2016年4月アーカイブ

議論もできないというけれど

 同性愛に否定的な発言をする人の中には、わざわざこんなことを言う人がいる。
「当事者や同性愛に肯定的な人とは、まともな議論にならない」
「否定的な見解を披露すると集団的に叩かれるので、話が先に進まないし、この種のことが言いにくくなる」
 だいたいこんな感じのことですね。
 同性愛者などの性的マイノリティ、もしくはそれに類する、あるいはそれらの人と関わりのある人や肯定的な人の中にも、似たようなことを口にする人がいる。
 その内容を簡単にまとめてしまえば、「同性愛や同性婚についてはもっと議論を深めていくべきなのに、少しでも同性愛に対して批判的な発言をすると非難が集中してしまって、まともな議論ができなくなる。まともな議論をしたいのなら、差別だなどと騒ぐのをやめるべき」と、おおよそこんなところだろうか。
 少なくとも言葉面は、いずれも似たような内容ですね。意識や知識面での差はともかく。

 確かに、議論の必要な課題はたくさんある。しかし僕は、このどちらにも違和感を感じるのだ。必要以上に叩いたり、ただ感情的に非難することには、僕も賛同しかねる。かといって、彼らの言うことに賛同できるかといえば、できない。
 なぜなら、議論がかみ合うのか、はなはだ疑問だからだ。そもそも議論になり得ないことに気付いていなかったり、その点を軽く見過ぎているのではないかと思えるのだ。

 簡単に言えば、「話を聞こう」「議論しよう」などともったいぶって言う人はいるけれど、実際には聞く耳を持ち合わせていないし、議論する気もなく、自分が誤った認識を持っていてもそれを改めるつもりもない...そんな人が少なくない。
「自分は聞く耳持ってあげてるからね」というなにやら押しつけがましい尊大げな「嘘の聞く耳」の態度は、ものすごく感じ悪いし、当事者の感情を逆なでするだけなんだけど(だから余計に話をしたくなくなるんだけど)、それはさておき。
 うそぶく彼らの言う「議論」は、事実に基づかない認識や思い込みによる自分の「信念」を押し付けること、相手の言うことやその存在(ここではつまり同性愛者など)を頑迷に否定することだったりする。
 これって、議論になる?
 もっと言えば、押しつけがましく「話を聞こう」などという態度でいることが、既に傲慢でして。これはいったい、なんなんだろう。言っていることが嘘だらけで支離滅裂で、なのに実は話を聞く気はなく、さらに自ら正しい知識を得ようと動く気もないし、客観的事実を教えられても否定しかしないなど、むしろ怠慢だとも言えますね。
 考え過ぎと言われるかもしれないけど、実際そういう人たちがけっこういますからねぇ。「常識」に欠けているのに、なぜかいわゆる「上から目線」みたいな。根拠もないのに「自分が正しいから、自分の言うことを聞け」という態度。議論以前のことで間違ったことを言っているのに、なんでそんなにエラそげなの...?

「この種のことが言いにくくなる」とのことだけれど、そもそも「この種のこと」の内容が事実によらないので、本末転倒だ。同じ人が同じ口で「同性愛は精神的にオカシイ人たちなので云々」「自然の摂理に反しているから云々」などと言っちゃったりするのだ。
 それ、言う必要がありますか? 自分の無知と恥を晒すようなものですが。すべて事実ではありませんからね。言いにくくなるもなにもない。このおかしさに気付けない人は...どうすればいいんでしょうね。
 それ自体が議論の内容だというつもりの人もいるけれど、本当にそれは議論するようなことなんだろうか。今更な事柄を。これらは議論すべき内容なのではなくて、正しい知識を持っているかどうか、単にそれだけの話だ。
 どちらが正しいのか分かり切っていることについて押し問答するのは、時間の無駄だ。建設的な議論になど、なり得ない。正解がわからない時にどちらが正しいのかを議論するとか、ある事柄をどう判断するかで議論するのとは、まったく意味が違う。とっくにわかっているようなことを蒸し返すようにあれこれ言うのは、議論だろうか。事実に基づかない偏見や先入観、信念、感情などを披露するのは、あるいはその押し付けをするのは、議論といえるかなぁ。
 これは議論ではなくて、先入観にとらわれることなく、事実を事実として理解できるかどうかの問題だろう。こういった発言をして、それが元で批判にさらされて、「議論もできない」なんて嘆いてみせるなど、自分で何を言っているのかわかっているのかなぁ。たぶん、わかってないんだけど。
 事実をそのまま認められない人たちの言う「議論」って、いったいなんだろう。
 もしそんな疑問に、「だからこそ議論をするのだ」などと返すとすれば、もはや笑うしかない。こういう堂々巡りを、これこそが正義だと宣いつつやってしまう人には、何を言ってあげればいいんだろう。

