑話休題。

 SmartEver を使って、ふと思い付いたこと、ちょっと考えたこと、何か思い浮かんだことなどをストックする。Evernote に送るだけじゃなくて、修正もできるところはステキだった。閲覧も、わりとシンプルなので気に入っていた。
 でも使ってるうちに、Evernote にも慣れて(慣らされて?)きてしまった。機能的な変化もあった。加えて、iOS6 にアップデートした時に、SmartEver の表示が乱れた。そんなこともあって、今は SmartEver を使っていない。

 最近は、Evernote に直接メモしておくことが多くなっている。
 しかし SmartEver の代わりがまったくないのかといえば、そうでもない。似た用途では、PostEver を使っている。
 PostEver は、以前から別の目的で、文章の投下のみに使っていた。例えば Twitter で流れてきたオモシロイ話とか。普通はファボるところだけど、ファボったツイートは検索も閲覧もしにくくて困るので(ツイートを Evernote に送っているので検索はできるのだが、ファボを整理された状態で見ることはできない)。
 昔は iPhone で編集までしていたから、SmartEver を重宝した。だけど、Mac でも iPad mini でも編集するようになったからねー。
 どの端末でも編集できるようにしようと思ったら、SmartEver の編集能力がかえってわずらわしくなったのです。SmartEver はタグで同期を管理するし、他の端末で編集する時に不便を感じることもある。便利だったものが、不要になったわけである。
 だから、PostEver。

 言ってみれば、一本化されたようなもんかもなぁ。あっちのメモも、こっちのメモも、PostEver でポン!
 サイトのネタも、PostEver でひとまず投下だけしてしまうか、直接 Evernote で新規作成する。ほんで、編集は Evernote でするのだ(フォントの関係で、iPad mini で「旧Diary」の記事を編集する場合には、別のテキストエディタを経由することもある)。

 他に、現在補助的に使っているアプリがもうひとつある。MobisleNotes なのだが、こっちはまとまった文章のネタ帳にしている。厳密な使い分けはないが、MobisleNotes である程度まとめたものを Evernote に移すとこも少なくない。他人には説明するのが難しいような、自己ルールはあるんだけどね。なんとなくな部分もあるので。
 ネタ帳こそひとつにするべきかもしれないが、ネタはネタで、ひとまずつらつら眺めることが多いので、今のところ困ってはいない。

 こうやって、使うツールも、環境や好みなどいろいろな変化の影響を受けることがしょっちゅうあるのです。

 Mac、iPad mini、iPhone で、Evernote を軸に、時に PostEver でネタを投下しながら記事を作成。まとまったネタは MobisleNotes も併用。
 現状をまとめると、こんなところですね。

恋と呼べるもの

 少し間が空いてしまったが、先日に続いて恋ネタ。

 初恋──。

 初恋といえば、中学の国語の時間に、島崎藤村の詩を暗唱させられたなぁ。「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき...」と。
 ちょうど中学生と同じ年代と思われる少年の、恋を詠んだものですね。「大人」になった君との微妙な関係が描かれ、エロスも感じる詩である。
 現代っ子の中学生にこれを理解しろというのも、酷かもしれないな。僕も当時は、ピンとこなかった。

 それはともかく。
 初恋って、実は基準が曖昧だと思うのだ。ある人は幼少時のなかよしこよしを初恋だと思っても、別の人は同じような経験を初恋とはみなさないかもしれない。
 また、何を「恋」と認識しているのか、自分で自覚した「恋」が何なのか、見なし方とは別に、記憶や認識の違いがいろいろありそうだ。いつ、どの瞬間のことなのか。子供の頃の記憶とあわせて、個人の意識下で恋とされるものはなんなのか。
 わかりにくいですね。そうですね。
 自覚としてはAさんが初恋の相手だけど、後から考えると、当時自覚はなかったもののBさんには恋していたのかな...とか。そんなことがあっても不思議じゃないな、と思うわけである。

 僕はと言えば、正直なところ、どれが初恋なのかよくわかりません(笑)。
 相手は、幼児の頃に仲のよかった人か? はたまた、小学生の頃親しかった人か? 憧れのような思いを抱いたあの人か?
 大学時代の気になる♂の人たちは、先の記事の通り恋の相手ではない。だから僕の中では、やはり初恋であるはずもない。

 大学在学中には、お付き合いをした人もいた(♀)。1年ばかりでお別れしたけどね。告白されて、なんだかんだで付き合うことになったけど、最初から無理のある付き合いであった。
 あれはあれで、それなりに楽しかった。反省も多いけどね。
 しかしこれも、恋とは違うなぁ。

 となると、淡い初恋のようなものはいつくか思い当たるわけだが、本気の初恋はといえば、やはり例の彼ということになるんだろうか。
 いわゆる「初恋」とは違うとしても、僕にとって「本気の初恋」なのだ。変な言い方だけど。
 そういうものがあっても、いいと思うのだ。

落ちるも想うも自由なもの

 好きって、どういうことだろう。好きが恋に変わるのは、どんな時だろう。恋に落ちるとは、なんだろう。
 そんなものは、千差万別で、千通りの意味があってもいいと思っている。好きになる理由を、ある程度は共通の言葉で表すことができるだろう。でもその中身は人によりけりで、少しずつ違うかもしれない。
 個人個人の感覚はそれぞれ違って当然だし、ならば物事に対する答えも違っていい。

 僕にとって本気で恋と呼べるものがあったのは、そんなに昔のことじゃない。かといって、新しい話でもないが。

 あの人いいなー...とか、カッコいいなぁ...とか、憧れるな...とか、オナヌーのネタにしたとか、そんな友人・知人、あるいは名前も知らない誰かさんを数えようものなら、枚挙に暇がない。高校のあの人とかこの人とか、大学の誰ソレとか、今でもネタにできるわけでして。
 その中に、淡い、恋にも似たものがまったくないわけではない。ないわけではないが、恋そのものとは重なりにズレがある。
 若いなりに、それだけ頭の中もかわいいもの。かわいいけれど、若いからこそ勢いで一緒になることだってあり得るわけで、それはそれで非現実的とも言い切れない。
 当時はそれなりの「気持ち」があったわけだけど、恋ではないなと思うのです。
 まあね、誰それとアレしてナニしてなんてできたら、それはそれで嬉しかっただろうし、気分もよかったはずだけどね。

 そういえばゲイの人は、セークスに対する考え方がノンケよりも軽めで、「おつきあい」のひとつと捉えている人が多い...なんて言われることもある。実際のところ、どうなんだか知らないけど。
 確かに、初めて会った人と流れでホテルになだれ込み、そのままヤッちゃった...などといった話は、よく聞く。即ヤッちゃう人の割合は、やっぱりノンケよりも高いのかもしれない。
 もちろん、そうじゃない人もたくさんいる。
 もしかしたら、ゲイじゃなかったら、単に「あの人は手が早い」で済まされるのかもしれない。大学にも、そんな人がいたよなー。やたら手の早い先輩(♂)。校内の小部屋で、幾人もの女性を食い物にしていた。
 セークスの内容が、彼氏と遊びで違う...なんて人もいるけど、これもゲイに限ったことではないだろう。

 それはともかく。
 僕に本気で好きだと思わせた相手は、昔の職場にいた。僕は社員で、彼は大学生のアルバイトくんであった。もう何年前だっけ。
 初めて会った時に、この子イケるなぁ...と思ったのは確かだが、いつの間にかそんな軽い感情を超えて惹かれるようになっていた。また会いたいな。顔が見たいなー。特に、笑顔が見たい。明日も会いたいなぁ──。そんなふうに思ってね。

 僕は彼の笑顔が本当に好きで、何度その笑顔に一人ひそかに癒されたことか。そういう意味では、感謝すらしている。素直でいいコだしなぁ。
 ほんで、世話を焼きたくなったりするんだよねー。あんまりやると変に思われかねないから、ほどほどに抑えてたけど。
 性格はかなり違うと思うのだが、感覚が似ているところもあって、好きなものが被ってる部分もたくさんあった。違うんだけど、シンクロできる...とでもいうような。波長がほどほどに合うような感じ?
 これだけでも、オカズになりそうである。

 ま、いろんな釣り合いが取れないかもしれないんだけどね。仮に彼と僕がお付き合いをするとしても。
 かたや、156のちびっこ。一方彼は、174。僕から見れば、長身だ。身長だけでいえば、ちびっこがウケるのは王道である。しかし彼とヤルなら、僕はタチがしたいわけでして。彼は身長が高くない女のコがお好みのようなのだが、それはそれ。僕としては、ここは譲れないのです。
 さらには、年齢の差もある。どっちの要素も、ギャップ萌えの人にはいいのかもしれないな。

 自分では長身だと思っていない(一般的にも、今やその通りだろうが)そんな彼は、174あるのに、体重は50ちょいとかで、つまりはやせ形。数値だけ見れば、かなりのやせ形である。
 代謝が高くて太れない体質らしく、本人は自分の細身の体を嫌がってもいたんだけど、ガリガリで薄っぺらい感じじゃなかった。スポーツをやっていたおかげでもあると思うのだが、僕から見ればスラリと健康的なやせ形で、むしろ好みであった。
 そんなの、余計にネタにだってなんだってなりますがな。萌えます。着替えの時とか、体をペタペタしたいです。

 普段は、顔を合わせたり、なんでもない話をしてるだけで、個人的にほわほわしていた。もうね、ホントにね、一人で「いいなー」「癒されるー」なんてね。こんなことを素直に書いていて、自分でコイツはアホかと思ってしまう。アホには違いないが。
 これだけならまるで純情な若者のようでもあるが、それで終わるはずもない。彼氏だったらなー。セークスできたらなー。あんなことにならないかなー。ヤルならあーとかこーとかして気持ちよくさせて...とかなんとかかんとか。
 細かいことはともかく、ツッコんだアレとかコレとかが頭の中で渦巻くことも少なからず。単にネタとかいうものじゃないわけですよ、もはや。そりゃ、好きだしアレだし...ね。

 恋に落ちるのも片思いするのも、はたまた妄想するのも、自由ですから。

 もちろん彼は、僕の本心を知らない。
 今でも時々、連絡を取りあっている。だけどそんな話をする機会はないだろうし、言う気もない。

(それほどでもないと思うのだが、スタッフの中には、僕と彼が仲良しさんだと認識していた人もいる。僕にはよくわからないが、外からは、そのくらいには仲良く見えたということだろう。だからこの流れは、ある意味自然なのかもしれないなー)

選べなんて非情です

 そばとうどん。こしあんとつぶあん。
 そんな具合で、いつも延々と比べられ続けて、度々論争(?)になるものがいろいろとありますね。
 ひとまずここでは、そばとうどん。

 といってもこれは、難しい質問である。

 そもそもソバとウドンは、なぜこうも比べられてしまうのだろう。
 ラーメンとうどん、どっちが好き? 素麺と蕎麦、どっちが好き? ラーメンやソーメンなどと比べることはあっても、わざわざ言うことは少ないとは思いませんか。ソバとウドンは特別なようである。

 まぁ、それは横に置いておいて。
 僕はどっちも好きなんです。だから、どっち派かなんて決めるのは難しい。

 現実的な状況を思い浮かべて、もう少し屁理屈を並べてみよう。

 例えば昼食にそばかうどんを食べるとすると、単純にはうどんを選ぶ可能性が高いと思う。でも、うどんが断然好き! とは言えない。それは店の数だったり、値段だったり、腹もちだったり、そんな見方によってはどうでもいいような理由があるからだ。
 もし蕎麦屋とうどん屋が並んでいたら、きっと優柔不断な僕は悩みまくるか、あるいはその日の気分で即決(自己比)することだろう。しかしこの場合、そば率が上がる気もする。蕎麦は好きなのです。

 こんな具合で、そば派か、うどん派か、決めるのは非常に困難である。

 と、これが基本ではあるのだが、状況が変われば選択も大きく変わる。
 僕はコシの強いうどんが好きだ。西日本だからというわけでもないかどうかは、よくわからんが。
 コシの強くないうどんが標準的な場合もある。地域とか、いろいろな理由で。でも僕はコシの強いうどんが好きなので、もしそんなうどん屋さんが多い地域だと、蕎麦を選ぶと思う。

 まぁ、それぞれ持ち味があって、それがいいわけで、結局のところ蕎麦とうどんはどちらも捨て難い。

 ところでこの場合の蕎麦は、蕎麦粉を使った蕎麦を指す。当然のように、そうなる。言うまでもないが、蕎麦は蕎麦だ。
 ここで蛇足ながら、麦のソバにも範囲を広げてみよう。そうすると、そばかうどんか好みがハッキリしている品がある。

 お好み焼き(広島)である。
 お好み焼きは、断然そば派です。うどんを選ぶことは、ほとんどない。

 ちなみに、栄養的には蕎麦に軍配が上がる。しかしもしもカロリーを控えたいなら、うどんを選ぶべきだろう。

オシてオサれてあいこでしょ

 感じるかどうか、あるいはどう感じるかはともかく、生きていればストレスと無縁ではいられませんね。ストレス社会云々はともかく、今も昔もストレスはどうしたってかかるものだと思う。それが自然なことなんだろう。
 もしもそんなしんどいものを感じずにいられれば、あたかもストレスがないように生きていけるので、きっと楽だよなぁ。
 だけど何かしら流していられずに、抱えてしまうことも少なくない。

 そんなストレス。いつもしんどいばかりじゃツライから、発散しようと考えたりする。
 何かのアンケートなどに、「あなたのストレス解消法は?」なんて設問があることも珍しくない。どんだけ一般的なんだよ、ストレス。
 解消法は人様々ですね。解消というよりも、気を紛らわせるとか、違う楽しみだとか、そんなふうに言った方がいいのかもしれないが。

 僕はといえば、特にこれといった決まった解消法はない。
 というか、気分転換とか楽しいことがしたいとか思うことはあるのだが、「ストレスを発散しよう!」なんて思わないわけでして。だから、いざ解消法を聞かれても、え、なんだろう? などと考えてしまう。
 じゃあ何もないのかといえば、それも違う。リラックスする方法や、楽しいこと・好きなこと、現実逃避する方法などはいろいろあるので(笑)。

 その中に、他人にでもオススメできるものはあるか。あまりない気がする。あははー。しかし、オススメと言えるかどうかわからないが、自分が特にこれをするとスカッとする、というものはある。

 それは、歌である。カラオケとか、なんでも。

 声を出すのはいいことだ。
 歌じゃなくてもいいけれど、歌うとより効果が高いんじゃないかと思う。勝手にそう思っているだけなんだけどね。理屈や効果はともかく、気持ちがいい。

 そういえば以前、こんなことがあった。
 高校生だった時のことだ。知り合いに、歌を習っている人がいた。しかし3年になって、受験に集中するために歌をやめた。その後、鬱っぽくなってしまって、気持ちの落ち込みが激しくて大変だったようである。
 ところが試しに歌を再開してみたら、すっかりスッキリ治ってしまったのだ。

 実は歌は、全身運動と同じだ。
 体をそのまま「楽器」にする点はもちろんのこと、その他の場所も使う。呼吸器は言うに及ばず、顔も頭も胸も腹も、そして手足も総動員して、音を出す。
 声を出すことは、直接的に体に影響すると思う。大声を出すとスッキリするのも、それと関係があるのだろう。
 歌はそれに加えて、音程とリズムもついてくる。

 歌うこと、声を出すことは、ストレス発散にとても有効なようですよ。

遊びも楽ではないようで

 僕はファミコン世代です。
 でも昔から、いわゆるテレビゲームというものをあんまりしない。ファミコンのゲームはいくつかやったことがあるけど(ゼビウス、スーパーマリオ、ドラクエなどなど)、すべて友達の家での話だ。
 僕はファミコンを持っていなかった。ゲームはおもしろいけど、あんまり欲しいと思わなかったんだよね。なぜか。全然ではないけど。
 プレステも Wii も、とにかくテレビゲームは持ってない。
 今、唯一持ってるゲーム機はテレビデームの類ではなく、Nintendo DS だな。半分に折れる、閉じると正方形に近い形のね。既に古いゲーム機ですねぇ。でもそれすら、あんまり触ってない。たまにスイッチを入れても、昔から持ってるゲームをするくらいである。

 そういえばファミコンよりも前には、ゲームウォッチで遊んだよなー。友達と貸し借りしたりしてたもんだ。
 ゲームウォッチは、今から言えばすごく単純だよね。動きといい、表示といい。でもはまってた。子供の頃に一番よくやった電子系のゲームは、これですね。
 もしかしたら、わりと単純なゲームの方がいいのかもしれないなぁ。
 ロープロもいくつかやったことあるけど、ちゃんと最後まで行ったのが少ない。ないわけではないが、少ない。それでいうと、オセロとかテトリスとか、そういうものの方が息長くやってる。
 テトリスもぷよぷよも、しばらくやってないけど。

 今は、iPhone と iPad mini に、いくつかゲームが入れてある。便利なもんだな。だけどやっぱり、わりと単純なゲームが多い。タプニンとか、都道府県ジグソーとか。あと、パズドラ。
 パズドラもやってはいるけど、ゆっくりのんびりだから、レベルアップのスピードものんびりしたもんです。だけど、息長く続けられてる。
 他にもいくつかゲームをインストールしたことはあるのだが、なかなか常駐しない。

 育成系のゲームも増えたよなー。それとか、政略したり街を育てたり、そういうの。なんだっけ。都市発展シミュレーション?
 あれこそ面倒くさそうで、手を付けていない。これもいくつかインストールしてみたが、最初のチュートリアルに従うだけで、もうゲンナリする。

 そんな具合でゲームはあんまりしないんだけど、ゲームというか、ひとつやってみたいものはある。
 それは、囲碁です。
 碁盤と碁石を買って、パチパチ打つつもりはないんだけどね。今は碁のアプリに、いいものがあるようで。昔はプログラムの質がなかなか伴わなくてそうもいかなかったけど、今なら手軽にできちゃう。iPad にでもインストールして、遊びで打ってみたいなぁ。
 だけどやったことないから、打ち方を覚えるところからやらなきゃー。

変わるよ変わる

 以前、Twitterクライアントの話をアップした(「移り気なわけではないけれど」参照)。

 基本的な設定は何も変わっていないのだが、使い方がかなり変わった。既に。
 今までもちょくちょく変わっていたので、これからもそうだと思う。その時その時で都合のいい使い方・その時点でのベスト(ベター)な使い方をしてるから、不思議なことではない。求めるものや、Twitter の使い方自体が変わることだってあるしね。
 だけど考えてみたら、ずーっと使い方が変わらないアプリもあるんだよね。Twitter は、しょっちゅう変わる方だなぁ。

 さて、話を戻そう。
 今現在、普段は基本的に Tweetbot だけを使っている。

 わざわざ他のアプリを使うのには、いろんなアプリを触ってみることがなかなか楽しいからというのもある。それは今も同じなので、使用頻度が下がったアプリを削除するつもりはない。
 でも、使い方によっては、アプリでアカウントを使い分けるやり方だと支障がある場合もある。

 なんで Tweetbot オンリーになったのか? リツイートが便利だからだ。

 もともと Tweetbot には、すべてのアカウントを設定済みだった。で、一部はよく切り換えて使っていたのだが、主要な表アカと裏アカについてはほぼ完全に別々に開いていた。
 これで不都合がなかったわけだ。

 しかし、アカウントAのツイートやリツイートを、アカウントBに流したい時にどうするか。
 以前はリツイートの頻度が低かったから、どうとでもなるし不便もなかった。しかし自由に頻繁にリツイートしようとすると、アプリによって使い勝手がまったく違ってくる。

 Tweetbot は、この部分がとても気持ちよく使える。
 今見ている TL から別のアカウントへ、わけなくリツイートできる。リツイートのマークを長押しするだけだ。
 長押しするとアカウントを選択できるので、ツイートを流したいアカウントをタップすると、即飛ばしてくれる。
 裏アカと表アカは、それぞれフォローしているユーザーの色がまったく違う。当然ながら、ツイートの内容も、リツイートされるツイートの色も、違ってくる。
 だから僕の場合、そのアカウントでのリツイートよりも、別のアカウントへのリツイートがしたくなるのだ。そのアカウント内では、似たようなリツイートもよく流れてくるからね。違う色のものが混ざる方がいいかなって。

 その他、Aの TL を見ている時にふと思ったことを、Bのアカウントでツイートしたい時もある。そんなツイートでも、Tweetbot は便利だと思う。
 アカウントの TL を変更しなくても、ツイート時にアカウントを切り換えられるのだ。例えば新規ツイートを開いたら、ヘッダーの部分をタップするだけで、ツイートしたいアカウントを選択できる(くれぐれも、アカウントを間違えないように)。

 そういったわけで、最近は Tweetbot に頼り切っている。

 しかし、ひとつだけ不便なことがある。できるけど、僕がやり方を知らないだけかもしれないが。
 Tweetbot では、リツイートされた自分のツイートは簡単に見れる。でも、自分がリツイートしたツイートをまとめて見たりできない。
 この点、Twittelator は便利だ。
 Twittelator はフッターのメニューをカスタマイズできるのだが、ここに「ReTweets」を置いておく。タップすると、「自分のRT」「自分へのRT」「自分からのRT」がタブのように表示される。
 リツイートだけを分けてくれないのは残念だけど、簡単に切り換えて確認できますね。

 ちなみに、昔の Tweetlogix も同様のことができたずなんだけど、今のバージョンでは見ることができない(それとも、他のアプリと混同している?)。だけどそれも、自分のプロフを開いて、画面をスクロールする必要があったので、Twittelator の方が楽ですね。

動物はご飯でしょ

 少し前の話題からだが、昔から思っていることなど。

 動物は好きです。
 子供の頃は動物や昆虫、鳥など生き物の図鑑をめくるのが好きで、動物園ではホンモノに嬉々とし、地元の動物園や水族館には一人であっても足を運ぶ。何かを飼って、動物に囲まれる暮らしをしているわけではないが、動物は全般的に好きだと言っていい。

 僕は動物が好きだし、動物愛護を否定するつもりもない。だけどまた最近、ひっかかる出来事があった。
 ナントカ弁当を発売中止にまで追い込むような人、あるいはそれに賛同する動物愛護者の人、その他の動物愛護の観点から菜食を旨とすべしとの主張を展開する人...。そんな人たちがいますね。昔も今も。
 動物愛護は結構なのだが、それらの人たちの考え方には疑問を持ってしまう。最近になってのことではなくて、昔から疑問なのだ。

 彼らによれば、「動物はあなたのごはんじゃない」という。このステッカーを元にしたコラ画像も、大流行したねー。
 それはともかく、僕は思うのです。そんなものは、欺瞞だと。まやかしなんだと。

 結論めいたことから言えば、残酷でない食べ物ってなんだろう...ということだ。
 彼らはそれが、残酷な食べ物だと言う。ナントカ弁当に限ったことではなくてね(そこだけ言う人もいるけど)。それなら、残酷でない食べ物ってなんだろう。
 確かに、強引さの差はある。家畜と商業が結びつけば、強引さも生まれる。フォアグラなんて、その最たるものだと見ることもできる(フォアグラのみについては、ここでは話題にしません)。
 けれど、命あるものは、命をいただいてしか生きられないのだ。この大切なことを、見落としてしまっているんじゃないかな。あるいは、無視しているか。
 命は命でつながっているという意味では、食べる行為は常に残酷だし、それは食材を選ばない。動物か植物かは関係ないはずなんだよね。
 だからこそ、「いただきます」「ごちそうさまでした」の言葉の重みを思うのです。

 なるほど、確かに動物は、ヒトに近い感情、もしくは感情らしきものを持っている。ヒトから見てわかりやすいのだ。簡単に感情移入できる。それが、ヒトの思う「感情」とは違うものであったとしても。
 それなら、植物には「感情」がないのか。なさそうにしか見えないよね。叫び声も上げないし。ところが植物にも、「感情」があると言われている。そして、確実に生きている。命あるものなのだ。
 同様に、魚はいいけど、牛や豚や鶏、クジラやイルカはダメだとか(例に上げただけで、個体数の減少に対する問いではない)ね。どちらも生きているのですが...。

 つまり、ヒトにどれだけ近いか、どのくらい感情移入できるものか...ということが、隠された基準ということだ。
 しかし実際には、菜食を訴える動物愛護者に、そんなことを言う人はいない。「かわいそう」「残酷だ」と、感情に訴えるというのにね。これは、ごまかしの一面のように感じる。

 ヒトは昔から雑食をして、草木も肉も食らって生きていた。野生動物の動きに合わせて彼らは生活し、生きながらえてきた。我々の祖先の話だ。
 それをなぜわざわざ「肉食じゃない」などと言って、ごまかす必要があるんだろう。「かわいそう」だという理由で、動物だけを優遇して。さらにその中から、自分にとって「親近感」のある動物だけを優遇して。
 それは命を大切にしているのではなくて、選別しているのだ。

 大昔は、木の実を食べていた...などと言う人もいるだろうか。だから、菜食だった、と。
 それは正しいか。木の実だけを食べていたなど、現実的ではない。現生人類につながる原人が生きていた当時は、氷河期だ。それだけで生き長らえるには、限界がある。
 狩猟が必要なのだ。肉は、栄養の面でも貴重な食料だっただろう。もしかしたら、草木を充分に得られないぶん、生肉も食べていたかもしれない。
 いずれにせよ、動物を狩って糧とするために、獲物の動きに合わせて移動し、生活していたのだ。

