2016年10月アーカイブ

妹背の姿が意味するものは

 時々、僕には不思議に思える検索キーワードが使われていることもある。
 そのひとつが、折り紙の妹背山に関するもの。つながった二羽の折り鶴に対する「特別な意味」を知りたがっている、あるいはその有無を調べている様子が伺えるのだ。

 連鶴の妹背山の意味は、至極簡単なものだと思う。妹背という言葉は和歌にもしばしば織り込まれていて、それ自体は珍しい言葉じゃない。
 だけど、現代だからなのかどうなのか、日常的に使うことはないよなぁ。せいぜい、結婚式や披露宴の場で耳にすることがあるくらいだろう。ぜんぜん聞いたこともない! 初耳! って人がいても、不思議じゃない。特に、若い人たちにはね。

 妹背山とは、なんぞや。どこの山でござるか。

 山はひとまず置いといて、まずは妹背。
 妹背にはふたつの意味があるのだけど、そのひとつは、夫婦を意味するもの。こちらが、結婚式や披露宴で使われることがある意味ですね。妹背の契りがどうだとか、挨拶や祝辞、チャペルでの賛美歌などで夫婦を妹背と表現することは珍しくない。しかし、先ほど書いた通りだけど、そのような機会でもなければあまり使うことがないし、またそんな時なら必ず聞くわけでもなく、あまり馴染みはないかもしれませんね。
 もうひとつの意味は、異性の兄弟姉妹を表す。つまり兄と妹、または姉と弟のことだ。

 そんなわけで、向かい合うふたつの山を、夫婦兄妹になぞらえて、妹背山と呼んだりする。単に象徴的にそう呼ぶこともあれば、一方は妹山、もう一方は背山と名付けられていて、あわせて妹背山と呼ぶこともある。こういった山は、すぐそばに並んでいることもあれば、川などを隔てて向かい合っていることもある。
 いずれにせよ、そうした二つの山を、夫婦兄妹に見立てるなどして「妹背山」と呼んだわけですね。
 実例として、妹背山として知られる山には、奈良の吉野川を挟む妹山・背山や、和歌山の紀ノ川両岸に立つふたつの山などがある。

 といった具合で、妹背を平たく言えば夫婦のことで、そのように見立てた山が妹背山だ。
 連鶴の妹背山は、そうした見立てを二羽の折り鶴に移し替えた(映し取った)ものなんですね。たぶん。
 そんなわけで、左右紅白で色違いの妹背山を折るとよりおめでたい感じになるのでして、だから二色の妹背山を折りたい! でもどうやったらいいのかよくわかんない...なんて人も、相当数いるのです。たぶん。

 ここまでは、妹背山の純粋な意味の話。
 で、「特別な意味」とはなんぞや。

 もともとそんな意味は何ひとつ含まれていないのだけど、二羽の鶴に、セクシュアリティを超えた意味を求める人もいるみたいなんだよね。「求める」という言い方は、正確ではないかもしれないけれど。
 要するに、妹背山は、ゲイやレズビアンを表現し得ないのか...といったような。あるいはもっとストレートに、それを意味しないのか...と。
 繰り返すが、もともとそんな意味は、露ほどすらないのだ。ないったらないのだ。

 でもね、後世の人が、直接的な「妹背」を現すのではなくて、広く「カップル」を表現するものとして使おうが何をしようが、どうでもいいようなこと、現代人の勝手にやればいいことではある。ゲイのカップルが結婚式を挙げたり披露宴を開いた時に、たとえ妹背山を飾りに使ったりなどしても、それはその人たちの自由だ(結婚に関する法的な話はともかく)。「妹背」の本来の意味にこだわる必要は、まったくないだろう。
 使いたい場所で、それにふさわしく使われるなら、そんなことにこだわることはない。
 代替としてだったり、想い出としてだったり、あるものに別の意味を込めて、あるいは個人的にある思いが込められていて、それが本来とは別の使われ方をすることは、よくあることだと思う。この場合の妹背山も、広く言えばそのひとつにすぎないだろう。広く言わなくても、自由に使えばいいと思うけどね。

 でもそこに、ある種の特別な唯一無二のごとき意味付けをしてしまうのは、いかがなものかと思う。それが望まれているかどうかはわからないけど、同性カップルをこそ現すんだとか、もっと限定的にそれのみを象徴するかのように。
 レインボーを LGBT の象徴的なマークのひとつとして使うのは勝手だけど、レインボーはそれのみを表すものではないし、それのみを意味するものだと主張するのは行き過ぎだろう。妹背山もまた、然り。

 堅く元の意味にこだわる必要はないと思うけど、それを別の意味のみに限定するような象徴としてしまったのでは、おかしな縛りや硬さが生まれてしまいかねない。そうなったら、ちょっと悲しい。
 そうした意味にこだわるのではなくて、それに見合う形であれば、自由に使えばいいんじゃないかなぁ。

 だから、そういう意味では、妹背山についてのセクシュアリティ的な側面を調べること自体、無駄だし、必要ないことなのかもしれませんね。