2013年10月アーカイブ

ゲイであったりなかったり

私はあなたとしますんです」で、同性婚について書いた。
 その終わりに、遺伝的要因で同性愛者が生まれると付け加えておいた。そのあたりの話の補足的なページですね。
 補足的とはいいながらも、記事を複数に分けることにする。進化の話、遺伝的要因、エピジェネティクス、血縁。この4つ。
 Web を検索すれば関連情報は出てくるし、わざわざ別ページを用意するようなことでもないかもしれない。だけど自分のメモも兼ねて、同一サイト内に置いておこうと思う。



 先日の記事では軽く触れたので、生物の進化とどう矛盾しないのかが、ピンとこない人もいると思う。そのあたりの話から始めよう。
 進化について総体的に網羅するのが目的ではないし、話が長くて複雑になるので、ここではヒトを中心に書きますよ。下等生物の発生からの、長期的変容も取り上げない。

 生物は、発達・成長することで進化したと思ってしまうよね。今までなかったものがポンと付け足されるような。でも実は、ゲームやアニメのような進化はしない。一見、退化じゃないかとも思えるような方法で、それは成された。
 初めて知った時は、びっくりしたなぁ。
 実は、成長を引き延ばすことで進化したらしい。成体までの成長を遅らせるのだ。例えばヒトとサルを比べると、ヒトはサルよりも未熟な体で生まれて、未熟な状態で成人してるわけ。その証拠に、サルの成長前の胎児は、ヒトと同じ特徴を持っている。
 サルの胎内から見ると、あたかも胎児は、ヒトからサルへと変化するがごときステップを踏んで成長するわけです。
 話が先取りになるけど、幼児化は、エピジェネティクス的にも正しそうだ。脳で働く遺伝子のスイッチが入るタイミングは、サルの方が早くて、ヒトはそれよりも遅い。成長がゆっくりになっているのがわかる。
 この成長の引き延ばしは、他の生物にも共通していて、多様性をも生み出した。そのおかげで、同一種にも多種多様な特徴を持った動物が生まれた。例えば同じ犬でも、色や毛並みや体形が違うものがたくさんいるよね。
 人類に、人種から個々人の違いまでいろいろな違いが生まれたのは、このおかげ(環境に適応するにも、そのための下地がないとね)。

 で、同性愛というものも、その進化の仕方と関係しているように思われる。
 同性愛者の成長には、異性愛者の成長と違いが見られるようなのだ。ぶっちゃけ「幼児的」なわけでして。ただしこれは、「最近の若者は...」などという文脈での「幼児」とか「幼稚」とは意味が違う。
 例えば異性愛者の場合、幼児から学齢期への成長、あるいは第二次性徴を通して、グループの作り方や異性との距離の取り方などなど、身の回りの「環境整備」が変化する。「大人になる」わけですね。ところが同性愛者には、これがない。もしくは少ない。
 でも、あからさまに変化を拒み続けるわけじゃないから、まわりは気付かなくても不思議じゃない。

 成長の引き延ばし、言い換えると幼児化の影響のひとつとも見られるわけですね。かといって、突き詰めると人類がいずれ同性愛者だけになるなどとは、僕は思わないが。ヒトがヒトである限りは。
 仮に今以上の進化があるとしたら、どんな生物になるのか。想像するのも難しい。ただその時には、内的にも外的にも、生殖に何らかの影響が出たとしてもおかしくはない。その影響がどんなものになるのか、また同性愛者の出生率がどうなるのか、そういったことも未知だ。

 遺伝子がこれとどう関わっているのか、具体的にはよくわからない。
 だけど、同性愛者が生まれる遺伝的要因がどんなものなのかは、徐々にわかってきている。この話は、次にまわします。

つながりが多すぎる

 LINE がグングン勢いを増して、どのくらいになるだろう。知人にも、LINE を使っている人はたくさんいる。
 僕はといえば、使ってないし、今のところ使う気もない。