 現生人類は、基本的に狩猟採集民の子孫だ。時代が下り、何かのきっかけで農耕の知恵を身に付ける。しかし農耕民の直接の子孫は、ほんの一握り。それらが混ざり合って、現在の人類が出来上がっている(更に時代が下り、生活様式は多様に分岐するが、それは後々の時代の話なので、ここで話題にする必要はないと思う)。
 農耕は食料供給の安定化に貢献してくれるので、その技術は狩猟民にも広く伝播していく。その農耕は、定住を促す。
 定住すれば、氷河期の常識では狩猟に不利だ。しかし農耕が盛んになった時代は、氷河期を抜けて、農耕に適した環境へと移り変わっていった時代でもある。当然、環境の変化に合わせて、動物の動きも変わる。狩猟のための大移動は、もはや必要なくなる。定住でも、狩猟は可能になる。
 加えて、野生動物を手懐けたり、「飼う」ことができるようになる。それはやがて、「家畜」へとつながっていく──。

 人類がもともと草食だなどというのは、嘘だ。雑食が正しいだろう。

 結局、行きすぎた動物愛護にしか見えないのだ。

 動物がかわいそうだと思わないのか? そんなふうに、心情に訴える場合もあるだろう。
 わかりやすくはあるけど、なんだか歪みを感じる。
 僕は自分が動物が好きだったからこそ、命のつながりというものをよく考えるようになったんだと思う。もちろん、祖父や曽祖母の死だとか、幼少の頃に経験した身近な人の老いや死などの影響もあるだろう。
 だけどたぶん、そこは出発点じゃない。

 もうひとつ、動物愛護にプラスされる要素について。
 菜食を主張する際に、「動物愛護だけが目的じゃない」と付け加えられる要素がある。菜食否定への反論時にも、よく使われる。
 例えば、健康上の理由。だけどそれこそ、個人が自分の信条に従ってやればいいことだ。社会に訴えるために使うような理由じゃない。実際、宗教的な理由で肉を口にしない人たちは、普通は食習慣を他人に押し付けなどしない。
 要するにこれは、逃げですね。「動物愛護」を基にする肉食否定への批判をかわすための。問題のすり替えなのだ。

 命と、命のつながりを軽視しているように思われてならない。動物がかわいそうだと言いながら、その命について、命の壮大なつながりについて考えているのか、疑問がわく。

 もちろん、家畜の置かれた状況が、必ずしも褒められたものではない場合もあるだろう。
 ならばそれはそれとして、問題提起すればいいことだ。問題をいっしょくたに混ぜてしまうから、結局何が何だかわからなくなる。

 動物はごはんじゃないとか、動物はダメで魚はいいとか植物はいいとか、傲慢ですね。

 でも、人としての感情的な、デリケートな部分もあるよね。
 僕はもし自分の子供が「動物がかわいそうだからお肉は食べられない」なんて言いだしたら、ぶん殴るかもしれない(実際には手を上げはしないと思うけど)。はっきり言って、貧弱すぎる。
 とはいえ、現代の一般的な生活環境では、動物とのリアルな命のやり取りがない。悲しいけど、どんな理由を並べても、なかなか無視しがたい感情なのもわかる。
 わかるけれど、それは僕にとって、肉を口にしない理由になりえない。命をごまかしてまですべきことだろうか。

 動物とのリアルな命のやり取りがないからこそ、命のつながりを知ることが大切だと思う。そこに思いを致し、命の重みを受け止めるのだ。
 そして今日もまた、「いただきます」「ごちそうさまでした」と感謝の気持ちで手を合わせるのです。

上も下もヘアはヘア

 ヘアスタイルって、不思議だよねー。
 当たり前ではあるんだけど、ヘアスタイルが少し変わるだけで、見た目の印象ががらりと変わる。だからいろんなスタイルに変える人もいれば、逆にほとんど、あるいはぜんぜん変えない人もいる。
 ぜんぜんなんて言い過ぎに思えるかもしれないが、そうでもない。例えばちょっとずつ小まめに切るから、散髪して「髪切った?」なんて言われることがない人も、実際いるからねぇ。

 僕はと言えば、ほとんど変えない。髪の長さは、いわゆる短髪である。
 散髪は、おおよそ月に1度くらい行く。ほぼ伸びたぶんをカットしてもらうので、それだけ変わった感じがありますね。

 業界では、短髪がウケるとか。長い髪を「前髪系」と言ったりするが、中にはそれを揶揄するように使う人もいる。そんなの、どっちだって本人が好きならいいじゃんね...と思うのだが。絶対的に似合ってないような場合はともかく。
 芸能人にしろ何にしろ、僕もどちらかといえば短髪が好きだ。あの人とかこの人とか、髪を短めにしてる時の方が男が上がる。
 だけど、誰でも短髪にすればいいってわけじゃないと思うんだよね。同じ「短髪」だって、ショートまでは似合うけど、ベリーショートだと微妙だとか、その逆だとか、やっぱりあるよね。

 僕自身は、ウケがいいから短髪にしてるわけじゃない。スポーツとかやってるからでもない。
 ちなみに短髪でも、ベリーショートの部類に入りますね。
 僕が短髪なのには、もっと根本的な訳があります。昔はもう少し長かったんだけど、一言で説明すれば「面倒だから」ということかな。量と質のせいで。

 まず、量が少ない。
 どのくらいかというと、地肌が見えるくらい。中学の頃は丸刈りの坊主頭だったのだが、密度が低いから髪が立っている方向から見ると、地肌が見えるのだ。密度の高い人は、丸刈りでも全方位真っ黒だ。
 もちろん、短髪の今も同じ状況ですよ。
 もうひとつは、質の問題。
 どっちかっていうと、柔らかいんだよね。剛毛ではない。ピンピンバリバリ...なんてことにはならない。立つのは寝癖が付いた時だけ。
 少なくて柔らかい。このふたつがあわさると、こう...ぺったーん! となるんですよ。セットするにも、一苦労なんですよ。面倒くさいことこの上ない。
 だから、スッキリ短髪。

 ま、これが好きだからっていうのも含んでる...のかな? よくわからん。

写真を集めて捨てて

 たいがいの撮った写真は、Aperture に放り込んでいる。これで管理しーの、トリミングしーの、編集しーの、いろいろするわけだ。
 でも長年やってると、たとえ自己ルールがあってもいろいろと不都合が...。まぁ、その都度キッチリ処理してないのもいけないんだけどね。あははー。

 カメラ、ケータイ、iPhone と、撮るのに使う機器がいろいろできちゃって、分類に迷ったのもバラけた一因だろうなぁ。もともとはデジカメだけだったのが、ツールも違えばファイル名も違う。
 おかげで、後で分類しなきゃいけないからとりあえずここへ...とか、確認がいるからひとまずここへ...とか、そんな感じでバラけた写真もある。

 2012年の秋のことだが、この写真をまとめて、ついでにファイル名を付け替えた。しかしこの作業のおかげで、新たな問題も発見してしまったのだった。
 まとめるのは簡単だ。フォルダ分けしてたので、そこへ写真をコピーすればいいだけの話だ。
 まとめたら、Exif を使ってリネームすれば、ファイル名の変更もあっという間に終わるんじゃね? と思ったのだが、それは甘かった。Exif が抜けている写真があったからだ。
 それだけじゃない。Exif はしっかり残っているのに、そのデータが明らかにおかしいものもあった。どこでどのタイミングでだかわからないが、何らかの理由で Exif が書き換えられたとしか思えない。
 そんな写真は、当然突拍子もないファイル名になる。同じ日付のはずなのに、違う日付の仲間外れが1枚できるとかね。困るよ。
 となると、記憶を頼りに、おかしなものだけ別個にリネームするしかない。

 ちと面倒だ。

 ファイル名の変更をどうやって実行するかも、迷うものがあったなぁ。
 Aperture でも、ファイル名を撮影日時にすることは可能だ。でも、名付けのルールがあんまり好きじゃない。絶対嫌でもないが。なので、Finder でリネームしてから Aperture に放り込むことにした。

 リネームアプリも種類が多いですね。
 僕の場合、ファイルのリネームだけなら、昔からずっと使っていた ReNa X がある。でも Exif を参照できないので、ExifRenamer を使うことにした。
 最初はよかったのだが、なぜか正しくリネームしてくれないという暴動を起こされた。突然に。なんでだよ。
 仕方がないので、ExifRenamer にはお休みいただいた。カスタム的な設定もしにくいしねー。

 それ以降は、Shupapan を使っている。ややわかりにくい部分もあるが、なかなかかゆいところにも手が届く。
 補助的に、ReNa X も使う。Shupapan は、jpg で威力を発揮する。ファイル形式が混ざると、うまくいかない。そんな時だけ、ReNa X の出番です。
 機嫌を損ねたりしないでね?

美術館へ行こう

 普段、よく美術館に行くという人は、そんなに多くないと思う。

 なんで行かないのか。
 いろいろあるみたいだけど、あまり美術館に行かない人でも、こんなことはあるかもしれない。
 よくわからないけど、世間で話題になっていたりして、自分でも気になる展覧会だから行ってみよう...。あるいは、企画が一般的にウケのいい内容で、総じて来館者数が増える...。そんな感じ。
 広島県立美術館での過去の企画展を例に挙げてみよう。前者に当たるのが、「ポーランドの至宝 ーレンブラントと珠玉の王室コレクションー(2010)」のような企画展ですね。レンブラントの有名な2枚の絵が、非常に話題になった。後者に当たるのが、「ウクライナの至宝 ースキタイ黄金美術の煌きー(2011)」とか。エジプトとかブルガリアとか、黄金はやはり目を引くようです。
 こういう話題性の高い企画展では、明らかに美術館に足を踏み入れることがあまりない人たちが集まってくる。わらわらと、どこから沸いてきたのかと思うくらいに。
 僕は、平日の休みに美術館に行くことが多い。そんな時は、たいてい入館者が少ない。だからよく美術館に行く僕でも、ある程度予想はしていても驚いちゃう。
 来館者が増えること自体は嬉しいことなんだけど、一方でマナーの悪い人が増殖するというマイナス面もある。
 それなら普段から、美術館に行けばいいじゃないか! なーんて、思わなくもないわけです。

 美術館には、もっと気楽に足を運べばいいのになー。愚痴はともかく、真面目にそう思うのだ。
 でも、美術館に行かない人は言う。
 絵なんてわからない。美術品なんて難しい。知識がない。高尚で近寄り難い。堅苦しそうで行く気になれない。などなど。
 興味がないのは仕方がないかもしれないけど、なんとなく...とか、そんな人も多いんじゃないかなぁ。興味はあるけど、自分から進んで行こうという気にはならない...とか。そういう消極的な理由もありそうだ。

 だけど、難しく考えることなんてない。確かに難解な企画展もある。だけど、難しいことばかりやってるわけじゃない。広く親しまれているイラストレーターの企画展もあれば、どこかで見たような絵が並ぶこともあるし、ひょうきんな彫刻がそろうことだってある。
 だから、とりあえずでもいいから、一度行ってみればいいと思うんだよね。とりあえず行ったら、ついでにもう一度...。

 正統的な解釈とか、そういうものに合わせなくてもいい。受け止め方は、自由なのだ。見た人が、自分の感想を持てばいいものだ。
 これいいな。この絵、好きだな。そう思えればいいことだと思う。たった1枚でもいい。いいなと思えるものがひとつでもあれば、いいんじゃないかな。そんでもって、何度か足を運ぶうちに、そういうものが増えていくかもしれない。そうなれば、更にいいよね。

 美術館は入館料が高いイメージもあると思うけど、あれだけいろんなものを集めて見せてもらえるなら、むしろ安いと思う(中には、高く感じる企画展もありますよ)。

 僕とて、知識があるわけでもなんでもない。でも絵を見たりするのが好きで、ちょこちょこ美術館に行く。
 よく行く美術館もあるし、会員になっている美術館もあるけど、興味のない企画展には行かない。例えば、やたらと抽象的な現代美術の類いの企画展とか。まったく興味がないわけじゃないんだけど、見ててあんまりおもしろいと思わないんだよね。わけわかんなすぎて。
 西洋画でも、ゴッホは人気が高いけど、積極的には足が向かない。おもしろくないわけじゃないんだけど、「見に行きたい!」って思わない...。
 自分の興味の向くままなのだ。それでいいのだ! たぶん。

 なんにしろ、美術館には、気楽に足を運んで欲しいな。

 日頃、たくさんの人がこうして美術館に親しんでいれば、マナーの悪さだって少しはかわってきそうだよね。同時に、美術館の窮状も改善できる。

紙にも電子にもいい顔がある

 電子書籍は、利用しているだろうか。利用の仕方や頻度は、同じ本を読む人の中でも差が激しいように思う。

 一番よく読んでいた頃と比べれば読書量が減ってはいるが、本は好きだし、本屋も好きだ。本屋って、ぶらぶらしてるだけでも結構楽しんだよね。いろんな発見があったりして。
 また、書店業界の不振が言われるようになってから、既に長い。本を読む人は減ってないと言う人もいるけど、売上だけなら右肩下がりがずっと続いている。その中で、各書店さんがいろいろと工夫を試みて、頑張ってくれている。
 そういった二重の意味でも、本は書店で買いたいし、買ってあげたい。
 それに、紙の本が好きなのだ。紙には紙の利点があるし、モノとしての形がある。だから手触りもあるし、装丁もある。そこはデジタルでは代え難い。

 電子書籍の利点と比較をすると、確かに紙には一見、欠点がたくさんあるようにも見える。例えば、重い、かさばる、検索できない、注を付けるのも一苦労、拡大・縮小できない...などなど。
 かつて電子書籍元年といわれた年が来るよりも前に、この利点をもって、本はなくなる...とまで言う人がいた。
 それでも僕は、簡単には本はなくならないと思っている。なぜなら、優れたコンテンツだと思うからだ。単に電子化しただけでは取って代わることのできないような。
 電子書籍は、本のように「手軽」ではないし、電気が必要で、マークやメモはできても書き込みはできない、モノとしての形がない、場合によっては紙でなければ伝えられないこともある...などなど、欠点だってあるのだ。
 個人的には、電子書籍の利点は、学習に利用するようなものでは活きるんだろうなと思う。例えば、辞書や学術書、論文、いわゆる人文書などだ。検索して、確認するのには便利だよね。ただし、紙では前後の項目や、同じページにある項目を俯瞰できるけど、デジタルではそれができない。

 さて、僕はといえば、電子書籍は使っているけど、ジャンルが限られる。
 電子書籍にしたのは、コミックです。一部のコミックは、電子書籍を買うようになった。
 これは、iPad mini を手にしたことが大きいと思う。使ってみたら、コミックの電子書籍はなかなかいいんだよね。
 小説なんかを電子書籍で読むのは、僕はどうもなじめない。まだなじめないだけかもしれないけど。とりあえず今は、小説などは電子書籍を買う気にならない。
 買うとしたら、BL だろうな。BL なら買ってもいい気がする。人目にもつかないし。

 ただ、困ったこともある。

 電子書籍が徐々に整備されてくると、なぜか価格が高くなった。コミックも以前は紙より少し安かったのに、いつのまにやら紙と同じ値段になってしまった。しかも、同じ値段なのに、付属するオマケのようなページはないし、新刊の発売も紙より遅い。1か月以上遅いものも多い。
 なんで?
 かつてデジタルが紙に取って代わると言われていた頃、電子書籍は安く提供できるとされていた。でも実際やってみたら思ったよりカネがかかるし、どさくさにまぎれて同じ値段にされてしまった...のかな?
 同じ値段で、紙よりも内容は劣り、発売も遅いとなると、デジタルの価値がそのぶん落ちますね。
 読めればいいから、買うけど。

 当初はコミックが主なので、eBookJapan で利用を始めた。でもそれは、日本の iBooks がオープンした後のこと。どっちで買うか、すごく迷ったんだよね。二重に買うのは嫌だし。
 日本の iBooks で電子書籍の販売が始まったのは、2013年3月6日のこと。コミックもけっこうそろっている。セット販売はないけど、安くなっている本もある。

 実際に使ってるみると、購入したコミックの管理方法、購読するアプリの使い勝手、読む時の挙動が違う。


 再ダウンロードや購読端末の変更などは、iBooks に歩がある。eBookJapan の、その都度切り替えないといけないやり方は面倒くさい。
 ページ送りやダブルタップした時の挙動などは、どっちがいいとは言い難いかな。どっちも、あちらを立てればこちらが立たずなので。
 まとめ買いをする時には、割引があるから eBookJapan がいい。取り扱い作品数も eBookJapan に軍配が挙がる。

 今のところ、僕は iBooks を主にしつつ、eBookJapan で不足を補ってる感じだな。一本化できればありがたいけど、なかなかそうもいかない。
 悩ましいですね。

チュンチュンお手紙きましたか?

 iPhone のメーラーには、大きな不満はない。全体的にスッキリしてるところは好感持てるしね。だけど良くも悪くも、普通すぎると感じなくもない。
 あと、ちょっとした動作に微妙なものもある。我慢ならないというほどではないけど、もっと良ければなお良し...というような不満とかね。

 先日、前から気になっていた Sparrow を使ってみた。これが気持ちのいいアプリであった。
 Sparrow は Mac版もあるけど、Mac では使ったことがない。正確には、使ってみようとしたら設定が完了できなくて、試用にも至らなかったのだ。原因はわからない。わかってたら、解決してるし。

 iPhone の Sparrow は、標準メーラーより動作が機敏だ。そして、動きというか、操作と機能がおもしろい。おそらく、Twitter や Facebook などのサードパーティーのアプリを使ったことがある人なら、ほとんど迷うことなく使えるんじゃないかと思う。
 あれはとりあえず、触ってみるといいかもですね。マニュアル云々よりも。有料だから、とりあえず...というわけにもいかないんだけど。

 Sparrow は複数アカウント対応で、すべてのアカウントのメールをまとめて見ることができる。「統合アカウント」というものが勝手に出てくるので、それを使えばいい。
 メールの一覧での操作が、Twitter クライアントのよう。メッセージを左にスワイプすると、にょんとアイコンが出てくる。返信、スター(フラグ)、ラベル(フォルダ)、アーカイブ、削除ができる。複数のメールをまとめて操作するには、「編集」ボタンをタップ。
 また、一覧画面でメッセージを長押しすると、既読・未読を切り換えられる。
 アイコンを設定してあれば、一覧にはアイコンが表示される。

 右にスワイプするか、左上のリストマークをタップすると、それに応じた既存のフォルダが表示される。統合アカウントで表示している時には、ここには自作のフォルダやラベルは表示されない。
 フォルダやラベルは、各アカウントごとに作成する。i.softbank.jp などのアカウントならフォルダ、Gmail ならラベルですね。統合アカウントからメールを操作して移動する場合には、アカウントに応じたフォルダやラベルが表示されるので、迷うことはない。

 このあたりの様子を見ると、基本的に、Gmail などと同じような処理をしていくのに適したアプリのように思えますね。
 受信トレイには、未処理・重要といったメールだけが残り、処理が済んだものはアーカイブ。フォルダやラベル付けをしても、受信トレイには表示されなくなる。
 受信トレイがスッキリして、いい。

 メールの一覧で、ヘッダーの「受信トレイ」という文字の下には、点が三つある。ここも触ってみましょうね。左右にスワイプすると、「受信トレイ」「未開封」「スター付き」を切り換えられる。

 各種設定が、多少わかりにくいかもしれない。
 アカウントの追加や設定をするには、右スワイプで表示されるメニューの左上のアイコンをタップする。統合受信トレイの他、アカウントのリストや「+」アカウント追加ボタン、設定ボタンが表示される。

 地味に便利だったのが、ゴミ箱だ。
 標準メーラーだと、ゴミ箱に入れたメールの確認が面倒なのだ。各アカウントに切り換えないといけないから。ところが Sparrow は、ゴミ箱も統合アカウントで管理できる。
 おかげで、放置していた受信トレイもゴミ箱も奇麗になった。自動削除の設定はしていたはずなのに、削除されずに残っているメールがたくさんあったんだよね(受信トレイが奇麗になったのは、ゴミ箱を空にするのがラクチンだから、いらないものを捨てまくったから)。

 既に書いたように、使い方そのものが Gmail と似ている。記憶の限りでは、もともと Gmail のアカウント用に出たアプリだったように思うので、不思議ではない。
 また、標準メーラーより機敏だけど、Google の Gmail アプリと比べると更に機敏に感じる。Gmail アプリが使いにくすぎるから、余計に。
 僕はキャリアのメールと、Gmail、Yahoo! を設定しているけど、どれも問題なく使えている。IMAP で設定すれば、どのメーラーで受信したとか気にする必要もないよね。
 標準メーラーもだけど、Gmail アプリの代替としてオススメ。

 使って楽しい、気持ちいい。そんなアプリですね。

 ただ、プッシュ通知には非対応で、そこが不満な人も多いらしい。
 いずれ対応する予定はあるようで。現時点での対処方法もいくつかあって、Boxcar を使ったり、標準メーラーの通知のみ使ったりすれば、一応解決できる。
 でも僕には通知は必要ないので、まったく問題ない。

時代が変われば事情も変わる

 洋服探しでは、ホントに苦労する。それについては、いろんなところでネタにしている。ひとつ前の記事でもわかるが、主にサイズの問題が大きく立ちはだかるからだ。
 サイズとデザインがなかなか両立しないのだ。

 しかし、サイズだけが問題なわけではない。

 ゲイの男の子って、すっごいオシャレな子が多いよね...などと、誰かが言っていた。でも僕は、すんごく普通のカッコです。夏はポロシャツとジーパンとか。それしかできません。
 人目を引く格好とか、ムリ! 奇抜な格好をすることがオシャレなのなら、僕はオシャレじゃなくてもいい。
 そういう性分なので、流行りを追いかけない。「今年は白が流行りですよ!」などと言われても、へーそう(棒読み)...という程度にしか反応できないのであった。

 そうは言っても、自分の好みはある。「平凡」な格好ではあるのだが、「平凡」なりに好きな服やこだわりがあるというね。これがまたニッチな感じなんだけど。
 大雑把に言うと、奇麗すぎる格好はしないけど、カジュアルすぎというか、砕けすぎたような格好もあまりしない。奇麗だけど奇麗すぎないような、かなり微妙な線なのだ。あと、余裕のあるブカブカな服は着ない。細めの、スッキリめの服が好き。
 奇麗とカジュアルの境は、ジャケットで言えばわかりやすいかも。いや、そうでもないか。
 いわゆるテーラード系のジャケットは好きなのだが、とても奇麗なジャケットは買わない。アップリケがつくようなカジュアルなジャケットも興味がない。僕が欲しいのは、スッキリなんだけど奇麗すぎない、奇麗だけどカジュアル、というところ。なんだそりゃ。

 こういった具合で、小さいサイズが必要なのに、でもって流行も追いかけないくせに、妙なところでこだわる。
 そりゃあ探すのに苦労もするでしょう。うん、自分でもそう思う。

 昔は、本当に小さいサイズがなかった。Sはあっても、ちゃんとSじゃないのだ。シャツを例にすると、袖丈も身丈も身幅も、すべてブカブカで大きすぎて話にならなかった。ところが最近は、少し状況が変わっている。
 相変わらずサイズがないのは日常茶飯事なのだが、身幅や腕回りが合う服を見掛けるようになった。ただしそれらは、背丈がある程度以上ある痩せ形の人にあわせられているようだが。つまり、ヒョロヒョロの人が増えているってことなのかなぁ?
 しかしこれを僕が着ると、どうなるか。そう、身幅は合うが、袖丈や身丈は長すぎるのだ。でもそのくらいなら、丈直ししてもらえばいいことだ。お金はかかるけど。

 そんなわけで、これでも昔と比べれば格段に探しやすくなったといえる。どこのお店でも、というわけにはいかないけど、ずっとずーっとマシなのだ。

 最初からSや SS を作ってくれれば、もっといいんだけどね。

その大きさは比例せず

 洋服には困ることが多いし、それについてはそこかしこで触れている。
 その中でも、パンツについてまとめて書いてみよう。アンダーウェアじゃない方のパンツね。ズボン。ボトム。ジーパンとか。

 今、綿のパンツが欲しいと思っている。できればベージュの。しかし、なかなか思うようなものに出会えない。
 いわゆる綿パンじゃなくても、スッキリしてればカーゴでもいい。スッキリしてればね。ゴテゴテしたのとか、いっぱい紐とか付いてるのはあんまり好きじゃないのだ。
 手元には1本、履けなくなったカーゴパンツがある。これはよく行くお店で、細すぎて売れ残ってるんだと言って出してくれたのを買ったものだ。ただし、それでもウエストを詰めたんだけどね。

