2014年6月アーカイブ

大好きです

 あなたのことが、大好きです!

 誰だって、そう言えたらステキだよね。
 そう言えない時の苦しさ。

 毎日、誰かのことが気になって仕方がない。この気持ちを、どうしたらいいのかわからない。どこにぶつけたらいいのか、悩む日々。
 ずっと一緒にいれたらなぁ...と、そんなことを思ってしまう。一緒に過ごして、一緒にご飯を食べて、一緒に笑って、一緒に泣いて...。そうやって、一緒に思い出を積み重ねていきたい。
 切なる思いに、身をよじる。たまらなくなる。
 それでもこの気持ちを、口にできない。伝える勇気が出なくて、言葉を飲み込んで、また今日も胸の奥にしまう。毎日そればかり。
 一人じゃ心細いから、せめて誰か背中を押してくれないかな...なんて思ったり。あるいは、自分のこと好きだったりしないかな...、それで、好きだって言ってくれないかな...なんて都合のいいことを考えてみたり。
 けれど一方で、そんな小さな望みを抱く自分が嫌にもなって、自己嫌悪でまた落ち込む。
 たったの一言だ。「好きです」と。
 簡単で短い言葉なのに、どうしても伝えられなくて、目で追うばかり。話をして笑いあって、とても楽しいのに、胸に秘めた想いは抑え付けて、どこか醒めている。悲しさを覚えながら。
 それで気付いてもらえるわけもない。気付いて欲しいのに。気付いて欲しくて、ずっと待っているのに。
 だけど気付かれちゃいけないと、必死に黙って、耐えてもいる。自分のこと認めてよ! って心の中で何度も叫びながら、それでも何もできなくて、自分の想いを押し殺す。
 たわいもないことで一緒に笑いあう、そんな時の嬉しさ。
 楽しい時間は、すぐに過ぎていく。もっとずっと一緒にいたいのに、無情に流れていく。
 もっと知りたい。好きな人のことを、もっと知りたい。この貴重な時間を、もっと大切にしたい。
 特別じゃなくていい。二人っきりで、この時間を埋め尽くしたい。くだらないことで満たしたい。そんな時間が、ずっと続いて欲しい。
 もしも特別な関係になれるなら、抱きしめあって、想いを伝えたい。その手で触れ合い、互いの腕で包み、包まれて過ごしたい。許されるなら、そんなわがままを自分のものにしたい──。

 と、誰もがそっくりこのままの気持ちを抱くわけではないが、わかるよね? いろいろな気持ちを織り交ぜてみたので、僕自身このままの気持ちではないし、この部分が嫌だとかいろいろツッコミどころもあるだろうが、それはともかく。
 誰にだって、悩みはある。
 あの人を好きになること自体避けるべきことじゃないかとか、この気持ちは罪だとか、そんなことを含めて、誰かを好きになるといろんなことを考えてしまうものだ。それは自然なことだろう。
 この気持ちに、ヘテロだとかゲイだとか、そんなものは関係がない。
 あるのはただ「好き」という素直な気持ちなのだ。

自覚したのはいつの日か

 ゲイになったきっかけは何か──。

 これは何気ない質問だが、文面通りならば正しいとは言えなさそうだ。なぜなら、性的指向は後天的なものではないからだ。
 同性愛者が生まれる主な要因が遺伝的なものであることは、疑いようがない。それがすべてではないとしても、基本的に性的指向は、生まれる前に既に決まっている。
 もともとゲイとして生を受けているのであれば、後から「なったきっかけ」が付いてくるわけではないはずだ。だから多くの場合、なったきっかけではなく、気付いたきっかけがあるわけだ。

 ゲイ同士でも、同じ問いは発せられる。しかし実際に問いたいことは、その程度のことであることも多い。同性愛者が生まれる理由なんてなんだっていい...と、そんなふうに思う当事者は結構いるしね。
 その時この質問には、「なった」か「気付いた」かという細かく深い使い分けや意味はほとんどない。それは、悪気があるわけでもなんでもない。良し悪しでもない。気になるかどうかという程度のことかもしれない。
 僕はなぜ同性愛者が生まれるのか興味があるし、遺伝的要因は否定し難いから、似たことを聞くとしても「ゲイになったきっかけは?」とは言わないけどね。ほんで、他の人がそう質問したら、きっとその質問の文言が気になると思う。指摘はしないとしても。

