2015年7月アーカイブ

未知と嗜好の狭間かな

 返答に困る質問、正直答えようのない疑問というものはある。
 といっても、ここで言ってるのは深刻な話ではない。アンダーウェアのことである。よくあるのが、TOOT と GMW はどっちがいいの? とか。

 そんなの知りませんっ!

...というのは、正直な感想である。マジで。
 両者の違いは他の記事で触れているので、改めて、そんなの知らないよ...というお話を、つらつら書き散らしてみましょう。

 とりあえず、デザインの問題は横に置いておこう。

 他の記事の繰り返しにもなるんだけど、どっちがいいかなんて、僕の知ったこっちゃないような話なのです。なんでかって、どっちがいいかは自分が決めるしかないからだ。この「自分で決めるしかない」というのは投げやりなわけではなくて、重要なことだと思うのだ。
 確かに、履き心地は違う。しかし、その違いをどう感じるかは、人それぞれだ。体つきも違えば、好みも違う。
 アンダーウェアに限らず、僕が好きなものを、友人が好きとは限らない。僕の好みが、常に知人とマッチするわけもない。ぼくが愛してやまないものを、恋人も愛してくれる保証はない。
 体つきで言えば、身長も体重も違う。体脂肪率も違う。ウエストのサイズ、ヒップの大きさ、腿の太さ...などなど、それぞれ個人差がある。たとえ身長と体重が同じでもね。
 加えて、ムスコさんの大きさや形だって差があるわけだから、これだけでも好みの差が大きくなりそうなことは想像できる。
 アンダーウェアに対する基本的な好みの差も、千差万別である。同じボクサーパンツであっても、緩めが好きなのか、キツめが好きなのか。ハイライズとローライズはどっちがいいのか。などなど。
 デニムパンツなんかだって好みがあると思うが、アンダーウェアはそれよりデリケートなわけで、もしかしたら如実に好みの差が出るものなのかもしれない。もっとも、見えないところだから、まったく気にしない人もいるけど。
 そして何よりも、自分の感覚は、自分のものでしかないのだ。同じアンダーウェアを履いても、その感じ方が人それぞれ違っていても当然のことだろう。それが、履き心地を決める重要な要素なんじゃないかな...と。見えない要素ですが。

 こういった履き心地に、他の要素が加わってくる。見た目の好みとか。股間が強調されるのが嫌いだとか好きだとかね。それが理由で選んでる人もいるから。
 あと、最初に脇に追いやった色や模様のデザインなどもね。

 Web でわかるのは、「ある程度のこと」までだよなぁ。どっちがいいかとか、アンダーウェアについては、そんな判断までなかなかできるものじゃない。誰かの基準をそのまま自分に当てはめるなんて、なかなかできないことだ。
 差を知ることに、意味がないとは思わない。参考にはなるしね。基本的な差を確認することには、意味があるだろうし、重要な情報になり得る。僕も、そういった情報を元に買い物をする。でも、「で、結局どっちがいいの?」なんて聞かれたら、困ることこの上ない。困るよ、ホント。困るから。
 僕はあなたではないのです。僕の身体は、あなたの身体ではないのです。僕の感覚は、あなたの感覚ではないのです。
 と、無情に畳み掛けてしまったが、どっちがいいのか他人に決めてもらおうなんて、甘いのだ。いや、ホントに。
 だから、やっぱり実際に買って、自分で履いて確かめてみるのが一番なのです。それ以上に説得力のある判断材料なんて、きっとどこにもない。たぶん。

 ぶっちゃけ、好き嫌いだと思うのだ。総合的に、好き嫌いだと思うのだ。

 そんなわけだから、僕はどっちがいいかの判定はしませんよ(判定はしないけど、僕は TOOT の比率が圧倒的に高い。それは、TOOT と GMW なら、TOOT の方がしっくりくるから。僕にとってはね)。