 メンズパンツのウエストは、細くてもせいぜい 71cm がいいとこだ。しかし僕は、70cm ないのであった。デカすぎるんですよ。世の中、デカすぎるんですよ。
 ジーパンも同じで、メンズだと普通は 28インチが最小である。最小とは在庫の話ではなくて、製造の話である。これより小さいサイズは、作られていないのだ。
 と言っても、まったく作られていないわけでもない。たまに 27インチが存在するモデルもある。更に珍しいことに、26インチがあることも。EDWIN あたりにね。

 最近は、細身のジーパンが増えている。増えてはいるが、これがクセモノである。あれは脚の部分が細いのだ。スキニーぎみとでもいいましょうかな。だけどウエストは、29インチ以上であったりする。
 なんだよ。そんなに脚だけ細くて、ウエストはデカイのかよ。そんなもの、僕には履けません。そのままじゃ、履けませんっ。

 かくして、ウエストを詰めることになるのであった。

 スラックスも、既製品で僕にピッタリサイズはありませんよ。作ってないから、当然ですね。ツライですね。

 では、女性用のパンツはどうなのであろう。
 最近はどうなのかよく知らないけど、少々前には、男性で女性用を履く人もいた。オカマさんとかそういうことじゃなくて、女性用は細いからそれを選ぶということらしい。
 でも、僕は賛同しかねますがね。賛同というか、とにかく僕は履かないよ...と。
 それがね、試着してみたことはあるんだけど、合わないんだよね。女性は、男性に比べてオシリが大きい。だから女性用のパンツは、男性用とはシルエットが違うのだ。ウエストに合わせるとオシリが余るし、オシリに合わせるとウエストがきつくなる。
 無理ですね...。
 女性用を履いている男性は、お尻が大きいのかなぁ。

 ついでに、子供用はどうなんだろう?
 子供用はね、同じ男でもオトナとは作りが違うんだよね。特に違うというか気になるのが、股間である。ムスコさんがしっかり育っていない子供用のパンツには、股間のゆとりがない。子供には必要ないから、そういうふうに作ってある。
 つまり、股間がキツイんだよね。
 僕のムスコは、まぁ標準的でそうデカイわけでもないけど、そんなの関係ないのである。キツイというより、行き場がない感じになる。
 というわけで、子供服も使えませんよ。

イケてるモノには心奪われ

 学校で使うノートは、教科別に分けてましたか? 1冊にまとめてましたか? ノートはとらない人もいますね。
 それぞれのやり方にそれぞれの利点があって、絶対的に正しいものはないんだと思う。勉強の仕方や目的、好みによって、使い方が変わってもいいよね。

 デジタルでも、メモやノートなどのテキスト系アプリは重要だ。だけどやっぱり、使い方は千差万別、十人十色。
 使い方以前に、テキスト系アプリの数がすごい。目がまわるぅ。
 その中から気に入ったものを選ぶわけだけど、ユーザーごとに必要な機能も違えば、見た目や使い勝手の好みも違う。類似のアプリはひとつで充分な人もいれば、使い分けをしたい人もいる。同じアプリを使っていても、魅かれるポイントが違うこともめずらしくない。
 あれだけ多彩なアプリがあるのも、テキストがそれだけ重要なものであることに加えて、身近で重要だからこそ、おのおの望むものが違うからかもしれない。
 おもしろいなー。

 僕はといえば、目的に合わせて使い分けている。
 思えばテキスト系のアプリは、いろんなものを使ってみたもんだよなー。乗り換えもしてきたし。
 そんな思い出深いアプリさんたちを、つらつらと挙げてみよう。列挙しながら軽くコメントを付けるだけ。画像もリンクも用意しない。
 あとここでは、アウトライン系アプリはスルーしてる。Evernote も使ってるけど、以下には挙げていない。

 ではまず先に、今の状況から参りましょう。
 Evernote と Evernote を補助するアプリを除くと、テキスト系アプリは6種類使っている。

■メモ(デフォで入ってるアプリ)
 これ、案外バカにならない。Mac とスルスル同期できるし、手軽だし。ちょっとしたメモを、とりあえず入れておくとこもある。とりあえずのメモは、後日他のアプリに移すのです。
 Mac のメーラーには Mail を使ってないないので、Mail をメモ専用機にしている。どの端末でも同期できるから、ちょこっと Mac でも文章をいじりつつ、iPhone や iPad mini でも修正し...なんて時には重宝する(山ライオンさんならメモ帳が独立しているけど、これを書いている今の自分の Mac は雪ヒョウさんなので、メモは Mail で同期する)。
 たくさんのメモを溜めておくには不便さがあるので、そこは他のアプリに任せちゃえばいいですね。

■BLNOTE
 これは使用歴が長いなー。
 使い方に変遷はあるけど、今は ATOK Pad とセットで使うことが多い。Evernote の ATOK Pad のノートブックに、メモを送るのだ。あと、一時的にメモ書きを置いていることもある。
 MobisleNotes や メモモモ、Atok Pad にあるようなメモも、もともとは BLNOTE に溜め込んでいた。
 メモの内容でいえば、昔の使い方だと、デフォのメモ帳と使い分けが微妙なところもなくはない。けど、あんまり気にしてない。今現在は、昔より差別化がハッキリしてるね。同期先がどこか...それが大きいかも。
 ピーク時と比べると使用頻度が落ちてはいるけど、特に不都合は感じないし、ATOK Pad とセットでまだまだ使い続けることは間違いない。

■MobisleNotes
 オンラインの同期サービス付きのノートですね。
 ある程度まとまった文章や、ToDo にするほどでもないリストを入れてある。
 Mac 用のアプリはないけど、ブラウザでファイルを閲覧・編集できる。この Web版のアプリが、Web版とは思えない使い心地でいい感じ。不満がないわけではないけど。
 ボタンひとつで、ノートにしたりリストにしたりできる。これがなかなか便利なんだよね。昔はデフォのメモ帳にメモっておいた何かのリストは、MobisleNotes に移した。おかげで、メモ帳がスッキリした。使い勝手もよくなった。

■メモモモ
 短い文章専用。
 Twitter で、クライアントアプリの下書きなどにツイートを保留しておくことがある。でも下書きじゃなくて、どこか他の場所にとりあえず置いておきたいことがある。
 そんな時に使っているのが、メモモモだ。
 また、ミソヒトモジを詠むことがあるので、そのストックにも使っている。詠みかけだとか、そういうもの。完成品は、Evernote に飛ばしている。
 あと、欲しい本や気になる本のリスト。これは1箇所だけに集まってるわけじゃないんだけど、主に ChatWork とメモモモに控えている。
 文字数もカウントしてくれるし、内容が最大140字程度なので、このくらいのメモ帳がちょうどいい。
 メモは、グループに分けて管理できる。メモのリストにはタイトルじゃなくて、全文が表示される。ちょうど、Twitter の TL のように。だから、あまり長文のメモには向かない。
 この全文表示は、短文を眺めるのにいいんです。

■ATOK Pad
 具体的にここには書きませんが、ひとつの目的のために使っている。
 タイトルの入れ方やタップ時の反応のしかた、ATOK の入力の流儀などには、クセや独自のものがある。特に入力についてはこれがウリなんだけど、戸惑うことも多い。iOS の標準に沿う方が、うまくいく場合もあると思う。
 そういう意味では、必ずしも使いやすいとは言い切れない。

 BLNOTE のコメントで軽く触れたが、ATOK Pad と BLNOTE はセットのように使っている。その原因が、ATOK Pad の、独自色が強すぎるがゆえの使いにくさだ。変換効率はいいけど、細かい使い勝手で戸惑うことが多くて、軽くストレスを感じてしまうのだ。だから ATOK Pad ではあまり入力をしたくない。僕にとっては、変換効率以外に魅かれる要素が、まったくではないけどあんまりない。カワリモノですね。
 そこで、BLNOTE で入力したものを、Evernote の ATOK Pad ノートブックに飛ばすのだ。ATOK Pad では、目的のためのメモを一か所にまとめる、閲覧とチェック、ノートの数、Mac 版との同期、Mac での作業やメモの管理...などができればいい。
 Evernote だけでいいじゃん...て感じもあるけど、目的が独立してるし、短いメモの集合なこともあって、今のところ別扱いにしてるんだよね。だから Evernote で ATOK Pad ノートブックを直接触ることはないんだけど、いずれ ATOK Pad は使わなくなるかも?
 目的を絞って使うために、Mac と同期もできる、安心して使えそうなアプリがひとつ欲しかったので、使っている。こんなもったいない使い方をしているから、高い買い物だったと思うなー。
(Mac 版も独自の匂いがプンプンで、OS にあわせて操作が統一されてないから、基本的なショートカットが使えなかったりするんだよね。挙動が Win アプリぽいというか。回避策はあるけど、地味に不便。アプリの操作も、やりやすいとはいえない)

■iText Pad
 iText Pad は、物書き用アプリとでもいったものですね。いろいろと便利な機能がそろっている。
 Evernote や他のメモ帳アプリで直接編集することも多いんだけど、それだと不便を感じることもある。例えば同期せずに、とりあえず集中して入力したいような時とか。
 そんな時の文章作成に使っているのが、iText Pad だ。
 また、当初これをインストールした目的のひとつが、iOS 内での検索・置換だった。インストールした頃は、まだ置換できるアプリは希少だったので。
 他に、利用頻度は低いけど、Dropbox のファイルの編集、Dropbox への保存にも使っている。
 iText Pad も ATOK Pad と連携できるけど、もちろん使ってない。
(蛇足だけど、Mac 版の iText は、OS がまだ 8.x の頃から使っているはず。同じ作者の、LightWayText も。今は文章作成の目的では、エディタは LightWayText を主に使ってるなー。iText はぜんぜん使わなくなっちゃった。HTML とか違う目的なら、mi とか他のエディタも使うよ)

【付け加え】
■Awesome Note
 今でも使っているアプリだけど、ノートには使ってない。ノートに使うには、作成や管理がなんだか面倒に感じるんだよね。多機能さが、操作をわかりにくくしているような、そんな感じ。



 ここまでは、今も現役でお世話になっているアプリたち。
 ここから下は、アンインストールされたアプリです。



■iNote
 iPhone を持って、最初に使ったテキスト系アプリ(デフォのメモ帳以外で)。
 フォルダで階層化、テキストのみのシンプルな機能。Mac で使っていた NewNOTEPAD Pro と同じように使えて、気持ちのいいアプリだった。
 当初は置き換えができないなど欠点もあったけど(そもそも昔は、置換できるアプリがなかった)、あの頃は同期したいとも思ってなかったし、置換がなくてもこれで充分だった。長らくお世話になりました。
 このアプリから移行するきっかけは、やっぱり同期だなー。Mac と同期させて、どっちでも文章を編集できるようにしたかった。
 でも、Office系のアプリは望まず、メモは階層化したい。そんな希望があった。

■DraftPad
 文章作成には便利な、単機能的アプリ。長文を書く人には、人気のあるアプリのひとつですね。
 iText Pad より後にインストールした。履歴と単機能さに好感が持てたのと、トップに文字数を常時表示できたから、たまに使っていた。
 今は iText Pad だけにしている。

■ToFu Editor
 iNote からの乗り換え候補として試用した。
 独特な管理・操作感をしている。機能的には充分だったんだけど、この独特さに慣れなくて、むしろイライラして、試用止まりだった。

■mmNote
 iNote から移行したアプリのひとつ。次の RainbowNote と併用していた。普通のノートアプリではなくて、アウトライン的なアプリですね。
 iNote からのメモは、ふたつに分けていた。RainbowNote には雑多なメモをなんでもつっこんで、mmNote には、ある種のまとまった文章を分類・保管していた。
 Mac用アプリがあって、直接同期できたのがよかったな。

■RainbowNote
 iNote からの移行先で、Evernote を本格的に使い始めるまでに、いろんなメモを集めていたアプリでもある。階層化できるので、感覚的に使いやすかった。
 同期は、Google Docs 経由。Google Docs は基本的に使ってないんだけど、バックアップのために、RainbowNote と時々同期させていた。ところがある時、問題が発生した。ファイルが増殖するという、謎の現象。そんなことがあってから、Evernote に移行していったように思う。

■メモ+(memoPlus)
 mmNote からの乗り換え。
 基本的に大きな不満はなかったものの、mmNote には弱冠の使い辛さがあった。同期にもたつくのと、一見違うけど実はアウトラインだから、分類がフォルダと同じようにはいかないし、操作もクセがある。
 あと、何とは言いませんが、mmNote にはヤバイこともメモしていたので、鍵をかけておこうかな...と。Mac版を含めてね。それで乗り換えた。
 これも長らく使っていたんだけど、RainbowNote から Evernote に移行している頃になぜか同期ができなくなったこともあって、ついでとばかりに他のアプリに移行していった。

■Notebooks - Write Notes, Manage Tasks and Store Files
 iNote から RainbowNote に鞍替えする際には、いろいろなアプリを集中して使ってみた。そのうちのひとつ。
 これはノートの作成がなぜかうまくいかなかったり、作成したノートが消えてしまったり、僕の手元ではトラブルが出まくっていた。とてもじゃないけど、使いものにならなかった。
 一般的には、評価の高いアプリなんだけどねー。
 あと、日本語表記じゃないこともあって、メニューがわかりにくいと思ったような...。

■Notebook(Appigo)
 これはよく覚えてないな。
 RainbowNote 移行期に、Notebooks と同じ時に使ってみたのは間違いないんだけど、どこかに使いにくさを感じたんだよね。なんだったかなぁ。

■Moleskine
 形の上ではなんでもできるのはいいんだけど、操作がわかりにくくて、使いやすいとはいえないアプリだった。なんでもできるけど、なんでも自由にできるわけでもない。ページめくりが面倒。
 そんな感じで、ちょっと中途半端な感じがしたなー。

■Njoy Note
 これはどんなものかなと、RainbowNote からの移行期に、とりあえず使ってみたもの。
 見た目はかわいいし、目的さえ合えば、とてもいいアプリだと思う。だけど、当時欲しかったアプリとは方向が違っていたから、試用に留まった。

■pardNote
 見た目はかわいくて好きだけど、動作が遅めなのと、僕の目的には合わなかったから試用のみ。
 文字数のカウントなどはできないけど、メモとしての機能は充分。デザイン重視の人にはいいんじゃないかな。

■お手軽メモ(Takashi Wada)
 これもシンプルですね。起動したら、即メモ...というタイプ。
 ちょっとしたことを素早くメモするにはいいね。だけど当時は、メモの管理が目的のひとつだったから、継続使用には至らず。

■マギノート
 試用に留まった1本。特に感慨もない。
 箇条書きはおもしろいんだけど、いまいち使いにくかった。

■Smart Notes
 これはなんだったかなー。
 シンプルでスッキリした見た目はよかったし、カテゴリーの分類もできる。Mac 用アプリもある。でも、確かこれを使ってみた当時、ノートの表示順や表示方法に不都合を感じたんだったと思う。

■Simplenote
 同期機能があるシンプルなアプリですね。Dropbox でね。
 試用早々にファイルが消えて、信用ならんと使わなかった。

■Handbook
 これはなんですか? そう思って、とりあえずインストールしてみたアプリ。
 しかし、お呼びではなかった。メモとかそういうアプリじゃなくて、コンテンツ作成・配信・閲覧のためのアプリといったところだ。

■ノートブック(メモ・日記アプリ)
 今の日記の書き方が固定する前に、何か日記をつけるのに便利なアプリはないかなーと思って使ってみた。どんな不都合があったかは覚えてないけど、おためしで使っただけだなー。

■Day One
 これも日記にも使えるし、メモにも使えるアプリ。一時期、日記はこのアプリで書いていた。
 でも、Mac との同期でつまずいて、今のやり方に変えたんだよね。Mac用アプリがあるんだけど、自分の OS だとインストールできなかったから。

 他にも使ったアプリがあると思うけど、だいたいこんな感じだね。


 あと、iPad にだけインストールしているアプリがふたつある。

■7notes
■Note Anytime

 どちらも、手書きのメモアプリですね。Note Anytime はなくてもいいかもしれないんだけど、今のところインストールしたままです。
 タッチペンが欲しいなぁ。

同性婚のムスコは異常?

 先月と今月は、続けてゲイ関連のネタをアップしてしまったなー。旧Aqua⇔Breeze では、こういうネタはあんまり挙げてなかったんだけどね。

 どうしてそういった類いのことで、多少なりとも知ってることがあるのか。それは元をたどれば、自分で自分に疑問を持ったことがあるから...と言えるかな。
 僕も昔は、自分がゲイだという自覚があったわけでも何でもない。ゲイの人には、珍しくないけどね。そのあたりのことはまたまとめて書くかもしれないが、とにかく自分で自分がわからなかったわけですよ。

 何で自分はこうなんだろう?

 そんなふうに、自問自答を繰り返していた。普通の人と違うって相当戸惑うし、ある意味恐怖なんだよね。
 先の記事に書いた「自然の摂理に反する」などといった間違えた指摘と同じようなことも、昔は考えた。僕自身、実は考えていたんですよー。それはそれは、不思議でたまらなかったからね。
 あれは中学の頃だったか。生物って、子供を産むよね? じゃあ、なんで同性に興味があったりするの? しかし自分は、間違いなくここに存在している。この存在って、なんなの?
 哲学的にではない。生物的に、自分が一体何者なのか...。それがわからなくて、いろんなことを考えていた。
 結局、知識も何もない状態からだと、そんなことくらいしか思い当たらないわけだね。だから自分なりの理屈を考えてみて、納得しようとしてみる。だけど、なんだかよくわからないけどどうやら理にかなっていないことにも気付いて、悶々とする。

 もちろん答は出なかった。
 当時は知識もなかったし、ヒトゲノムの解析もまだまだ遠い話だった。

 幸か不幸か、動物は好きだった。そのせいで、利己的遺伝子のことを知るのも早かった。でもそれを知った当初は僕も、利己的遺伝子を間違えて捉えていた。だからますます、自分への疑問は大きくなったなぁ。
 あれを間違えて捉えると、生物も遺伝子も、ただ一方向にだけ突き進むと思ってしまいがちだからね。遺伝子って、そんなに堅苦しいものじゃないのに。

 だけどそうこうするうちに、少しずつだけどいろんな知識も入ってきた。
 世界で様々な研究も進む。同性愛と遺伝の関係を解き明かそうとする関連書も増える。気になるから、目に留まれば手に取ったし、自ら情報に当たることもあった。ついでに、ゲイを題材にした小説も増えたなぁ(BL ではなく)。
 疑問が解ければ、やっぱり嬉しいしね。気になるものは、気になるのだ。
 そうして蓄積していったものの結果が、先の記事なわけです。


 わからなかったことがわかり始めると、他人の言うことに嘘が紛れ込んでいることもわかるようになる。もっとも、わかろうとわかるまいと、傷付くことにはかわりない。
 関連の記事内には「○○のような人がいるが...」という箇所がいくつかあるけど、自分が直接この耳で受け止めた言葉もけっこう混ざっている。

 彼らの厄介な点のひとつは、科学と哲学をないまぜにしてしまうことかもしれない。
「生物は子孫を残すことが第一目的なんだから...」と、一応の正論を押し通す人は、どうしたっているわけでして。
 この言葉は一見、科学的にも思えますね。ところがこれ、科学的・生物的な根拠をもとにした発言じゃなくて、言っている本人は哲学的意味で発していたりするんだなー。「生物的に」と言って科学的なふりをしながら、続けて精神や倫理の話をする。しかもその倫理観は、一方的で独善的なものでしかない。
 その文脈で話をするのなら、人間について語る必要がある。生物としてのヒトではなくて、人間を人間たらしめるものは何なのか、人間らしさってなんなのか、動物と人間の違いはなんなのか。そういったことについてね。
 ところがこの後にくるのは、既に言ったように、科学的な問題であったりする。
 わけがわかりません。

 人間についての話なのか、ヒトについての話なのか、本当にわからなくなる。
 言い換えれば、きっとそういった人たちは、人間について語ることはないんだろうなー。そんなことを思うこともあるけど、こう言うと、これはこれで噛みつかれるんだなぁ。


 ここからは、さらにたらたら書きます。


 観念的な正論とされるものは、必ずしも正しいわけじゃない。一見正しそうなものではあるけど、なかなか危うい。
 子孫を残すことは大切な、本当に大切なことだ。だからといって、それが、すべてに優先することかどうかわからない。こう言うと不思議に思われるかもしれないけど、そういうものだと思う。それでもそれを正論とすれば、その他をすべて否定できるから、言う方は楽ですね。格段に楽ですね。
 だけどそれが、いかに人間的でないかは、他のページでも触れた。こういう人たちは、同性愛者だけじゃない、子供を産まない人・産めない人、その他諸々の事情なりなんなりを持つ人たちを、ひと括りにすべて否定することになる。
 こう言うとまた、「同性愛者と、子供を産まない人・産めない人は違う」と言い訳されるが。この場合は正確には、「人」じゃなくて「異性愛者」と言わないとおかしいけどね。
 こういうの、ダブルスタンダードって言うんだよね。二枚舌と言ってもいい(ホンネとタテマエがあるのは当たり前...なんて返すのは、愚の骨頂)。

 議論にも意見交換にも、なんにもならないんだよねー。ただただ自分が正しいって、自分の主義主張を一方的に押し付けてくるから。
 だけどそれは「押し付けじゃない」「自分が正しい」「自分はいろんな意見を知っている」「その上で正しいことを言っている」...などと言ってしまう。ほんでさらに、それを押し通す。救えません。

 反対の意見を口にすれば、揚げ足を取る。その根拠はおかしいですよと指摘すれば、やっぱり揚げ足を取って攻撃する。揚げ足が取れなくなると、「自分が正しい」の一点張り。

 なんか、悲しくなるんだよね。怒りも湧いてくるけど、悲しい。

 根拠もなく(本人に言わせれば根拠があるが)、他人を否定して悦に入るとか、なんだろう。揚げ足を取ってやり込めるのは、議論じゃない。意見交換でもない。ただ一方的な、攻撃にすぎない。
 だけどそれが、いじめと同じ一方的な攻撃だということにすら気付かない。理由なんてどうでもいい...と言っているのと同じ。
 それを理論武装ぽく見せるというのは、どうにもこうにも...。

 よくわからないことが、多いですね。

線路は続くよどこまでも

 さて、ここは雑多な話になるけど、まずは同一家系内で同性愛者がよく生まれる話。
 この血縁の同性愛者については、調べた人や機関がいくつかありますね。具体的な数字などは、書籍や他のサイトで見ていただきましょう。引用はしません。

 細かい調査方法や結果、国別などはともかく、同性愛者のいる家族から血縁者を調べると、同性愛者のいる割合が高いのです。この点は共通する。これだけでも、遺伝的な関連性が疑われる。
「幼児」的なヒトの進化といい、エピジェネティック的な影響といい、科学的な完全な究明はされていなくても、遺伝的要素は否定し難いですね。
 こうなるのにもわけがある、ということ。性同一性障害(GID)についても、違う点ももちろんあるけれど、似たことが言えるでしょうね。

 ちょっと話が逸れるけど、GID の場合、体と心とのズレに対して大きな嫌悪があることも多いので、そうなるとそれを改善する手立てを講ずることになりますね。
 これを一般的には「治療」と呼んでいるけど、本当は「治療」という言葉はふさわしくないんだろうなぁ(「障害」も賛否ありますが)。

 GID の人と比べて、同性愛者を「悩みがない」「遊びだ」などと言う人がいるけど、これも随分と見当違いだよなー。遊びじゃないし、悩みはある。
 どんな状況にしたって、もちろん悩まない人もいる。でも、普段平然として見える同性愛者だって、陰ではたくさん悩んでいるものだ。そう軽く言わないでもらえるといいんだけどね。
 当然ながら、GID の同性愛者もいる。
 性に関する世界は、♂と♀なんていう記号のように単純じゃない。それぞれ、立ち位置というか、状況も違う。だから「マイノリティ」として話せることもあれば、そうでないこともあるし、「同性愛」「GID」「トランスジェンダー」「MtF」「FtM」「クィア」などといったカテゴリーの縛りで話せないこともたくさんある。
 ややこしいな。

 話がかなり逸れてしまったが、とにかく遺伝ともなると、血のつながりには逆らえないのです。批判だの否定だのされても、どうしようもないのです。

 ただ、勘違いしてはいけない。
 どこかに、初めの一人がいる。そしてその一人には、誰がなるかわからない。これをとんでもない方向に、間違えて捉えてしまうと、悲惨なことになる。
 悲しいことに、そういう人はいる。
 最初の一人は、随分昔の同性愛者だとは知られないままだった人かもしれないし、自分だったかもしれない。更に今後もどこかで、最初の一人は生まれる。
 確かに過去に同性愛者がいれば、全世代ではなくとも、その親族に今後も同性愛者は生まれるだろう(その確率が、通常よりは上がると予想される)。だからと言って、誰がそうなるかはわからない。当然だけど、全員が同性愛者になるわけじゃないしね。
 同族・血縁を問題にして、その家族や血縁者を奇異の目で見るような人がいるとしたら、それはお門違いだ。自分の親族には過去に同性愛者がいないからといって(いたけど知らないだけかもしれない)、その後も誰も同性愛者にならないという保証は、どこにもない。
 さらに悲惨なことには、家族や大切な友人を知らず傷付けることにもなりかねない。
 ちょっと想像してみれば、わかるはずだ。もしも身近に同性愛者の親兄弟や子供、友人がいて、自分が同性愛者だと話せずにいたら? 軽く口にした一言が、相手を大きく傷つけることだってある。家族が案外、難しい。親しい友人にはカミングアウトしても、家族、特に親にだけは言えないっていう同性愛者は多い。
 誰かが最初の一人になるのだ。
 その仕組みが完全に解明された時、どんな答えが待っているかはわからない。ここに書いていることが正しくなくなるかもしれないが、少なくとも現在では、未来の最初の一人が誰になるかなんて、わかりようがない。
 血縁を問題として挙げても、何の意味もない。

 もっとも、勘違いした排他的な考えは、本来はそれ以前の問題なんだけどね。
 ところがそういう人たちは、あまり人の話に耳を傾けない。ただただ自分の信じる考えを、「これが正しい」と言って、盲目的に押し付けてしまう。議論や意見交換でもするのかと思えば、そうじゃない。何か勘違いなどがあっても、自分が正しいと言い張っちゃう。
 もしかしたら、そういう人が増えているかもしれない。あるいは、そういうことが匿名で、簡単にできるようになったのか。
 しんどいですなぁ。

 また遺伝の影響だと言うと、遺伝子の病気と捉える人がいる。病気だから、治療せよ...と。これも「自然の摂理に反する」などと言いたがる人が、都合よく使う常套句だねー。
 遺伝子の影響が即座に病気だと言うなら、生物はすべて病気だ。極端だけど。でも、そういうことなんだよね。
 進化なんて、その遺伝子の変化の影響のおかげなんだし。「病気」のおかげで、進化したわけですよ。ヒトが世界中に散らばっているのも、そのおかげなんですよ。
 遺伝子のこういう配列が正しいから、これが正常で、それ以外は異常だと言ったりね。でも遺伝子って、基本的な配列、言い換えれば「一般的な正しいとされる配列」はあっても、しょっちゅう小さな変異を起こしもする。エピゲノムの影響もある。遺伝子には、ゆらぎがあるものなんですよ。だからこそ、生物足り得ると言ってもいい。
 それを進化と絡めて、どこまでが正しくてどこからが正しくないかなんて、現在の人間ごときにはわからない。おこがましいですなぁ。

 そもそも、普通だとか常識だとか、平等、公平、正義だとか、これらはとても難しいことだ。どれも気安く使ってしまう言葉だけど、安易に振りかざすと、結構危険でもある。
 たまには「当たり前」ということの危険性を冷静に振り返ってみると、人間としての間違いが少なくて済むかもしれない。それをしないと、無意識に人を傷つける。その相手は身近な、大切な誰かかもしれない。



【追記】
 便宜的に「最初の一人」と書いたけど、より正確には、ヒトは誰もが両性の指向を持っていて、その割合が違うだけだと言われている。ここでいう「最初の一人」は、あくまでも明示的な同性愛者にすぎない。

【ついでに追記】
 それにしても困るのは、Q&Aの質問サイトなどで、嘘ばかり並べる人が多いことだ。同性愛に限らないんだけどね。質問した人も検索した人も、間違った情報を読んでそれを信じることになる。
 Web には、嘘もたくさんある。古い情報もある。その中から、正しい情報を探し出さないといけない。そういう意味では、インターネットの黎明期に言われた「空っぽの洞窟」状態は、形を変えながら、今も、今からも続くわけですね。

遺伝学を超えたもの

 前の記事で触れたエピジェネティクスの話でござる。
 と言っても、わかる範囲での話ですけどね。もちろんね。詳しいことは、ウィキペディアを始めいろんな専門サイトがあるから、そちらでどうぞ!

