2014年2月アーカイブ

変わるよ変わる

 以前、Twitterクライアントの話をアップした(「移り気なわけではないけれど」参照)。

 基本的な設定は何も変わっていないのだが、使い方がかなり変わった。既に。
 今までもちょくちょく変わっていたので、これからもそうだと思う。その時その時で都合のいい使い方・その時点でのベスト(ベター)な使い方をしてるから、不思議なことではない。求めるものや、Twitter の使い方自体が変わることだってあるしね。
 だけど考えてみたら、ずーっと使い方が変わらないアプリもあるんだよね。Twitter は、しょっちゅう変わる方だなぁ。

 さて、話を戻そう。
 今現在、普段は基本的に Tweetbot だけを使っている。

 わざわざ他のアプリを使うのには、いろんなアプリを触ってみることがなかなか楽しいからというのもある。それは今も同じなので、使用頻度が下がったアプリを削除するつもりはない。
 でも、使い方によっては、アプリでアカウントを使い分けるやり方だと支障がある場合もある。

 なんで Tweetbot オンリーになったのか? リツイートが便利だからだ。

 もともと Tweetbot には、すべてのアカウントを設定済みだった。で、一部はよく切り換えて使っていたのだが、主要な表アカと裏アカについてはほぼ完全に別々に開いていた。
 これで不都合がなかったわけだ。

 しかし、アカウントAのツイートやリツイートを、アカウントBに流したい時にどうするか。
 以前はリツイートの頻度が低かったから、どうとでもなるし不便もなかった。しかし自由に頻繁にリツイートしようとすると、アプリによって使い勝手がまったく違ってくる。

 Tweetbot は、この部分がとても気持ちよく使える。
 今見ている TL から別のアカウントへ、わけなくリツイートできる。リツイートのマークを長押しするだけだ。
 長押しするとアカウントを選択できるので、ツイートを流したいアカウントをタップすると、即飛ばしてくれる。
 裏アカと表アカは、それぞれフォローしているユーザーの色がまったく違う。当然ながら、ツイートの内容も、リツイートされるツイートの色も、違ってくる。
 だから僕の場合、そのアカウントでのリツイートよりも、別のアカウントへのリツイートがしたくなるのだ。そのアカウント内では、似たようなリツイートもよく流れてくるからね。違う色のものが混ざる方がいいかなって。

 その他、Aの TL を見ている時にふと思ったことを、Bのアカウントでツイートしたい時もある。そんなツイートでも、Tweetbot は便利だと思う。
 アカウントの TL を変更しなくても、ツイート時にアカウントを切り換えられるのだ。例えば新規ツイートを開いたら、ヘッダーの部分をタップするだけで、ツイートしたいアカウントを選択できる(くれぐれも、アカウントを間違えないように)。

 そういったわけで、最近は Tweetbot に頼り切っている。

 しかし、ひとつだけ不便なことがある。できるけど、僕がやり方を知らないだけかもしれないが。
 Tweetbot では、リツイートされた自分のツイートは簡単に見れる。でも、自分がリツイートしたツイートをまとめて見たりできない。
 この点、Twittelator は便利だ。
 Twittelator はフッターのメニューをカスタマイズできるのだが、ここに「ReTweets」を置いておく。タップすると、「自分のRT」「自分へのRT」「自分からのRT」がタブのように表示される。
 リツイートだけを分けてくれないのは残念だけど、簡単に切り換えて確認できますね。

 ちなみに、昔の Tweetlogix も同様のことができたずなんだけど、今のバージョンでは見ることができない(それとも、他のアプリと混同している?)。だけどそれも、自分のプロフを開いて、画面をスクロールする必要があったので、Twittelator の方が楽ですね。

動物はご飯でしょ

 少し前の話題からだが、昔から思っていることなど。

 動物は好きです。
 子供の頃は動物や昆虫、鳥など生き物の図鑑をめくるのが好きで、動物園ではホンモノに嬉々とし、地元の動物園や水族館には一人であっても足を運ぶ。何かを飼って、動物に囲まれる暮らしをしているわけではないが、動物は全般的に好きだと言っていい。

 僕は動物が好きだし、動物愛護を否定するつもりもない。だけどまた最近、ひっかかる出来事があった。
 ナントカ弁当を発売中止にまで追い込むような人、あるいはそれに賛同する動物愛護者の人、その他の動物愛護の観点から菜食を旨とすべしとの主張を展開する人...。そんな人たちがいますね。昔も今も。
 動物愛護は結構なのだが、それらの人たちの考え方には疑問を持ってしまう。最近になってのことではなくて、昔から疑問なのだ。

 彼らによれば、「動物はあなたのごはんじゃない」という。このステッカーを元にしたコラ画像も、大流行したねー。
 それはともかく、僕は思うのです。そんなものは、欺瞞だと。まやかしなんだと。

 結論めいたことから言えば、残酷でない食べ物ってなんだろう...ということだ。
 彼らはそれが、残酷な食べ物だと言う。ナントカ弁当に限ったことではなくてね(そこだけ言う人もいるけど)。それなら、残酷でない食べ物ってなんだろう。
 確かに、強引さの差はある。家畜と商業が結びつけば、強引さも生まれる。フォアグラなんて、その最たるものだと見ることもできる(フォアグラのみについては、ここでは話題にしません)。
 けれど、命あるものは、命をいただいてしか生きられないのだ。この大切なことを、見落としてしまっているんじゃないかな。あるいは、無視しているか。
 命は命でつながっているという意味では、食べる行為は常に残酷だし、それは食材を選ばない。動物か植物かは関係ないはずなんだよね。
 だからこそ、「いただきます」「ごちそうさまでした」の言葉の重みを思うのです。

