2015年12月アーカイブ

振り返ってみたならば

 最近、あれこれあって、書きたいことがいろいろできているんだけど、なかなか思うに任せない。と言っても、気に病んでいるわけではないが。それはそれでいいと思っている。のんびり。
 そういえば昔は、今とは違って日記のようなスタイルだったんだよなー。その日その日であったことなどを、3日にあげず書いていたしなぁ。
 随分と様変わりしたものです。

 どちらかといえばネタが少しずつ少しずつ増える一方で、当分切れることもなさそうなのが、今の状況である。それに更新スピードが追い付いてない...とも言えるけど。そのネタのヒントになるもののひとつが、当サイトへの検索に使われたキーワードである。
 今年もいろんなキーワードが使われてましたねぇ。
 でも、大雑把に分けると、4つに大別できる。とりあえず「その他」は無視で。
 折り紙、アンダーウェア、シューズのソールの黄ばみ取り、セクシュアリティ。この4つです。

 その中から、ちょいと折り紙について。
 折り紙は、大半が妹背山、特に2色の色分けバージョンの妹背山の検索が多い。
 あれはやり方は簡単なんだけど、知らない人は「なんで?」って思うものだし、折り間違えることもある(妹背山の詳細は「折り紙」タグから、いくつかある該当記事をご覧ください)。

 そういえば小学5年の頃だったか、妹背山(普通の妹背山)の折り方を教えろとしつこく迫ってきた友達がいた。単に折り鶴を2羽折るだけだから、最初は「紙をこう切って、あとは折り鶴を2羽別々に折るだけ」って教えた。もちろん、頭の位置も含めてね。だけど、なぜかそれができなくて、「次は?」「次はどうするの?」「それで次は?」って最後のひと折りまでしつこすぎて、嫌になったことがある。
 妹背山の折り方を教えて欲しいと言われたことは、これまで何度もある。わりと簡単にできるし、そのわりには見栄えがして、ちょっとすごいかも...とも思われるし、便利で手軽な「使える作品」なんだよね。
 だけど後にも先にも、あんな人はいなかったなぁ。
 しかし今思えば、1羽の折り鶴を折るのも苦手な人もいるし、特にそんな人にとっては、数が2羽に増えて、それが繋がってるなんて、何がどこでどうなってるのかイミフだったんだろうなー...と、ちょっとかわいそうな気もしないではない。その当時は、かなりイライラしたけどね。

 とにもかくにも、細かく見るといろいろと不思議なキーワードもちょこちょこ使われていて、なかなかおもしろい。そのいくつかは、またネタに使わせてもらおうと思っている。

 さて、実生活ではどうだったかな。
 昨年は「高い買い物をしなかった」と書いたんだけど、今年は久々に万を超える服を買ったり、デジカメを買ったりしましたねぇ。
 服は、コートです。もともとパンツを購入するつもりで、時々顔を出しているお店に行った。前にどんなものがあるのか見ていたので、おおよそは決まっていた。早々に選び出した2本で悩んだものの、無事購入。と言っても、裾上げと、ついでにウエストも直してもらったけど。これは、いつものお約束。
 で、仕上がったパンツを引き取りに行った時に、なんだか心惹かれるコートがあったのだ。
 試着してみると、これがジャストサイズな感じであった。あえて言えば、二の腕のあたりはもう少し細くていいけど。しかしそれでも、こうピッタリくる服とは、なかなか対面できない。とはいえ、買えば懐は痛い。これは迷います。その時を逃すと、次はいつそんな服にお目にかかれるかわからないのだから。
 という事情があるのも、ある意味ひとつのお約束。
 結局は、ある時に買わないとね...ってことで、買ってしまったわけです。