 前の記事では、簡単に触れた。エピジェネティクスは、遺伝子がどう働いて、例えば病気などにどう影響するのか、遺伝子の影響や変化を研究する学問のこと。遺伝子自身の働きじゃなくて、その外側で働いている力や仕組みを研究している。
 言葉自体、考え方そのものは僕が生まれる前からあるのに、その言葉の意味するものが変わっている。その上、定義も複数あって曖昧といえば曖昧。普遍的な固定した定義がないのであった。
 その定義の言葉がまたわかりにくいので、今現在ではだいたい上記のようなことでいいと思う。

 研究が盛んになったのは、ヒトゲノムが解明された後のこと。

 ヒトゲノムで解明された情報は、そのまま人体に影響するわけじゃない。解明してみたら、そうじゃなかった! ということがわかったんですねー。生命は深遠です。
 遺伝子の「変質」というか「書き損じ」で説明できることは、限られていた。書き損じに当てはまるのはごく一部の病気だけで、ほとんどの病気はその遺伝的要因とは結びつかなかった。
 じゃあ遺伝子情報はどこでどうなってるの? という疑問に突き当たるよね。
 この情報の働きや結果を説明できるのが、エピジェネティクスだ。それは裏を返せば、癌などの病気の治療に応用できるということでもある。

 もう少し掘り下げていきましょう。

 DNA は生物の基本骨格だけど、それだけで成り立っているわけじゃない。
 かつては、この基本情報そのものが最も重要で、それがわかればすべてが解決すると思われていた。だからこそ、DNA を解析することで、様々な病気の治療に役立てられると期待された。
 ところが解析を完了してみると、まだ続きがあった。画期的な情報を得られたものの、それを包む、DNA よりも遥かに膨大な、そして重要な情報が控えていた。気が遠くなるなー。 
 DNA の情報は、自身を覆う化学物質の層にコントロールされている。DNA という生命の基本情報があって、その基本情報の通信を操作する装置があるようなものだと思えばいいかな。
 遺伝子は、受精後すぐは、みんなでわちゃわちゃ動くわけですよ。でも、成長にしたがって、お休みしたり、連絡できなくなったり、また連絡できるようになったりと、動きが変わっていく。DNA を取り囲む物質が、遺伝子のスイッチをオン・オフ、あるいは情報の読み取りの可・不可を入れ替えてるんですね。
 例えば特定の器官を作るために、幹細胞が分化成長するけど、その都度 DNA の情報が修正される。
 DNA 配列は同じなんだけど、こうして働きに違いが生じる。

 DNA を覆う化学物質の層(蛋白質でできたクロマチンなど)のコントロールで、DNA  の情報に装飾を受けたゲノムを、エピゲノムという。エピジェネティック的な変化が、DNA に科学的マークを残していくのだ。このマークを集めるのです。そうしてエピゲノムの姿を暴くのです。
 つまりエピジェネティックマーカーは、遺伝子情報がどの部分で活動を停止・活性化させられていたかを調べることができる。ある病気ではここが止まってて、ここが活発に動いてる...とか、わかるわけだ。
 これがわかれば、病気の治療にも使える。例えば薬を使って外部から酵素で刺激をすると、遺伝子に働き掛けて活動に変化を与えられる。遺伝子情報の活動が変われば、病状も変わる。
 遺伝子はひとつでも、エピゲノムはその数百倍になる。ヒトゲノムの比ではない、あまりにも膨大な情報量だ。完全な解明はまだまだ先だけど、今世界で解析が進められている(情報量が膨大であるがゆえに、もしかしたら、エピゲノムの解明が進むほどに、そのコントロールの難しさが明らかになるかもしれないね)。

 こうした遺伝子の活動の変化は、胎児の間だけじゃなくて、生まれた後も死ぬまで一生続く。思春期には思春期の、老年には老年の、遺伝子の活動の変化がある。
 そして一世代で獲得されたエピジェネティック的な変化は、受け継がれる。例えば喫煙、食事の習慣などの影響が、子供や孫にも影響する。親の過去の生活習慣が、子供にも影響を与える...といった例がわかりやすいかな。
 さらに、通常は一代限りの影響が、稀に次の世代に受け継がれることもある。こうした例には性に関わるものがあるけど、これは前の記事で触れた通りだ。

 エピジェネティクスは、DNA そのものよりも、深く遺伝子の表現に関わっているわけですね。恐るべし。

 ちなみに女性の場合、ちょっと不思議な抑制も受けているようだ。女性は X染色体を2本持ってるけど、2本とも活性化していると死んでしまうらしい。そこで、1本の活動を抑制して、1本だけ活性化してるんだとか。
 生物って、不思議でおもしろいですねぇ。

我思うに、我在り

 どうして同性愛者が生まれるのか。
 同性愛者が生まれる理由は、まだ科学的には解明されていない。しかし、遺伝的要因があることは間違いないだろう。はっきりしないことが多いとはいえ、いろいろなデータや、疑わしき要因はある。
 関連で、脳の構造や大きさがどうだとか、そんな話もある。このあたりは同性愛が生まれつきのものだという証拠ではあるけど、「結果」の話なので、今は横に置いておくとしよう。

 疑わしき要因の筆頭は、今だと子宮内での出来事かな。子宮内ですべてが決まっていることは確かなんだけど、そこで何が起きているのかは諸説あるのです。
 ここで挙げるのは、カリフォルニア大学サンタバーバラ校・ライス教授の研究の話です。学術誌での発表は、2012年の12月だったか。まだ1年経ってない話。

 その前に、ちょっとワンクッション。

 利己的遺伝子という考え方がある。
 簡単に言うと、遺伝子は自己の生存率や繁殖率を他者よりも高めることを最優先する...と。言い換えると、自分のコピーを残すことを目的にする。
 これで様々な生物の行動を、理論的に説明できてしまう。多くの一見不可解な行動にも、説明がつく。
 ほんで、こんな意見を繰り出す人がいる。
「生物が利己的遺伝子に支配されているのなら、生物学的に子孫を残せない同性愛者は、自然淘汰されるはず。同性愛者は理にかなっていない」といった具合で。
 でも残念だけど、これは利己的遺伝子を捉え間違えている。
 遺伝子に「支配」されているわけではない。遺伝子から生物の進化を解釈したのが、この理論だ。自然選択や生物進化を、遺伝子中心の視点で理解しようとしているのだ。
 少し乱暴な言い方かもしれないけど、これは結果であって決定ではないんだよね。
 ここを間違えると、遺伝子は利己的だから...と勘違いしたままになる。遺伝子に「意志」があって、生物を「支配」して、「利己的」に未来の選択を「決定」しているわけじゃない。
「利己的」という、その理論の意味を正しく表しているとは言えない言葉に、ほとんどイメージだけで囚われてしまってますね。
 利己的遺伝子の視点からも同性愛は説明できるようだけど、ここでは関係ないのでこれ以上は触れません。

 さて、本題に戻ろう。

 昨年の研究とやらは、おもしろい内容だった。エピジェネティクスをキーに、同性愛者への影響を調べたもの。
 その内容は仮説を含むものだが、話がややこしくなるので、以下は他の事柄も混ぜながら書いていきます。詳細については、元の論文なり解説したサイトなりを確認してください。

 エピジェネティクスって、一般的な説明で「DNA塩基配列の変化をうんたらかんたら」などと言われてもよくわからんわけです。簡単にまとめると、遺伝子がどう働いて、例えば病気などにどう影響するのか、遺伝子の影響や変化を研究する学問のこと。
 これでも、よくわかりませんね...。
 というか、この言葉自体は随分前からあるんだけど、実は定義すらきちんとなされていない。そんなもん、わかるきゃ。
 エピジェネティクスについては、ここでは簡単に触れておいて、もう少し詳しいことは次の記事と分けることにいたしましょう。

 そういうわけで、話をはしょります。
 DNA は蛋白質とか化学物質で取り囲まれていて、外側からコントロールを受けている。おかげで、遺伝子が働いたり働かなかったりする。これは生物の生存に重要な役割を果たしていて、成長の段階に従って随時必要な遺伝子を働かせるなどしてるんですねー。
 で、このエピジェネティックな要因は、世代間で受け継がれることがあるそうな。てことは、親子や親族の間で、共通する遺伝子のように見える効果になるということ。紛らわしい。

 性別を決定するエピジェネティックマーカーは、胎児の発達の初期段階で形成される。その役目は、男性ホルモンであるテストステロンから胎児を保護すること。
 この機能があると、どうなるか。女児胎児は、テストステロンから守られるわけですね。言い換えると、男性の特徴を受け入れない。男児の場合は保護を受けないので、さんさんと降り注ぐ太陽の光よろしくテストステロンを浴びることになる。
 エピマーカーは、生殖器の発達、性的アイデンティティ、性的指向(好きになる性別)にも影響を与える。これらのうち、性的アイデンティティや性的指向が、性別と逆に働いたらどうなるか?

 通常性別を決定するエピマーカーの影響は、1世代で完結する。つまり、胎児本人だけに作用する。次の生殖では、リセットされるようなもんです。
 ところが稀に、次代に影響することがある。不思議なことに、父親のエピマーカーが娘に、または母親のエピマーカーが息子に受け継がれる。それが性的指向であれば、好きになる性は当然逆になる。父親の女性好きが娘に受け継がれればレズビアンになるし、母親の男性好きが息子に受け継がれればゲイになる...と、こういうわけですね。

 エピジェネティクスはこんな具合に、いろんな重要な場面で影響する。その他、様々な指向に影響を与えているエピジェネティックマーカーがある。
 エピジェネティックな現象は、何世代かに渡って直接的に受け継がれるものもあるわけだけど、1代限りの作用が血族間で度々繰り返されもする。
 血縁者の中に同性愛者がいたりするのは、このためですね。

 まだまだ調べるべきことはあるんだと思う。そうだとしても、興味深い話だ。



 ついでなので、関連することを2点ほど。

 ゲイに比べて、レズビアンは少ないと言われる。その理由ははっきりとはしないけど、想像はつくかも。
 性別は Y染色体で決まるけど、エピジェネティクスや遺伝の性質から見れば、父親よりも、母親からの遺伝的な影響が大きいんだよね。もともと、生物の性の基本は♀だし(♂は♀から変化している)。それぞれの寄与率はまだわからないけど、母親からの影響の強さを考えれば、ゲイの方が多くても不思議ではないと思う。

 最後に、同性愛者が生まれる理由について、まことしやかに出された偽説などにも軽く触れておこう。
 ホルモンシャワー説というものがあるんだけど、これだと同一家系内での同性愛者の出現率に説明がつかないと思う(現段階では)。
 これは、テストステロンの影響だけじゃない...という意味です。ホルモンシャワー説というのは、テストステロンの影響だけに注目しているので。その影響もあるけど、それのみが決定的な意味を持つわけじゃないんじゃないかな。
 母体ストレス説は、眉唾ですね。ただ、一口にストレスと言っても、中をよく見ればいろいろあるんですよ。下手すると、なんでもかんでもストレスに一括りにされてしまう。ちょっと乱暴だね。
 だから母体ストレス説は完全否定している人もいるけど、見方を変えればそうとも言い切れない。ホルモンシャワー説とも関連するけど、妊娠初期における母体へのストレスが、テストステロンの量に影響を与えているデータはある。データはあるけど、もちろんそれだけですべてを説明はできない。
 僕自身は、純粋な母体ストレス説はいいかげんなものだと思ってる。だけど一定数はストレスによるテストステロンの影響があって、すべてではない...ってところなんじゃないかなぁ。
 間引き説などというものものある。
 ネズミを使った実験があってですね、同じ空間内でネズミをどんどこ増やすと、同性愛ネズミが増えるとかなんとか。これを引き合いに、同性愛者が生まれるのは、増えすぎた結果の間引きのためだというのだ。自己防衛のための増殖抑制ですね。
 なんだか笑える説です。同性愛の個体は、増殖しすぎなくても生まれる。そこは無視してる。おそらくそうではなくて、多様化の発現結果のひとつなんだと思うなー。
 養育的な観点からの心理的要因などは、まったくの見当違い。
 いいかげんな説は多いのです(そしていいかげんな説には、ありのままを見ず、前提のように同性愛者を異常として否定的に見ているように感じられてしまうものが多い)。

 原因はたったひとつだけあるんじゃなくて、大きな原因と小さな原因が総体として絡みあっていそうだよなー。

 次にエピジェネティクスの話を挟んで、家系とその他諸々の話を別記事にします。

ゲイであったりなかったり

私はあなたとしますんです」で、同性婚について書いた。
 その終わりに、遺伝的要因で同性愛者が生まれると付け加えておいた。そのあたりの話の補足的なページですね。
 補足的とはいいながらも、記事を複数に分けることにする。進化の話、遺伝的要因、エピジェネティクス、血縁。この4つ。
 Web を検索すれば関連情報は出てくるし、わざわざ別ページを用意するようなことでもないかもしれない。だけど自分のメモも兼ねて、同一サイト内に置いておこうと思う。



 先日の記事では軽く触れたので、生物の進化とどう矛盾しないのかが、ピンとこない人もいると思う。そのあたりの話から始めよう。
 進化について総体的に網羅するのが目的ではないし、話が長くて複雑になるので、ここではヒトを中心に書きますよ。下等生物の発生からの、長期的変容も取り上げない。

 生物は、発達・成長することで進化したと思ってしまうよね。今までなかったものがポンと付け足されるような。でも実は、ゲームやアニメのような進化はしない。一見、退化じゃないかとも思えるような方法で、それは成された。
 初めて知った時は、びっくりしたなぁ。
 実は、成長を引き延ばすことで進化したらしい。成体までの成長を遅らせるのだ。例えばヒトとサルを比べると、ヒトはサルよりも未熟な体で生まれて、未熟な状態で成人してるわけ。その証拠に、サルの成長前の胎児は、ヒトと同じ特徴を持っている。
 サルの胎内から見ると、あたかも胎児は、ヒトからサルへと変化するがごときステップを踏んで成長するわけです。
 話が先取りになるけど、幼児化は、エピジェネティクス的にも正しそうだ。脳で働く遺伝子のスイッチが入るタイミングは、サルの方が早くて、ヒトはそれよりも遅い。成長がゆっくりになっているのがわかる。
 この成長の引き延ばしは、他の生物にも共通していて、多様性をも生み出した。そのおかげで、同一種にも多種多様な特徴を持った動物が生まれた。例えば同じ犬でも、色や毛並みや体形が違うものがたくさんいるよね。
 人類に、人種から個々人の違いまでいろいろな違いが生まれたのは、このおかげ(環境に適応するにも、そのための下地がないとね)。

 で、同性愛というものも、その進化の仕方と関係しているように思われる。
 同性愛者の成長には、異性愛者の成長と違いが見られるようなのだ。ぶっちゃけ「幼児的」なわけでして。ただしこれは、「最近の若者は...」などという文脈での「幼児」とか「幼稚」とは意味が違う。
 例えば異性愛者の場合、幼児から学齢期への成長、あるいは第二次性徴を通して、グループの作り方や異性との距離の取り方などなど、身の回りの「環境整備」が変化する。「大人になる」わけですね。ところが同性愛者には、これがない。もしくは少ない。
 でも、あからさまに変化を拒み続けるわけじゃないから、まわりは気付かなくても不思議じゃない。

 成長の引き延ばし、言い換えると幼児化の影響のひとつとも見られるわけですね。かといって、突き詰めると人類がいずれ同性愛者だけになるなどとは、僕は思わないが。ヒトがヒトである限りは。
 仮に今以上の進化があるとしたら、どんな生物になるのか。想像するのも難しい。ただその時には、内的にも外的にも、生殖に何らかの影響が出たとしてもおかしくはない。その影響がどんなものになるのか、また同性愛者の出生率がどうなるのか、そういったことも未知だ。

 遺伝子がこれとどう関わっているのか、具体的にはよくわからない。
 だけど、同性愛者が生まれる遺伝的要因がどんなものなのかは、徐々にわかってきている。この話は、次にまわします。

つながりが多すぎる

 LINE がグングン勢いを増して、どのくらいになるだろう。知人にも、LINE を使っている人はたくさんいる。
 僕はといえば、使ってないし、今のところ使う気もない。

 なんだか面倒に思えるのだ。いろいろと。

 ウリの機能であるスタンプ。あれが正直鬱陶しい。確かにスタンプのイラストはおもしろいんだけど、実際に使うとなると、どうもね。文字でいいじゃん。僕がついて行けるのは、顔文字と絵文字までだな。

 チャットなら、Skype とかでも充分だし(しないけど)。
 iPhone は通話に使う気がないし(ホントにぜんぜん使わない)。
 iPhone 同士なら、iMessage で充分だし(チャットとかわらない)。
 iMessage 使えなくても、メッセージアプリなら見た目は問題ないし。

 そんなひねくれたことを思ったりする。

 あと LINE は、設定できるとはいえ、デフォだと勝手にアドレス帳の情報を吸い上げちゃうのがどうも(Viber なども同様ですね。初回の設定で回避はできる)。便利なのはわかるんだけど、勝手につなげて欲しくはない。
 もっとも僕の場合、iPhone のアドレス帳にはほとんど知人を登録してないから、あんまり関係ないかもしれんけど(知人とのメールや電話は、ガラケーです)。

 LINE 以外にも、連絡を取りあえるサービスやアプリはいろいろあるね。
 SNS 系の筆頭なら Facebook か。ブログ付きなら、Tumblr もいい。短文の投下なら、Twitter は便利。その他、出会い系の SNS など、類似のサービスやアプリはたくさんある。
 手段が多すぎるよね。もうなにがなんだかって思ってしまう。
 もちろんそれぞれに利点と欠点があるから、目的に合わせて使えばいい。すべてを使う必要もない。自分に必要なものを選んで使えばいい。だけど、そんな取捨選択をしてる人って、案外少ないんじゃないかなぁ。
 この人はこっちであの人はこっちとか面倒だし、逆にあっちでもこっちでもつながってると、それはそれでかえって猥雑になりそうだなー。

 でも、これだけいろんな方法があって、大きな利点を持つサービスもあるけど、広く標準的に連絡を取りあう手段として、メールは未だに廃れない。
 もちろん、例えば Facebook でメールを統合的に使ってる人もいるけれど。
 メールは古い規格だから、今となってはいろいろと不都合はある。何でもできるわけじゃない。特にファイルのやり取りでは、自由が利かない。セキュリティも高くない。
 それでも、世界標準的に使われているメールは、やっぱり強い。SNS は SNS であって、これに代わるものじゃないんだなと思う(少なくとも現状では)。

 そうは言っても、必要に迫られて LINE を使うことはあるかもしれないな(そんな状況が迫りつつある気配が少し)。

酔うも酔わぬもお好きなように

 広島は東広島、西条は酒どころである。小さな産地にもかかわらず、日本三大醸造地のひとつに数えられ(伏見・灘・西条)、高い技術を持つ蔵元が軒を連ねている。
 この土日は、酒まつりでござる。日本各地から日本酒が大集合する。飲み比べし放題である。酔っ払いが大量生産されるのである。僕はたまたま通りかかったことはあるものの、行ったことはない。
 一度行ってみようと思いつつ、なかなか重い腰が上がらないのであった。

 酒といえば、カンパーイ!
 日本各地の都市には点々と、乾杯条例とか、そんな類いのものがある。広島で施行したのは、2都市だったかな。東広島と、三次。
 地酒や地域特産のお酒で乾杯しようよ...と、そんな条例ですね。東広島は、もちろん日本酒である。

 しかしこの条例、「何で乾杯するかは個人の自由」だから、はなはだ迷惑なりー...といった意見があるわけでして。
 確かに自由なんだけど、これに若干の異を唱えてみよう。と言っても、そう大げさなことではないが。異を唱えるというより、付け加えかな。というのも、条例ができたからって、声高に反対するほどのことじゃないと思うからなのでして。
 自由だからこそ、条例がなじまない...という意見があるのは承知の上。だけど、地域振興策のひとつとして、そういうものがあってもいいと思うんだよね。目くじら立てなくてもね。

 だけどおもしろいからというだけじゃなくて、ここには習慣の問題もあると思うのだ。条例云々以前に、なにやら暗黙の了解めいた「習慣」のごときものがある。と思う。
 さて、何だ。
 乾杯の1杯めはビールで...という、常識でしょ? と言わんばかりの無言の圧力だ。僕にとっては、これがはなはだ迷惑なりー。少なくとも僕の周辺では減ったけど、今でもビール以外だと、それだけでブーイングが上がるような場も多いんじゃないかな。

 僕は、ビールが苦手だ。炭酸が苦手なのである。だからソーダとかコーラとか、炭酸飲料も飲まない。
 飲めなくはないが、好きじゃないから飲まない。
 アルコールを飲まないわけではない。呑みに行ったりすると、1杯めから日本酒か泡盛にする。呑む量は少ないけどね。そんなに飲めないし、たいてい少しで満足する。

 飲めない人もいるからと条例に反対する人もいるけど、そんなに目くじらを立てるようなことかなぁ。どのみち飲めない人は、条例に関係なくアルコールで乾杯しないし、車があればアルコールは飲まない。
 飲んべぇさんには、難癖つけたりする人もいる。事情があって車で移動してたりしてると、それだけで「なんで車で...」なんて言ってね。こっちの方が、条例よりもよほどタチが悪い。いいじゃないか、なんだって。

 日本酒が好きだから、条例を擁護するわけじゃない。僕だって、強制されたら嫌だから。好きなように飲みたい。たとえお店で日本酒が供されていたとしても、銘柄によっては飲みたくないかもしれないしね。
 条例とはいえ、強制されるわけじゃなし、取り組みはおもしろい。宣伝にもなり得る。地域活性化の一助になるなら、いいんじゃないかなー。
 やりようによっては、お店でサービスの中に組み込むこともできるかもしれない。もちろん強制じゃないから、お客様が選べる形での工夫をしてね。付加価値のひとつですね。

