2016年11月アーカイブ

魔女が誰かを魔女と呼び

 同性愛を否定する発言に対しては、いろんな批判や指摘の仕方がある。
 その中には、こんなものも見られる。
 魔女狩りを例に引いて、「中世の魔女狩りでは同性愛者が含まれ云々...」といった具合に話の展開を試みる。おそらく、なんの罪もない普通の人が謂れのない糾弾に無用に晒されることの理不尽さなどを訴えたいものと思われる。
 この「魔女狩りだ」に反論して、否定的見解の持ち主さんなどは「中世の魔女狩りでは、普通の人も含まれていた」「女性も含まれていた」「同性愛者だけが標的にされたわけではないので、この件とは無関係だ」などと述べる(たいていは、他はトンチンカンでも、具体な意味に限ればここだけ反論が的を射ている。ただし「女性は〜」というくだりはやはりトンチンカンだし、「普通の人」という言い方は危うさがある)。

 魔女狩りを話題にするこういった例は、あちこちで目にする。
 内容も、だいたい似たり寄ったり。なんでどこでも同じようなやり取りになるのか、不思議なくらい似ている。

 この批判者が「中世の魔女狩り」そのものを指して問題点を指摘したかったのかどうかは知らない。おそらくそうではないし、意図が違う場合もあるのだろうとは思うけれど、言葉足らずなことが多いことが惜しまれる。
 いずれにせよ、「魔女狩りだ」とする発言は例の取り方や指摘のしかたがうまくないし、対する反論はその共通性に目をつむっているように思われる。

 僕は魔女狩りを引き合いに云々言ったことはないけれど、今回はこれを話のネタにしてみたい。

 中世の魔女狩りの実体が、どのようなものだったのか──。
 これは、とても重要なことだと思う。なぜ、それが起きたのか。それが起きた社会的な空気とは、どんなものだったのか。
 ここで注目したいそれは、具体的に「誰が」とか、きっかけそのもの、処刑された人たちの具体例だけを指すわけじゃない。経済だとかの話のみでもない。
 もちろん、学問的には、それらが重要になることも当然あるだろう。ただしその学問的に重要な要素が、問題の全体像を的確に表し得るとは限らない。
 直接的な、具体性のある発端の解明が、必ずしも重要なのではないと思うんだよね。いや、「それだけが重要なのではない」と言った方がいいのかな。大きく見た時のその性格とでもいおうか、それが空気感染する雰囲気のようなものだという点などにも注意すべきだろう。

 魔女狩りは、形を変えていくらでも現代に蘇ると思う。それも、いとも簡単に。まことにたやすく。規模の大小を問わず。なんでそう思うのかと言えば、身近な例なら「いじめ」などとも同じものだと思うからだ。
 しかも、簡単にはなくならない。悲しいかな、解決も難しいことが多い。具体性だけで容易に解決できるのなら、そうはならないはずなんだけどね。

 重要なのは、その構造のようなものじゃないかなぁ。それも、暗黙のルールのごときものがあるかのような。
 中世の以前・以後を問わず、似たような事例は枚挙に暇がない。非常に規模の大きな、国家レベルでの共通的事例も、当然ある。それはもちろん、「魔女狩り」とは呼ばれていないのだけれど。

 魔女狩りを蘇らせる方法は簡単で、しかもいくつでもある。加えて、どんなところにでも存在し得る。他のページの繰り返しでもあるけれど、それを端的に言えば「思い込む」ことだ。
 自分の信念だけを、唯一絶対のものとして信じ込む。自分だけが正しくて、他人は悪であると思い込む。自分の行動は常に善より成り、他人の行動は悪によって立つと考える。自分はただ、その信念のみを神のように信じ、その「良心」にさえ従っていればいいと確信する。その内なる規範を疑うこともまた、罪だと思い込む。
 これらすべてを、意識・無意識を問わず「思い込む」のだ。

 歪んだ信念の虜となって、その盲目ぶりに気付かず、たとえ下僕となり果てようとも一向に振り返ることもない。
 書いていて、なんだか哀れですね。
 そう思い込んでいるだけなんだけど、その人にとってその時その場では、絶対的にそれが「正しい」のだ。それに反する人は「正しくない」、つまり「人間じゃない・仲間じゃない...」ことにされてしまうのだ。
 なにやら空恐ろしい。むしろ、狂気の沙汰ですね。でもこれを、普通に、さも当たり前のようにやってのけるのだ。ごく普通の隣人が。
 思うに、狂気なんてそんなもんだろう。目に見える行動や言動としての「狂人」だけが、狂気を持ち合わせているわけじゃない。案外そのあたりに、日常の中に紛れているものだろう。

