2018年7月アーカイブ

生産ラインの子供たち②

 さて、前回の続き。
 かの論考に好意的なコメントをする人たちの話から始めよう。

 笑えるのは、あれを擁護する人たちの無様さである。O川何某氏などを例にすれば、こう述べている。

「一字一句改める必要がない正論だ。読まずに騒いでいるか読んでも理解できずに騒いでいる人は頭を冷やした方がいい」


 その言葉、そっくりそのままお返し申し上げたい。
 つまりO川氏は、どこに問題があるのか気付くこともできないのだそうだ。この論考のどこに問題があるのかわからないし、騒いでいる連中が理解できない...と。
 あれって、まったく事実に基づかない文章なんだけどなぁ。嘘ばかりが書き連ねてあるんだけどなぁ。あれほど事実を無視した論考だというのに、一字一句改める必要がないものだと読めるらしい。どうやったらそう読めるのか、皆目わからない。
 事実は事実であるので、誰にでも簡単に確認できることだ。
 コメントの最後には「勉強、熟考して中身のある議論をする人が増えることを希望したい」とまで述べているが、スッカスカで中身のない嘘で彩られた論考によって、何を議論しろというのだろうか。それを正論と呼んではばからない人って、いったい何を見ているのだろう。勉強・熟考すべきは、誰だろう。

「人生観はいろいろ」などとのたもうた人などにも、大きな疑問を感じる。静観や中立を装いながら、この一言で無知をさらけ出している。
 セクシュアリティは、人生観の問題ではない...とだけ言っておく。

 次に、先輩に掛けてもらったという言葉を見ることにしよう。そのまま引用する。

「雑誌の記事を全部読んだら、きちんと理解しているし、党の立場も配慮して言葉も選んで書いている。言葉足らずで誤解される所はあるかもしれないけど問題ないから」


 はたして、そうだろうか。図らずもこの言葉が、むしろこの論考の不適切さを強く補完しているように思えてならない。
 僕は全文を読んでこれを書いているが、どこに擁護できるものがあるのか、まったくわからない。S田氏のそれは、稚拙と言わざるを得ないと感じた。
 言葉はそれなりに選んでいるかもしれないが、それは、正しい知識に基づいて、セクシュアルマイノリティに関する事象を誤りなく伝えるためのものではない。まして「きちんと理解している」などとは、到底言えない。
 仮に、仮にだ、もし他の部分が正しく理解されていたとしても(実際にはまったくそんなことはないが)、それをもって「生産性がない」という言葉に正当性を持たせることは不可能だ。

 あれはね、セクシュアリティのことを知らない人が、セクシュアリティのことを知らない人に、よく書けているねと褒められた...と言っているのだ。おかしいよね。すごくおかしい。
「1+1=3」だと主張する人が、「1+1=3」だと思っている人に、何も間違えていないから問題ないよと褒められた...と言っているようなものだ。「1+1=2」だと知っている人からは、どう見えるでしょうね。
 擁護している人たちは、たいてい同じような認識しか持ち合わせていないので、このような問題山積の論考に賛同できるのだろう。それらの人たちを信用ならない人たちだと感じたとしても、何の不思議があろうか。

 こちら方面のみなさん口を揃えて「切り取るな」と言うけれど、切り取ろうが切り取るまいが、同じことだ。
 本当に最初から最後まで、酷い論考なのだ。見るべきところがひとつもない。ひとつもだ。だからどこを切り取ろうと、中身がなにもない。どう切り取ろうと、意見を付けることに不自由はしない。
 何か「ここだけは賛同できるが...」とでも言えるところがあれば挙げることにやぶさかではないが、ないものはないので挙げようがない。

 おそらく「切り取るな」とは、例えば「自分はセクシュアルマイノリティのことを理解できると書いているのに...」とでも言いたいのだろう。
 そうであろう箇所を、ひとつ例に挙げておこう。

「もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか」


 この部分だけでも指摘できる点がたくさんあるが、それらはさておき。
 読む人によっては、「理解がある人なんだな」と受け取るのかもしれない。しかし、本当にそうだろうか。本当に理解があるのか?
 その答えは、紛れもなく「生産性云々」他、多くの場所にしっかりと現れている。これは言うなれば、ただのフリである。
 セクシュアルマイノリティに理解があるのではない。そう述べてもいない。ただ「一緒にいても平気」という意味のことが書かれているだけだ。
 一緒にいても平気なら、誰もがセクシュアリティのことを正しく理解しているのか。答えは「NO」だ。正しく理解しているかどうかと、単に交流ができるかどうかとは、別次元の話だ。つながりはあるにしても。
 交流だけなら、上辺だけ取り繕えばできるものだ。自分が認めたくないセクシュアリティを嫌悪しながらでもね。
 そして現実には、交流すら躊躇する人も少なくない。この点でも、この記述は正確ではない。
 何も知らず、何もわからないからこそ、あれほど酷いものが書けるのだ。正しく理解できているのであれば、その文中でもっとも言いたいことであろう「LGBTへの支援の度が過ぎる」などという話が出てくるはずがない。どう考えてもおかしい。
 それをもって「私は理解者だ。全部読め」などと主張するのは、まったくもって愚鈍である。それを擁護のよすがとするのは、あきれるほどのナンセンスだ。
 すべて読んでも見るべきところが何もないので、読んだところで意味がない。本当に唾棄すべきもの。あえて言うならば、この方がどういう人なのかを知るには、非常に役に立つ。

 その後の動向についても、少し触れておこう。
「殺してやる」などという脅しがあったとか。これ自体は、褒められたものじゃない。むしろ当事者としては、こうした行為は冗談でもやめていただきたいし、許し難い。
 しかし、思うのだ。翻って、S田氏の言っていることはどうなのか? まさしく「非生産的な人物は不要」と言っているのと同義だ。実際にそうだろうと問うと、口先では違うと答えるかもしれないが。「非生産的な人は存在価値がないから殺してもいい」というどこかで聞いたような思想と、大差がない。
 S田氏は「生産性云々」の話で、セクシュアルマイノリティを殺しにかかっている。こうした人たちは、往々にしてセクシュアルマイノリティが存在しなくなればすべてが解決すると思っているものだが、S田氏もまたそうだ。
 直接「殺す」だの「死ね」だのとは言っていないが、暗にそう恫喝し、圧をかけている。その存在が抹消されれば、何も問題はない、みんなが幸せになれる...と。
 やんわりと、論考という形を取りながら、寄稿によって公然とそれをやってのけている。嘘っぱちのその主張によれば、性同一性障害を除くセクシュアリティは「嗜好」とのことだしね。
 S田氏のような人たちは、セクシュアリティを趣味と同じようなものだとしか思っていない。

 その諸処の問題に対して「セクシュアリティを変えればいい」と答える人がいたならば、その人は真性の「頭のおかしな人」というほかない。セクシュアリティは、変えたり治したりできるものではないのだから。「指向」と「嗜好」の区別もできない人の言葉に、説得力はない。
 どこかの国のナンバー2氏はこれを公言してはばからないが、それによって自分で自分の愚かさをアピールしている。アピールは好きにやってもらえばいいが、それらは非倫理的で非現実的な思想であることに加えて、「生物学的に歪んでいる」と言って差し支えない。
 生物としてのゆらぎや多様性を失った時、果たしてヒトはヒトであり続けることができるだろうか。興味深い命題だが、僕は存在し得ないと思う。
 おそらくその時、ヒトは、進化の線上にいる生物としてのヒトらしさを失う。その先の道は、滅びしかないのではないか。もしくは、ヒトをやめるかだ。