 デジカメは、超望遠タイプ。ミラーレスとかデジタル一眼とかじゃなくてね。
 どこかのポイントだとかがいろいろ貯まってて、それを使った。
 まぁこの類いの機種は、「お手軽さ」だと思う。デジタルでも、画質にどこまでもこだわろうと思えばデジタル一眼に歩があるし、コンデジやその延長線上のデジカメじゃあどうしたってかなわない。総合的に劣るのはもちろんだが、撮像素子とか細かいスペックからして、不利だ。
 だけど、デジイチより遥かに安い金額で、ある程度のことはできる。目的を絞れば、ハイエンド機を凌ぐ点もある。そのへん、どこまで許せるかとか、自分がどう使うかがポイントなんだと思う。使い方や目的に合わせればいい。
 それに、たしかにコンデジより「いい機種」を持つ人が増えたけど、だからといって「いい写真」や「おもしろい写真」がそのまま増えるわけじゃないんだよね。機能的に優れる機種は、スペック上の「担保」はあるけれど、それがそのまま写真の出来やおもしろさにつながるわけじゃない。
 とはいえ、各々撮りたいものも違うわけで、ぶっちゃけ自分が満足できればいいわけですが。
 それはともかく、超望遠タイプのデジカメがどこまで使える代物なのかを図りかねて、買うまでけっこう悩んだなぁ。僕の目的にどこまで応えてくれるのか、本当に使いやすいのか...。
 結果的には、大満足とは言えないまでも、満足です。撮像素子も小さいし、「画質」とか言いだすとキリがないけど、これはこれで使える。何より、楽しければいい。

 そんなこんなな本年も、残すところ2日。
 よいお年をお迎えください。

これも驕りの一種かな

 先日から、妙な発言が止まりませんねぇ。
 議員だとか公職だとかに就いている人たちが、同性愛者についてデタラメな批判や否定、揶揄を発信している。なんともかんとも。
 年齢の高い人ほどこういった偏見が強く、事実に基づかない手前勝手な自説を曲げようとしない傾向があるんだよねー。ほんで、同性愛者が嫌いで認めたくない若い人もまた、同じ傾向を持つ。

 どれもこれも基礎的知識に欠けていて、言い分は的を外してばかりで、その発言のどこにも正当性を見いだせないという、救いようのないものである。
 まぁ、これは氷山の一角にすぎない。続く時には、どんどん続くんだろうと思う。年末までに、まだまだありそうな気もする。
 発言の度に問題化しているわけで、後から発言する人は学習してもよさそうなものだが、それは期待できないだろう。彼らは、学習する気がまるでありませんから。

 僕には、恥と無知を晒してるなぁ...と思えてならない。
 議員にしろなんにしろ、ちっとも学習できないのがいい歳をした大人ですからねぇ。あぁ、間違っていたんだなと知り、正しい理解を深めるのならともかく、そんな様子は微塵もない。
 自分の不見識ぶりを振りまいているだけに見えてしまう。

 さて、それらの発言がどんなものであるのか、相手にするのもばかばかしくなるようなものだが、見てみよう。
 一度に書くので、とても長くなりますが...。

 発端とも言えそうなのが、「同性愛者は異常動物で、異常人間が多くなれば人類の破滅。その報道は倫理観に欠ける。正当化するな」とかとかいう内容の某議員の発言ですね。
 倫理観に欠けているのは、むしろこの方だろう。同性愛は倫理の問題ではないし、異常などという性質のものでもない。人類が破滅するなんてことも、あり得ない。
 基礎的知識も倫理観もないので、こんな発言になるのだろう。
 この発言の主は、「その時はお酒を飲んだ時でありましたし」「普段は全く深く考えてもいませんし」「本当に軽はずみで書いてしまったということでありますので」などとも言っていたようだが、それは言い訳にも免罪符にもならない。むしろ、自分の無知と不勉強さと軽率さを露呈している。
 だから目くじら立てなくても...とか、だから軽く流してよ...とでも言いたげだが、酒の席なら何を言っても許されるというわけではないし、深く考えていないのなら考えてみてはいかがでしょう。考えていないのにわざわざあれほどの発言をしたのだとしたら、あまりに軽薄だよなぁ。
 本当に軽はずみで...って、軽はずみだからこそ、むしろ本心が出ているのではないのかな?
 他の発言を見ていても、つまりはこれがこの人の、人となりなんだろうなと思わずにはいられない。同性愛に限らず、印象で独善的に判断した、根拠のない発言が多い。利己的な独りよがりの見地しか持ち合わせていないようである。しかし、それを改める気もないのだろう。
 それで政治家が務まるのだから、楽なものである。
 また、「まじめ人間が馬鹿を見る」などとも言っていたけれど、それ、同性愛者かどうかには、まったく無関係のことですよね。異性愛者ならみんな「まじめ」だとでも思っているのかなぁ。

