2017年1月アーカイブ

違うことは違うこと

 キミは僕と違うから、正常じゃない──。

 こんなことを言われたら、どう思うだろう。相手は、友達でも家族でも、先生でも、上司でも、同僚でも、見知らぬ他人でも、誰でもいい。
 根拠は、ない。正当な理由もない。彼はただ、自分と違うからダメだと言うのだ。「僕」だけが正常であって、それと違うものは異常だと。だから、「僕」と異質な「キミ」は異常だと。
 自分と考えが違うから、異常。自分と同じように行動しないから、異常。自分と同じものを好きにならないから、異常。自分と生き方が違うから、異常...。自分と違うものは何もかもダメで、ダメなものはすべて異常だと...。
 具体的な反応や主張は、いろいろあるかもしれない。けれど多かれ少なかれ、こんなことを言われたならば、誰もが戸惑いますよね。
 まったくもって、余計なお世話だ。自分と考えが違うから「ダメだ」なんて、むしろ意味が分からなくありませんか? 相手が誰であろうと、そんなことを他人に言われる筋合いではない。やっぱり変だよね。
 こんな主張、それ自体が「異常」だと言っても差し支えないかもしれない。

 ところが、この「自分と違っていたら正常じゃない」というわけのわからない主張がまかり通ることがある。この、エゴと偏見の塊のような、突飛で非常識な主張が。不思議なことに。
 まかり通るというより、ゴリ押しされると言う方がいいのかな。それを当然のように思っている人たちがいて、冷静に考えれば誰もが理解に苦しむであろうこうした主張を、なぜか正しいと言って絶対に譲らない(ただし、それを指摘すると、そんなことは思ってない...と返される)。
 そのひとつが、セクシュアリティに関する否定的見解ではないだろうか。

 とても突拍子のない発言なんだけど、そこではこれが正当化される。もちろん、論拠も何もないので、この正当化は歪んだ正当化なわけですが。

 そんな人たちは、自分の言うことの正当性を哀れなほど必死になって裏付けようと、視野の狭い見解を、あたかも広く世界が認めた見解であるかのようにも見せかける。
 なもんだから、あわせてこんな言葉もよく出てくる。

「自分のまわりの人たちは同じことを言っている」

 まわりの人たちとは、いったい幾人のことでしょうか。また、そのうちの何人が、本音で話をしてくれたでしょうか。
 仮に、小さな世界で、小さな仲間内で合意ができたとしても、それが世界と広く共有できる正しい意見だとは限らない。
 それになによりも、たった一人の合意者がいただけで、それを「まわりの人たち全員」であるかのように言い繕うなんてことは、悲しいかな、珍しいことじゃない。

「みんな同じように思っている」
 これも上の発言と同じことなんだけど、やっぱり視野が狭い。
 みんなって、あなたともうひとりいれば、それで「みんな」なんでしょう? あるいは、あなたが「仲間」だと思っている「歪んだ人の集まり」のみんなにすぎないかもしれませんね。ついでに、歪んだ仲間の中にいたら、自分の歪みにもなかなか気付けないでしょうね。
 もっとヒドイのになると、誰からもそんな同意を得ていなくても、「同意を得られるに違いない」という根拠のない「確信」を「事実」として口にしたりする。いやー、どうしましょ。救えません。

 しかし、こうした歪みについて指摘をしたとしても、逆に「その指摘と同じようなこと」を言って逆襲する人までいる。まるでマホカンタでも唱えたかのように。
 いや、もうそれ、笑うしかないでしょ。
「じゃあ、お前に賛同する奴を連れてきてみろ。町内を訪ね歩いてみろ」とか、そんなことを言いだしたりするんだよね。いやいや、まったく意味がありませんよ。
 この発言自体が差別意識をふんだんに盛り込んでいるんだけど、今は横に置いておきます。

 キミは僕と違うから、正常じゃない。

 そんな突拍子もない決め付けがまかり通るような世界で生きていきたい人は、いるんだろうか。
 僕は、生きていたくはない。