混同が混乱をきたし

 性に関することは、性的マイノリティが絡むと混同する人が少なくない。関連することはそこかしこで書いてるけど、そのあたりの話をもう少し掘り下げ。

 ぶっちゃけ性関連に限らず、どんなことだろうと物事はしばしば混同してしまうものだと思う。「混同なんてしない」なんていう人もまた、混同することは多々あるはずだ。気付いていないだけではなかろうか。
 僕とて同じで、一凡人なら尚更とでも言おうか、ちょっと一歩引いて、冷静に考えなきゃなと思うことがあるわけです。混同がない人なんて、そうそういない。だからといって、それが「悪」だとは思わないし、絶望もしないけど。
 時には他の意見にも耳を傾けて、検証する。ほんでもし混同に気付いたら、修正する。これができればいいことだろう。

 性に関して混同する人は、事実と思想などとを、しばしば同じもののように語る。同性愛を否定するにも、一方の視点で論破できないとなると他方で反論を試みたり、交わらないはずの事柄をごっちゃにしてめまぐるしく行き来したりする。だから主張が破綻をきたすのだけれど、それを無意識に、正しいと思い込んでやってしまう。
 彼らは、何を勘違いしてしまっているのか、混同していることがなかなか理解できない。だから、主張の破綻にも気付けない。そんなことがあるのです。
 簡単に言えば、そのような混同は、単なる話のすり替えなのだ。また、自己否定と同等のことを言っているようなものだ。しかし、当人はそう思っていない。差別しようが蔑視しようが、おかまいなし。ゲイを認めたくないもんだから、それをいかに正当化するか、そこにやたら注力してしまったりね。それが結果的に、思考停止を招いているように思われる。
 このあたりのことは、また記事を改めてもいいかもしれない。

 ここはまず、性的に確かなものとそれ以外のものを、分けて考えてみるといいと思うのです。質の違うものを同一に見ていたら、頭が混乱するのはむしろ当然じゃないかなぁ。

 まず、性的に確かなものについて。「確かなもの」というのは、基本的に思想などに左右されないものということだ。
 この確かなものは、三つに分けることができる。性に関する、三つの視点である。

・生物学的な性
・性自認
・性的指向

 ひとつずつ、ゆっくりと。

 まず、生物学的な性。
 これは誰でもすぐにわかるよね。いわゆる性別のことだ。♂か♀か。♂は♂の身体をしているし、♀は♀の身体で生まれる。見た目で判断できる、生物学的な性別だ。
 ただしこれとて♂と♀しかないわけじゃなくて、半陰陽(いわゆる両性具有)とか、♂と♀で分けられないものもある。

 次に、性自認。
 これは、自分の性を男と女のどっちだと認識しているか、ということ。自分は男なの? 女なの? どっちだと思っているんだろう。単純なようで、一番わかりにくいことかもしれない。
 普通は自分のことを、男は男、女は女だと思っているわけだね。性自認が、生物学的な性と同じである。男は男、女は女、このままである。
 しかし世の中、そんな人ばかりではない。
 トランスジェンダー、トランスセクシュアルなどとも言われるけど、日本語では今のところは性同一性障害(GID)と呼ばれているものがある。この呼び名の良し悪しや、言い換えはともかくね(正確には、性同一性障害とトランスジェンダーは別のものを意味します)。
 彼ら、彼女らは、生物学的な性と性自認が一致しないというか、同じではないのだ。例えば、体は男なのに、自分は女だと感じていたりする。生物学的な性と性自認に、ズレがあるとでも言おうか(ズレという言い方は、わかりやすいけど、正確ではないかも)。
 これはなかなか辛いだろうことは、想像に難くない。例えば自分は女だと思っているのに身体が男だったら、どんなに苦しいか。さらにそのおかげで、自分は女なのに、男であることを強要されるのだから。女らしくいたいと思うしそれが自然なことなのに、男らしさを押し付けられるのだから。
 まだ不充分とはいえ、最近は理解が進んできたのが救いではある。わかりにくさ故か、しばしば同性愛などと混同されるが、まったく別のものである。しかしその一方で、ゲイなどと比べると受け入れられやすいという面もなくはない。なくはない...というだけで、良し悪しでもなければ、どっちが楽だとか苦しいだとか比較の問題でもない。
 ひとつ注意が必要なことは、性自認もまた、二色だけで綺麗に色分けできないものだということだ。例えば、自分を中性的なものとして捉えている人もいるのです。