「正常」という名の暴力...。

「同性愛は異常でしょ。だいたい、何で同性愛者とかは自分の変態的異常性を公表したがるんだ?」と受けた某職員がいた。
 これも、トンチンカンな発言だよなぁ
 冒頭の不見識ぶりに続いて、「だいたい...」と言いながら「だいたい...」の内容が的を射ていない。同性愛と変態は違うし、同性愛者に異常性があるわけでもないし、誰もが積極的に公表したがるわけでもない。
 この発言も、何ひとつ正確なものがない。哀れですね。
 たしかに、公表する人はいる。積極的かどうかはともかく。それが社会的に広く認められた著名な人でもあれば、驚きを持って受け止められることも多い。しかし、その状況そのものが、既に「異常」で「差別を孕む」ものなのではないのか?
 今現在は、わざわざ公表しなければならない状況があるのだ。「公表しなけりゃいいんじゃない?」などという話ではない。自分が自分のアイデンティティを守るために思考を重ね、何某かの決意によってわざわざ公表し、それが「当たり前」に受け止められるとは限らないという現状の「異常性」が省みられないという現実があるのだ。
 カミングアウトするかしないかは、その個人が決めればいいことだ。でも、そんなことで悩まなきゃいけないのは、なぜなんだろうなぁ。これって、同性愛が異常だからではなくて、同性愛を異常だと思い込み、理解しようとしない人が大勢いるからじゃないの?
 著名人に、前向きな思考によって公表しようとする人がいるのは確かだろう。だけどそれもまた、世間の差別がまだまだ根深いということを知っているからこその行動であったりする。この行動そのものが、差別の存在を強く物語っている。
「あいつらなんで公表したがるんだ?」などという発言からは、性についてはおろか、その行動の意味も、なんら理解していないことがよくわかる。

 こういった発言は、しばしば「不適切な発言」として片付けられ、削除される。「賛同発言」からの「発言削除」という流れでも、同様だ。
 でもね、「不適切な発言」ではなくて、「誤った発言」とか「理解していなかった発言」と言うべきでしょうねぇ。「(自分が)誤解した発言」ならまだしも、「不適切」と表現するのだ。
 あの人たちは「不適切な発言だった」だとか「誤解を与える表現だった」だとかよく使うけど、なんとも釈然としない言い方なんだよねー。弁解のようにも使うけれど、それは弁解にはならない。
 自分は悪くない...と暗に言ってるようなもので、批判をかわして自分が逃げるためだけの便利な口実のようにしか見えない。
 まるでそれを証明するかのように、「自分が間違っていました」とはけして言わない。自分は悪くないけど、本当のことを理解する気もないけど、とりあえずその場にそぐわない発言だったみたいです...と。他人事のように、暗にそう言っている。
 発言を取り消そうが、書き込みを削除しようが、意識は変わらないんだよね。何もわかっていない。何も変わらない。
 内輪では、発言を正当化する者同士で賛同しあったり、同性愛者を批判したりするのだろう。情けないことにね。それを情けないと指摘しない周辺も、同じ穴の狢だ。
 不適切なのではなく、真実を知らなかったし、知ろうともしていなかった結果の発言だろう。何が正しくて、何が間違えているのか、正確に判断できていない。
 辞職などについて問われると、「与えられた責務・職責を全うしたい」などと答えるのも、常套句ですね。この後に出てくる誰かさんも、同じことを言っていた。
 いやー、全うしたい...って、既に全うできてませんよー。どうするの?