 もう少し、話を広げます。

 まず、最低限の正しい基礎知識は必要だと思う。それがないまま意見を交わして、建設的な議論は生まれるだろうか。
 基礎的な情報が決定的に欠けていて、そればかりか偏見でしかないものを事実とすり替えてしまっていては、結局、自分に都合のいい短絡的な思考しかできない。肯定だろうと、否定だろうと。
 間違えた思い込みの押し付けやそれに基づく主張は、議論じゃないよね。偏見に基づく事実によらない思想・信条を披露したり押し付けようとしたりするのは、議論ではありませんよ。ましてや、「自分は気持ち悪いと思うから」なんて理由で否定的見解を示すのは、議論だなんだ以前の話だ。

 何が正しいのかを考えよう...などともっともらしく言う人もいる。例えば、セクシュアリティについてだとかね。しかしそれは、「基礎知識」の範囲内でしょう? 今更、もったいぶって議論するようなことじゃないよね。
 例えば、同性愛が精神的な問題だと思っている人がいるとしよう。「その認識は間違っていますよ」という指摘に対して「それは違う。意志が弱いから普通になれないんだ。だから同性愛者は異常だ」などと反論するのは、議論ではない。それは事実を認められず、自分の思い込みを修正できないだけの、デタラメな主張だ。そんな反論を議論と称するなら、愚と言うほかない。
「1+1は2じゃない」と主張する人に「1+1=2 だよ」と教えたら、「違うよ。1+1=5 だよ」と反論するのは、おかしくないだろうか。これは、議論と呼ぶべきものだろうか。1+1 が 2 か 5 かの主張で争うのは、議論だろうか。
 例は何でもいいのだけど、あるいは「天動説は正しいのか」を議論しよう...などと言う人がいたらどうだろう。「天動説は正しいか」を、この現代で議論する人がいるだろうか。そんなことをしていたら、まぁ笑われるだろうなぁ(信仰等は別として)。
 議論のフリをする人には、残念ながら、こういうズレた人が多い。

 そんなわけで、「常識」が欠けた状態の人の言う「議論」には、違和感を感じてしまう。議論云々の前に発言の内容や思考が既に破綻しているわけで、突拍子もない、随分とおかしなことを言っているんだけど、それに気付けないんだよね。
 正しい基礎的知識を持ち合わせず、学習する気もない。「正しい知識」を得る気がないし、理解しようともしないし、できない...そんな人と、何が議論できるだろう。話が進まないって、どんな話を進めるつもりなのだろう。

 いたずらに叩いても得るものはないけど、議論に誘っても乗ってこないし、議論にならない。議論以前の問題なので。議論にならないなら、事実の確認をせざるを得ない。しかし見解について説明を求めても、まともな解答が返ってこない。
 逆にこちらが正しい指摘をしても、トンチンカンな返答をするばかり。何が正しいのかわかっていなくて、自分の「勘違い」だけで話をするから。その「勘違い」が絶対的に正しいと、ほとんど宗教的に思い込んでいるから。知識と理解が追い付かなくて、うまく判断ができないだけならまだしも、自分の信じるものが絶対的に正しいのだと思い込んでいるから。
 彼らにとってはそれが本当に正しいのかどうかはさほど重要ではなく、検証もしないし、する必要もないようだ。結局、誤りを認めず、話は先に進まない。
 全員がそうだとは言わないけど、こういった人が多いことも否定できない。
 それこそ、まともな議論にならないのだ。実は「議論にならない」と言っている人たち自身が、議論にならないようにしているっていうね。だからなのかどうなのか、延々と、いつまでたっても同じことを言っている。これじゃ、余計に話は進展しない。永遠に進展しないのではないかと思えるほどに。
 彼らは臆面もなく「何をバカなことを。オマエはあんな異常なヤツらを認めるのか? 話にならない」などと言ってしまうこともある。あるいは感情的に「気持ち悪い」から、それが「正しい」だとかね。いや、もうそれ、理屈も何もない「乱暴の極み」じゃないですか。
 話を聞く気もなくただ切り捨てたがるのは、むしろ同性愛者を認めようとしない人たちではなかろうか。