 個人の自由が確保されてるんなら、「私は焼酎派」だってなにひとつ不都合はないと思う。これはこれで楽しめばいい。
 地酒が焼酎なら、乾杯条例は焼酎になるよね(わざわざ条例にするまでもない地域はともかく)。僕は飲まないけど。ビールの生産地でなら、地ビールで...てことになりそうだよね。やっぱり、僕は飲まないけど。
 それでもかまわない。
 飲めないなら飲まなきゃいいし、飲めるなら、気が向いたら地酒で乾杯しようかな...くらいの軽い気持ちでいればいいんじゃないかな。
 ほんで、地元のお酒を「いいよね」って言ってあげられれば、もっといいかも。


(酒まつりのつながりで日本酒を軸に書いたけど、東広島のような日本酒が対象の場合なので。東広島は、条例の対象アルコールを日本酒に限っている。三次に行けば、観光絡みだと筆頭はワインだけど、条例は三次ゆかりのアルコール全般を対象にしている)

響いて泣いて、また響き

 心に響いた映画って、何があるだろう。ふと考えてみる。

「響く」って、なんだろう。
 ジンときた、泣ける、感動した...。そういうイメージを抱きやすいかな。だから「響く」と表現したなら、衝撃を受けた、心をえぐられた、打ちのめされた...といったものは、含まれないのかもしれない。含まれてもいいと思うんだけど、ズレてるような気もする。
 でも、どんなふうに響いたのか、どんな意味で響いたのか...と考えてみると、その意味は幅広くなる気がするなぁ。「おもしろかった」「楽しかった」そんなものを入れてもいいかもしれないね。

 それはよしとして。

 僕は涙腺が弱い方だと思う。特に歳を重ねてから。
 泣いてしまうのは、何か胸にきているからなんだけど、もう単純なことでもウルウルしてしまう。感情移入しすぎるのかなぁ。
 映画は好きだけど、そんなに観ているわけではない。特に今は、映画館に足を運ぶことがとんとなくなった。時々レンタルを使うことはある。ネットで買ったり借りたりすることも。


「響いた」「泣いた」そんな映画をいくつか挙げてみよう。


■火垂るの墓
 僕にとって、泣ける映画の筆頭だ。あれで泣かない人や悲しみに寄り添えない人は、ちょっと頭がおかしいんじゃないかと思うくらいだ。
 戦争を否定的に描いていると、戦争やあの時代を肯定する意味で、批判的に捉える人はいる。でも、伝えようとしているメッセージがどうだとか、そういうことは考えなくてもいいと思う。深く考えていけたら、その方がいいとは思うけどね。
 単純な話だ。あれを見て、子供が死ぬのを見て、何にも思わないとしたら、人間として哀しすぎる気がするなぁ。

■あの空をおぼえてる
 原作とはまったく違うと言っていい。でも海外作品を、国にしろ家族にしろ、とてもうまく置き換えている。合間合間に差し挟まれる思い出が、胸にジワジワくる。

 そういえば、いつのことだったか、某映画情報サイトで「あんな父親あり得ない!」と書いている人がいるのをたまたま見たことがある。
 僕はあり得ないとは思わない。むしろ、リアルな深い悲しみだなと思う。
 あり得ない、ひどい父親だ、と言ってしまう気持ちがわからないわけじゃない。それは、冷静な部外者からの、第三者的な目だからね。そう感じてしまうのは、無理もない。「理想」を口にしているようなものだからね。
「あり得ない父親」だと感じる人は、きっとそういう悲しみを知らないんだな、あるいは理解ができないんだな...と思うのです。もっとも、その人が悲しみのない幸せな生活を送っているとは限らないけどね。
 所詮、人は、自分の経験していないことは、完全には理解できない。だからといって、僕は絶望もしない。

■ショーシャンクの空に
 これは、原作の方が好きなんだなぁ(原作の読了が、かなり先)。
 大筋は変わらないんだけど、脱獄が判明する場面がまったく違う。どっちがいいかはよくわからん。だけど、僕は原作の方がより好きなのだ。あの、突如穴が出現する衝撃感がいい。映画の描き方も悪くないんだけど、「え?」から衝撃へと移っていく。
 泣き→泣き...と続くと、じゃあこれはどこで泣いたんだ? って思われるかもしれないけど、泣いてない。無実のアンディの強い意志と執念に、心で泣いたって感じはあるけどね。
 あと、あの最後の海がステキ。あれは原作にない「泣き」ポイントだなー。

■おにいちゃんのハナビ
 闘病中の妹とその兄の話。普通の闘病ウンヌンでいうお涙頂戴的なものとは、少し違う色があると思う。
 どっちにしろきっと僕はウルウルきちゃうんだけど、この映画はそのちょっと違った味わいが、ほんのりじんわりよかったなー。

 映画にしろドラマにしろ、いろいろとツッコミどころがある場合は少なくない。それが許容できるものかどうかはあるにせよ、あまり頭から否定的に観たりはしたくないなと思う。
 こう言うのは、この映画にもツッコミどころはあるわけでして。気にしないけど。
 例えば「ラスト・サムライ」なんか、設定とか天皇の言動とか、とにかくまぁいろいろとツッコミどころ満載で、史実とはかけ離れている。でもおもしろいし、楽しめると思う。


 あんまりたくさん挙げる気はないので、最後にもうひとつ。


■パッション
 これも、泣いてはいない。もう泣くどころじゃなかった。
 イエス(キリスト)の最後の12時間を描いた作品だが、通常は覆い隠すようにきれいに描く部分を、美化せず、できるだけ忠実な表現を試みている。その忠実さが話題にもなった。鞭打たれたり、拷問のような仕打ちを受けたりするのだが、これがいちいちリアルなわけでして。
 それ以上のことは、ここでは言うまい。
 ある程度知識はあるとはいえ僕はキリスト教徒ではないし、すべてを正しく理解できてはいなかったかもしれない。ただその凄惨さというか忠実ぶりに、圧倒されたなぁ(鑑賞時に死亡者が出たとか)。実際には、もっと酷かったかもしれないね。
 そういう、泣く暇もない衝撃的だった映画。

私はあなたとしますんです

 いくつかの国で続けて、同性婚が制度として認められたり、某権威を持つ人が同性婚を認めたり、最近ちょくちょく話題に上る。

 そもそも、結婚って何だろう? こういうことから考えた方がいいと思うけど、長くなるし、ここではとりあえず流せる話だから、はしょる!
 それにしても、当世、離婚率の高さはヤバイですね。ゲイやバイに限らず、結婚って一体何なのか、ちっくと考えてみた方がいいのかもしれない。原因はいろいろあるので、一様には語れないし、そのすべてをすぐに取り除くことはできないだろうが。

 さて、その意味についてはともかく、僕自身は、結婚には制度と思想の2面があると思っている。何を重視するかは、人それぞれだろうなー。

 結婚って、制度を見るかどうか、あるいはどう見るかで意味が変わると思う。結婚に対する価値観の違いはあるにせよ、同性婚は、選べる自由を確保する意味でも、認められてればいいんじゃないかな。したかったら、いつでもできるよ...と。結婚するかしないかは、そのカップルが決めればいい。
 認められてしかるべき権利だと思うけど、それはさておき。
 制度として法で認められれば、社会的に大きな意味を持つ。そこでの立場も変わる。結婚を選んだ場合の、相続や老後のことを含めた生活とその周辺の処理について、新たな選択肢ができる。大事なことだろう。
 ついでに、これは思想や精神面のことだけど、それがきっかけで、生と死についても新たな捉え方ができるかもしれない。

 僕は、どこかの誰かさんのように、結婚して子育てしないヤツは人間じゃない...なんて、もちろん思わない。だけど、出産を除いて考えても、こんなことは思う。
 結婚から老後までの、ある意味で縛られた共同生活の過程の中で、問題と解決の繰り返しがあって、ある種の人間としての成長があり得る。その価値は、決して小さくないと思う。
 結婚しなくても深い人間関係は築けるけど、ケジメのような通過点として重要かもしれない。現代では、この意味が軽くなっている気はするが。
 こうした点を考えると、結婚のない「彼氏・彼女」止まりの関係でしかない今の同性愛者には、精神的にも結婚で得られるものがあるのかもしれない。ここに価値を見出す人にとってはね。
 これに社会的意味が加わるわけだから、新たな選択肢ができれば、価値の増大は計り知れませんね。
 あくまで、選択肢のひとつとして...だけどね。優劣だとは思わない。



 同性婚といえば、さらについて回るものに、子供の問題がある。子供を育てたいと思う同性カップルもいるからねー。
 同性婚や同性愛者の子育てについては、これまでテレビなどでも取り上げられたことがあるようだ。そういった発信を受けて、Web上にはいろんな意見も飛び交う。
 その中には、「同性愛は認めるし本人の自由だけど、子育てには必ず悪影響があるから認められない」といったものがある(自由意志のように言うのは、本当はおかしいけど)。これが案外少なくない。この「悪影響」の内容がまた、クセモノ。
 あるいは「同性婚を認めたら、子供がいなくなる」などと言った政治家がいるが、まったくもってトンチンカンだ。「子供を産まないから」「ゲイが子育てしても、ゲイになるから」という理由をぶら下げているが、無知をさらしているようなものですね。同性婚を認めようが認めまいが、同性愛者はいる。そんなことでは、減りも増えもしない。

 現状では、学校で子供がいじめられる可能性はあるだろう。しかしそれは、親が原因じゃない。同性愛を受け入れたくない人は、それみたことかと親に原因を押し付けるだろうが、勘違いも甚だしい。
 社会の無理解が、本当の原因だ。その責任を、親に転嫁して責めるのだ。

 子育てに悪影響があるだとか、育てられる子供が普通に育たないからかわいそうだとか、まったく根拠がない。異性愛者から見て「普通」じゃない同性愛者が子供を育てられるわけがない、「普通に」育つわけがないと、理由もなく、印象と思い込みだけで決めつけてるんだよね。どう言い繕ったところで、根拠や具体性に欠けることにかわりはない。
 一方では個性が大事とか違いを受け入れるべきとか、イジメはよくないなどと言いつつ、こういう時に異質なものは嫌われるんですね。
 同性愛者は、共同生活では二人が協力的であることが多い...。子供好きも少なくない...。そう言われたりもする。これがどこまで正しいかわからないが、そんなカップルなら、むしろ強力なサポート体制のある家庭になるかもしれない(もちろん、必ずそうなるわけではない)。
 そもそも「普通の家庭」が問題だらけだ。同性婚や同性愛者の子育てに反対の人は、同性婚をとやかく言う前に、このことを考えた方がいい。

 僕がわからないのは、「普通」とされる「父母」の存在がない、言うなれば「父父」のごとき状態であることの子供への影響だ(正確には「父父」ではなさそうだけど)。
 でもこれも、否定はできない。僕はわからないだけで、否定するつもりはない。育て方によっても変わりそうだしね。
 頭ごなしに否定する人はきっと、母子家庭、父子家庭、あるいは両親を亡くした子など、それらすべてを否定するんだろうなぁ。そんでもって、親の資質とやらを問うのだろう。自分のことは棚に上げて。
 なかなかの差別ぶりですね。
 みてくれや印象だけでそれらを「問題」ととらえて、家庭に「問題」がある子供はきちんと育たない...と言う人がいる。でも、これも疑問だ。
 そもそもそれは「問題」などではないが、この「問題」とやらがあるという家庭に相対する「ちゃんとした家庭」でも、「きちんと」育たない人はいくらでもいる。既に書いた「普通の家庭が抱える問題」は多い。
 その事実には、目をつむってしまう。というか、気付いていないし、見ようとしない。

 彼らにこの指摘をすると、それは別問題だと平然と話をそらすこともあるだろう。でも、同じなんだよね。親子や家族のことのはずなのに、「同性愛者だから」とただそれだけの理由で、問題をすり替えてしまう。理由なんて関係なく、認めたくないだけだ。
 それが理由になり得ないことは、更に説明するまでもない。

 もしも両親のあり方が様々であることが社会的に普通のことであったら、そんなことは誰も問題にしなくなるんじゃないかな。
 今の状態が、既にいろいろな差別を孕んでいるということだ。

 と、こういったことを、今の僕は思っている。

 ちなみに僕は、結婚できるようになっても、しない気がする。もしくは、結婚という制度は利用するけど、少し距離も確保する。結婚の怖い部分を見てしまって、いかん。深い絆は作りたいけど、深入りしたくない部分もある。
 部分的な共同的生活までかな。



     ・・・━━━━━━━━━━━・・・



 上記の「ゲイの育てた子はゲイ」という根拠のない決めつけに対して、補足しておこう。

 同性愛が精神的問題ではないことは、とうの昔に明らかになっている。
 未だに精神論や趣味論を展開する人がいるが、いつの時代の人ですか。そんなものは、日本では30年以上前の、古い誤った思い込みにすぎない。何の根拠もない。先端医療だとか最新の研究結果は大好きなのに、これに関してだけは頭が古い人がいる。不思議なことに。
 自分が認めたくないものについては、古かろうが間違っていようが、自分に都合のいい説を持ち出すんだよね。そのためなら、平気で嘘もつく。あるものを、ないことにしてしまうのであった。
 成り立ちが科学的に解明されたわけではないけど、遺伝的影響であることは間違いないだろう。それも、遺伝子に「問題」があるからではなくて、生物の進化の結果としてね(遺伝子の変異といった単純なものではない。関連が疑われる特定の遺伝子情報や遺伝的要因はあるが、未だ決定的な解明に至っていない)。

「子供を産まないから、自然の摂理に反している」などと言う人がいるが、これもなんだかおかしい。子供は産まないけど、自然の摂理とやらには反してないんだよね。
 子孫を残さないという意味では生物の「型」にはまらない以上、この点では「普通」と異なることは確かだ。しかしきっと「自然の摂理」を引き合いにするする人は、ヒトの大人とサルの胎児があまりにもよく似ていることを知らないだろう。つまりヒトの場合は、サルの胎児の状態で成人する。これは、進化の足跡の一例だ。
 突き詰めると、同性愛者には、その未成熟的な影響が強いとも見て取れる。同性愛者の男児には、異性愛者の男児に見られる第二次性徴あたりの幼児から大人への精神的・心理的な変化がない(少ない)。男の子なんだけど、女の子に近い程度の変化があるようで。
 さらに「自然の摂理に反する」とは、まるで子供を産むだけが人間であるかのような言い草だ。
 異性が好きだからって、生物の進化や種の保存、生殖活動として正しいから異性を好きになって、セックスするわけじゃないよねー。誰かを好きになるのに、いちいち自然の摂理にかなっているか? なんて考えないよね。この人の子供を産みたい...と思うことはあるとしても。
 女性は、単なる子供の製造機ですか? しかも同じ口で、結婚や子育ての自由だとか、社会的な出産の圧力は暴力だとか、女性の自立とか男女平等だとか言いだしたりするので、笑える。
 セックスして、子供を産むだけが人間か。それなら当然、子供を産まない女性は否定されるよね。子作りだけなら、動物にでもできることだ。
 しかもその動物には、同性愛の個体が一定数生まれる。自然の摂理とやらは、どうなる。これが本当の自然の摂理だ(より進化の影響が強い生物ほど、同性愛の個体数も多いのが自然に思えるけど、どうなんだろう)。
 事実を捻じ曲げて、同性愛は自然の摂理に反しているだとか言っちゃうのは、自然のあり方や生物の進化の正しい過程を知らない上に、人間に対する言葉としては、随分と心ないもののように感じる。

 僕らは、そうなることを望んで生まれたわけじゃない。当人が楽しんでるかどうかはともかく、普通に楽に生きられたら、どんなにいいか。

 同性愛者同士が子供を産んだら、おそらくその子は同性愛者になるだろう(遺伝的要因がどこにあるかによるかも?)。しかしだからといって、ゲイが子育てをすると、その子もゲイになるわけじゃない。
 そして今はまだ、先天的な遺伝子の影響が科学的に解明されていない以上、後天的影響もまた、正確に「正確に!」計ることはできない(もし後天的影響があるとしたら)。


(さらに追記:遺伝的影響と聞くと、息子がゲイになったのは自分のせいだと自分を責める親御さんもいるけど、そんなことはないですよ。その人の遺伝子になんらかの欠陥や問題があるわけじゃなくて、これは言うなれば起きて当たり前のことなんだから。その子はまさしく、体はお父さんから、心はお母さんから受け継いで生まれたようなものだから、自分たちの息子としてなんら間違っていない、親も何も間違っていないはずですよ)

うんせうんせと、ヌいたものは

 子供の頃、「おおきなかぶ」に親しんだ人は多いだろう。
 これ、今では定番的な訳が2種ある。内田莉莎子版と西郷竹彦版だ。実は他にもあるんだけどね。定番的なのは、この2種類。

 小学校の教科書には、積極的に掲載される作品がある。「ごんぎつね」はその代表格と言っていいだろう。「おてがみ」「スイミー」などもある。
「おおきなかぶ」もまたそうで、今はどうか知らないが、全教科書に掲載されていたこともある。ただし出版社によって、採用する訳が違う(僕が知っているのは、光村だけが西郷訳だということ)。

 この2種類の「おおきなかぶ」の比較や研究、検討は、さんざんなされている。特に、教育的視点だとか学校教育での指導の観点だとか、そういうことでね。ま、そのへんのことはそっちの専門家にでも任せればいい。僕の知ったことではない。
 ただ、両者は味わいが違うので、その点は気になる。

 内田莉莎子訳は、1962年。西郷竹彦訳は、1987年かな(違うかも)。

 どうしても一番比べたくなるのは、引っ張る順番だねー。まだ抜けないことをどう表現してるかってのも気になるポイントだけど、ここでは引っ張る順番の話をば。

 内田訳
「ねずみ → ねこ → いぬ → まご → おばあさん → おじいさん → かぶ」

 西郷訳
「かぶ → おじいさん → おばあさん → まご → いぬ → ねこ → ねずみ」

 正反対ですなぁ。「おばあさんがおじいさんをひっぱって、おじいさんがかぶをひっぱって」と「かぶをおじいさんがひっぱって、おじいさんをおばあさんがひっぱって」の違い。
 起点とカメラワークが違ってくる。一人一人の役割の大きさというか、力のつながりも変わる。意識の中での力の伝わり方、力の大きさと言ってもいいかな。

 絵本やお話の世界では、子供の意識のつながりや流れはとても大切だと思う。けれどそれも、何を重視するかで、表現や言葉遣いが変わってくる。
 抜くのはかぶで、起点になっているかぶからどんどん数珠つなぎになる方が、かぶから見れば流れは自然に思える。「かぶ → ねずみ」へとつながる西郷訳は、その意味では自然で、また最後にやって来るねずみへのフォーカスが大きい。そのかわり、力が徐々に大きくなる感じは薄れる。もうちょっと、もうちょっと...という「ようやっとぬけた!」感は大きいかもしれないが、力の大きさが伝わりにくいのだ。
 逆の場合は、呼んでくる動物たちからかぶへとつながる力にフォーカスが移り、味わいが変化する。まず、あとから呼んできた動物からかぶへと視点が移動するので、「助けを呼ぶ → 引っ張る → 引っ張る → かぶ」という流れができる。このおかげで、視点の動きにあわせて、どんどん力が大きくなる感覚になるわけですな。最後にかぶがくる方が、力強さが伝わる。力の大きさから見た「やっとぬけた!」という感動は、内田訳の方がひとしおに思える。

 あとですね、内田訳には日本の民話調とでもいうような、超訳的な言い換えがあるんですよ。この味わいが捨てがたい。捨てがたいって、変な言い方かもしれないが。
 そういうわけで、僕は内田訳が好きだ。そもそも、内田訳がなければ西郷訳もない...かもしれない。知らんけど。
 ま、好みですね。ここで優劣を決めるつもりはない。

 絵本とは、つくづく恐るべきものである。

 ちなみに、科学的にというか、力学的には、この方法ではかぶは抜けない。みんないっしょに、直接かぶをひっぱらないとね。

今日もスマホは百花繚乱

 ホントにスマホばかり見るようになったなぁ。
 僕はというと、iPhone は持ってるけどそれ以外のスマホは持ってない。その iPhone のメールアドレスは誰にも教えてなくて、通話にも使ってない。いわゆるガラケー(折畳み型)が、通常の通話とメールに使っているケータイだ。

 百花繚乱...と書いたが、日本のメーカーがスマホから手を引いたりして、選択肢が今後変わってくるね。iPhone しか持ってないけど、なんだか複雑な気分だ。
 ほんで当の iPhone は、5s と 5c の発表があって数日経った。
 ほぼリーク情報そのままで、発表直後からいろいろと、あれが付いてない、これがこなかった、と disられてますが。僕はと言えば、今持っているのが 4 だから、買い替えるにはいいなと思う。
 特に調子が悪いわけではないが、ボタンの利きが悪くなってるのと、速度が追いついてこない部分が感じられるようになっている点がよろしくない。
 田舎にいると、どのバンドに対応したとか、たいして恩恵ないからそれほど重要でもない。プラスで対応してればいいなというところ。そういう意味では、各社のプランや乗り換えのメリット・デメリット、メールやその他機能面の小さな差異の有無...などの方が気になるな。

 買い替えるとしても、少し様子見をしてからにしようと思う。
 予約が開始されるのでプランの情報も出ていているけど、今後変更もあるはずだ。どうやら某社が、先行他社の現行料金と同等の設定でスタートするみたいなので(iPhone 専用プランで、他の機種で使える更にお得なプランは使えない)、2社は後日もっと下げてくるかも?
 先に書いた通り、機能面の「蓋を開けてみたら...」の部分もあるはずなので、それも見てから決めるつもり。きっと品薄で入手は先になるんだろうけど、焦らなくてもいいや。

 Android とかを検討するのもアリだけど、たぶんしない。
 Mac といろんなデータをやりとりするし、やっぱり今まで使ってた「資産」の使い回しがしやすいから、このまま iPhone を使い続けるだろうなぁ。乗り換え時のデータの引き継ぎもラクチンだし。
 結局、好みなんだろうなと思うのです。それぞれにデザインが違ったり、使い勝手の良し悪しがあったり、機能が違ったり、ネットワークの状況が違ったり。
 僕はこのテのものを最初から iPhone を使ってて、そのまま iPhone を継続使用...て感じかな。

 iPhone を買ったのは、もともと何かガラケーより文章を打ち込みやすい小さなデジモノが欲しいと、ずっと思っていたからだ。
 PDA や手帳サイズのパソコンも、考えないではなかった。でも何かしら不満があって、見送り続けていた。PC は起動が遅い。リナザウは連携はできるけど微妙にやりにくい。といった具合で、以下似たり寄ったりなので省略。

 でもやっぱり欲しいから、本気で検討を始めた。いつ買うともしれない感じで...。その頃にこれならいけるかなという機種の筆頭だったのは、ノキアのフルキーボード付きのケータイである。そこへ iPhone が現れた。
 発売後しばらくは静観していたのだが、キャンペーン期間中にお店でデモ機をいじってみて、これなら使えるかなと思って購入したのであった。Mac と同期しやすいのもポイントだった。新iPhone(2代目)が出る前のことである。
 当然ながら、iPhone とて万能ではない。でも僕はガジェットは好きだけど、ディープな使い方はしないので、これでよかったと思う。

 当初 iPhone と迷ったものが、ひとつある。iPod touch である。
 違いは 3G ですね。入力して同期するだけなら、iPod touch で充分だ。でも iPhone じゃないと使えないアプリがあるから、選んだのは iPhone だった。地図とか、Wi-Fi 飛んでないと使えないしね。

 iPad は、7インチくらいのがあったら欲しいかも...。Wi-Fi ので...。と思っていたら、出てしまった。
 思っていたより少し大きかったけど、満足できるサイズだね。

 Android にしろ Win にしろ、どの機種がいいかとかよくわからない。このあたり、デジクラのみなさんには脱帽ですね。
 ケータイでも何でもそうだが、自分の使い方にあうか考えて、必要な機能の有無を見て、あとはデザインやさわり心地で決めればいいと思う。
 ディープに使わない限り、ほとんどの人にとってはどれを使っても、機能的にはあまり違いが感じられないかもしれない。そうなると、使い勝手重視の方が失敗が少なくて済みそうだ。
 買った後で気付いたことは、次の時に活かすということで。

自分だけが知るモノ

 以前、「アンダーウェアの選び方」という記事を書いた。そしたら、このタイトルまんまの言葉で検索して、ここにやって来る人が現れた。なんとねー。
 ほんなら、も少しマトモなこともちっとは書いておいた方がいいかなぁ...と思っての、本日の記事。

 とは言ってもね、ぶっちゃけ自分で探して履いて、納得するしかないんだけどね。

 これだけだと、これで話は終わるのです。そうはしないけど、この「自分で納得」は、けっこう大事なことだと思う。
 似合うとか似合わないとか、客観的に見てどうかはともかく、自分に「あう」ものは自分だけが知っているのだ。だから、自分で探して納得するしかない。と思う。たぶん。
 アンダーウェアに限らないことかもしれないが、サイズや着心地の重要性が高いものなら、より「自己中」になっても不思議じゃない。

