2014年12月アーカイブ

一寸先には何がある

 今年も終わりますね。あと3日。
 社会的な話題も、いろいろありましたねぇ。
 明るい話題では、テニスとか、フィギュアとか、ノーベル賞とか。
 一方で、豪雨や土砂のみならず、台風も火山の噴火もあって、災害が続いた。地震も頻発。
 非常に訳のわからない政権に唖然としたりもした。これはまだ継続中で、来年はさらに口が塞がらなくなることだろう。

 個人的には、特にこれという大きな出来事は、あったような、なかったような。

 そういえば、今年の一番高い買い物ってなんだろう。
 常用、もしくは半常用してるものかもしれないなぁ。顔に使うローションとか、薬とか、そういう類いのもの。
 と思ったのだが、Mac のバッテリーがあるな。バッテリーが膨張してたので、ようやく交換した。長らく放置してたけど。これが 12,824円かかってる。
 でも、洋服とかシューズなどではないんだなぁ。服飾類だと、シューズかな。1足、6,000円くらいで買った。
 お買い物はそんな感じで。

 ほんで、特筆すべき大きな出来事はなかったけど、僕の環境に変化はあった。デカイとは言えないけど、小さくもない変化がね。
 それは、合唱との関わり方である。
 詳細についてはここでは控えるが、個人的な事情で多少距離を置くことにした。今も団体に協力はしてるけど、正メンバーではない。
 発足当初から長く関わってきた。でも、今は僕の気持ちが、正メンバーとして席を置くには少々しんどいのだ。だから、無理言って外してもらった。
 あの手この手の提案をもらったけどね。それをやんわりと避けつつ。

 先に書いたように、個人の問題であって、団体自体の問題ではない。
 それはそれで問題はあって、リーダー的な人がその立て直しを図っている。とはいえ、僕の最大の事情とは関わりがない。

 思えば、発足時から在籍してるメンバー、減ったよなー。
 発足メンバーがいなくなるのは、悪いことじゃない。メンバーが入れ替わりながら存続できるかどうか、存続して有意義な活動ができるかどうかが大切だと思う。
 問題は、常に発生しうる。それをうまく解決して、次に向かわなきゃね。今までもそうしてきたから。

 それはともかく、今後、僕のこの「事情」がどうなっていくのかわからない。
 自分の気持ちが落ち着いたら、また正メンバーに戻してもらうこともあるかもしれない。今はまだその時ではないが。
 とりあえず今は、準メンバーのような今の立場が気に入っている。精神的に楽だから。これはなかなか大事なことである。

 人生、何が起こるかわからない。

 年内最後の更新です。
 よいお年をお迎えください。

自分を知る怖さ

 このところ、ゲイ関連の検索がちょこちょこ入っているようで。
 まぁ、そういう記事をアップしてるからなー。当初の予定と内容がちょっと変わってきてる気もしなくもないけど、そこはそれほどこだわってもいない。成すがままとでもいうか、少し違うけど、まぁそんなところ。
 今のところキーワードを分類するには至らない程度だが、「自覚したのはいつの日か」にたどり着くものが多い様子ですね。この記事は、僕のすごくもやもやなゲイを自認する過程に触れたものだ。
 それと重複もするけど、もう少し一般的な話も加えつつ、その怖さについて書いてみよう。でもこれをクソ真面目に書くと、書く方も、そしてたぶん読む方もしんどいので、なるべく重さは軽減しつついきたいと思います。

 物事の自覚というものは、えてして曖昧で、なかなか難しいことだと思う。
 曖昧というのは、いつ自覚したのかわからないことが、たくさんあるからだ。連続した物事の中では、違いの境は曖昧なものだ。ハッキリ色分けできないことって多いよね。成長に関して言えば、自分が異性に惹かれはじめたのはいつからか(ヘテロの場合)。思春期は、いつ始まったのか。反抗期は? 少年と青年の境は? 時期的な区切りが曖昧なことって多い。
 あるいは、自分の性格とか。他人から見て自分の性格はこうだと思われていたとしても、自分にその自覚はないかもしれない。たとえそれを指摘されたとしても、自覚できるとは限らない。自覚というものは、簡単なようで難しい。
 感覚的に捉えること、あるいは捉えてしまいがちなことほど、自覚は曖昧になるように思える。それが時節を伴うものなら尚更だ。