 話が少々逸れてしまっているが、もっとも、この趣旨の発言は珍しいものではない。珍しいものでないことそれ自体が、嘆かわしいことではあるが。
 それらの発言そのものは、政治家だから許されないわけじゃない。誰が発言しても、同じことだ。発言の意味自体は、なんら変わることがない。
 それでも、立場が変われば、発言の責任や重みは、変わり得るものだろう。政治の運営にかかわるつもりなら、そのくらいの「常識」は持っていてもいいんじゃないかなぁ。
 それがないのに、職責なんて全うできるの?

 渋谷区の例の条例について、「男らしさや女らしさ、男女による結婚を尊重し祝福する日本社会の価値観を否定するもの」と批判した人もいる。「婚姻は次の世代を産み育てること」「同性カップルから子どもは生まれない」「憲法に"結婚は両性の合意のみに基づく"とあり、条例制定権を逸脱している」とも言ってますね。
 これも、ツッコミどころが満載です。
 男らしさ、女らしさがどうとか言っているけれど、それはヘテロセクシュアルにだけ備わるものだろうか。そうではなかろうて。
 日本社会の価値観とやらを持ち出す人の根拠も、よくわからないんだよね。よくよく聞いてみれば、その価値観とやらが、たかだか200年にも満たない新しい歴史、それも著しく偏った偏見に基づくもののことを言っていたりする。
 普段はグローバルだのなんだの言うのだけれど、こういう時だけ都合よく手を翻す態度も、感心できるものではない。そもそもその価値観が作られたのは、遮断されていた欧米(特にプロイセン)の文化や思想が入ってきたこととも関係している。その欧米は、同性愛者に対する社会的地位などの改善においても、先進国となりつつありますが...さて、どうするのでしょうね。
 あの条例が学校教育で「性的少数者に対する理解を深める」としていることについては、「教育への介入で、子どもの価値観を混乱させかねない」とも言っている。
 しかし、教えないことの方が、むしろ価値観を混乱させるかもしれませんよ。今はその混乱を、数少ない同性愛者などのマイノリティだけに、当事者個人だけに押し付けているとも言える。しかも、救いのない状態に放置して。多様なものを多様だとせずに、狭い視野の固定観念を「正しい」と教えれば、当然そうなるよね。その固定観念から外れるものは、「異質なもの」「異常なもの」としてしか扱われない。それがセクシュアルマイノリティ、特に子供を苦しめることになるというのに。
 ここで事実なのは、ただひとつ。「同性カップルから子どもは生まれない」という点だけだ。でもねー、子供が産まれないからどうだというのだろう。結婚さえすれば許されるとでも? 子供を産まない、あるいは産めない夫婦には、何と言うつもりなのだろう。やはり暴言を浴びせるのでしょうか。
 それに、子供を持ちたい同性カップルもいる。彼ら・彼女らが、それをどう実現できるかは、ここで深くは触れない。現状では体外受精は不可能だが、仮に人工授精などの他の方法で子供を得るカップルが増えるとすれば...どうなんでしょうね。
 それはさておき、いつも思うことだけど、同性カップルがどうとか言う前に、「普通の家庭」が抱える「目に見えていない重大な問題」について考えた方が、よほど有意義だと思う。
 さらに、憲法にも言及しているけど、そこには同性愛者の結婚については何も書かれていませんよ。また、「結婚」ではなく「婚姻」です。いずれにしろ、同性愛者の結婚(婚姻)が禁じられているわけではない。見識に欠けてます。