 さて、アンダーウェアという広いくくりで情報を求める人って、どんな人たちだろう。そんなことも考えてみるけど、ピンとこない部分がある。
 アンダーウェアのことを、いくらか語ることはできる。だけど広く見渡すと、実は最初からある程度、射程範囲が絞られていることが多いのでは? だとすると、どの範疇で何を言えばいいのかなー...と思うわけですよ。
 だってね、トランクスとビキニとボクサーで分けたら、そのどれかしか履かないって人は少なくないはず。そしたら、例えば他のウェアに興味があるけど、鞍替えするか迷う...なんて場合には、キーワードは変わってくるよね。

 そんなこんなでよくわかんないから、以下つらつらと。

 アンダーウェアに求めるものって、みんな違うよね。おもしろいことに。
 何を重視するのか。自分にとって、譲れないポイントはどこか。一般的に、大きく分ければ2点にまとめられそうだ。とりあえず、アンダーウェアの種類は無視しよう。

 ・履き心地(フィット、ゆったり、ロング、ショート、ローライズ、生地...など)
 ・デザイン(単色、カラフル、文字入り、切り換えの有無...など)

 こう考えると、ゆったり履きたい人はトランクスやゆったりなボクサーだろうし、フィットするのがいい人は体に密着するボクサーやビキニだろう。
 もし何よりも、なにがなんでもデザイン優先の人がいたとしたら、トランクスだってビキニだって何だっていいのかもしれない。でもそんな人は、稀ではなかろうか。
 とすると、やっぱり機能や履き心地がまずあって、その範囲内でこんなデザインが好き...ってなるよね。なんでもアリな人でもなければ、ある程度の選択範囲の絞り込みが既にあるわけですよ(アンダーウェア全般を射程範囲に収めるマニア的な人は、これに当てはまらなさそうですね)。

 これを無視する路線だと、このヘンテコリンなアンダーウェアは、履きやすいのか? などと疑問を持つことはあるかもしれないな。

 僕が気になるとしたら、このメーカーのこのカテゴリーの商品はどうなのか? だなぁ。デザインは見た目だから、Web でも見ればだいたいわかる。履いた時にどう見えるかはともかく。この点は、平置きじゃない写真のあるサイトの方が親切ですな。
 でも、履き心地はそうはいかない。
 こんなふうに思うわけだけど、他の人はどうなんだろう。

 僕はビキニは履かないが、ビキニひとつ取っても案外バカにならない。言葉面は同じ「フルバック」でも、生地の伸びも違えば、全体の大きさも違う。フロントの切れ込み具合も違う。
 自分が履いた時の収まりみたいなもの──しっくりくるかどうか、とでも言えばいいのかな──そこも違うんだよね。いわゆるサイズ感というもの。ほんで、これがかなり重要。僕にとっては。
 繰り返しとくと、ビキニは履かないよ(何着か持ってるけどね)。

 じゃ、ボクサーはどうなんだろう。
 ボクサーがまた、バリエーションが広いんだよね。しかも今は、ボクサーともビキニともつかないようなボクサーもあるし。

 ・ルーズ/フィット
 ・ロング/ショート
 ・ハイライズ/ローライズ
 ・カップの有無

 これだけでも、挙げてみると迷うね。僕は「フィット・ショート・ローライズ」の組み合わせしか履かない。カップは絶対ではないけど、あるのが多い。

 当然のことながら、カップにも好き嫌いがあるからねぇ。カップがある方が好きとか、ない方がいいとか、強調されすぎて嫌だとか、逆にそこがいいとか。
 それはともかく、メーカーでこのカップの具合が違うんだよね。厄介ですな。

 ひとつ TOOT を基本に据えてみるとしよう。
 TOOT は、カップがやや小さめ。でもモデルによって、伸縮性との関係もあってか全体的にゆるくて、カップらしさに欠けたり、ホールド感が足りないこともある。逆にキツキツのもある。
 DUGAS はしっかりホールドするけど、ピーニスの存在が TOOT より強調されぎみ。なんかこう、無駄にモッコリする...みたいな、ね。
 GMW はタコバインダーのおかげか、股間はしっかりフィットする。だけど、本体が TOOT や DUGAS よりやや大きめ。ルーズ気味、つまり同じサイズでもサイズ感が微妙に大きい。
 ムスコさんにはどっちを向いていただくか、カップはこの好みとも関連する。TOOT と DUGAS は、上向きが基本かと。GMW は、下向き収納を想定してるぽい。たぶん。
 どのメーカーのウェアも、上下ともいけるけどね。横がよければ、横でも...。

 ついでに BVD は、基本的にカップがない。BW もだね。股間にゆとりが作ってあるモデルはありますが。

 その他にも「あんどるー」とか「でぃーぜる」とか、以下省略してアンダーウェアのメーカーは多々あるわけだが、それぞれ特徴なりこだわりなりがある。僕は自分にあうサイズがないから、そのへんのブランドは履いたことがないけどね。
 海外ブランドは、日本サイズ相当に換算してなければ、1〜2サイズ落とすのが基本ですね。
 僕が S を好む(というか、ちびっこだから絶対的にそうなる)ということは、国内メーカーを買う傾向がどうしたって強くなるわけで。海外ブランドはお呼びじゃない。
 ちなみに某メーカーのあの「ぶら下げ」機能は、ホントにいいのかなぁ。

 こんな感じでメーカーの特徴はあるけれど、失敗したっていいじゃないか...というくらいに思って、履いてみるのが一番じゃないかな。返品なんて考えずにね。


 昔のことだが、僕も何度か失敗したことがある。
 他のページでも書いている通り、僕はアンダーウェアをほぼネットでしか買わない。リアルショップに、自分のサイズのウェアがないからだ。ちくしょう。
 Webサイトに掲載されているサイズは、曲者である。気を付けるべきは、日本サイズなのか、欧米サイズなのか...だ。あとこれに、メーカーの表示サイズなのか、実測もしくはそれに準ずる表示なのかを加えておくといいかな。

 中にはね、まるで日本サイズの表記のように書いてあるけど、実は欧米サイズでしたー...なんてサイトもあるんだよね。
 これは実際に失敗した時のことだが、とあるサイトに、実は欧米サイズなんじゃね? という、疑わしきボクサーがあった。他のサイトには、M までしかなかったモデルである。ところがそのサイトにだけ、S があった。一言一句までは覚えていないが、日本サイズ相当であると表記されていたのだ。
 で、ホントかなぁ...と思いつつも、デザインがよかったから買ったわけ。きてみてびっくりこっくり。デカいじゃないかーぁ!

 こんなもん、履けるきゃ。嘘つき!

 他にも何度か失敗したおかげで、なんだかコツもわかってきた。さらに安全運転して、ほぼ決まったお店でしか買わなくなったけどねー。新開拓するブランドでもない限り、サイズ感がわかっているから悩むこともないし。
 人間、失敗から学ぶものなのだ。

新しきものは、怖きもの

 9/1 といえば、このサイトがスタートした日である。
 でも作り替えたわけだし、9/1 の意味は少々薄れたかな? 僕が個人的に、開設記念日だな...とちょっくら感慨にふけりでもすればそれでいい。うん、そういうことにしよう。


 さて、先日のエントリーを受けまして。Movable Type の話。
 Aqua⇔Breeze 2.0 に採用したサイト構築ツールは、Movable Type 5.2 である。開始時の、最新バージョンですね。
 セキュリティとかいろんなことで、新しい方がよかろうて...と思ったわけだが、これがなかなか大変であった。なんでか? Webにしろ本にしろ、情報が古いのである。既に!
 例えば Web で MT5 の情報にたどり着いても、そこに書いてあることと、自分が相対峙している MT の挙動とが、一致しないのであった。なんでよ。

 ちょこまかといろんなトラブルがあったなぁ。
 サイドバーに表示されるメニューが重複したり、いらん項目が表示されたり、なぜかロゴがどどーんと大きくなったり...。テスト記事をアップしてからが長かった。
 昔の経験のおかげで、HTML と CSS はおぼろげながら覚えていた。手元に本もあるので、覚えてないことはそれと Web で調べればいい。全部を知る必要はないし。自分がいじりたい部分のことだけわかれば充分だ。
 しかし、その都度わからんことを調べては試す、試行錯誤の繰り返し。やってみたら、一発でうまくいくとは限らないのだ。先に言った通り、なんせ書いてあることが微妙に違ってて、その通りにできない場合もあるんだもん。
 なかなかしんどいものである。

 新しいものはいいんだけど、怖いのはこういうところですね。初心者には、その通りの情報じゃなきゃわかりにくいものなのだ。
 僕も MT に関しては初心者で、こういうことに慣れない人ではある。だからコードをたちどころに理解できるような人には遠く及ばないが、まだ少しはわかるから、ちったあマシだったかもしれない。これ、ホントに初心者だったら、きっともっと困るだろうなー。
 新しいものの宿命だね。

 とはいえ、前と似たようなデザインで、狙った通りに表示された時は嬉しかった。なんていうか、新しいけど戻ってきたぞー...というような。大げさだが、感無量といったところである。
 まだ気になる部分はある。
 今後も細かい所に少しずつ手を入れながら、運営する予定だ。突如デザインが変更されることもあるかもねー。

さて、その本性は

 Movable Type である。

 バージョンが5になってから、大規模サイトも構築しやすくなっているようで。
 詳しいことは他で調べてもらえばいいわけだが、Webサイトの下に、Webページとブログを複数設置できる。つまり、トップを Webページにして、サイトとしての案内などを置き、例えばそこから各分野ごとのブログへいざない、その最新記事をトップページに表示...などといったことができるわけだ。

 ならば...と、僕はこう思っていた。自分でインストールして触ってみるまでは。
 サイトのトップを、Movable Type でいうところの Webサイトにする。サイト案内やプロフは Webページにする。カテゴリごとにブログを設置。各ブログ内に、カテゴリとしてキーワードを設定。デザインは上層の Webサイトで設定すれば、統一も簡単。などなど。
 しかし、想像や事前の情報と違うよ! なんてことがあるわけだ。やっぱりあるわけだ。
 正確には事前の情報不足なんだけど、初心者にそれほど優しくはないのである。こういうツールの類いは。この点は、Wordpress の方が親切かもね。

 サーバに Movable Type をインストールしたら、まず Webサイトを作る。これは必ずやらなきゃいけない。その後、僕はブログを設置する前に、設定をしたりいろいろ遊びがてら触ってみたりした。わからないことを、その都度調べながら。
 そこでわかったことのひとつは、ブログの複数設置はいとも簡単にできてしまうけど、トップへのメニューの表示問題が立ちはだかるということであった。
 可能なら、各ブログの記事を混在させてトップに表示させたかった。各ブログのカテゴリも共通化して、これもトップに表示。できるかできないかといったら、できる。できるけど、カスタマイズが面倒なことこの上ない。
 昔の自分ならしたかもしれないが、今の僕はしないのだ。

 で、いろいろ作業が増えるし、カテゴリごとにブログを作ると、かえって管理が煩わしくなるんじゃないかと思った。それならもう、いっそのことブログひとつで完結させようじゃないか。Webサイトも飛び越えて。
 他の記事で「ブログにまとめることにした」とかなんとか何度か書いているが、それはこういうわけなのだ。

 しかしブログの設置作業中に、ハタと立ち止まってしまった。

 ブログの URL だと?

 Movable Type のブログの URL には、下層の階層らしく URL を設定せねばならなかった。しかも調べると、コイツは最初にうまく設定しておかないと、ブログの URL をトップページとして変更できない。なんとね。
 そんな話、聞いてない。
 まぁ、たまたま偶然な感じで、それがわかっちゃったからよかったんだけどね。わからずにやってたら、後で悲鳴が上がるところである。

 蓋を開けてみれば、思った以上に大変であった。だけどおそらく、後が楽。

Webのツールとはやっかいなもの

 Webサイトの構築に使うツールの話。

 Webサイトを作ろうと思ったら、いくつか方法がある。

 ・自力で HTML を記述、サーバにアップロード
 ・各社提供のブログサービス
 ・Movable Type
 ・Wordpress
 ・XOOPS
 ・Wiki

 他にもあるが、これくらいにしておこう。今は関係ないから。

 まず、一般的な話を。
 安上がりなのは、自力で HTML を記述することかもしれない。サーバは自前で用意してもいいし、容量と相談しながら有料・無料のレンタルを検討してもいい。ただし、手間ですな。
 直接記述しなくても、HTMLエディタなどなら簡単に使えるし、作業は少し楽になる。これも有料・無料のアプリがそれぞれあるけど、例えば Mac でいうと、WebLiFE* などが使いやすくてよく知られてるんじゃないかなぁ。

 もっと楽をしようと思えば、ブログがいい。基本は同じだが、各社のサービスの内容がまちまちで、無料の範囲も違う。そのあたりを比較する必要はある。
 ブログの最大の特徴は、記事が時系列順に並ぶことだ。新しい記事が、常にトップに表示される。だから、日記サイトには最適だ。

 さて、ここらで転換いたしまして。Aqua⇔Breeze での変遷を辿りつつ、話を進めよう。

 先に、現在の Aqua⇔Breeze はどうしているのか? Movable Type を使っている。
 かつて Ver.1.x をスタートした時のサイトの見た目は、今よりも普通のサイトっぽかった。しかし内容からすれば、ブログでいいんじゃね? という程度のものであった。仮にそう思われても、至極もっともではあったのだ。ブログなら開設は楽だし、更新も手間がかからない。なのにどうして?
 当時ブログを使わなかったのは、自分の使い方にあわないと思ったから。そういうことだね、うん。

 ブログは、おおよそ以下のような点が不都合だった。

 ・トラックバックは当たり前、みたいな空気がある。
 ・コメント機能を切るのは失礼だ、なんて雰囲気。
 ・まとまった情報を扱うのは不得意。

 今と昔とでは、少し空気感が異なるようだが。
 繰り返しになるが、ブログは記事を時系列に扱う。だから日記とか、ニュースなど新しい記事の掲示に向いている。もともと欧米なんかじゃ、プログラマが新しいアイデアを提示したり意見交換をするのに使って広まったツールだ。
 そういう性格の道具なのだ。

 のんびり運営したい。静的コンテンツや、まとまった情報も扱いたい。そう思っていた僕には、ブログは向かなかったのである。

 話が逸れるが。
 この点、mixi も似たり寄ったりだ。誰でも登録できるとはいえ、オープンではないしね。加えて、義務的な慌ただしさの中に放り出されるのはゴメンなのだ。今ならば、Facebook もまた然り。もちろん、当時はなかった。
 ブログも mixi も Facebook も、反応スピード重視の人向けだね。そこはいろいろ考えられていて、テンポよく交流するにはいいツールだと思う。
 もっとも、mixi はとうの昔に「招待制」にあるべき性格や利便性(関係性)を失ってしまって、個人的には存在意義そのものに疑問を持ってしまうが。今、いろいろと次の手を打ってるようですね。その点、まだ期待は持てる。
 ちなみに mixi や Facebook はやってない。やってもいいけど、やってない。
 SNS は普通のサイトと毛色が違うので、ここではこのくらいにしておこう。

 で、スピードを重視せずに、静的コンテンツを入れる、という希望だけなら、ブログの機能を駆使すればできなくはない。
 また、サイト全体をブログにせずに、一部にブログを導入する方法もある。これは、普通の Webサイトから、外部のブログにリンクさせるということではない。サイト内に、ブログを置くのだ。
 実際 Ver.1.x の Diary には、当初ブログを使うことを検討していた。コメントやトラックバックの機能を切って、サイト内に置くのだ。サイト内にあれば、ブログの「しきたり」に従う必要もない。
 デザインを他と統一すれば、あたかもブログではないもののように見せかけることは可能だ。Movable Type や Wordpress のようなツールであれば、実現可能ではあった。
 しかしデザインを統一するカスタマイズが面倒なので、この案は却下した。

 普通に HTML だけで作ると、更新が面倒だ。Flash で作るのも、重くなりやすいからイヤ。面倒なことはキライ。やっぱり手抜きがしたい。
 そういうわけで、このサイトは XOOPS でスタートした。何かいい方法はないかなー...と思っていたら、ちょうどいいツールが都合よく目の前に姿を現したのだ。
 Movable Type とは少し違うが、XOOPS はコンテンツ管理システム(CMS)である(当時の Movable Type は、まだブログ構築システムの色が強かった)。他にも Geeklog とか、似たツールはいくつかある。CMS は、データベースを使って、コンテンツの管理や使い回しがしやすいようになっていることが多い。

 XOOPS は、内部に Wordpress を設置することもできたのだが、これもなんだか面倒でやらなかった。
 日記に使ったのは、モジュールだ。ブログとは違うが、ブログぽく使える日記用のプログラムを導入していた。更新はラクチンだったなー。更新の手間も、ブログと変わらなかった。

 そして現在。
 Aqua⇔Breeze 2.0 では、XOOPS を使うのをやめた。なぜかというと、カスタマイズをしすぎたのも原因のひとつなのだが、プログラムのバージョンアップが面倒になっちゃったのだ。
 いや、標準機能で使っているぶんには、バージョンアップも苦ではない。それ自体は上書きで簡単に済んでしまう。でも CSS とか各種ファイル本体に手を入れていると、バージョンアップしたそのファイルを再度カスタマイズして、また上書きせにゃならぬ。この修正が面倒だった。
 あれは失敗だったな。

 そうしてこうして、XOOPS と選手交代で起用したのが、Movable Type である。

 ただ、それもすんなりと決まったわけじゃない。そう決める前の最有力候補は、Wiki だったのだ。
 普通のサイトを作る際に面倒なことのひとつに、リンクの管理がある。外部リンクではない。サイト内のリンクを更新するのは、けっこう面倒な作業なのだ。HTMLエディタを使うと、このあたりの作業を軽減してくれるわけですね。
 一方、Wiki ならリンクの管理も楽である。簡単に言うと、このキーワードをリンクにするよ...という書き方をしてやれば、その都度ページを気にしなくてもリンクが出来上がっちゃうのだ。
 これなら、データベースを使わなくていい。階層構造にしなくても、そうなっているように見せかけるのもわけはない。
 しかし! Wiki には独特の書法があって、それを覚えれば便利な反面、使いこなすには「覚えなきゃいけない」のが実情だ。これはなかなか面倒だ。どこまで面倒くさがってるんだか。

 で、Movable Type や Wordpress も昔と随分変わってるし、そっちでいいかな...と。
 一応、時系列に並べたくない記事も表示できるし、今まで分けていたコンテンツもいっそのことブログに入れ込んで、タグとキーワードを使い分ければなんとかなる。当然ながら昔とは違った使い方になるが 、それも悪くない。

 もちろん、XOOPS の最新バージョンとゴッソリ入れ替えることも考えはした。でも、たぶん同じドツボにハマると思う。それに、一部データベースにおかしなところがあった。それならデータベースも消して、サラの状態から始めようかな。と、そう考えたわけだ。
 すべてを一旦リセットするなら、どちらでも同じようなものかも?
 しかし実は、そうでもない。 XOOPS の場合、別途インストールするモジュールの問題もあった。バージョンが大幅に変わるとなると、またモジュール探しからしなきゃいけない。さらに、それを再びカスタマイズもしなきゃいけない。なかなか手間である。
 あと、どうせなら違うツールを使ってみたかった。

 Movable Type と Wordpress を比較すると、導入の敷居が低いのは Wordpress だ。でもね、あとが面倒なんだよねー。HTML と CSS は少しはわかるからいいけど、PHP なんか知らんし、今更覚えられるきゃ。これってまるで、ドイツ語と英語の関係ですな。
 HTML のカスタマイズは必要最小限に抑えて、可能な限り CSS で対処したい。これもポイント。
 実際どっちが楽なのかはよくわからないんだけど、僕には Movable Type の方がいいと判断した。ウィジェットという仕組みがあって、そこの HTML をオンラインで直接編集すればいい(僕はオフラインにファイルを残してるけど)。残りは CSS をいじるとして、そのファイルも実質2つしかない。

 そういうわけで、Movable Type なのです。ただし、体裁と更新はブログの利点を活かしつつ、運営の仕方は Webサイト的に。だから、コメント機能は使ってない。
 もちろん実際に使ってみるまでわからなかったこともあるけど、なんとか折り合いはついた...ような気がする(この話は、また後日)。
 めでたし、めでたし。

おいしい梨

 梨の季節だ。シャリシャリ。
 リンゴも好きだけど、ナシも好き。リンゴよりあっさりに感じるのは、水分が多くてシャリシャリしてるからだろうか。
 それも影響しているのかどうかは定かでないが、リンゴに比べてナシは当たり外れの差が大きいような気さえする。おいしいのと、そうでないのと。

 おいしい梨といえば、何を思い浮かべるだろう。
 幸水か二十世紀を挙げる人が多そうだ。あるいは豊水か。

 でも、もっとおいしい梨がある。なーんだ。新水である。自社比的に...だけど。
 幸水の間違いじゃないの? なんて言われそうな名前である。でも、新水で間違いない。たぶん知らない人も多いんじゃないかと思う。いや、案外知られてるのか? どうなんだろ。
 よくわからんけど、どんなワケでもそんなわけで、おいしいったらおいしいのだ。

 新水は生産量も少なくて、しかも収穫時期が短い。
 収穫は、おおよそ8月の下旬だ。豊水や幸水、二十世紀の旬が1か月とかそれ以上あるのと比べると、ほんの一時期にしか収穫できない。だから、市場に出回る数も少ない。一般市場に出荷しない生産地も珍しくないのだ。たぶん。
 これじゃ、ほとんど目にしないのも当然だよね。

 広島でも、梨狩りといえば主役はやっぱり幸水だ。

 梨の味って、苦味がある方が好きって人もいる。淡泊な味がいいとか、ほんのり甘いのがいいとか、そんな人も。こうなると、新水はお呼びじゃないかもしれないなー。
 なんでか?
 幸水もおいしい。でも新水の方が、甘さが強いのだ。だから、甘味の強い梨なんてイヤだという人には、好かれなくても不思議じゃないよね。

サイトとカワセミとマサキ

 なぜ Aqua⇔Breeze などというサイト名にしたのか。問いを挙げておいてなんだが、明確な答えはない。
 サイト名がコンセプトや方針を表しているかといえば、まったく関係がない。そう、関係ないのだ。ないったら、ないのだ。
 ハイ、終了──。
 あ、いや、怒らないでー。そいうことにはしませんよ。一応なんとなくこんな感じで...という理由はあるので、そこらへんを書いてみるとしよう。

 出発点は、サイトの色だな。
 色については、想定した野鳥がいる。最初から想定していたわけではないが、途中からそうなった。
 もともと派手な色にする気はなかった。迷いはしたが、青系か緑系でナチュラルな、あるいは淡い風合いということだけは、わりと早い段階で決めていた。
 いくつか試作したのち、選んだのは青。そこに他の色をプラスする際に、結構悩んだ。あーでもない、こーでもない、といじくりまわしたものである。
 最終的に意識したのが、カワセミである。

 カワセミは、水辺に棲む小型の鳥だ。スズメより少し大きいくらい。水辺の宝石、などと呼ばれたりする。
 野鳥好きにとっては、初見を叶えていない見たい鳥のトップクラスに常駐している。人気の高さが伺える。ベテランさんなら、未だ見ぬ鳥ということはあまりないと思うが。
 野鳥に関心がない人にも、わりと知られている鳥である。

 百聞は一見に如かず。

 Alcedo_atthis_3_(Bohus_Cicel).jpg > Wikipedia より。

 キラキラな鳥ですね。水辺の宝石(ちなみに、左が♂、右が♀)。

 クチバシが大きいのは、食性の影響だ。
 あるいは木の枝から、あるいはホバリングしながら川の小魚を狙い、水に飛び込んで獲物を捕る。日々ダイビングに精を出す鳥なのだ。
 そういうわけで、水の綺麗な場所を選ぶ傾向が強い。水辺の生き物を指標とする環境調査では、カワセミがいれば水質がよいとされる(これは指標のひとつであって、実際には指標の各クラスの生物が何種類いるかで総合的に判断する)。

 なぜ「セミ」なのか。
 カワセミは土手に穴を掘って巣を作るのだが、雛の鳴く声がセミに似ていることからそう名付けられたようである。他にも、ヤマセミという仲間もいる。
 仲間には他にショウビンがいる。アカショウビン、ヤマショウビンなど。

 実物のカワセミを見たことがなくても、聞いたことはあるかもしれない。さて、どこだろう? 宮沢賢治の「よだかの星」である。「やまなし」にも出てくる。どちらも教科書に掲載されていましたな。
 ヨダカには、ハチドリとカワセミの兄弟がいることになっている。また「やまなし」では、上から青いものが飛び込んでくる描写がある。
 そういえば、お父さんの「ふうん。しかし、そいつは鳥だよ。かわせみと云うんだ。大丈夫だ、安心しろ。おれたちはかまわないんだから」という言葉は、正確ではないな。カニも採ることがあるから。兄弟、危うし。ひええ。