 最後に、これはセクシュアリティやセクシュアルマイノリティへの差別を遥かに超える話だということを指摘しておきたい。
 ここまでセクシュアリティ関連でいくつかの話をピックアップしてきたが、それに留まらない。上記の「セクシュアルマイノリティを消そうとしている」という話とも共通する、非常に危険な話だ。
 S田氏の論考は、極めて主観的なものだ。ごく個人的な、先入観と印象によるもの。その主張にある「生産性がない」も、極めて主観的。
 もしこれが容認されるなら、どれほど非倫理的・非人間的思想であろうとも、ごく主観的な「生産性がない」のたった一言で、どんな相手でも差別し、抹殺できてしまう。このような優生思想を得意げに政治家が語り、それを擁護する政治家が少なくない。背筋が凍るような恐ろしさだ。
 そうした思想の片鱗は、一般の中に潜んでいるのだろう。おそらく個人の中の「片鱗」を消し去ることは、不可能だ。ならば、それが表出しない社会を作るべきなのではないか。
 その片鱗が個人の中に存在し続けるものだとしても、政治家が公然と語ってはならないものだと思う。

 それにしても、よくあれほど逸脱した論考を載せたもんだなぁ。ぶっ飛びすぎてる。

生産ラインの子供たち①

 出ましたね。
 雑誌への寄稿において、どこかの議員殿が、セクシュアルマイノリティの人たちを指して「生産性がない」とし、そこに税金を投じることに疑問を示した論考である。
 これに関する批判的な指摘が、方々でなかなかやまない今日この頃。まぁ、S田氏が何か言ったところで、今更驚きもしないが。情けないことに相変わらず...といったところ。

 こうした「意見表明」が出るたびにここに取り上げているわけではないが、今回はいくらか絡んでみよう。
 順に文を挙げながらちまちま指摘していくこともできるけれど、そこまではしない。本当に最初から最後まであらゆる事柄を混同し、酷くまたつたない、とても論考とは呼べないものなんだよね(ここでは続けて「論考」と呼んでおく)。また、逐一指摘しなくても長くなるので、2回に分けることにする。

 冗談でもなんでもなく、言ってることがサッパリわからないレベルの話なのである。
 ご本人の資質だの無知ぶりだのは、ここではいちいち指摘しないことにする。特にこうした人たちの無知ぶりについては、過去に何度も書いている通りだ。これにも、それがそのまま当てはまる。
 ぶっちゃけ、そんな無知・無能を晒して恥ずかしいことだなぁ...と思ったりもするんだけれど、当の本人は露ほどもそうは思っていないものだ。ますます恥ずかしいことだなぁ。
 もっと簡単に言えば、頭がおかしい。それに対して無言を貫く、もしくは支持をする周辺の人たちも、同様でしょうね。
 あれが「政治」だと思っているのなら、やっぱり頭がおかしい。

 生産性とやらに価値観を求めているようだが、これ自体もう理解に苦しむ。生産性って、なんですか? 何を指す生産性ですか? なぜここで、生産性が重要ですか?
 子供を「産むことができない」から、どうしたというのだろう。人間としての存在価値と、何か関わりがあるだろうか。あると思っている人は、既に差別主義者と言っていいだろう。そして、それを生産性と言い表すセンスも神経も、僕にはわからない。

 本来ならば、そのようなことが重要なのではない。別の話をすべきなのだ。この論考は、本質を大きく外した論考である。故意にではなく、当たり前のこととしてこれをやってしまうところがまた、非常に怖い。
 重ねて言うが、あるべき話は、S田氏が問題にしようとしているようなものではない。生産性がどうかとか、税金の投入がどうだとか、それが重要なわけではないのだ。
 なぜ、そんな話になるのか? なぜ、それが重要事項であるかのように訴えるのか? 何も理解できていないからであろう。