 最後に、性的指向。
 これは話は単純なんだけど、なかなか理解できない人、あるいは理解しようとしない人が多い。
 性的な指向とは、恋愛や性愛の対象がどの性なのかということ。人間の根本的な性傾向だ。平たく言えば、性的な興味が男性に向くのか、女性に向くのかということである。
 ヘテロなら、男は女が好きだし、女は男が好きだ。同性愛者の場合には、男は男が好きで、女は女が好きなのだ。別段、難しいことではない。それだけの話だ。
 間違えてはならないのは、指向とは特定の方向のことであって、嗜好(たしなみ・好み)ではないということ。これもまた、区別できない人をよく見る。指向と嗜好の言葉の意味の違いは知っていても、同性愛が嗜好的なもののように言う人は、何も知らないのと同様である。

 少し話が逸れるが、性的指向に付け加え。
 上に「平たく言えば、性的な興味が男性に向くのか、女性に向くのかということだ」と書いたけれど、より正しくはその他様々な指向性がある。例えば、無性愛。いわゆるAセクシュアル(Aセクシャル)である。また、これと混同されやすいが、非性愛もある。こちらは、ノンセクシュアル(ノンセクシャル)のこと。
 このふたつは、似て非なるものだ。言葉面は似ているようだけど、意味は全然違う。詳しいことはここでは取り上げないが、非常に混同されやすいし、実際に使い分けられていない文言も多い。
 無性愛者は「他者に対して恒常的に恋愛感情や性的欲求を抱かない」人たちだ。
 非性愛者は「他者に対しての恋愛感情はあり得ても、恒常的に性的欲求を持たず、性的行為を望まない」のだ。
 つまり、Aセクシュアルであれば、性別も性的指向も無関係とも言えるのだ。例えば、ゲイでAセクシュアル...などというものはあり得ない。恋愛感情や性的欲求を持たない──言い換えると、誰かを好きになったり、好き嫌いはともかくセークスしたくなったりしないわけだから、ゲイだとかヘテロだとか、そんな分け方はできないよね。
 このくらいに留めておくけど、同じではないので要注意です。

 話を戻しましょう。

 生物学的な性、性自認、性的指向。
 実際の性の世界では、これら三つのものが様々に組み合わさる(組み合わせというより、「混合」とでもいったところかな。それぞれに微細な差があるからね)。ゲイなんて、すごく単純な例なのだ。なんせ性的指向がヘテロと逆なだけだから。
 生物学的な性は女で、性自認は男、性的指向は男。そんな人もいる。言い換えるとこれは、女の体で生まれた性同一性障害のゲイだ。
 こうなってくると、分かりにくさは否めないかもしれない。本人にとっては、それがごく普通のことなんだけどね。内面的な苦しさはともかく。単純に、男と女しかいなくて互いに惹かれあうだけ...という認識しかない人だと、もはや理解の範疇を遥かに飛び越えてしまって、何も考えないまま軽いノリのように差別することもあるだろう。悲しいことですね。

 またまたちょっと脱線するけど、いわゆるセクシュアルマイノリティの中にも、性的な差別はある。
 挙げるとキリがないのでいちいち書かないけど、その中のひとつが、自分と違うマイノリティに対する偏見や差別だ。
 例えば自分が、ゲイだとする。日々ヘテロからの差別を感じながらも、レズビアンであったり GID であったり、自分とは違う人たちを卑下したりするのだ。
 そういう人もいるということであって、もちろん誰でもがそうであるわけじゃない。一部の人の話だ。
 さらに同じゲイ同士にだって、あれこれと...ね。結局、セクシュアリティがどうだろうと、そういうところもヘテロと変わらないんだよなぁ。マイノリティであるぶん、かえってそういう汚さは目立つかもしれない。差別的態度を取る本人は、けっこう開き直って自分の言行を正当化していたりするので、なんともかんとも。
 同じ人間ですから。と、そう悟っていられればそれはそれで幸せなのかもしれないけど、なぜそうなる...と疑問がいっぱい湧いてくる。