 なんだか面倒に思えるのだ。いろいろと。

 ウリの機能であるスタンプ。あれが正直鬱陶しい。確かにスタンプのイラストはおもしろいんだけど、実際に使うとなると、どうもね。文字でいいじゃん。僕がついて行けるのは、顔文字と絵文字までだな。

 チャットなら、Skype とかでも充分だし(しないけど)。
 iPhone は通話に使う気がないし(ホントにぜんぜん使わない)。
 iPhone 同士なら、iMessage で充分だし(チャットとかわらない)。
 iMessage 使えなくても、メッセージアプリなら見た目は問題ないし。

 そんなひねくれたことを思ったりする。

 あと LINE は、設定できるとはいえ、デフォだと勝手にアドレス帳の情報を吸い上げちゃうのがどうも(Viber なども同様ですね。初回の設定で回避はできる)。便利なのはわかるんだけど、勝手につなげて欲しくはない。
 もっとも僕の場合、iPhone のアドレス帳にはほとんど知人を登録してないから、あんまり関係ないかもしれんけど(知人とのメールや電話は、ガラケーです)。

 LINE 以外にも、連絡を取りあえるサービスやアプリはいろいろあるね。
 SNS 系の筆頭なら Facebook か。ブログ付きなら、Tumblr もいい。短文の投下なら、Twitter は便利。その他、出会い系の SNS など、類似のサービスやアプリはたくさんある。
 手段が多すぎるよね。もうなにがなんだかって思ってしまう。
 もちろんそれぞれに利点と欠点があるから、目的に合わせて使えばいい。すべてを使う必要もない。自分に必要なものを選んで使えばいい。だけど、そんな取捨選択をしてる人って、案外少ないんじゃないかなぁ。
 この人はこっちであの人はこっちとか面倒だし、逆にあっちでもこっちでもつながってると、それはそれでかえって猥雑になりそうだなー。

 でも、これだけいろんな方法があって、大きな利点を持つサービスもあるけど、広く標準的に連絡を取りあう手段として、メールは未だに廃れない。
 もちろん、例えば Facebook でメールを統合的に使ってる人もいるけれど。
 メールは古い規格だから、今となってはいろいろと不都合はある。何でもできるわけじゃない。特にファイルのやり取りでは、自由が利かない。セキュリティも高くない。
 それでも、世界標準的に使われているメールは、やっぱり強い。SNS は SNS であって、これに代わるものじゃないんだなと思う(少なくとも現状では)。

 そうは言っても、必要に迫られて LINE を使うことはあるかもしれないな(そんな状況が迫りつつある気配が少し)。

酔うも酔わぬもお好きなように

 広島は東広島、西条は酒どころである。小さな産地にもかかわらず、日本三大醸造地のひとつに数えられ(伏見・灘・西条)、高い技術を持つ蔵元が軒を連ねている。
 この土日は、酒まつりでござる。日本各地から日本酒が大集合する。飲み比べし放題である。酔っ払いが大量生産されるのである。僕はたまたま通りかかったことはあるものの、行ったことはない。
 一度行ってみようと思いつつ、なかなか重い腰が上がらないのであった。

 酒といえば、カンパーイ!
 日本各地の都市には点々と、乾杯条例とか、そんな類いのものがある。広島で施行したのは、2都市だったかな。東広島と、三次。
 地酒や地域特産のお酒で乾杯しようよ...と、そんな条例ですね。東広島は、もちろん日本酒である。

 しかしこの条例、「何で乾杯するかは個人の自由」だから、はなはだ迷惑なりー...といった意見があるわけでして。
 確かに自由なんだけど、これに若干の異を唱えてみよう。と言っても、そう大げさなことではないが。異を唱えるというより、付け加えかな。というのも、条例ができたからって、声高に反対するほどのことじゃないと思うからなのでして。
 自由だからこそ、条例がなじまない...という意見があるのは承知の上。だけど、地域振興策のひとつとして、そういうものがあってもいいと思うんだよね。目くじら立てなくてもね。

