2017年10月アーカイブ

悲しみよ悲しみに

 悲しみというものは、簡単に語り尽くせる気がしない。
 種類もいろいろなら程度も様々で、同じような状況でもその感じ方が違い、受け止め方が違い、それに対する受け手の表し方も考え方も、その他諸々千差万別。
 しかしその一方で、とかく消すだの乗り越えるだのと言われるものではないだろうか。悲しみに対して、何かしらの「対処法」のようなものが、あれこれと。
 こうしたものの多くは、つまるところ悲しみは晴らすべきもの、振り払うべきものという意識や前提があるように思われる。言い換えるなら、悲しみは良くないものだから...ということになるのだろうか。

 だからだろう、悲しみに対しての対処法というものが、人それぞれにいろいろとある。実際には「対処法」というほど大袈裟なものではないかもしれないけれど、要するに悲しい時にすることやしたいことだ。悲しい時はコレをすべきだ、なんて言う人もいる。
 気を紛らわせるために。気分転換のために。沈み込まないために。理由は何でもいいけれど、悲しさから逃れるなり離れるなり、抜け出すなりするために。
 例えば、楽しい・明るい音楽を聴くとか、自分の好きなことに没頭するとか、好きな場所に行くとか、案外そうした簡単なことだ。思い当たるものがある人は、多いのではないだろうか。

 僕はといえば、悲しい時にはコレだ! ってものがない。悲しい気持ちをどうにかするために、気分を変えるなどするためにすること、したいこと、あるいはしてきたことなどが。
 まったくしたことがないわけでもないんだけど、なくていいとも思っている。
 あ、でも、どこか眺めのいい景色の場所に行くのなんか、ちょっと魅力的。実際に行ったことはない。行ったことはないけど、魅力は感じる。そこに惹かれるものがあるのには、理由がある。それは、以下読み進めてもらえばおわかりいただけると思う。

 悲しみって、無理に紛らわせたり、変える必要のないものないんじゃないかと思うんだよね。
 必要なのは、「変えること」じゃなくて、「浸ること」じゃないかと。

 浸ること。
 悲しみを充分に、深くしっかりと受け止めることは、とても大切なことなのではないかと思っている。
 ただしそれは、閉じこもることとは違う。

 受け止めきれない時はどうするの? とか言われそうだけれど、言うなれば「どうもしない」のだ。どうにもできないとも言うが。
 まぁ、どうにもできないが故に、知らず閉じこもってしまうことはあるかもしれないけれど、そういう時は何かで気分を変えようという気力さえ湧いてこない。
 更に付け足せば、受け止めきれないような悲しさを、例えばプレイヤーの音楽で簡単に紛らわせられるとも思わない。少なくとも僕には、有効手段にならない。

 仮に音楽を流すとしたら、それは「明るく楽しい気分が高揚する」ものじゃない。むしろその逆で、静かな音楽であったり、どこか物悲しい音楽であったりする。消すのでも、蓋をするのでもない。少々気分を落ち着かせるくらいの、あるいは悲しみに浸るための助けになるくらいのものなのだ。
 自分でちゃんと浸ることができたなら、何でもないようなことがきっかけで、フイと浮上できたりする。
 その浮上までにどれだけの時間がかかるかは、時によりけり。それでいいと思うんだよね。だけど、そうじゃなきゃダメだなんてことは、思わない。人それぞれに、それぞれのやり方、考え方があっていい。
 ただ、悲しみを充分に受け入れないままだと、どこかで無理をしてしまっているかもしれないっていう心配はある。多かれ少なかれ、悲しみに浸ることは大切なんじゃないかな。

 悲しみに対する感覚や、反応の仕方の印象なんかもまた、人によって違う。泣かないことを悪いことのように言う人だっている。
 でもね、目に見えて「泣かない」から、「泣いていない」「悲しみを感じていない」ってことにはならないんだよね。

 本当に悲しい時、案外涙なんか出ない。

 涙が出るのは、本当の悲しさじゃない...なんて言うつもりはない。僕はそんなことも思わない。言えるはずもない。
 ただ、本当に悲しい時、涙が出ないことだってあるということは言っておきたい。深い悲しみを覚えた時、恐ろしく静かで涼やかな、諦観とも言えるような表現し難い感覚になることがあるのだ。
 でもこの感覚は、わかってもらえなくても仕方がない気もする。

 これに限らないけど、悲しみって、他人からはなかなかわかり辛い感覚でもあるのかもしれない。結局のところ「体験したことがないことはわからない」とでもいうような。
 共感できることもたくさんあるだろうけど、それでもね。特に、「普通の・正常な」感覚からするとね。

「あの空を覚えてる」という映画がある。原作を、ある意味大胆にリメイクしたようなもの。
 ここに「普通の感覚では理解できない」ような父親が出てくる。
 最愛の娘を事故で亡くし、毎日がどこか重苦しい空気に包まれる。妻も息子も大切に思っているのに、家族を守るための行動がいつまでも取れずにいる。ある時、とても大切にしている写真を入れた額を、机に叩きつけて壊し、むせぶように泣く。そんな父親。
 どこかで「あんな父親、あり得ない」「父親があんなことをするなんて、信じられない」なんて評価を見たことがある。
 確かに一見すると、ダメ夫でダメ父。けれど僕は、共感を覚えた。ダメ夫・ダメ父ぶりに共感したわけではない。
 どうしようもない悲しさに捕らわれた時、外から見れば信じられないような行動や態度を取ることだってある。大切にしているものを壊してしまったり、大切な家族を守ろうとしない。そんな「異常な」言動。
 それを、そんな悲しさを知らない人が「正常の範囲内」でできる「安易な想像」でもって「あんな父親、あり得ない」なんて言うのを聞いても、僕は今ひとつ共感できない。ああ、この人はそういう悲しみを知らないんだろうな...と思うのだ。

 もうひとつ。スターダスト・レビューの「木蘭の涙」を。
 元はアップテンポ気味で、明るい調子と言っていい。とても好きな曲のひとつだ。この曲には、アコースティックバージョンもある。こちらはややスローで、しみじみしている。
 元のアップテンポな曲調が好きという人は、当然いるだろう。その方が「悲しみを乗り越える感じがしていい」といった理由で。
 もちろんその感じ方が、悪いわけじゃない。それはそれで、いいのだ。ここは否定すべきところじゃないと思う。こうした自分の感じ方は、大切にして欲しい。
 だが僕は、アコースティック版の方がとてもいいと感じる。アップテンポ版が嫌いなんじゃなくて、どっちの方がより好きかってくらいのことだけど、アコースティック版の方により強い共感をいだく。
 僕の悲しみの捉え方が既に書いた通りなら、さもありなん...とわかっていただけるかもしれない。

 こういうことって、なかなか実体験がないとわかりにくいだろうなと思う。だらだらと書いてきたけれど、そういう想像もまた、同時に持っている。
 どんな流れであったかは忘れたが、昔、知人ともこんな話をしたことがある。彼は「そんな悲しみを感じたことがないからわからない」と素直に言っていた。けれどそれを、不思議だとも思わない。悪いとも思わない。
 きっと、そういうもの。