 セクシュアルマイノリティの人たちも、一枚岩ではない。いろんな考えの人がいる。細部に至るほど、その違いは多様になる。それこそ、個人の自由だ。当然のことだ。それでいい。
 それでも、望むこと・言いたいことを最大公約数的に集約すれば、極めてシンプル。「不自然な格差の是正」とでも言い表そうか。普通に生きたいだけ。ただそれだけなのだ。
 無能で無理解な人たちは、その「不自然」さがわからないわけだけど。残念なことに。
 要するに、「差別」はやめてよ...ということ。当然の、当たり前のことを言っているにすぎない。

 もう少し付け加えて言い換えるなら、支援してくれという話じゃない。支援に疑問を呈しているけれど、そもそも「支援」が重要課題なのではない。支援なり対処なりが必要な事柄はあるにしても、それだけで解決するなら、むしろ話は早いのだ。でも現実には、どうだろう。
 そうじゃなくて、法律や税制上の差別があって、だからそれをやめて...って話だ。もちろん、差別はそれだけではない。多岐にわたる。
 ところがS田氏は、話を「親の同意」のみに矮小化している。ここでも、混同が起きている。物事のごく一部のみしか見ていないことも、よくわかる。
 この点においてS田氏は、そちらに深く関わることのできる議員でありながら、それに触れることもない。個人的で歪な思想の披露と、偏狭な感情論に終始している。しかも、それらをあらゆる方向で混同した上で。
 これはつまり、自らの職務を完全に放棄していると言える。

 こんな時「普通に生きたいのなら、普通の人になれば?」などと返す人もいるんだけれど、そうした指摘は極めておかしい。
 セクシュアルマイノリティが「普通ではない人」という意識が、まずわからない。なぜ、そのような前提があるのか。既に普通の人ですが? セクシュアリティの違いは、人としての正常性や異常性を区別するものではない。

 この論考には「LGBとTを一緒にするな」と書かれているが、なぜそれが一緒にされているのか、つまりなぜ共に行動するに至ったのか、歴史的経緯もまったく知らないのであろう。そうした事情は、完全に無視である。なんとなく性的少数者同士が寄り集まっているだけだろう...という程度の認識であると推察される(付け加えておけば、「T=性同一性障害」という単純な記述も、正確には誤りである)。
 この意識、先程の「差別はやめて欲しい」という話と対立的だ。
「差別と区別は違うし、きちんと書き分けられている」かのように言う人がいるけれど、変ですね。
 差別と区別は切り分けるべきだと僕も思っているが、切り分けを間違えている人や、違うものだと言いつつ混同している人は多い。
 S田氏のように支離滅裂でアクロバティックな論を唱える人に、こうした区別が正しくできるとは到底思えない。文中で度々話のすり替えが行われているのだが、差別と区別の違いだけは別だなんて言えるだろうか。実際この方の思想は、差別と区別の混同が甚だしい。
 その極め付けは、「(Tは性同一性障害という障害であるのに対して)LGBは、性的嗜好の話です」という記述だろう。
 とんでもない大間違いですね。勘違いなどとも呼べない。セクシュアリティのことが、まったくわかっていないことを示す一言だ。嗜好ではなく、指向である。指向は、セクシュアリティに関係なく存在する(指向がないという指向もある)。
 この後に出てくる「なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう」という記述もまた、セクシュアリティについて無知であることを如実に表している。性が二つに収まるわけがないことは、もはや常識である。
 それに先立ち「(性表現が多様すぎて)もうわけが分かりません」とも述べているが、わけがわからないのはS田氏の頭の方である。LGBの性同一性障害者もいますが、さて?
 また、代表的な略称・総称のようなものとして「LGBT」という表現がなされるが、実際の意味は広く捉えられている。総称としての「LGBT」は、それが指す直接的なセクシュアリティだけを示すものではない。4つの頭文字では表現し得ないセクシュアリティも、そこに含まれている。

 書いていることのほとんどは今までの繰り返しになってしまうが、仕方がないかな。

 今回はここまでといたします。

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