 だけどおもしろいからというだけじゃなくて、ここには習慣の問題もあると思うのだ。条例云々以前に、なにやら暗黙の了解めいた「習慣」のごときものがある。と思う。
 さて、何だ。
 乾杯の1杯めはビールで...という、常識でしょ? と言わんばかりの無言の圧力だ。僕にとっては、これがはなはだ迷惑なりー。少なくとも僕の周辺では減ったけど、今でもビール以外だと、それだけでブーイングが上がるような場も多いんじゃないかな。

 僕は、ビールが苦手だ。炭酸が苦手なのである。だからソーダとかコーラとか、炭酸飲料も飲まない。
 飲めなくはないが、好きじゃないから飲まない。
 アルコールを飲まないわけではない。呑みに行ったりすると、1杯めから日本酒か泡盛にする。呑む量は少ないけどね。そんなに飲めないし、たいてい少しで満足する。

 飲めない人もいるからと条例に反対する人もいるけど、そんなに目くじらを立てるようなことかなぁ。どのみち飲めない人は、条例に関係なくアルコールで乾杯しないし、車があればアルコールは飲まない。
 飲んべぇさんには、難癖つけたりする人もいる。事情があって車で移動してたりしてると、それだけで「なんで車で...」なんて言ってね。こっちの方が、条例よりもよほどタチが悪い。いいじゃないか、なんだって。

 日本酒が好きだから、条例を擁護するわけじゃない。僕だって、強制されたら嫌だから。好きなように飲みたい。たとえお店で日本酒が供されていたとしても、銘柄によっては飲みたくないかもしれないしね。
 条例とはいえ、強制されるわけじゃなし、取り組みはおもしろい。宣伝にもなり得る。地域活性化の一助になるなら、いいんじゃないかなー。
 やりようによっては、お店でサービスの中に組み込むこともできるかもしれない。もちろん強制じゃないから、お客様が選べる形での工夫をしてね。付加価値のひとつですね。

 個人の自由が確保されてるんなら、「私は焼酎派」だってなにひとつ不都合はないと思う。これはこれで楽しめばいい。
 地酒が焼酎なら、乾杯条例は焼酎になるよね(わざわざ条例にするまでもない地域はともかく)。僕は飲まないけど。ビールの生産地でなら、地ビールで...てことになりそうだよね。やっぱり、僕は飲まないけど。
 それでもかまわない。
 飲めないなら飲まなきゃいいし、飲めるなら、気が向いたら地酒で乾杯しようかな...くらいの軽い気持ちでいればいいんじゃないかな。
 ほんで、地元のお酒を「いいよね」って言ってあげられれば、もっといいかも。


(酒まつりのつながりで日本酒を軸に書いたけど、東広島のような日本酒が対象の場合なので。東広島は、条例の対象アルコールを日本酒に限っている。三次に行けば、観光絡みだと筆頭はワインだけど、条例は三次ゆかりのアルコール全般を対象にしている)

響いて泣いて、また響き

 心に響いた映画って、何があるだろう。ふと考えてみる。

「響く」って、なんだろう。
 ジンときた、泣ける、感動した...。そういうイメージを抱きやすいかな。だから「響く」と表現したなら、衝撃を受けた、心をえぐられた、打ちのめされた...といったものは、含まれないのかもしれない。含まれてもいいと思うんだけど、ズレてるような気もする。
 でも、どんなふうに響いたのか、どんな意味で響いたのか...と考えてみると、その意味は幅広くなる気がするなぁ。「おもしろかった」「楽しかった」そんなものを入れてもいいかもしれないね。

 それはよしとして。

 僕は涙腺が弱い方だと思う。特に歳を重ねてから。
 泣いてしまうのは、何か胸にきているからなんだけど、もう単純なことでもウルウルしてしまう。感情移入しすぎるのかなぁ。
 映画は好きだけど、そんなに観ているわけではない。特に今は、映画館に足を運ぶことがとんとなくなった。時々レンタルを使うことはある。ネットで買ったり借りたりすることも。