 さて、それはともかく。
 僕がゲイだと気付いたきっかけはどうかというと、よくわからない。ゲイだと自覚したのは、いつのことであったか...。これは本当に、ちと難しい問いなのだ。自分でもよくわからないなんてなんだか不思議に感じるかもしれないが、そうなのだ。

 ヘテロの人なら、自分がヘテロだと自覚することがあっただろうか。
 また、異性にいつから惹かれていたか、覚えているだろうか。男のコなら女のコに、女のコなら男のコに、いつ頃から興味を抱くようになったか。それを思い浮かべてもらえばいい。それと同じことだと思う。
 年齢も記憶の鮮明さも、千差万別。人それぞれ、違う記憶や体験があるはずだ。よく覚えている人もいれば、自覚らしい自覚がない人もいる。
 それに何より、自分が「ヘテロだ」なんて、自覚なんかしない。ごく普通のことなのだ。

 もちろん、自分が「普通」じゃないなと自覚していくわけだが、そもそもゲイなんて言葉も同性愛なんてものも知らず、自分で当たり前のようにそうなって、自覚と知識が後から徐々に入ってきたのだ。
 どんな物事でも、初めから知識や自覚があったら、そっちの方が怖い。

 ゲイだと気付いたきっかけはまったく覚えていないが、いつ頃から同性への興味が強くなっていったかは、なんとなくわかる。
 記憶の限りだと、小学3年の頃だ。もちろん子供のことだから、今とは違う興味の持ち方だけど。好きだとか、キスしたいとか、セークスしたいとか、裸にしたいとか、当然そういうことではない。
 小学生の間は、ずっと自覚的に強く意識しないままだったなぁ。ただ、同じクラスや学校内のイケる男子がいろいろと気になったり、街で見かけた同年代の「イケメン」に目が行ったり、なんだりかんだり...。後から思えばそういうことはあったのだが、自分が同性に興味があるということをはっきり自認していなかった。
 語弊はあるかもしれないが、あの人カッコイイなー...と、性的な意味ではなく、同性の友人や有名人に素直に憧れたり惹かれたりすることは、誰しもあるだろう。その延長のような感覚でいたような気がする。
 いろんな現実や意味が結びついて、自覚していくのは、もっとずっと後のことだ。

 オナヌーを覚えたのは、たぶん小学3年か4年。確かにいわゆる「ネタ」にしたのが男だった覚えはあるのだが、それが直ちに自覚につながるわけではない。まだ小学生のことで、成人の思う「ネタ」の意味とは少し違うので、さもありなん。
 そこに、大人や青年が思うような意味や自覚はない。

 小学6年の時、短時間の性教育があった。確か2回に分けて、集中講義のごとき授業があったように記憶している。あの頃は今のように、低学年から継続的に教育されるわけではなかった。
 その性教育でも、特に自分に疑問を感じはしなかった。それは一見不可解かもしれないが、不思議なことではない。なぜなら当時の性教育では、性の多様性について教えられることはなかったからだ。
 男性と女性の違いだとか、赤ちゃんができる過程の簡単な説明などはあるけれど、言うなればそれは仕組みの話なのだ。性的指向だとか、性の多様性には触れられなかった。ホルモンがどういうものかを補足説明するために、性転換に近い事例はあった(男性が女性ホルモンを投与されるとどうなるか...といった例だった)が、それとて身体的な変化のことであって、指向性とは違う話だ。
 こういった生物的な話を聞いても、それが性的指向に具体的につながるわけもない。性教育は生殖教育のようなものであって、恋愛教育ではなかったのだ。だから当然のように、自分の実際の興味との違いと結び付いていかなかったんだろうなぁ。

 しかし考えてみれば、語弊はあるかもしれないが、もともと僕は「バイ的な色」があったので、それも自覚を遅らせた原因のひとつであるかもしれない。
 それが、本来的な意味でのバイであったのか、ゲイとして自覚を強める過渡期の気持ちの揺れであったのか、よくわからないが。長い間、自分の中にいろいろな戸惑いも抱えていたので、こういうことがよくわからなくなっている。