 ゲイ、広く言えばセクシュアリティについての自覚、性自認に至る過程もまた、はっきりしなくても不思議じゃない。むしろそれが自然で、当然のことなんじゃないかな。

 曖昧さがごく当たり前のように思われるわけだけど、一方で「ゲイに目覚めたきっかけ」を具体的に挙げる人もいる。
 ここではそれについて、深く追求はしない。でもこれは、「気付いた(自覚した)きっかけ」であって、ゲイとして生まれてたんだけど、ずっとそれに気付かないままだっただけかもしれない。理由や状況もいろいろだから、単純に判断はできないけどね。ただひとつの解答があるわけではなくて、何が「本当」なのか、本人にもわからないことかもなー。
 これだけでも簡単な話じゃない。

 いずれにせよ、通常はゲイの人は、自然と男が好きになる。レズビアンなら、女が好きになる。
 同性愛者にとっての自然さが、同性に惹かれることなのだ。誰から教えられたわけでもなく、ヘテロが異性に惹かれるのと同じでね。

 でも、自然だからこそ、ここに苦しさが生まれる。自分にとっての自然さが、まわりの大多数にとっては「不自然」なことにされるのだから。
 ヘテロだったら、周囲の人のほとんどが同じヘテロなので、情報や感覚を気軽に共有できる。「クラスのA子さんはかわいいよね」「昨日のテレビのダレソレ綺麗だったね」「芸能人なら誰が好き?」なんていうような、友達と交わす何気ない会話。ごく当たり前で、たわいのないことだ。
 これはそのまま、自己肯定感を強める助けになる。「自分はこれでいいんだ」という肯定は、安心感にもつながる。自信にもなる。自分の存在を、認めることができる。
 だけど僕らは、それができない。自分にとっては自然なことが、周囲からは不自然なこととして見られてしまうから。奇異なものとして否定されたり、好奇の目にさらされたり、異常だとして非難や軽蔑をされたりすることだってある。
 共感はおろか、自己肯定すらできなくなる。辛いね。

 ゲイって、いつ頃ゲイだと気付くものだろう。
 これはいろいろです。十人十色です。だけど、小学校中学年から高学年あたりで...という人は少なくない。自覚の程度はともかく、なんとなくおぼろげにでも、自分は男に惹かれるなと感じ始めるのだ。たいていは、中学くらいまでには気付くかな。大学生になってから...なんていう、遅い人もいるけどね。
 僕の場合、強い自覚はなかったけど、それは小学3年の頃だ。当時、ハッキリ気付いていたわけじゃなくて、思い返せば...なんだけどね。以前、書いた通りだ。
「年齢が低いほど異常じゃないか」などと考える人がいる。まったくもって理不尽なことこの上ない。そもそも同性愛は異常ではないし、自認する年齢なんてさらに無関係だ。
 これは身体的なことではないけれど、声変わりや第二次性徴に個人差があるのと似たようなものだ。女のコに惹かれ始める男のコの年齢に、個人差があるのと同じことだ(もちろん、逆もまた然り)。

 だけど世間一般には、ゲイの少年が、ゲイをごく普通のものだと理解して安心するには、情報が少なすぎる。まわりの理解もない。あるいは、理解があるのかないのかわからない。五里霧中なのだ。だからおぼろげな自覚が進むほど、自分はどうかしてるんじゃないか、頭がおかしくなったんじゃないかと不安になってしまう。
 そんな時は、手近なものでこっそり調べてみたり、ふとした拍子に知識を得たりする。辞書や辞典、保健の教科書などがその代表格だ。
 辞書で関連語を調べてみるとか、同じことをしたことのある同性愛者は多いんじゃないかなぁ。もしかしたら、まわりに「仲間」や「理解者」がいないことで怖れを感じていた人ほど、こんなことを細々と調べて、悶々としちゃうかも。
 しかし不幸なことに、辞書は本当のことを教えてくれない。辞書に限らないけど、それが正しくない情報であることも多いのだ。
 特に昔はそうだった。今でこそ大半の辞書がより正確な記述に書き改めているが、「同性愛」はもちろんのこと、その他広く関連する言葉の説明(例えば「恋」など)が、昔の辞書は実に不正確で、一面的であった。それは、広辞苑のような世間に広く支持されている辞書でも同様だ。
 古い版の辞書を開いてみるといい。そこには「異常」「一過性」「精神的」「病」などといった言葉を見ることができる。すべて誤りです。
 こんなものを見たら、自己否定しかできなくなる。