 あれよあれよと、話が逸れまくっている気もするが──。

 とにかくカワセミを参考にしたこともあり、サイト名はその色を表すような Aqua に、Breeze をプラスした。
 サイトの色は、厳密には Aqua ではないが。そこは突っ込まないで! 正確というか標準的な分類はともかくですね、Aqua ぽいってことでいいじゃないか(え?)。

 Breeze は、そよ風ですな。
 風のような、ささやきのような。何でもないもののような。普段気にかけられずとも、変わらずそこにあるもの。そよ風のように、ちょっとした「気分」を味わえてもらえたら、それもいい...。そんな気持ちでくっつけた。

 矢印は、ただの飾りです! と言って、差し支えない。たぶん。
 なんにしろ、見た人が、それぞれ自分の感じ方で受け止めてくれれば、それでいいと思う。


 ちなみにドメイン取得後に調べてみたら、似たサイト名のエロサイトがあったりして、うそーん...とか思ったのでありましたん。先に調べとけよ。

iPhone アップデート手順

 iPhone の iOS のアップデートは、本当はそんなに難しくない。特に今は、母艦の Mac や PC に接続しなくてもアップデートできちゃうので、ますますラクチンなことこの上ない。
 でも、失敗することだってないとはいえない。
 やり方がマズイ場合も、たぶんある。とはいえ何かエラーでもあれば、失敗する時はやっぱり失敗するんだけど。それから、やり方がわからないよ! て声をよく聞くのも確かなんだよね。
 そんなこんなで、備忘録を兼ねて、ここに記しておこうと思う。
 ただしこれは保証ではなくて、僕がいつもやっている作業なだけなので、後は自己責任でね? ネットにはこの手の情報がわんさかあるから、よくよく調べるとよろしいかと。

 さて。アップデート作業に移る前に、やっておくといいことがある。設定変更と、各アプリのデータのバックアップだ。
 設定の変更は、もう終わっていたらしなくていい。初期設定では都合が悪いので、必要なら変更をオススメする。

 まず、設定変更について。変更すべきは、自動同期である。
 母艦たる Mac や PC の iTunes の環境設定に「デバイス環境設定」がある。ここに、自動同期の設定項目がある。「iPod、iPhone、および iPad を自動的に同期しない」とかそんな文言で。ここは「自動的に同期しない」ことをオススメする。
 なぜなら。自動的に同期されると、同期したくないタイミングで同期されるからだ。同期せずにおけば、勝手にカレンダーや住所録を同期されることはないし、それらのバックアップを取っておく余裕もできる。
 初期設定では、同期する。自動同期は便利なんだけど、自分で同期ボタンをポチンとするのが僕は好き。トラブルも少ない。たぶん。
(補足:iPhone と母艦を接続後に、デバイスのリストから iPhone を選択すると、この中にも自動同期の設定がある。これも手動に変更しとくといいですね)

 一方の各アプリのデータのバックアップは、同期されるアプリのもの。標準でいうと、代表格はカレンダーと住所録。他に、写真を同期している場合は、そのアプリやフォルダ。音楽に関しては僕はトラブルを聞いたことがないので、そう心配しなくてもいいかも。iTunes のバックアップがしっかり取れていれば、なんとでもなる。
 と書き連ねたが、つまりは母艦のバックアップも取ろうねってこと。備えあれば、憂いなし。
 カレンダーと住所録については、iCloud などのクラウド上にバックアップを取るのもいいだろう。僕は現在スノレパさんなので、できないけど。写真は、Mac なら「イメージキャプチャ」を使えば、Mac にダウンロードだけできちゃう。
(補足:こういう作業を自由にやりたい場合、iPhone を母艦に接続した時、iTunes が自動で起動しないようにしておくといいでしょうねー)



 では、いよいよアップデート作業でござる。おおまかには、バックアップ→アップデート→復元...と進める。
 桁の変わるアップデートでは、僕はこれら一連の作業をセットで行っている(前述の作業も含めて)。

 1. iPhone の各アプリのデータをバックアップ(念のため)
  ・写真のバックアップ
  ・データベースの同期
  ・メモの同期
   ......など、必要なアプリのデータを個別に。
  (通常は、すべてのデータが iTunes でバックアップされる)

 2. iTunes を最新版にアップデート(していない場合)

 3. iPhone を母艦につないで、iPhone のバックアップを取る
  (iTunes で iPhone を選択して「バックアップ」か「同期」をクリック)

 4.「購入した項目を転送」(通常はバックアップで送られるが、念のため)
   iTunesデバイスリストの iPhone をcontrol+クリック(右クリック)。
   →コンテキストメニュー
   →購入した項目を転送
   ※不要なアプリは iPhone と iTunes 両方で削除。
    必要なら iTunes で残す。

 5. 最後にもう一度バックアップ
  (復元は最新がいいから、まぁ念のため)

 6. OS をアップデート

 7. 復元
  アップデートが終了したら、データを復元する。
  ここは挙動が、バージョンによって違うようですね。

  おおよその流れでいくと、
   システムが復元される
   →「バックアップから復元」クリック
   →データ転送が行われる

 復元は手動でスタートすることもあれば、あっちが「復元する?」って聞いてくることもあって、僕自身、毎回戸惑っていたりして。
 でもだいたいアップデートが終わったらバックアップから復元する流れだから、戸惑うことはあってもわからないことはないと思う。
 後は勝手にやってくれるので、データ転送が終わって再起動されるまで気長に待つだけだ。

 これにて終了!


※アップデートとデータ転送が終わると、iPhone がコンニチハしてくるので、指示に従う。事故がなければ各アプリのデータも引き継がれてるので、アップデート前の続きですぐ使い始められる。
 万が一、データが復元されていない場合は、アプリごとに個別に取ったバックアップから復元ですね。

彼は誰なの、何者なの

 相方、ツレ、彼氏、パートナー、大切な人...以下省略...。
 呼び方はいろいろある。「相方」という呼び方が嫌いな人もいる。そういう人はたいてい彼氏がいない...かどうかはさておき。じゃあどういうのがいいのかなぁ。
 とそんなことを考えてみても、よくわからない。考え始めると、延々とループするのです。ホントに。で結局は、素直に「彼」でいい気がするんだな。

 彼氏を彼氏と呼ばずに言い換えるのは、なぜだろう。彼氏と呼ぶのに、抵抗があるから? あるいは差し支えがあるから?
 気恥ずかしさか。そう呼ぶのに適した状況じゃないからか。
 直接的な言い方を避けるべき状況はあり得るにしても、常に避ける必要があるのか疑問は浮かぶ。何が問題なのかなー。

 疑似的にでもいいから、夫婦に近い感覚になりたくて、「彼氏」ではなく「相方」と呼びたい人もいるかもしれない。「彼氏」だと、どうも軽い感じがしてしまう...と。
 相方と呼ぶのが好きという場合は、ひとまずよしとしよう。
 ところが、彼氏と相方を、なにがしかの意味によって使い分けている人もいる。でもそれは個人的な意味付けであって、共通認識も、固定した意味もない。もうこうなってくると、何がなんだか...。

 ま、現状は結婚がないから、夫や妻に相当する言葉がないわけだ。そう表現することはあるが、結婚ではない。その状況になりえず、同時に離婚も成立しない。付き合い始めて、別れるまで。永遠に「彼氏」。そんな感じはしてしまう。
 この点、夫婦に近い感覚になりたい時やそれに近い関係を築いている時には、「彼氏」じゃ物足りないのも頷ける。ただし代わりの言葉がないし、「相方」といった言い換えがベストかどうかはわからない。

 深い関係を続けるカップルがいる一方で、それでもなにやら希薄なものを感じるのも偽りのないところである。
 ずっと「彼氏」であることが当たり前のように受け入れられて、それ以上になることもなく、たとえ別れても「離婚」のように重大ではない。もちろん、一個人の純粋な感情的重大さの違いはある。でもそれは、男女間でも同じことだ。結婚から離婚に至るプロセスとは別儀だ。
 結婚以上のステップがないのは、気持ちは若いままでいられるかもしれない。けれど確かに、ある種の人生的な成長のプラスがないかも。優劣ではなくてね。
 彼氏以上、夫婦未満?

 一方にあって他方にないものは、互いにあって当然だ。

 夫・妻と表現できる相手がいたとしても、夫・妻そのものはいない。天地がひっくりかえっても無理である。
 だから、こんなことになるのかも。なんて思ったりして。

(今後、同性婚が可能になったとしても、既存の言葉がそのまま当てはめられることはないんじゃないかなぁ。無理に当てはめる必要もないしね)

ヤルからにはワケがなくもない

 なぜ、サイト運営を始めたのか。これも昔話ですな。
 理由はいくつかあるのだが、ここではその中からゲイに関する部分に絞って書いてみる。

 3〜5年前の話から始めよう(2005年からなので、2000年〜2003年頃のことですね)。2年も幅があるが、気にせずに。

 いろんなサイトを見て、いろいろ思ったりするわけである。特に、僕のようなコドモはね(笑)。話を思い切って省略するが、とにかくいろいろと考え込んでしまったりしていたわけである。細かいことは、また別の機会に書くかもしれない。
 そういう状況にあると、訪れるサイトでまた感じることがある。

 あぁ、こんな自分押し殺して、僕は...。
 もっとラクに生きられたらなぁ...。

 要約してしまえば、こんなふうに言えるだろう。
 しかし、である。それがいつの頃からか、感じ方が変わった。同じことが、「苦しい」とか「辛い」の側ではなくて、「嬉しい」「楽しい」の側で感じられるのだ。
 同じ感じるにしても、どちら側から捉えるかで全然気持ちが違う。不思議であった。
 そう感じられるようになった下地があるわけなのだが、ここでは Web に関してのみ言っておこう。
 あちこちのサイトを徘徊するうちに、僕は自分の気持ちを楽にしてもらっていた。そういう捉え方ができるようになったのだ。

 感謝。
 サイトを立ち上げた、大きな理由のひとつである。

 もっとも、僕のサイトを訪れて、どう感じられるかはわからない。どっちかというと、かなりあほなことばかりが書いてあるサイトだしね。
 とりとめもなく、思い付いたことを書き連ねているだけ。まとまりはないし、悩みを抱えた人へのアドバイスなど何もない。ゲイへの理解を広めようと、啓蒙しているわけでもない。その感謝に報いようとしているわけでもない。
 誰かを救おうとか、そんなおこがましいことも思っていない。そもそも、そんなことはムリなのだ。
 せいぜい僕にできるのは、自分はこんな人で、こんなことを感じている...などという日常を、まがいなりにもダラダラと書くことだけである。
 そこから誰が、どんな気持ちを抱くのか、皆目見当がつかない。僕の意図とはかけ離れた想いになる人も、きっといるはずだ。だけど、今はそれでいいと思っている。
 悪く捉えられたり、揚げ足を取られることだってあるだろう。Web なんだし、これは僕の個人的なサイトにすぎないし、嫌ならそっとウィンドウを閉じていただきたいものですが。

 憧れのような気持ちもあるなぁ。
 いろんなサイトに触れて、生き生きとした様子を垣間見て、自分もそうあれたらいいな...と思うのだ。サイトを運営することで、また何か変わることがあれば、それもまたおもしろい。
 変わらないと思うけどね。

 そうは言っても、一番ものをいったのは、もっと単純なことである。「作るのが楽しい」という。自己満足につきる。

選べるもの、選べないもの

 原発は、どうなるんだろうね。

 情報はいろいろとあるわけだけど(出てこない情報もたくさんある)、推進派と反対派のやり取りを見ていると、疑問を感じることも度々ある。
 ひとつの疑問について、書いておこうと思う。

 原子力発電反対の声に対して、じゃあオマエは電気を使わないのか、とかなんとか言う人がいる。でもねー、原子炉を勝手に作って勝手に金をつぎ込んで、他の発電技術の研究を立ち遅れさせたのは、誰なんだろう。既成事実に対して「じゃあオマエは...」と言うのは、どうもよくわからん。
 原発はいらないと言う人は、昔からいた。それを無視し続けたのは、誰だろう。国や電力会社の勝手な振る舞いを黙秘し続けたのは、誰だろう。見せかけの安全神話に騙されたのは、誰だろう。反対の声に耳を傾けようとしなかったのは、誰だろう。
 更に、仮にどうしても原発に頼らざるを得ない事情があったとしても、より安全な原発があるというのに、これを置き換えるのを妨げているのは誰だろう。技術面での難しさはあるが(そもそもこれがあり得ない)、置き換えは人為的に避けられている。
 事実上、同じ場所で置き換えはできないので、新設するしかない。しかし新設でも、安全性の高い新技術が使われることはないだろう。

 危険が伴うとわかっているものに対しては、充分な安全対策と危機管理体制が取られるものだ。しかし原発は、この点があまりにお粗末である。事故は起こりうるが、その備えは手薄で、廃炉すらままならないのが現実だ。昔からわかっていたことにもかかわらず。
 危険だとわかっていながら、利権やカネも絡んで、使いたくて仕方がない。でもそんなことを表立って言えるはずもなく、嘘でも「安全」と言い続けて、それが真実だということにしている。
 そんな原発を信用したことは、生まれてこの方一度もない。中学の夏休みの課題の「原子力の日作文コンクール」で、「原子力発電はいらん。他の発電技術に換えるべし」というケンカ売ってるような内容の作文を書いた人ですからねぇ(当然ながら、こういう作文コンクールは、そのすばらしさを挙げて褒めて、夢のあるものにするのが「正しい」対処方法ですよー。それを本当に「夢」だと呼べるのかどうか、はなはだ疑問だが)。

 政権がジミントーに移ると、原発の報道はめっきり減り、再び推進に舵は切られた。当然そうなるだろう。もともと強力に推進していた政党が戻ってきたわけだから。
 原発に関してミンシュトーの対応がよかったとはまったく思わないし、ここで政党の政策を云々言うつもりはない。しかし、震災がジミントー政権下で起きていたら、どうなっていただろう。原発に関しては、もっと酷いことになっていたかもしれない。
 幸いにして、自分たちがゴリ押しで推進しまくってきた原子力発電所は、ヨソの政党の政権下で惨事に見舞われた。自分で責任を取らなくても、誰も何も言わなかった。逆に、初動の対処もおぼつかない政府を批判していればよかった。本当は当事者なのに、まるで高みの見物である。
 阪神の時も、そのスタートに動いたのは、自陣の首相ではなかった。危ないことは他党が背負ってくれて、ラッキーな党である。

 日本の電力会社は、一般企業なら独禁法に触れる状態と言っていい。地域ごとの独占販売を、法律で守られている。その自由化は、やいのかいのと理屈をつけて退けられている。
 発電と販売(送電)を分業しようという動きがあるが、それじゃあ何の解決にもならない。今と変わらず、消費者の電力の選択肢は、ないに等しい。

 発電、もしくは発電と販売のすべての自由化が実現して、ユーザーに電力会社の選択肢ができたなら、もしかしたらその時初めて、原子力発電を使う人たちに対してこう言えるのかもしれない。
「オマエは電気を使わないのか?」ではなくて、「オマエは原子力発電を選んだんじゃないのか?」と。

(ただしそれでも、原子力発電を選びたくない人にも「原子力発電」というリスクを継続して背負わせる状況は変わらないけどねー)

どのコがお好みですか?

 僕が使っているデジガジェは、複数ある。
 複数あるって、贅沢だとも言えるけど珍しくもない。それをケータイとか通話可能なものに限ると、けっこう「え?」ってなったりするなぁ。
 でも僕の、ガラケーと iPhone の2台持ちなんて、かわいいもんだけどねー。しかも、au のガラケーは通話するけど基本的にネットにつながないし、iPhone はネットにつなぐけど通話しない。完全に使い分けてるから、複数持ちのデジクラの皆様方とは少し事情が違うと思われる。

 それはともかく、前々から噂されていた iPad mini が発売されたのは、2012年の秋も終わる頃であった。
 iPad はちとデカすぎるから、7インチクラスのタブレットが欲しいと思ってはいた。mini だと少し大きく感じたけど、薄さとあわせて、許容できる範囲内であった。Retina だったら、なおよかったけど。
 celler版は、確かに便利だろうと思う。でも、そこにこだわる必要もなかったから、迷いもなく Wi-Fi版を購入したのであった。

 実際に買ったのは、12月のこと。
 あの頃は、リアルショップの在庫がなくて、お持ち帰りはおろか、1か月以上待たなきゃ入手できないような状況だった。3か月待ちという店もあったようで。
 実際にモノを見てみないとなぁ...と思っていた僕は、11月の中頃に実機を触った。ほんで、これなら欲しいかも...と思ったのが始まり。それから急速に欲しくなっちゃって、入手するなら1月頭までに! というワガママぶりで、これまた性急である。
 だから、それが可能な AppleStore でポチッたんだけどねー。予定通りなら 1/3 にお届けだったのが、年越し前の 12/23 に届いてしまった。ありがたいわー。

 他機種も、もちろん検討した。詳細は省くが。

・そこまで複雑なことに使うつもりがない。
・iPhone から分担させたい作業がある。
・データを使い回したい。できれば共有したいデータもある。
・おそらく一番よく使うのは、Evernote。
・SDカードから写真を逃がす一時的な保管場所として、写真の取り込みもする。
・必ずしも、常にネットにつなげられる環境にある必要はない。

 このあたりがポイントだろうか。
 この中で、データの使いまわしというポイントがけっこう大きい。Mac や iPhone にある文章系のデータを、タブレットでも使いたいのだ。そのいくらかは、iPhone からタブレットに移行したい。それを考えると、データの使い回しも楽だし、操作感も iPhone とほとんど同じ iPad は、よりベターに思えたわけですな。

 そんなこんなで、iPad mini を入手したわけです。満足してますよ。
 こういうものってデジクラでもない限り、目的とかハッキリしてる方が、機種の選択もしやすいんじゃないかと思う。

 付け加えておくと、デジクラの皆様方は尊敬してますよ? 大切な情報源でもあるしね。

Ver.1.0 開設への道のり

 Ver.2.0 の話は、他であれこれと書いている。こっちはその前の、サイト開設までの話。以前、開設理由として書いたページの修正版である。
 もとの日付に戻そうかと思ったのだが、こっちに書くことにした。

 昔話から始めよう。

 7年前になる(2005年から7年前)。
 1998年のこと。趣味のサイトを、ローカルエリア内に作ったことがある。遊びですな。自分で HTML を書いて、ローカルに作って遊んだだけで、公開はしていない。
 ちょうどインターネットの一般ユーザーへの普及が加速し始めて少しした頃である。そしてそれは、今は、あるいはかつては「大御所」なんて呼び方をされるサイトが存在した頃でもある。
 そういうサイトをたまには僕も見ていたわけだが、その話は置いておいて。
 ただその影響もあって、似た類のサイトを作ってみようかなという気持ちは、これまでに何度か持ったことがある。ずいぶん前のことに感じるな。でも作らなかった。思い切りが悪いものである。

 その頃作った趣味サイトは、試しに遊びで作ってみたものだったし、あまりにもお粗末であった。それに回線の速度もまだまだ遅かった。ダイアルアップ接続で「ピポパポビビーガガガガッ」なんて音をネットにつなぐたびに聞いていた時代だ。平成生まれにはわかるまい。
 どうやって読み込みを速くするか? サイトの容量を軽くするか? なんてことにけっこう気を遣っていたものだ。

 このままお遊びローカルサイトは、しばらく放置される。
 不要なので HTMLファイルは削除したが、サイトの構成や内容についてはメモを残していた。いつか本気で作るかもしれないと、心のどこかで思っていたから。
 Aqua⇔Breeze 開設の約1年前、これをちゃんと公開できるように、試作を含めて遊びを再開した。何年ぶりだか。

 そうして趣味サイトを修正しながら、ふとセクシュアリティに関するサイトも作ってみたくなった。ふと。悪魔のささやきでもあったか?
 しかし、である。そうなると、ほどなく気持ちが「絶対作っちゃえ」に変わった。つくづく、あほである。なぜか趣味サイトの制作は途中でほったらかしにして、あれよあれよとこっちの運営を始めてしまった。

 このサイトは、昔々に書いていた細々としたものなどを組み合わせて立ち上げた。ほとんど勢いで。
 もうこんな歳だなぁ...と思わなくもない年齢だ(当時 31歳)。特別に気にしているわけでもない。わけでもないのだが、ともかく、もっと若い人たちに触発されたような部分もある。
 それよりも、頭の中がコドモなのだ。これが一番問題か。

 いくらか、下書きのようなものはあった。
 公開予定はないけど、作るとしたら何を書くだろう? そんな気持ちで、メモ程度に書いたものだ。アウトライン・プロセッサ風の、高機能メモ帳のようなソフトに書き溜めていた。これは5年くらい前(2000年頃)のことだと思う。
 それを下敷きにして、さらに趣味サイトの内容もいくらか混ぜちゃって、公開に踏み切ったわけだ。セクシュアリティだけにこだわることはない。また、その内容は含むけど、それだけに絞るつもりもない。それは、他のサイトに任せればいい。単なる個人のサイトでいいもんね。

 だけど、あんまり誰かを必死に呼び込む気がなくて、運営はしているけれどロクな宣伝なし。小心者だからねー。
 それでも断絶した環境は考えていなかったので、いくつかのサイトへリンクさせてもらった。感謝。この 2.0 ではひとまず撤去したコーナーだが、リンクのことはまたおいおい考えようかと思う。

移り気なわけではないけれど

 Twitter を使うには、アプリがなくてもいい。けれど Web のサービスでは、サードパーティーの専用アプリの方が使いやすいなんてことが往々にしてある。
 僕はといえば。Twitter の公式アプリは使っていない。インストールはしてるけど。

 Twitter はデスクトップで見るか、スマホなどのモバイル端末で見るか。僕は圧倒的に、iPhone で見ることが多い。休みの日には、たまにデスクトップで見てることもある。
 その人の生活スタイルだったり、パソコンやモバイルの使い方だったり、それぞれの都合でこのバランスは違うはずだ。正解はない。自分にとって心地いいやり方が正解なんだろう。

 さて。iPhone の話からしよう。
 まずは、こちらをご覧いただきましょうか。自分の iPhone の、1ページ目の下2段である。一番下は、Dock ですね。

 20130615_twitter1.jpg

 右端のフォルダは無視で。
 このように、Twitterクライアントが複数インストールされている。
 なんでよ!? こんなにいらんでしょ? そうです。いりません。アタマおかしいです。それどころか、ここに見えていないアプリもあるんだなぁ。ますますアタマがおかしいですな。
 詳しい人なら一目瞭然だろうが、ここにある3種は、すべてマルチユーザー対応である。ひとつのアプリで、複数のアカウントを入れ替えて使える。

 じゃ、なんでこんなに持ってるのー?