 もうひとつ。
 某議員が、某職員による同性愛者を中傷する上記のツイートに関連する質疑で、「同性愛は異常だ」とやじを飛ばしたというもの。
 これも、発言そのものの不正確さもさることながら、その後の発言も、どういう言い訳なのかとあきれるばかりだ。
「やじではない。私人としてつぶやいただけ」と言ったそうだが、やじかどうかが問題なのではないだろう。また、私人としてなら許されるのであれば、どこで何を言ってもいいということですよね。それはまさに、どのような暴力も差別も許される際限のない乱れが蔓延する世界を認めることになるのでは? 彼らが大好きな「規律正しい」世の中は、永遠にやって来ない。皮肉にも、彼ら自身の思想によって。彼らの言う「規律正しい」社会が、歪んだものだってことはともかくね。
「差別的な意識はなく、誰かを中傷するものではない。同性愛を社会全体が認めて拡大すれば人口減少につながるとの思いから発言した」と、トンチンカンなことも言っている。
 差別的な意識はない、中傷もしてないって言うけれど、きっとおおありでしょうね。この言い訳、苦しすぎるよ。
 この後半部分も、もう笑ってしまう。「同性愛を社会全体が認めて拡大すれば人口減少につながるとの思いから」って、いやいや、おかしいでしょう、根本的に。社会全体に認められたからといって、同性愛者が拡大するわけがない。
 セクシュアリティが、倫理や精神、あるいは嗜好の問題だとでも思っているのだろう。違いますよ。認めるかどうかには関係なく、同性愛者はいる。そんなことでは、同性愛者は増えも減りもしない。増える要因はあり得るけど、それは社会での認知とは無関係だ。
 また「人口減少」とやらにも、結びつくわけがない。仮に高めに見積もって、同性愛者が10%いるとしよう(おおよそ 5〜8% というのが定説です)。で? そのまま人口が10%減少するとでも? 異性と結婚する同性愛者もいるけれど、それはむしろ少数派だ。ごっそり減少するわけがない。
 そんなことを言っている限り、人口問題は永遠に解決しませんよ。問題の本質を見ずに、見当違いの話を問題として持ち出している限りはね。それも、不見識であるが故にね。
 さらに、表現の自由だから撤回する必要はなく、問題もないのだとか。あれ? 公共の福祉に反する明らかに差別的な発言も、公共の福祉を乱す事実に基づかない誹謗中傷も、表現の自由として認められるんでしたっけ。これは表現の自由の問題ではないし、公共の福祉に反する事実に基づかない誤った発言を取り消すことに、何をためらうことがあろうか。
 おかしな正当化ですねぇ。それが間違いだろうと何だろうと、よほど自分の言ったことを引っ込めたくないらしい。

 その他、某弁護士による指向と嗜好の区別もできていない発言などが続いているけど、割愛。
 ホント、あきれるよなぁ。彼らこそ、人を深く理解すべき人たちではないのですか? 驕り高ぶることしかできないのなら、責務など果たせないだろうし、その席が相応しいとは思えない。

 科学的な不確かさと、自己都合による倫理・正義を基にする主張の暴力性。それがわからない人たちが、公職に多いという現実が透けて見える(年寄りが多い世界なので、ある意味では当然のことだが)。
 しかもこれって、子供に対しては容赦ない暴力になり得るのでは? 大人ならある程度の耐性を持っているけど、そんな力も知識もなく仲間もいないであろう子供たちを、否応なく深く傷付けると思いますが。青少年の心をズタズタにしようとも、それがどんな嘘であろうとも、自分が正しいと信じることならば、なんでも許されるんでしょうかねぇ。
 当事者全体に対して失礼なのはもちろんだが、心ない言葉が、多感な子供に対しては、命を奪いかねないほどの凶器になり得るのだという重みを感じて欲しい。
 気持ち悪いとか生理的にどうだとか、そういう人がいるのは致し方のないことかもしれない。けれど、それらの人たちが主張する自分たちに都合のいいこういった言説こそ、倫理にもとる。もう一度言っておこう。倫理的に問題だというその主張こそ、倫理に欠けています。
 それ、自分の「気分」を、理論を装って「あたかも正しいことであるかのように」見せかけているだけでしょう? でもその理論武装は、不確かな「思い込み」に基くものなので、ハナから破綻している。
 それを真っ逆さまに主張していることの歪さに、気付いて欲しいものですね。