 正常と異常という言葉もまた、曖昧だ。
 基準があってないようなものなんだよね。普遍的な基準があるわけじゃない。あるのは、その都度違う基準なのだ。
 あることを「正常」とした時、それと異質のものは「異常」とされる。しかし視点を変えれば、正常と異常はひっくり返る。真っ逆さまにひっくり返ってしまう。そんな例は、身近にたくさんあるものだ。機械の動作の正常・異常とは違うのだ。
 同性愛なら、ヘテロを正常とすれば、ゲイは異常とされてしまう。だけど生物として異常なわけじゃないから、この説明は正しくもなければ正確でもない。もちろん、どちらも正常だ。

 いろいろな難しい問題を孕んでいるのに、若い人ほど知識を得るのが難しいのが現実。
 自分に正しい知識も何もなかったら? まわりがゲイを自然に受け入れる環境でなかったら? そんな状況が当たり前にあるわけだけど、そこでは、自分が正常だと素直に思うことができない。自分に自信が持てない。
 まわりに受け入れられることのない自分。それは同時に、自分を知られる恐怖でもある。

 僕は子供の頃、テレビや雑誌で見かける「同性愛者」に、共感などを感じなかった。
 彼ら自身がダメなわけではない。メディアに露出される彼らが、極端な例であったり、昔思われていたステレオタイプ的な歪みを含むイメージのゲイやオカマであったり、笑いに転化されたものであることが問題なのだ。
 自分が「普通」に過ごしているだけに、その異質性に戸惑いがあった。自分が男が好きであることと、彼らの性的指向とは、何か違うんじゃないかと思ってしまうのだ。単なる「ネタ」との違いのような。自分と違いすぎていて、なんだかよくわからないけど、あの人たちと僕とは違うな...と。
 そう感じざるを得なかった。当時はそれを、漠然と「何か違うな」と感じていたわけだけど。

 こんな案配なので、自分が何者か知ることは、恐怖も伴う。しかもその怖さは、自分を知り、自分を受け入れる怖さだけじゃない。
 自分が受け入れられない日常がある。それは、まわりから暗に否定されることでもある。まわりからの無言の圧力を感じて、恐怖感にさいなまれる。
 おかげで、相乗的に恐怖感が強化されてしまう。純粋に自分を知ることだけでも怖いのに、まわりからの否定が加わるから、恐ろしくてたまらなくなるのだ。悲しいことにね。

 ここに書いたことは、個人の体験・告白を織り交ぜたものであって、誰しもが同じ体験をし、同じ感覚でいるわけじゃない。だけど、似た経験をした人が多いのも事実だ。
 他のゲイの人が書いた本や告白とてそうだ。当然ながら何かしら僕とは違うわけだけど、そこには共感できる部分もいっぱいあるんだよね。細かいことは違っていても、大枠では似てることもよくある。

 今でこそこうしてあれこれ書いたりできるけど、あの頃はしんどかったなー。毎日普通に、でもあまり目立たないように過ごしながら、心の中では常に恐れていたしね。バレるんじゃないか、バレちゃいけない、自分がよくわからない、どうしたらいいのかさっぱりわからない、怖くてしんどい...。
 それでも自分は、「普通に」自分としてあるのだ。その自分と周囲との違いのおかげで、学校や家庭での日常が、まるで牢獄のようになる。
 オトナはどうとでもなるかもしれない。子供にこそ、こういう苦しみから逃れられる方法が必要なんだろうなぁ。