 もともとは、ひとつに絞りたいと思っていた。ずーっと昔のことだけど。
 でもねー、いろんなアプリを使ってみるのってけっこう楽しいし、なんとなくどれも捨てきれないんだよねー。捨て難いんじゃなくて、捨てきれない。
 いくつかの紆余曲折を経て、今の各アプリの役割はこうなっている。

 Tweetbot は、メイン。
 Tweetlogix は、サブ。および、Aqua⇔Breezeアカ専用。
 Twittelator は、表アカ専用。

 20130615_Tweetbot.jpgTweetbot は一番気に入ってるので、メインですな。メインだけど、裏アカ専用。裏アカがメインかよ。
 タップすると、リプライなどのよく使う機能が表示される。横にフリックすると会話を表示できたり、長押しするとコピーできたり。機能的には Tweetlogix の方が上かもしれないが、メニューが日本語表示だし、使い勝手や見てくれが好きだ。
 あと、最近のアップデートでできるようになった画像付きツイートだけの連続表示が、ある状況下においては地味に便利だったりする。

 20130615_Tweetlogix.jpgTweetlogix は昔も今もサブなのだが、サブとしての使い方は変わった。昔は、Tweetbot でミュートしたユーザーを表示する専用機であった。リスト使えよ。そんな声が聞こえてきそうだ。リストも使ってますがね。
 今は、ふたつの役割がある。
 まず、ひとつ。必要とあらば、ツイートの投下だけを担当する。TL は追わないけど、投下だけね...という時に。
 アプリを開いたら、TL は自動で更新して、ツイートを読み込んで欲しい。だけど、読んでる時間がない時に更新されるのは、なんだか嫌だ。この目的では Socible を使っていたこともあるが、マルチな投下を除けば Tweetlogix の方が使いやすい。基本的にツイートのみするので、Tweetlogix では全ユーザーをミュートしている。
 かゆいところに手が届くような機能的なアプリといったところ。次の会話を追えない点では、Tweetbot に劣るかな。
 もうひとつの役割は、Aqua⇔Breezeアカ専用。ここはマルチユーザーで素直に切り換え。

 20130615_TwittelatorPro.jpgTwittelator は、この中では一番古くから使っているアプリだ。表アカ専用。
 僕は表アカから Twitter に足を突っ込んだのだが、最初に使ったのは TwitBird であった。TwitBird は未読管理がしやすい、見た目が楽しいなど、いいところがたくさんあるのだが、読み込みに時間がかかる。TL へのアクセスも、やや手間だ。それで、Twittelator に乗り換えた。それ以来のおつきあい。
 必要な機能は一通り搭載している。
 残念なのは、ユーザーのプロフ表示が不充分なことと、時間が相対表示のみで、絶対表示にできないことかな。ギャップの読み込みも、少々難アリ。
 Twittelator には Neue という生まれ変わりバージョンもある。デザイン的には Neue の方が凝っているが、Pro のスッキリ感は好きなので乗り換えていない。

 ちなみに、僕が欲しい機能って、どんなもの?
  ・マルチユーザー
  ・ミュート
  ・時間の絶対表示
  ・リスト管理のしやすさ(もちろん僕の基準で)
 などなど。

 ミュート機能がややクセモノである。これはおそらく、僕が変な(?)使い方をしているからなのだが。
 僕の場合ミュートで考えておきたいのが、リストとの関係である。
 基本的に、メインの TL のみミュートしたい。リストはミュートしたくないんだよねー。リストまでミュートされると、リストの表示で困るのだ。
 リストとミュートをどう使っているかというと...。
 メインTL でミュートしている人は、リストに入っている。リストに入っていない人は、TL に表示される。ミュートを使っても、フォローしている人はどこかに表示されるわけだ。
 ミュートを使わずにリストで管理しても、同じことはできる。しかし僕は、リストをたくさん作りたくない。複数作ってるけど、いっぱい増やしたくない。
 アプリにもよるが、リストも同時に更新するように設定している場合(僕はしないけど)、負荷がかかるし、API も無駄に消費する。だからリストは、表示した時だけ更新したい。
 ほんで、メインTL には、決まった「リスト」をいつも表示したい。その結果、こういう使い方になっている。
 言うなれば、メインTL をリスト的に使っているようなものかもしれない。設定で、選択したリストを常時表示できるアプリもあるけど、それはそれとしてね。

 主に使っているアプリは上に挙げた3種だが、他にもインストールしてある。それは、iPhone の2ページ目にある。

 20130615_twitter2.jpg

 赤枠で囲んだところが、Twitterクライアントである。
 ついでだから、フォルダ内もさらしましょ。

 20130615_twitter3.jpg

 ご覧の通り、公式アプリはこのスミッコのフォルダ内にある。たまに開くことはあるが、これは予備的な意味でインストールしてある。

 その他のアプリは、だいたいこんな感じ。

 20130615_SOICHA.jpgSOICHA は、Tweetbot に乗り換える前にメインで使っていた。しかし一時期表示がおかしくなっていたこともあって、今はサブ機。ただし現状ではアップデート待ちで、サブ機としてもお休みちう。
 SOICHA は自動スクロールと Evernote連携が気に入っていた。しかし今、Evernote連携が使えない。
 前回の大幅なアップデートで、表示は直った。ところがそれが大改変であったがゆえに、旧バージョンにあったものの、現バージョンで実装されていない機能がある。そのひとつが Evernote連携なのだ。これができるようになったら、またサブ機として復帰予定。

 フォルダに入っている残りのアプリは、削除するのもなんだかもったいなくて残している。

 20130615_HootSuite.jpgHootSuite は、時間差攻撃を仕掛ける時(滅多にないけど)、複数アカウントに同時投下したい時(これも滅多にないけど)...などに使っている。滅多に使わないから、フォルダの中へー。
 アプリの機能では、Twitter だけじゃなくて Facebook などのアカウントもまとめて管理できるところがステキ。
 しかし、トップに全アカウントの TL やメンションの表示をグループ的に管理する画面があるのだが、これがわかりにくい。表示も使い方も。慣れれば自分の好きなグループ分けができるから便利ではあるのだが、初心者や高機能を求めない人にはツライはず。
 この便利な機能のおかげで、TL の表示に1タップ余分に必要なんだよね。


 20130615_SimplyTweet.jpgSimplyTweet は、SOICHA の前に使っていた。裏アカ用の、最初のアプリだったと思う。今や、サブのサブ。スッキリな吹き出しの見た目や使い勝手は好きなんだけど、読み込みがちょっとおかしい。おかしいまま、アップデートされてない。残念だな。いずれアンインストールするだろうなぁ。
 今や、ツイートを長押ししたりフリックしたりすると、何某かの機能が表示されるアプリは多い。
 どのアプリが最初にこれをやったのかは知らないが、僕がこれに初めて納得して触れたのは、SimplyTweet であった。それより前に他のアプリで経験だけはしていたかもしれないけど、使いやすいとは言えなかった。SimplyTweet はよく使う機能がツイートに重ねて、ニョン! とアイコン表示で出てくる。これも使いやすくて、よかったんだけどなぁ。


 20130615_Janetter.jpgJanetter は期待していたのだが、肩透かしを食らった。
 意欲的で、おもしろい機能を持ってるんだけど、動作がもたつくし、やや使い辛い。特に、下の両側にある操作ボタンが、どうも好きになれない。便利に使えるようにとの工夫なんだろうけど、ありがた迷惑に感じてしまう。
 ツイートの表示も、一見スッキリした感じもある。だけど境が曖昧すぎて、なんとなく読みにくいんだよねー。TL にひとつ前の会話が表示されるのは、便利なような、余計なような...。
 でも捨てきれない。いつかもうちょっと使いやすくなるんじゃね? なんて、淡い期待もあったりして。


 で、実は更にもう二つ、ここに見えないところにアプリがある。ついっぷると Echofon なのだが、これは平常はぜんぜん使わないから、省いておこう。
 削除してもいいようなものだが、そのままそーっと。

 iPhone での Twitter の状況は、こんなところですね。


 余談だが、いわゆる組合員の間では、裏アカはエロアカを指すことが多い。もしくは、表のGアカで話せないようなグロい話をバンバンするアカだったりね。
 僕の場合、表には前職の関係者などがいる。あんまりツイートしない。昔はリプライもよくしてたんだけどねぇ。今はほとんどしない。でも適当に開くし、見ている。


 話を戻して、一方の Mac では。
 今のところ、夜フクロウを使っている。いずれ替えるかもしれないが、すぐではないなー。Mac では、複数のアプリを使うつもりはない。裏アカしか見ないから、その必要もない。
 夜フクロウは気に入ってるんだけど、もしかしたら、いずれは Tweetbot にするかも。ツイートを全端末で共有できるから。でも、この機能は使ったことないからなー。動作が遅くなるんなら、使いたくない。

 それからもうひとつ。
 iPad mini には、Tweetbot(メイン)と Tweetlogix(サブ)を入れてある。でも、iPhone とは使い方がまったく違う。
 iPad mini では、メインの TL をほとんど見ない。じゃ、何を見るの? リストである。大人の事情のリストである。フォローすらしていない、何某かのモロ出しアリなアカを集めたリストである。ほぼこれ専用。
 そりゃあね、そういうものが見たいことだって...ね。

 とりあえず iPhone と iPad mini で、ツイートの共有を試してみるといいかもしれないなー。

このユルさは宝物

 サイトを再開して、1か月になる。
 今のところ更新は、おおよそ1週間に1回くらいのペースだ。最初に断りを入れた通りに、ゆるゆるの更新スピードである。予告通りなので、何の問題もない。たぶん。
 でも、このゆるさはいいなぁ...と思う今日この頃。
 何より、「書かなきゃ!」とか思わなくていいし。つまりそれは、せっつかれる感じがなくていいなぁ...ということだ。

 昔と今では、文章の書き方が違う。
 旧Diary と比べてもらえばわかるだろう。すべての復元が完了するのは当分先だが、比べるには充分だ。長さといい書き方といい、かなり違う。
 そういう意味でも、このスピードはちょうどいいのかもしれない。

 再掲していない記事もあるから、実際の更新スピードは、もう少しだけギャップが大きいかな。ホント、昔はよくこんなに更新してたよなぁ...と、自分でも感心してしまう。
 当時は今と違って、もっと日記っぽく、あったことをそのまま書いていた。長さも短めだし、そう難しいことも書かないようにしていた。頻繁に更新する前提で、そういう書き方を選んでいたし、おかげで速いスピードで更新できていたわけだ。
 長いまとまった文章は、エッセイコーナーに入れていた。

 文体的な書き方についても、天と地ほどの差がある。なんというか、若気の至りとでも言おうか──いや、あの歳だから、この表現も少し違うな。昔は「ぶってる」と言われても仕方がないような書き方をしていたのだ。
 今その原文を読み返すと、顔から火が吹き出て Mac も焦げ付くほどである。
 昔の自分をそのまま残しておくのも、おもしろくはある。自然なことだ。
 しかしおもしろくて自然ではあるのだが、これはむしろイタイじゃないか。今更これをこのまま見せたら、憤死できるわい。こんなの、Web に戻せるきゃ。
 旧Diary の文章はかなり加筆をしているが、それはこういうわけなのだ。昔のテイストを完全には消さずに残しつつ、だけどあまりにあほすぎる部分はガシガシ修正している。

 もっとも、未だにガキンチョぶりは抜け切らないのだが。

 ともかくサイトは、ゆるく、思うがままに運営するばかり。仕事の日は忙しいしね。無理をすることはない。どのみちオナニープレイなのだ。
 このユルさ加減は、宝物と言ってもいいかもしれないな。ありがたや、ありがたや。

ペンギンの謎

 2004年。大阪は天王寺の天王寺動物園へ行った時のこと。

 ぐるぐるーっとまわってきて、ふと目の前にペンギンが現れた。ちょうどお食事タイムで、魚をもらうところであった。ラッキー?
 そこへ、ベビーカーの親子連れがやって来た。
「魚! ペンギン!」と、はしゃぐ男の子。
 3歳くらいであろうか。
 そんなやや興奮気味の我が息子に、若いお母さんがベビーカーの横にしゃがんで、諭すように言いはりました。

「ペンギンはなぁ、魚ちゃうで。哺乳類でなぁ、卵やのうて、コドモ産むんやで」

 は!? なんとッ Σ( ̄ロ ̄lll)

 いや、ウソ教えんでくだサイ。
 ペンギンは鳥デス! 卵、生みマス!

 ...と、すごーく言いたかったけど、教えなかった。
 小心者なので。

 衝撃的な発言であった。

 しかし後日、ペンギンを鳥類だと思っていない、哺乳類だと思っている人が案外多いことが判明している。職場のスタッフを使って確認した。これもまた、驚愕であった。
 今これを読んで、哺乳類でしょ? と思った人もきっといることだろう。

 鳥デス! 鳥類デス!! 飛べない鳥デス!!!
 タマゴを暖めて育てる、れっきとした立派な鳥なのですよ?

 例えば、ジェンツーペンギン。

 penpen_01.jpg

 ほら、羽があるでしょ? 足だって、いかにも鳥でしょ? 鴨やアヒルの足と、似てなくもない。ヒレはないが。でも、わかりやすいでしょ?
 ペンギンは、海の中を「飛ぶ」のだ!

 でも巣がないじゃん。
 ペンギンは、普通の鳥のように巣を作らないのである。突っ立ったまま、タマゴを暖めるのである。足の甲に載せてね。
 動物園のペンギンを例にしよう。ほら、こんなぐあいに。オナカの皮をかぶせてあたためる。右は、タマゴが見えている状態だ。

 penpen_02.jpg penpen_03.jpg

 ね? ねっ?
 それでもお疑いなら、とりあえず映画の「皇帝ペンギン」でも見てみよう。

 ※ ペンギン:動物界 脊索動物門 脊椎動物亜門 鳥綱 ペンギン目 ペンギン科

暗号化してバックアップする

ゴミ箱を空にせよ」で外付けHDD を整理したのは、1台をバックアップ専用にするためであった。こう面倒なことをしていたのには、訳がなくもない。

 バックアップを取る。
 言うのは簡単だが、実際に実行するにはちと考えることもあるし、案外面倒なものだ。何が面倒って、どこまでをどうやってバックアップするか考えなきゃいけない。
 プラス僕は、バックアップは暗号化しておきたい。暗号化しようと思うから、面倒なんだけどね。しないなら話は簡単!

 だってさー、いろいろとね、人には見せられないものだってあるわけでして。詳しいことは語らずにおくが。

 ちなみに先に言っておくが、暗号化は簡単なのだ。どの範囲を、どの方法でバックアップしようか考えるのが面倒なだけ。
 何をそこまで面倒くさがってるんだと、自分でも思うが。

 で。バックアップするもの。
 書類だけか。設定ファイルもか。起動ディスクまるごとか。
 Mac なら、Time Machine でまるごとやっちゃうのが一番簡単でいい。何も考えなくてもいいし、復元も楽なことこの上ない。しかしそれは、ライオンさんで暗号化するならの話。
 現状、自分の Mac はスノレパさんだ。ライオンさんならできますがね、スノレパさんの Time Machine は、悲しいことにバックアップを暗号化できないのだ。
 書類とか個々の設定を別個にバックアップするのも、OS X だと現実的じゃない。Classic の頃なら、それでもよかった。でも OS X は、ファイルがありとあらゆる場所にある。復元のことも考えると、まるごとやっちゃうのがやっぱり便利だし、簡単でいい。

 Time Machine を使わずに、暗号化して、まるごとバックアップを取る。そんな方法、あるのか? あるんです。やり方自体は、難しくない。
 ディスクイメージですな。1回のバックアップに時間はかかるものの、Mac の標準機能だけでできる。やり方は、Web上のあちらこちらにたくさん載っているようである。ここにはメモだけしておこう。

 ・ディスクユーティリティを起動。
 ・リストから、バックアップしたいディスクを選択。
 ・ツールバーの「新規イメージ」をクリック。

 [保存ダイアログが開く]
 ・名前を付ける。
 ・保存場所を選ぶ。
 ・イメージフォーマット → 圧縮。
 ・暗号化 → 適当なものを選択。
 ・「保存」をクリック。

 [システムのパスワードを求められる]
 [暗号化するディスクイメージのパスワードを決めて、2回入力]
  ※パスワードは、キーチェーンに記憶させない。

 以上。
 後は終わるのを待つだけだ。

 ちなみに僕は、バックアップ以外の用途では、スパースディスクイメージを使うことが多い。その時は、こうする。
 ・何も選択せずに、新規イメージから作成。
 ・フォーマット → スパースディスクイメージ。
 ・サイズ → たいていカスタム。
 また、パスワードをキーチェーンに記憶させないのは、この場合、記憶させとくと意味がないので。ダブルクリックで、誰でも開けちまう。

 ライオンさんなら Time Machine を使い、スノレパさん以下ならウェスタンデジタル社の HDD のような Mac のソフトに依存しないディスクに保存する方が、格段にラクチンである。その方が、時間もかからない。
 でも自分の環境では、現状これが一番素直だと思っている。

ゴミ箱を空にせよ

 2012年の8月末。もう1年近く前のことになるが、Mac で、削除できないファイルがあって、右往左往したのであった。覚えに書いておこう。

 発端は、外付けHDD の変更である。
 Mac のそばに常設されている2台の外付けHDD の使い方と割り振りを、思い切って変更することにした。
 思い切ってというのは、正しくないかもしれんが。中にはとりあえずで保存したものもあって、多少ごちゃついてきているから整理の意味もあるのだ。
 と、ここまではいいのだが、不要なファイルを削除する際に問題が発生した。

 いつものように、ショートカットでファイルをゴミ箱に移す。で、空にしようとしたら、できんじゃないか!
 そんなら、あの手この手を繰り出すのみ。
 操作を繰り返す。option を押して実行してみる。「完全に」で試みる。HDD を取り出して再マウント。Mac を再起動。アクセス権の修復。ゴミ箱のアクセス権の確認。インストールDVD から修復。OnyX 使用。
 こんな具合でいろいろやってみたのだが、結果は何も変わらなかった。削除できない...。

 Web を検索してみても、自分とは違う状況のものばかり。
 いずれにせよ、アクセス権はおかしいのだ。削除できないファイルのアクセス権を確認すると、「不明なアクセス権がありまっせ」などと言ってくる。エラーコードも、その類いのものが表示される。
「情報を見る」で通常通り確認や操作ができるなら、外れているユーザーを追加するなり、権限を変更するなりすればいいだけの話だ。ところがそれすら出てこない。ただ「不明だよ」と。これじゃ直しようがない。

 想像だが、考えられるのは OS をアップデートした際にアクセス権が狂った、ということかな? 消せない(移動もできない)のは、旧OS で保存した .weblocファイルばかりであった。

 打つ手なし、である。

 ターミナルでコマンド使って削除する方法もあるけど、あれはよくわからんから苦手なのだ。だからできればやりたくない。
 しかしふと思い付き、我が家にあるもう1台の Mac(母のもの)で試してみることにした。OS は、自分のがスノレパさんで、母のはライオンさんである。
 結果は、芳しくなかった。よくわからんが、スノレパさんとは違う反応だけど、消えないよ? という。

 これで完全に打つ手なし、である。コマンド以外には。

 ところが、である。ここでもう一度、自分の Mac につないだ。そしたら、ファイルが消えてるじゃないか...。え。どういうこと? 何が起こったの!?
 まったくもって、ワケがわかりません。
 これ、ホントにちゃんと削除できてるのかなぁ。

 こんな不思議なことがありましたとさ。

敷居の高さは、人によりけり

 新旧の記事を編集・アップしていて、ふと思い出した。
 そういえば当初、サイト開設を5月8日にしようとしていた。でもいろんなことで間に合わなくて、8月の開設を目指すことにしたんだった。それを延期して、9月に開設した。

 なんで遅れたのか、それはもう覚えていない。おおかた、ドメインのことやサーバのことで、いまいちピンとこないことがあったんじゃないかと思う。
 ドメイン取得やサーバ申し込み自体は、難しくない。簡単に済んじゃう。だけどその周辺情報で気になることがあって、いろいろ調べまわっていた記憶はある。
 あと、その申し込みをどこでするか、けっこう迷ったなー。
 ドメインとサーバの組み合わせだけでも、選択肢がいろいろある。申し込みを、別々にするのか? 同じ会社にするのか? ドメインも .com が安いけど、.com でいいのか。他のものにするのか。サーバにしたって、容量は? プログラムは? 料金は?

 慣れた人にはたいしたことじゃないのかもしれないけど、自分にどれがあっているのか吟味するのは、右も左もわからん者にはなかなか大変。

 サーバは僕の場合、いくつか条件があった。大きな確認事項は、ふたつかな。XOOPS を使うことにしていたから、インストールできるか。MySQL が使えるか。できることなら簡単にスタートできる方がいいけど、自力でインストールしてもかまわない。サーバによって、ポチッとやるだけでインストールできるようになってる場合もあるから。
 ドメインについては、サーバと会社を別にした場合と一緒にした場合とで、料金を調べて比べたなー。会社によって、ドメイン料もサーバ料も違ってたしね。
 安上がりにしようと思ったら、当時は別にした方が有利な会社があった。でも後のことを考えると、一緒にしておいた方が楽かな。

 XOOPS の使い勝手は自宅の Mac で確認済みだったから、あんまり心配してなかった。デザイン変更も終えてたし、開設には、プログラムのインストールさえ済めばほぼファイルをアップロードするだけであった。

 でもデータベースは、ちょっと意味がわからなかったかな。
 データベースを新規に作るだけなら、そう難しくない。ただ、phpMyAdmin の挙動がわかりにくいという...。普段、Mac や Windows しか触れないせいか、あのテのツールは挙動の意味がよくわからなかったりする。
 なんかよくわからんけど、一応できた...ぽい? 動いてるから、いいんだよね...? みたいな。

 いくら簡単だと言っても、それがどの程度の難易度なのかは、やっぱり人によるんだろうなぁ。
 パソコンやスマホだってそうだよね。説明書を開くこともなくチョイチョイ使えちゃう人もいれば、隅から隅まで読まなきゃ不安で仕方がなくて、だけど読んでもわからん人もいる。
 一般的にいうところの理解力とか、そういうものとは別の何かなのかもしれない。

 パソコンがスイコラ使える人は、経験も含んだいろんな情報を応用してるんだと思う。だけどそういう人が、すべてにおいて応用力が高いとは限らない。
 人間とは不思議なものである。

そのアンダーウェア、貴重です

「アンダーウェアの選び方」の続き。

 僕の好むアンダーウェアは、ローライズボクサーで、サイズは S(XS)。
 デザインは、いろんなものがある方が楽しい。だけど普段使いで考えると、シンプルな方が使いやすい...ような気がする。見せるわけでもなければ、どうだっていいとも言えるが。
 さて、ここまではいい。昔は海外ブランドばかりで小さいものがなかったし、Sサイズが増えたことは非常に喜ばしい。デザイン的にもブランド的にも、選択肢が増えた。わーい。

 しかし前の記事でもチラと触れたが、ボクサー好きにはフィット好きも多いらしい。ぴったりピッチンでキュッとしたのが好きな人が、相当数いるのだ。
 これが問題なのである。大問題なのである。

 もっと言うなら、迷惑だ。

 彼らは、本来の自分のサイズのボクサーを買わない。わざわざワンサイズ落とすのだ。S の上は M だ。SM の話ではない。Mサイズ相当の体つきの人が、Sサイズになだれ込んでくる。中には Lサイズから参戦する人までいる。
 しかしながら、Sサイズが必需の僕のような人には、他に買えるサイズがない。Sサイズの代わりは他になく、S を買うしか道はない。
 つまり Sサイズは、争奪戦になるということを意味する。

 邪魔だから、くるな。

 Sサイズのローライズボクサーって、瞬殺されることがけっこうあるんだよね。シンプルだけどカッコイイのなんか、特に。
 うっかりしてると、S だけ在庫がなくなっちゃう。S だけが! 冗談でも何でもなくて、ホントに1日でなくなったりするんですよ。驚くことに。
 これじゃあ買えないじゃん。

 そんなにサイズを落としたけりゃ、競パンでも履いてろ。←

 買えないということは、ただ入手できないということではない。これは言い方を変えれば、履くものがない...ということだ。Mサイズのように、選り取り見取りではないのだから。
 ワンサイズ落とす人は、それが好みだということはわかる。理解しないわけではない。下着だし、気持ちいいものを身に付けたいよね。それでもやっぱり迷惑なのだ。他に履けるサイズがあるのに...と思ってしまう。鞭打ってやりたいくらいである。SM ではないが。

 となると、対抗手段はひとつしかない。ストックである。

 一度に複数枚を買っちゃうのだ。と言っても、20枚とか、そんなに大量じゃないけどね。いくらかの枚数を、まとめ買いする。
 これは、サイズ感がわかっているブランドやモデルでしか使えない技だ。だが、なかなか有効でもある。在庫不足だけじゃなくて、次に気に入ったデザインのウェアがいつ出るかわからないという問題にも対応できる。ある程度は。

 ここしばらく、普段履いているアンダーウェアは BVD が多い。実のところこれは、何年も前に買ったストックなのだ。あれから気に入ったものが出ないから、これで食いつないでいるというか、履きつないでいるわけである。
 もう残り少ないけどね。
 ブランドやモデルをひとつに絞っているわけじゃないし、丈夫なものなら長持ちもする。それでこうして、未だにもたせられている。TOOT もストックの余裕がまだあるな。

 欠点は、まとめて買えば、それだけ先立つものが...ね。それと、いろんなデザインを一度に狙えない。
 そんな事情もあるので、購入時にはかなり吟味することになる。今のストック在庫と、欲しいモデルや色の数、購入金額などと相談しつつ、優先順位を付けて選ぶわけですよ。
 これはぜひともまとめて買っておきたい! というものは、わりと即決するけどねー。

 悩みは尽きぬ。

(Mサイズの人たちは、真似しないでね)

アンダーウェアの選び方

 アンダーウェアの好みは、十人十色だ。
 人気のモデルには流行りもあるが、例えば着心地の問題などでそれが受け付けられない人だっている。いろんなアンダーウェアを目にする今は、実用面でも感情面でも、自分の好きなものを選びやすいかもしれない。
 下着とはいえ、自由に選べる方がいいよね。いや、下着だからこそ、かな。

 と言っても、これは一般的には...である。僕の場合は、そう簡単でもない。

 どうせなので、子供の頃の話から。
 小学・中学ではブリーフだったわけだが、それはごく普通のことだろう。
 でも中学では大多数の生徒がブリーフの上に体操用パンツをいつも履いてたから、今考えるとおもしろみがなかったのかもなー。アンダーウェアが見えない。もっとも、見えたところで白ブリーフ率が高いけどね。

 流行りに乗るようにトランクスになったのは、高校入学時だ。その頃は、特にこだわりがあったわけではない。こだわりがなかったから、スルッと替えたとも言える。
 皆さん揃いも揃ってトランクスだったから、当時はお気に入りのクラスメイトのいろんな形や柄のトランクス姿を見ては、ひそかに萌えていたものである。あはは。
 しかもトランクスって、場合によってはカタチがわかっちゃうし、ボッキすればテントを張るし、ビキニやボクサーとは違った意味で、ぐふふ...な場面もあるんだなぁ。
 トランクスでない人は、非常に少なかった。記憶にあるのは、M山くんが時々ブリーフを履いていたことくらいだろうか。白いブリーフ。
 クラブで使うパンツを履いてる...なんてことも多々ある。これもなかなか萌えるのだ。例えば、T尾くんの赤い陸パンとか。N澤くんの紺の短パンとか。今、思い出し