 閑話休題。

 上記の3点は、確かなものとして挙げた性に関する三つの視点である。
 つたない説明では語弊はあるかもしれないが、いずれにせよ正しいだの間違いだの言えるようなものじゃない。否定しても仕方のないものなのだ。

 これに思想、宗教、哲学などが加わってくるんだけど、そういうものは性的に確かなものとは別の要素だ。これらは、基準となるものが明確じゃない。考え方次第で、いくらでも基準が変わる。その思想の内容や主張も、いくらでも変わってしまうということだ。
 時代によって、様々な思想などが生まれてきた。その時代なり地域なり個人なりにおいて「正しい」と思われるもの、「正しい」とされるものだ。
 思想はともかく、そもそも哲学は思索であって、なんらかの問題に対する絶対的な「解答」ではないけど。
 哲学に関して言うと、あれですね。同性愛を哲学して否定しようとする場合もあるわけだけど、たいていは「同性愛は罪か」のごとき命題による。まぁのっけからナンセンスですね。何であれ「罪」かどうか問える質のものではないことについて、意識的に問うてみることに意味はあるかもしれない。男であることは罪か? 女であることは罪か? 人間は罪か?
 だけど、偏狭的な大義や前提、感情のみを拠り所に否定的に思索しても、得るものはない。根本を見ずして根本を語ろうとしても、無理があるのは当然だろう。こういう時は、肯定と否定両面から、差分なく見てみるのがよさそうだけど、これがなかなか難しいかも。
 ほんでもし「同性愛は罪か」を問うのなら、同時に「異性愛は罪か」も問うてみるのはいかがでしょう。もっと言うなら「愛は罪か」とか、網羅的にね。

「確かなもの」に対して「不確かなもの」がそれを否定するのは、なんだかおかしいよね。
 例が少々突飛かもしれないけど、「1+1=2」は確かなものだとしよう(とりあえずは)。それを、「1+1=2」を取り巻く思想があるとして、その思想が「1+1=2 ではない」と主張すると、おかしなことになるよね。泥ダンゴの話じゃないけど。
 あるいは、化学的に発現する現象や、物理的に確認される事象に対して、誰かが思想に反するからと「それはおかしい」などと批判したら? やっぱりわけがわからなくなる。
 1+1=2 ではない、そういう考え方があり得ないってこととは違う。n進法がどうだとか、記号や符号がどうだとか、そういうこととも違う。ある種の考え方としてはあり得ても、それが「変えられない事実」と重なり合う時、物理的・科学的に常に正しいわけではない。
 ほんでもって、その思想にはしばしば間違いがあるし、基準も常に定まっているものじゃない。

 事実を思想で否定することが、過去に様々な不幸を生んできた。思想に反する新しい事実は、たいてい不幸に晒される。今は常識であっても、昔は論外だったこともたくさんある。
 例えばそうだなぁ、人体とか。その昔、ローマでは人体の解剖が禁じられていたこともあって、猿や鳥といった動物の解剖結果がそのまま人体の構造として当てはめられていた。キリスト教の思想的な影響(創世記のアダムとイブの物語とか)もあり、それが絶対的なものであった。それを間違いだと正しく否定したら、非難轟々だったりね。
 これって、悲しいことだよね。

 本来的な意味では、科学に哲学や思想はつきものだし、哲学のない科学は科学たり得ないのだろう。だけどそれは、上でいう事実と思想のガチンコとは違う話だ。
 これも混同すると、悲惨なことになるんじゃないかなぁ。