 こんなふうに言うと難しく聞こえるかもしれないし、自分は関係ないって思ってしまいがちかもしれない。だけど、誰にとっても縁遠い話じゃないと思う。
 要するに、どんな小さなことでも、自分が正しいと思っていることや自分がしていることを、誰かに否定されるのを許さない・許せない...なんてのは、この「思い込み」だってことです。
 誰にだって、こんなことはあり得ます。僕だって、覚えがあります。後から思い返して、いや違うな、そうじゃないな...って気付くこともある。

 魔女狩りといじめなどが似ていると思うのは、こういった点だ。

 学校や職場でのいじめ。陰湿だけど、いじめる側は罪の意識がない。あるわけがないとも言える。自分が絶対的に「正しい」と思い込んでいるんだから。それが覆されることは、「あり得ない」ことなのだから。
 人は、なんだかんだと理由を付ける。いじめだって、理由を付けてあれこれ言う。いじめた側は、何かと言い訳をする。たとえ自覚がなくてもね。いじめに加担していることにすら気付かない。あるいは、それが「正しい」と心底思っている。ハブられる奴は、ハブられて当然なのだ...と。しかも、それらを忘れる。
 でも、その理由は単に「私、悪くないもん」という「言い逃れ」であって、正当な理由がどこかにあるわけじゃない。なんで私は「間違っていない」のに、他人に何か言われなきゃいけないの? って。
 これって、傍から見るとなかなか滑稽です。だけど、本人は気付かない。指摘したって、ほとんど意味を成さない。

「○○さんって信じられないよねー」
「○○さんって感じ悪いよねー」
 表向きはマイルドなそんな「共感」でもって、簡単に事が始まり、しかも攻撃力を高めて持続する。
 マイルドなだけに、タチが悪い。罪の意識が希薄になるからだ。そして当人達は、嫌な奴は罰せられて当然と、ますます漠然と思い込み、信じきるようになる。しかも、終わりは見えない。
 それがいじめであり、差別であり、魔女狩りなのではないか。

 例にいじめを挙げたけれど、それに限らない。
 犯罪者の親族への執拗な嫌がらせ、被害者への止まぬ好奇のまなざし、特定の人たちへの差別、根拠のない一面的で集団的なリンチ...集団による理不尽な社会的制裁やそれに類するものは、世の中にいくらでも溢れている。
 特定の者を吊るし上げることを比喩として「魔女狩り」と言い表すことはよくあるけど、必ずしも大袈裟なことではなくて、ごく身近なものなのだ。インターネット上では、それにさらに拍車がかかることも多い。

 セクシュアルマイノリティに対する謂れのない攻撃もまた、同じ性格を持っている。
「中世の魔女狩りとは内容が違う」などと返すのは、一見的確なように錯覚するかもしれないけれど(事実、歴史としての具体性においては的外れではないのだけれど)、その共通性にまったく目が向いていないことは明白だ。目が向いていないということは、慮ることができないということだ。話を逸らす効果はあるけれど、それだけでしかなく、むしろ愚鈍なのではないだろうか。

 中世の魔女狩りでは「普通の人」が犠牲になったが、同性愛者は「普通の人」ではない...と、さらに反論する人もいるかもしれない。
 これに対する答えは、他のページでさんざん触れた通りだ。「普通の人ではない」という見解には、根拠がない。多数か少数かという、単なる数の違いでしかない。ここでは、これで充分だろう。その主張もまた、まさに誤りや思い込みにまみれている。
 好き嫌いとは別問題なのだ。好き嫌いは、個人の勝手にすればいい。気持ち悪いと思うのも結構だ。しかしそれを理由に、例えば「普通の人ではない」などと言うことのどこにも、正当性は見出せない。

 誰しも、たとえ間違っていても、場の流れには乗せられやすいものだろう。そんな時、人の思考は停止する。だけどそんな状況は、集団の中にだけ存在するわけじゃないと思う。個人の中にも、それはある。どちらも相互的で、気分に流されやすいものなのだから。
 自分は違う、そんなことはしないと思いがちだけど、人の心は盲信に弱い。その理不尽さを肝に銘じなければ、同じことは未来永劫繰り返される。
 そして愚かな人間は、それでもきっと同じことを繰り返し続ける。
 僕もその例外ではない。

 だからといって、希望がないとも思ってないけどね。