 なるほど、確かに動物は、ヒトに近い感情、もしくは感情らしきものを持っている。ヒトから見てわかりやすいのだ。簡単に感情移入できる。それが、ヒトの思う「感情」とは違うものであったとしても。
 それなら、植物には「感情」がないのか。なさそうにしか見えないよね。叫び声も上げないし。ところが植物にも、「感情」があると言われている。そして、確実に生きている。命あるものなのだ。
 同様に、魚はいいけど、牛や豚や鶏、クジラやイルカはダメだとか(例に上げただけで、個体数の減少に対する問いではない)ね。どちらも生きているのですが...。

 つまり、ヒトにどれだけ近いか、どのくらい感情移入できるものか...ということが、隠された基準ということだ。
 しかし実際には、菜食を訴える動物愛護者に、そんなことを言う人はいない。「かわいそう」「残酷だ」と、感情に訴えるというのにね。これは、ごまかしの一面のように感じる。

 ヒトは昔から雑食をして、草木も肉も食らって生きていた。野生動物の動きに合わせて彼らは生活し、生きながらえてきた。我々の祖先の話だ。
 それをなぜわざわざ「肉食じゃない」などと言って、ごまかす必要があるんだろう。「かわいそう」だという理由で、動物だけを優遇して。さらにその中から、自分にとって「親近感」のある動物だけを優遇して。
 それは命を大切にしているのではなくて、選別しているのだ。

 大昔は、木の実を食べていた...などと言う人もいるだろうか。だから、菜食だった、と。
 それは正しいか。木の実だけを食べていたなど、現実的ではない。現生人類につながる原人が生きていた当時は、氷河期だ。それだけで生き長らえるには、限界がある。
 狩猟が必要なのだ。肉は、栄養の面でも貴重な食料だっただろう。もしかしたら、草木を充分に得られないぶん、生肉も食べていたかもしれない。
 いずれにせよ、動物を狩って糧とするために、獲物の動きに合わせて移動し、生活していたのだ。

 現生人類は、基本的に狩猟採集民の子孫だ。時代が下り、何かのきっかけで農耕の知恵を身に付ける。しかし農耕民の直接の子孫は、ほんの一握り。それらが混ざり合って、現在の人類が出来上がっている(更に時代が下り、生活様式は多様に分岐するが、それは後々の時代の話なので、ここで話題にする必要はないと思う)。
 農耕は食料供給の安定化に貢献してくれるので、その技術は狩猟民にも広く伝播していく。その農耕は、定住を促す。
 定住すれば、氷河期の常識では狩猟に不利だ。しかし農耕が盛んになった時代は、氷河期を抜けて、農耕に適した環境へと移り変わっていった時代でもある。当然、環境の変化に合わせて、動物の動きも変わる。狩猟のための大移動は、もはや必要なくなる。定住でも、狩猟は可能になる。
 加えて、野生動物を手懐けたり、「飼う」ことができるようになる。それはやがて、「家畜」へとつながっていく──。

 人類がもともと草食だなどというのは、嘘だ。雑食が正しいだろう。

 結局、行きすぎた動物愛護にしか見えないのだ。

 動物がかわいそうだと思わないのか? そんなふうに、心情に訴える場合もあるだろう。
 わかりやすくはあるけど、なんだか歪みを感じる。
 僕は自分が動物が好きだったからこそ、命のつながりというものをよく考えるようになったんだと思う。もちろん、祖父や曽祖母の死だとか、幼少の頃に経験した身近な人の老いや死などの影響もあるだろう。
 だけどたぶん、そこは出発点じゃない。

 もうひとつ、動物愛護にプラスされる要素について。
 菜食を主張する際に、「動物愛護だけが目的じゃない」と付け加えられる要素がある。菜食否定への反論時にも、よく使われる。
 例えば、健康上の理由。だけどそれこそ、個人が自分の信条に従ってやればいいことだ。社会に訴えるために使うような理由じゃない。実際、宗教的な理由で肉を口にしない人たちは、普通は食習慣を他人に押し付けなどしない。
 要するにこれは、逃げですね。「動物愛護」を基にする肉食否定への批判をかわすための。問題のすり替えなのだ。

 命と、命のつながりを軽視しているように思われてならない。動物がかわいそうだと言いながら、その命について、命の壮大なつながりについて考えているのか、疑問がわく。

 もちろん、家畜の置かれた状況が、必ずしも褒められたものではない場合もあるだろう。
 ならばそれはそれとして、問題提起すればいいことだ。問題をいっしょくたに混ぜてしまうから、結局何が何だかわからなくなる。

 動物はごはんじゃないとか、動物はダメで魚はいいとか植物はいいとか、傲慢ですね。

 でも、人としての感情的な、デリケートな部分もあるよね。
 僕はもし自分の子供が「動物がかわいそうだからお肉は食べられない」なんて言いだしたら、ぶん殴るかもしれない(実際には手を上げはしないと思うけど)。はっきり言って、貧弱すぎる。
 とはいえ、現代の一般的な生活環境では、動物とのリアルな命のやり取りがない。悲しいけど、どんな理由を並べても、なかなか無視しがたい感情なのもわかる。
 わかるけれど、それは僕にとって、肉を口にしない理由になりえない。命をごまかしてまですべきことだろうか。

 動物とのリアルな命のやり取りがないからこそ、命のつながりを知ることが大切だと思う。そこに思いを致し、命の重みを受け止めるのだ。
 そして今日もまた、「いただきます」「ごちそうさまでした」と感謝の気持ちで手を合わせるのです。