2017年4月アーカイブ

逝くこと逝かれること

 僕の望むものについては、先の記事に書いた通りだ。
 ごちゃごちゃしたことは一切不要と思っているので、その内容については説明もしないし、いらないだろう。

 さて、その記事を受けまして、死に対して思うことなどをいくつか。
 死んだらどこへ行くのか? そんなこと、僕は知らない。知らないし、死後の世界なんてなくていいと思ってさえいる。
 無神論者かと言われれば、違う。無宗教者かと問われれば、まぁそれに近いものだということにはなるんだろう。ただ、そう言われても、あるいはそれに近いものなんだろうと思いはしても、なんかピンとこないんだけどね。
 仏とか神とか宗教を否定するつもりはない。仏とか神はいないと主張するつもりもない。信じる人も信じない人も、また自分の宗教や宗派などに対する姿勢や行いがどうであろうと、どうぞご自由に...と。だからといって、不可知論者でもないからねー。
 とにかく、宗教について論議するつもりも、講釈垂れるつもりもないよ。お説教もいらないよ。

 近年は「終活」などという言葉もあって、シニア層には、自分が死を迎える時の準備にいそしむ人もいるそうだ。またそれと絡んで、「墓は立てるな」といった内容の本が売れたりするのだ。
 ここで僕が書いていることは、まるでそれに似た内容にも思えるわけだが、こんなことを考えだしたのは、なにも最近のことではない。いつからだか、もはや自分でもよくわからない。そのくらい昔から、若い頃からのことだ。
「千の風になって」がヒットするよりも、さらには「旅立つ日」が話題になるよりも、もっともっとずっと前のことだ。

 話を少し脇道へ。
 先に書いたことと重複するけれど、僕自身は、葬式って残された人のためのものだと思うんだよね。もちろん、宗教的な意味では、死んだ人のためのものなんだけれど。でも送る側の人にとっては、それが別れの気持ちの整理の第一段階なんじゃないかな。
 特に今の日本じゃ、そういう側面での意味が大きくなってるかもしれない。「葬式宗教」なんて言われたりするけど、そこにも同じような意味があるなと感じるところがある。

 こうした死後に関する思いを表明すると、それはナンタラ教と同じだ、ナニヤラと似ている、ウンタラ教と考え方は同じことだ、ダレソレの言うことと同様だ...だのなんだのかんだの指摘する人がいるものだけれど、僕は、既存の宗教との共通性や類似性が知りたいわけじゃない。魂の救いといったような道にいざなって欲しいわけでもない。僕の知らない(かもしれない)誰かと、思考の類似性を確認したいわけでもない。
 当然ながら、その「正しさ」を検証する必要もない。

 さらに、「千の風になって」のようなものを引き合いにされても、僕は困惑するばかりだ。僕が「お墓はいらないな」などと考えるようになったのは、それを知るずっと前のことだし、その詩の内容のようでありたいとも思っていない。
「千の風になって」で僕と共通するのは、「そこに私はいません」というくだりだけかな。曲の内容を否定するわけじゃないので、勘違いしないでね。

 死んだらどうなるかなんて、僕にはわからない。死んでまだ続きがあるとか、よくわからんし、続きがあったら正直しんどい気もする。あっさりと、なんにもなくていい。
 でも、もし死んでからまだ先があるとしたら、「自由な存在」だとおもしろいかもしれないなぁ。今そう思うだけで、実際はおもしろくないかもしれないけど。
 この意味では、「風を見た少年」には近いものがあると思う。「千の風になって」ではなくてね。


※「風を見た少年」は、小説です。

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