 ぶっちゃけ、「自分は気持ち悪いと思うから」「自分は認めたくないから」といった、たったそれだけのことで他人をおとしめて、なおかつそれを「正しい」と言ってしまってるんだよね。それ以上の理由は何もないのに。そんな個人的な感情を、正しく見せかけるために「理論武装」しているかのように取り繕っているだけのことだ。しかし、また何度も繰り返すが、その「理論武装」は事実によらないので、欠陥だらけだ。
 これって、本当に「正しい」ことなのかな。なんだか、非人間的といってもいい思考のように思えるけれど。
 それが許容されるのならば、逆にこの人に誰かが「理由はどうであれ、気持ち悪いからアイツは嫌いだ」という感情を抱いた時、この人は一人の人間として認められなくなっても当然だってことにならないのか。それは本当に許されることなのか。
 許されるのだとすれば、むしろこの社会そのものに存在価値はあるんだろうか。
 そんなことも思ったりする。

 しかし! 批判する側もする側で、感情的になりすぎる人が多々いる。あれも目に余るし、辟易する。
 まぁ、感情的になるのもわからないではない。「なんでこんな当たり前のことがわからないんだ!?」と思ってものすごくもどかしいだろうし、そのまま勢いで突っ走ってしまうのだろう。
 それに、心無い言葉で、嘘を撒き散らして自分を卑下されると、そりゃあ誰だって怒るだろう。でもそれさえも、そんな当たり前なことでさえも、ある種の人たちにとっては揚げ足を取る機会にしかならない。
 簡単なことがわかってもらえず、繰り返される心無い言葉に対して、つい乱暴な言葉を使ってしまったり、「怒り」をあらわにしてしまったりする。そうしたら今度は「だからやっぱりマイノリティは怖い」などとトンチンカンなことを言いだし、それでまた行き違いが起こり...。

 つい先日、新たに某国某州でセクシュアルマイノリティへの差別が合法化されたが、これもその延長線上にあるのかもしれない。
 法の謳い文句はどうであれ、そもそもはマイノリティの存在自体が問題なのではないと思われる。その積極的推進者の中に「暴力的」な人が存在し、それが憎悪を生み、「マイノリティによるマジョリティへの甚大な被害思想」へと変化し、差別の合法化に繋がったんじゃないかと(この法案自体については、某州知事は宗教戦争でもおっぱじめるつもりか? と思わされるようなものだと感じました)。まぁ、それでもそれは後付けの理由であって、出発点は「自分は気持ち悪いから認めなくない」っていう、単純にして非人間的なものなのかもしれないが。
 結局、マジョリティであろうがマイノリティであろうが、互いに許容しあい、理解しあうことができなければ、潰しあいに発展する。ただ、その「許容」は、なんでもかんでも際限なく許されるような「許容」であるべきではない。それは、許容とは言わない。いわゆる憲法的に認められるような自由、互いに認めあえる中での自由、公共の福祉に反しない「自由」というものの範疇にあるべきだろう。
 暴力的なマイノリティは、少数の中でもさらに少数派だ。大多数の当事者は、そのようなものを好まない。しかし、小さな負の印象は、大多数の者にも負の影響を及ぼす。
 そういう意味でも、マイノリティの暴力は行き過ぎだし、マジョリティの心無い言動はその許容の範囲を超える。差別を訴える暴力的な叫びからも、また、よくある逆差別という被害妄想を肯定する幻想的思想からも、何も生まれない。

 話を戻そう。

 行き違いや、傷付け合いをしていても、そこには何も得るものがないし、何も解決しない。そんな不毛な言葉の応酬よりも、議論した方が有意義だろう。本当の意味での議論をね。もっと違うことについて意見を交わし、議論するべきなんじゃないかと思う。
 この点でのみ、冒頭の意見には賛同できる。彼らの言う「議論」が「議論」じゃないことはともかくね。

 ただ、その議論の土台が、現状ではまだ足りてない...とも言えるのかもしれない。それが、マイノリティ側の発信の問題と片付けるには、受信側の混線が著しいようにも思われる。
 いずれにせよ、おそらく特効薬はない。

 案外、テレビの「極端な同性愛者の例」も問題なのかもしれないなぁ。メディア等でそれを「ウリ」にするならそうならざるを得ないけど、彼らのなりや言動が、同性愛者ってそういうものだという固定観念になりかねない。
 でもそれは、あくまで「ウリ」であって、彼らの姿はむしろ特殊な例なんだよね。すぐ隣にいる一般の同性愛者は、ごく普通の、おそらく拍子抜けするくらい普通の人たちだから。
 テレビに出るのなら、もっと「普通」の同性愛者が増えて欲しいなぁ。