 自分に多少なりとも、意識的な意味で疑問を持ち始めたのは、中学生の頃だったと思う。
 中2〜中3といえば、「ホモ」に代わって「レズ」という言葉が広まった頃でもある。そんな言葉を初めて知ったのがいつ頃のことかは、覚えていない。「ホモ」なる言葉は小学生で知ったはずだが、正確な意味が今ひとつよくわからないままだった気がする。

 こうして曖昧なまま、ゲイであることを徐々に自認していく。その過程も、詳しくは覚えていない。いったい何がどうなって、どこでどれがどうつながっていったのか。
 友人との何気ない会話、テレビ、ラジオ、小説、手近な雑誌...。具体的ではないが、そんなものからこぼれるように出てくる小さな情報が徐々に寄り集まって、少しずつつながって大きくなっていったんだと思う。
 まだパソコン通信が細々と(?)生きていた頃、インターネットが広く普及する前のことだ。今ならネットでチャチャッといとも簡単に調べられるような何気ない情報でも、昔はそうはいかなかった。
 物事を知るにも、調べるにも、手間も時間もかかる。ゲイや同性愛のことともなると、更に簡単にはいかない。自分を知るのも、一苦労であった。

 若い人はピンとこないだろうが、ケータイはおろか、ピッチと呼んでいた PHS もまだなかった。それに近いツールといえばポケベルだけど、それですら高校から大学にかけての時期が全盛期であった。大学在学中に、ポケベルがピッチに、ピッチがケータイに徐々に置き換わっていった。
 パソコン通信はやがてもっと広く、今で言うインターネット、WWW となる(この説明だと正確ではないが、そんな感じってことで)。インターネットが普及する前というのは、言い換えればまだパソコンの普及率も低かった頃なのだ。Windows が爆発的に売れて世界を席巻するのも、まだ先の話。
 パソコンではなく、ワープロがパソコンのようにディスプレイとキーボード付きで売られ、それがよく使われていた。どっちがいいか? なんて話もあったなぁ。図の挿入もできたが、文章だけならパソコンを使わずとも、これで事足りる。
 そういう、一般家庭でパソコンがワープロ機を駆逐する前の時代。
 今はまた違った問題にさらされているけれど、情報を得るのが簡単になったもんだよなー。

 そんな頃の話なので、微々たる情報であっても、本やメディアから得るのが普通なわけだ。
 そういえば、主人公でも何でもいいけど、ゲイが登場する小説を始めて読んだのはいつのことだったかなぁ。どれが一冊目だったかも、よく覚えてないけどね。
 いくつかの言葉を知った小説に、「潮騒の少年」がある。出版は、1993年。
 新刊で買ったかどうかは覚えていないが(たぶん新刊で買った)、海外小説なので文化の違いに戸惑いつつも、こういう言い方するんだな...とかいろいろ思った記憶がある。
 本当にいろいろなところから少しずつ知識を得たはずなのだが、これもその最初期の一冊なのかなぁ。

 こんな具合で、自分の性的指向に気付いたのがいつのことなのか、ハッキリしないのであった。感覚的には、いつの間にか...といった様なのだ。

 しかし不思議なことに、自分が嫌だと思ったことはない。
 異性愛者との違いに戸惑い、自分がなんなのかよくわからなくておおいに悩みはしたし、しんどいこともいっぱいあった。楽には生きられないし、正直疲れることもたくさんある。それでも不思議と、嫌だとは思わなかった。自分を捉える言葉もないままだったこともあるのか、疲れるし悩むけど、嫌ではなかったのだ。
 嫌になったところで、どうしようもないんだけどね。性的指向は、意志だとか、自分の力でどうにかなるものじゃないから。

 異性愛者だって同じことだ。男なら女を、女なら男を好きになるのはやめろと言われて、ハイそうします...というわけにはいかない。
 誰かを好きになったら、その気持ちはなかなか止められない。もしそれが、なんらかの理由で好きになっちゃいけない相手だとしても、意志で簡単に消せるものじゃない。できることといえば、その気持ちを隠したり、自分の気持ちに嘘をついたりすることだけだ。

 できることなら、すべての人に幸せを。


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 同性愛者が生まれる理由については、「ゲイ」タグの付いた記事などで触れている。
 情報がまとめられたサイト、多数あり。リンクはしないので、検索を。

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