「響いた」「泣いた」そんな映画をいくつか挙げてみよう。


■火垂るの墓
 僕にとって、泣ける映画の筆頭だ。あれで泣かない人や悲しみに寄り添えない人は、ちょっと頭がおかしいんじゃないかと思うくらいだ。
 戦争を否定的に描いていると、戦争やあの時代を肯定する意味で、批判的に捉える人はいる。でも、伝えようとしているメッセージがどうだとか、そういうことは考えなくてもいいと思う。深く考えていけたら、その方がいいとは思うけどね。
 単純な話だ。あれを見て、子供が死ぬのを見て、何にも思わないとしたら、人間として哀しすぎる気がするなぁ。

■あの空をおぼえてる
 原作とはまったく違うと言っていい。でも海外作品を、国にしろ家族にしろ、とてもうまく置き換えている。合間合間に差し挟まれる思い出が、胸にジワジワくる。

 そういえば、いつのことだったか、某映画情報サイトで「あんな父親あり得ない!」と書いている人がいるのをたまたま見たことがある。
 僕はあり得ないとは思わない。むしろ、リアルな深い悲しみだなと思う。
 あり得ない、ひどい父親だ、と言ってしまう気持ちがわからないわけじゃない。それは、冷静な部外者からの、第三者的な目だからね。そう感じてしまうのは、無理もない。「理想」を口にしているようなものだからね。
「あり得ない父親」だと感じる人は、きっとそういう悲しみを知らないんだな、あるいは理解ができないんだな...と思うのです。もっとも、その人が悲しみのない幸せな生活を送っているとは限らないけどね。
 所詮、人は、自分の経験していないことは、完全には理解できない。だからといって、僕は絶望もしない。

■ショーシャンクの空に
 これは、原作の方が好きなんだなぁ(原作の読了が、かなり先)。
 大筋は変わらないんだけど、脱獄が判明する場面がまったく違う。どっちがいいかはよくわからん。だけど、僕は原作の方がより好きなのだ。あの、突如穴が出現する衝撃感がいい。映画の描き方も悪くないんだけど、「え?」から衝撃へと移っていく。
 泣き→泣き...と続くと、じゃあこれはどこで泣いたんだ? って思われるかもしれないけど、泣いてない。無実のアンディの強い意志と執念に、心で泣いたって感じはあるけどね。
 あと、あの最後の海がステキ。あれは原作にない「泣き」ポイントだなー。

■おにいちゃんのハナビ
 闘病中の妹とその兄の話。普通の闘病ウンヌンでいうお涙頂戴的なものとは、少し違う色があると思う。
 どっちにしろきっと僕はウルウルきちゃうんだけど、この映画はそのちょっと違った味わいが、ほんのりじんわりよかったなー。

 映画にしろドラマにしろ、いろいろとツッコミどころがある場合は少なくない。それが許容できるものかどうかはあるにせよ、あまり頭から否定的に観たりはしたくないなと思う。
 こう言うのは、この映画にもツッコミどころはあるわけでして。気にしないけど。
 例えば「ラスト・サムライ」なんか、設定とか天皇の言動とか、とにかくまぁいろいろとツッコミどころ満載で、史実とはかけ離れている。でもおもしろいし、楽しめると思う。


 あんまりたくさん挙げる気はないので、最後にもうひとつ。


■パッション
 これも、泣いてはいない。もう泣くどころじゃなかった。
 イエス(キリスト)の最後の12時間を描いた作品だが、通常は覆い隠すようにきれいに描く部分を、美化せず、できるだけ忠実な表現を試みている。その忠実さが話題にもなった。鞭打たれたり、拷問のような仕打ちを受けたりするのだが、これがいちいちリアルなわけでして。
 それ以上のことは、ここでは言うまい。
 ある程度知識はあるとはいえ僕はキリスト教徒ではないし、すべてを正しく理解できてはいなかったかもしれない。ただその凄惨さというか忠実ぶりに、圧倒されたなぁ(鑑賞時に死亡者が出たとか)。実際には、もっと酷かったかもしれないね。
 そういう、泣く暇もない衝撃的だった映画。